独白2
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2001年11月10日(土) 昔日記

またしても私が日記を書こうって時になって親父が現れました。
もーナイスタイミング!!(死)タイミング良すぎて笑っちゃう。

で、今日は朝から友達(私を嫌っていると思われる)子が私の席に座ってました。
私の顔を見たその子は「ゴメン邪魔?」といいました。
正直な話私は朝ご飯食べて無くてさっさとカバンおいてご飯が座って食いたかったので、本当に正直に「うん、邪魔」といいました。
そしたら彼女は「ハッキリ言うね〜」と私の机の上に置いてあった化粧道具をがちゃがちゃしまいだしました。それの遅いこと。いかにもかったるそう。
めんどくさがりな私は「あー…いいよ。座ってても」といって別の友達の所に行きました。彼女は「そう?悪いね」といいました。私にはそれがはじめから用意されていた言葉のように感じました。
ハッキリ言う私もあれだけどやる気のない言葉を吐く彼女もどうでしょう。

つーことで本日のお題は『言葉にすること』ですよ。

実はこれは昨日の(日付の上では一昨日)の話。昨日書こうと思って前置きまで考えていたくせに寝た。しかも某サイトさんの裏を唐突に見たくなって、それを見てたら時間が過ぎていました。バカですね。

言葉にすることは私には安心するためにすることです。
ここをこうして書いていることは私には自分のことをより明確にきちんとしたものにしたいからということもあります。
でも最近思うことは、私はここを書くことによって制限されている、というのと、ウソといわないまでも騙しているということ。

制限されているというのは、言葉という物は自分に対しても他人に対しても『言葉という形』にした時点で形が決まってしまうと思うからです。
例えば私は昔かなり嫌なヤツで、人の「自分からは言いたくないし、あんまり知られたくないけど気づいて欲しい」という矛盾した人の心?考え?そんな物を口に出して相手に言うのが好きでした。
言われた本人はたとえ本当にきちんとは合っていなくても、自分が実はそういう風に他人に理解されたいという欲求がある(と私は思う)ので「なんでわかったの?実はね…」となるわけです。もちろん必ずしもそうなるわけではない。
その時に、本当は当たってなんかいなくてもそんなことを言われるのはほとんどないことだから『言葉にされた』その事柄を自分に当てはめる。
それが制限されることです。
私がこうして言葉にしている時点で、私は私の限界を自分できめ、自分で枠に当てはめているということ。

騙しているというのは、自分、そしてここを読んでくださっている方を私は騙している。
どんなに私が客観的に書こうとしても、私の言葉で、私が感じたことを一方的に書いているのだから正しい事実が書かれていない。
なのにあたかも正確な事実が書かれているかのように振る舞う。
これは誰が書いても同じように、まったくの客観的意見は書けないと思う。
他人のことを自分から見て、は客観的になるだろうが、自分のことを自分から見て、は客観的にはならない。
だから自分はどんなにがんばってもここで書いていることには自分に対する甘さがにじみ出ている。
どんなにがんばっても私が私のことに書くことについては甘さとともに自分の理想が必ず少しは入っている。

今私たちがかなり頼っているこの『言葉』というのは、明確な表現をすればするほど真実から遠くなる不完全な物だと思う。
感覚の中での曖昧さは、曖昧なところがむしろ正しいのかもしれない。
言葉にすることで伝えるのは、一番簡単で、一番わかりやすいけれども一番伝えられる物が少ないと思った。

なんだか『伝えること』でも似たようなこと書いた気がする。
ホント毎度毎度進歩が無いですね。


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