独白2
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2002年01月21日(月) 昔日記

『価値観と正しいこと』

世の中大変なことだらけです。疲れた…
今日のこのお題…書いたらもうここの裏の意味がないというか、ここを閉めるときに書こうと思っていたお題なのですが。
アホですね。つーかこのお題はきっと絶えず書き続けなければならないと私はおもうのです。(そして同じ事をいう)
社会と私の接点というか、私がここに生きている限り考えなければならないことというか、意識していなければならない事というか。
全ての根元とでも言いましょうか。
私がわざわざ今日書くというのもここが日記だからなのです。
考えが纏まらないのできっと何度も日を改めて同じ話をするかもしれません。
でも私はここを自分の日記だと思って書いていて、誰がどう思ってもエンターテイメントなつもりはないのです。(悪意はない)というかなってないでしょ。

さて、今日私が実感したのは本当にありきたりなことなのです。
この前妹がどうしてもといって泣いているところを見たのですが。
私にはこの感覚が凄く不思議で、親にも「オマエはホントにそう言うところないからなあ。執着というのはないわけ?どうしてもこれがやりたいってことはないわけ?」と言われました。
私もそのときは自分にはこだわること無いのかなあと思ったのですが。
ただ生きているだけだと思ってました。
だから問い続けてるのかなとか。

そんなことはなかったんだなあ。
そして自分の感覚はやはり他人には理解できたくて、私はいつまでもどうしようも無い人間だと言うことがわかりました。
私は正しいことが知りたい。
でもそれを考えると同時に正しいことなんか無いのだと思いました。
本当に。
私の中の正しいことは世に通用しないのでしょう。
私がいくら友達に誉められたとしても私が選んだ友達なのだから認めてくれる人を選んだに過ぎないのでしょう。
だから見ず知らずの他人の意見が欲しいのだし、批判も批判として欲しいと私は思うのですが。

何よりも私が欲しいのは真実であり、正しいことなのです。
そして例え私が他のどの他人にバカにされても無様であってもこれだけは絶対に正しいと思うことがあるのです。
他人に間違っていると思われても、私には正しいことなのです。
これは私が考えて出した結果です。価値観なんです。
私がいるから考える。考えている私は真実なんです。
それを放棄すると言うことは私の存在意義がないのと同じです。
それを放棄する事は私には出来ない。
無様でも頭が狂ったように見えようと。
私は妹と違った所で価値を感じているだけなのです。
どれが正しいわけでもない。大きな目で見れば。ただ私の中での正しいことはある。
ただ私が価値を置くところがわかるというような、執着するような場面が無いから無いと思うのですね。少し見えずらいところに価値があると考える。
結局は価値観なんですね。

でも私は正しいことをハッキリとわかっているわけでは無いのです。
「これだけは」と言う物が私の中にあったとしてもそれが何もなくなった私の真実かはわかりません。
無駄な感情を入れずに、それでも正しいことを事実に基づいて話したいし考えたい。
何より邪魔なのはプライドですね。自尊心。
私はこれをなくして、人の話をきちんと聞ける人間になりたいです。
でも人の話を聞かない人間の話は聞いても無駄な気がしますが。
ただそうやって思い込もうと(自尊心が)させている場合もあるので一応聞くには聞いた方がいいのですよね。
でも私はやっぱり未熟な人間で、完成されたものにはほど遠い。
ほど遠いから理由もなく(あるとすれば自分と違うこと)自分が正しいと他人に言えるのかしら。
でも口に出さないと本当に正しいと自分で思い込むことができない。(と思う時もある)
ぶつかるくらいなら関わらない方がいいんですよね。
自分と違うことを言ってる人に対してバカにする必要なんて全くないわけです。
ただ自分と違うことをバカにしないとやっていけないんでしょうね。
私はそれを無くしたい。
そうすることでなにが正しいのかわかればいいのにと思う。
表では不思議に思うといっていてもバカにしているのでしょうね。
未熟です。
でもしたいことを全て出来るとは限らないし、努力も必要でしょう。

ただ私がそう言う姿勢をとっていても、私が一生懸命になっていても、他人は価値を感じるところが私と違うので批判はされるんでしょうね。
それが当たり前で、それに対して私が「理不尽だ」と怒るのは本当にお門違いなわけです。
それと同時に自分が常に正しいと言い張り、人に押しつけるのも全くのお門違いなんですね。
ましてや自分の中の優劣を優先順位を他人に押しつけて恩着せがましく物事を言い、人は平等ではないと言いきるのも私はおかしいと思う。(本人早く気付いてほしい。ここを見ることなんか無いだろうけど。言っても通じなかったしね。聞く気も無かったみたいだし)
人は確かに平等では無いでしょう。
ただそれは自分の中の順位であり、他人の中ですべてその通りではないのです。
人を地球規模で、宇宙規模でみて、人以外の何であると?
私にはそれがわからないし、小さな規模で(ましてや他人の順位)見た意見を正しいとは言いたくない。

他人が理不尽を受けているとき、私は私と違う意見だという理由から苛立ちとか見下す態度を取りたくなります。
でも私は本当はその態度を取ってはいけないのです。(よく我慢出来ずにする。私は未熟だということ)
他人がどうこうでなく、私が取ってはいけない。
でも、理不尽の対象が私ならば、例えば私が正しいことはないと思っていても、個人の問題だから、相手と私の問題だから自分の正しいと言うことをどんなに無様でも頭が悪そうにみえてもバカにされても言い続けるのでしょうね。
ここが私の執着すべき所で、喚き散らしてでもこだわり続ける所。つまり価値を感じるところなのです。

矛盾ですが。矛盾と私は思いません。
時と場合とでも言いますか。
やはり内と外の話なんですよね。
ただ内と外の感覚は個人によって異なる。

他人の大切な物なんかわかるわけが無いのです。
私がどうしても欲しかった言葉を、何故、あの人が言わなかったかと言うと、あの人の中で、あの人を構成するためにどうしても必要だった自尊心が、どうしても捨てられなかったのでしょうね。
私はその自尊心をどうしても無くしたいです。
自分の感情というフィルターを通しての見方は正しい物を見れないと思う。
でもそれと同時に私が人で、感情がある限り正しい事は見えないのでしょう。
見えたとしても私の中の正しいことなのでしょう。

他人に興味を持たれるというのは、より多くの人に興味を持たれると言うことはそれだけ自分と似たような(同じではない)人が多いということ。
その中にいるならば優劣、優先順位が出来ても大した問題にならないけれど、ひとたびそこを出ると感覚が違い、価値観がちがって衝突するのでしょうね。
必要なのは他人は他人であることをよく自覚し、常に気分良くいたいのならば自分の輪をつくるしか無いのだと言うこと。
人はこれを「井の中の蛙」という。
これは逃げなのですか?逃げることは悪いことだと?これはしてはいけないことだと?
それは私には声を大きくしては言えません。
それが私の矛盾であり、不明解なところでもあります。
私は凝り固まった頭のくせに、井の中出ていこうとして外からの叩きにあうわけです。
賢くない生き方なのでしょうね。

正に人から見たら本当に「だからなんだ」というここの文も、私には意味のあることなのです。


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