独白2
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今日から学校ありません。 本当は昨日からだったのですが、私がアホなために今日になりました。 昨日(1日)は表でも書いたように雪が降っていて寒かったです。 私はコートを着込んでマフラーを巻いてまるで雪だるまのよう。 カッコ悪いですね。
で、今日(1日)は昨日から楽しみにしていた「ジャンヌ・ダルク」でした。 期待はあんまりしていなかったんですけどね、やっぱり声優違った。 朝新聞見たんでわかってたんですが。朴さん… ミラ・ジョボヴィッチは松本利香がやるのが当たり前なんですかね? でも「フィフスエレメント」が金曜ロードショーでやってたときは違ったんですよね。 まあそんな事はどうでもいいのか…でもカットされてた部分もありましたね。 ビデオ借りてこようかなあ。朴さんの声で「私につづけ」って。 かすれ声がやらしい。
内容。 この映画見るの3度目なんですよね。 好きなんです。何が?と言われると、救われるのが。 画面の彼女が救われることで、私も救われるかもしれないと言う希望がわいて、救われる。 信じる者は救われる。彼女が羨ましいですね。 「救うべきは体ではなく私の魂」と言う言葉。 色々考えると行き詰まるのですが、正にと言う感じ。共感はできます。理解はできませんが。 映画の結末は彼女が救われて終わり。だから好きなんですね。 何に苦しめられ、何から救われたのかというのはまあ人それぞれないけんでしょうが、私は私がそうだからでしょうか。 彼女は自分にある矛盾から救われたのだと思っています。 私にとって救いとは矛盾を許されることであり、希望とは矛盾をなくすことです。 それは本当にできることでは無いと思っていても、やろうとする。 もうここから矛盾は出てきているし、どうすることもできない。
どうすることで許されるかは人それぞれだと思います。 それがどうすることで決定するかはわかりません。 でももし、神が居ると仮定するならば、それは神が決めることであり、運命であり、生まれることから死ぬことに至るまで全て決まっている。 運命論ですが。 何をするにも自分が生きている限り自分の選択によって全てが決まっていくと私は思います。 どんなに自分で選択したとしてもその選択基準が神サマの決めたものならば全てはもう決まっていると思う。 私には居るか居ないかはわかりませんが。 いたとしたら救われる。居ないにしても救われます。 要はハッキリとする事が重要なのですが。
人は信じることができれば救われるのですが、(他人がどう思うともそんなことはわからなくなるのだし)それを信じるに値するものかを決めるのは自分です。 でもそれを決める価値観がすでに自分のものでは無いとしたら、救われるのも救われないのも既に決まっていることです。 許す者は誰か。 それは自分であり、自分を決定付けた神であると。 神が居るのならば。
リュック・ベッソン監督がどういう意図で作ったかは私には理解はできません。 でも私が監督の作ったジャンヌから思ったことは本当に単純なことです。 それ以外感じることもできないし、見ることもできませんでした。 彼女は理想を持って、理想と現実の間で信じた事との矛盾が生まれ、その矛盾をなくすために懺悔をした。 彼女にとっての救いは他人に許しの言葉を言わせる事なのだと思いました。 自分の矛盾を言い、それを「許す」と言われただけで許される。 それは神が決めた事であり、彼女が決めた事なのです。 すべてのことは行った時点でほぼ許されている。 全ては自分の決めた事なのだから。 でも救われるという意識を持つか持たないかは、ゲームのようなものなんでしょうね。
全てのことは自分の意志ではならないでしょう。 でも無意識に決められた事にもなにか必ず理由があるものです。 それが明瞭になっていないだけで必ず何かあると私は信じている。 例えば「神が決められた」と言うことも理由になっていると思う。 神が居るかは別問題なだけであって。
なんだかもう当たり前な事ばかり言っています。 でもこれは私の中で当たり前なだけかも知れませんが。 私は言葉にしなければ逃げていくような気がしてなりません。 だから書いています。 長い上にどうでも良いことですみません。
謝ることで全てが許されると思っています。 許されないと思うならばやっていません。 そんなものなんでしょうね。 それにしても言葉が…でないです。 言い出したらきりがないですしね。バカだ…
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