あたろーの日記
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文房具が好きで、文房具屋さんを覗くとわくわくする。 この性分は子供の頃から変わらない。 高校生の頃、新潮文庫の「文房具 知識と使いこなし」(市浦 潤著/S61)という本を買って、そこで初めて東京に「伊東屋」という大きな文房具屋があることを知った。上京して1人暮らしを始めると早速地図を片手に銀座へ出かけていき、地下鉄の出口から恐る恐る地上を見回し、大きな赤いクリップを探した。東京というところは、銀座みたいなお洒落な大人の街に文房具のデパートが紛れ込んでいる、ほんとうに訳の分からない土地だ、と思ったりした。 伊東屋なら、1日中いても飽きない。
中学に入学するお祝いに、両親からPILOTの万年筆、ボールペン、シャープペンのセットを買ってもらった。赤い軸と金の金具で出来ていて、ほんとうは黒が欲しかったのだけれど、お店の人に「女の子用には赤いセットになっています」と言われしぶしぶ、それでも一番シックなものを選んだ。けれど、買ったその場でお店のおじさんが、器用な手つきで1本1本に私の名前を彫り込んでくれたので、使う前からそれらは私だけのものになった。自分だけのものになったと思ったら、急にいとおしく思えて、夜眠るときも枕元にケースごと置いて、まだ見ぬ教室でこの3本を使っている自分を想像したりした。 使い始めてみると、どれも私の手の大きさにぴったりで、使えば使うほど手放せなくなった。 万年筆もボールペンも、ペン先をダメにしたり、中のバネを壊したりして、やがて使えなくなった。シャーペンは大学入学後もしばらく使っていたけれど、やっぱり劣化してしまい、今は3本とも、机の引き出しに眠っている。 時々そっと引っ張りだしては、軸に彫られた自分の名前を眺めたり、何年も使い続けて手に馴染んだシャープペンシルの感触を思い出すように握ってみたりする。20年分の私を知っている筆記具たちだ。
パソコンが生活の大部分に入り込んでくるようになって、こうしてキーボードを叩く回数が増えるにつれ、筆記具の大切さを忘れてしまうんだろうか、とも思ったけれど、今はむしろ昔よりも、書くための道具に対するこだわりが増したような気がする。 「書く」という行為の大切さ、大切さといってもそれをどう説明したらよいのか分からないけれど、自分が自分であるために、ヒトがヒトであるために、細い棒状の道具を使って書く、ということが、捨てがたく魅力的な行為なんじゃないかと思いながら、書いている。
ただ、人間にとって基本的な道具のひとつである筆記具の世界もやはり大量生産や流行の時代で、ちょっと前に買い求めて使っているうちに気に入ったので同じものをまた買おうと探すと、すでに生産されていない、ということもよくあるので油断できない。 今気に入って使っているシャープペンは、5年ほど前に東急ハンズで買ったPILOTの製図用のシンプルなものなのだけれど、今同じものはハンズには置かれていない。たった5年なのに。芯の太さが0.7ミリで、軸先への細り加減が、中学入学祝いに買ってもらったくだんのシャープペンと同じで、私の手にはとても使いやすい。他の文具店で見つけたら買いだめしておこうと目論んでいるけれど。。 鉛筆の魅力もまた捨てがたい。 ほんとうは、その日使う鉛筆を小刀で1本すつ削ってから書き始める、という儀式めいた行為を大切にしていきたい。けれど、こうどたばたした毎日だと、なかなかそうはいかなくて。それでも、鉛筆1ダース買ってきた日には、1本1本を切り出しで削って机の上に置いていく、その時間は私にとってとても大切な時間だ。気がつくと、12本全部削ってしまっている。 鉛筆は、冒頭の市浦潤さんの著作で知ったカランダッシュやステッドラー、ファーバーカステル社のものにもはまったし、とくにカステル社の鉛筆の深い緑色に金字の軸がとても好きなのだけど、今は三菱のユニのBが自分の筆圧に一番しっくりくるような気がして、もっぱらそれ。日本語にはひらがなという柔らかい文字が含まれるから、鉛筆の芯も柔らかめのものが書きやすいようで、そうなると、外国製のものはどうも硬め。その点三菱のユニは、日本語の文章を書くために作られた鉛筆のような気がして、とても使いやすい。・・・これはあくまで私の感想なのだけれど。 万年筆は、鉛筆やシャープペンシルのように気軽に買える値段ではないので、まだ、私はこれ、というものを手にしていない。 私によく手紙を下さる年上の方に、万年筆を気分によって使い分けている、という方がいる。その万年筆のブランドがその方の風格に合ったものだったので、なるほどと思った。万年筆だけは、使う人を選ぶアイテムなんじゃないかという気がしている。その方から頂く手紙のインク色の微妙な違いで、今回はどちらのメーカーのものを使われたのかな、と勝手に想像して楽しんでいる。こんな若輩に下さる手紙に、歴史あるブランドの万年筆を使ってくださる、それだけでもう、受け取るこちらも少し大人になったような気分がして、嬉しい。・・・諸先輩方から影響されて、手紙は万年筆で書くようになった。 ただ、私が使っている万年筆はそれでも気負わず買える安いもの。ちょっと前までは使い捨ての200円や、高くて1000円のものを使っていた。けれど、どうもしっくりこない。いつか買おうと思っているメーカーのものがあるから、それまでの辛抱と思ってはいたけれど、しょっちゅう使うとなると、ちょっとは使い心地にこだわりたくて、文房具店を覗くたびに万年筆売場をうろついてみたりもした。 で、最近ようやく見つけたのが、ペリカンの子供向け万年筆。 ペリカンの万年筆は定評があるし、憧れるけれど、これはその子供向けに作られた、入門用万年筆。赤、紺、緑、黄と軸色カラフルで、1500円。私はちょっと素材が異なるグレーを選んだので、2000円だった。2000円の万年筆とあなどるなかれ、で、子供用でもしっかりしたものが作られているあたりは日本とちょっと違うそこはさすがドイツ、握りやすいグリップ、軸の太さ、軽さ、書き味、どれも二重丸だと思う。デザインもシンプルだし、インクのカートリッジは勿論ペリカンのほかの万年筆と同じものが使えるから、ふだん持ち歩いてコーヒーショップで手紙を書く、という私の日常にすでになくてはならない存在になりつつある。私がこれをみつけたのは伊東屋。ちょっと前の日経新聞にも紹介されていたとのこと。当分はこれでいこうと思う。
実は、いつか、モンブランのマイスターシュテュックを買おうとずいぶん前から決めている。 私みたいな人間がそんなものを欲しいなんて、ひどく生意気なんだけれども。でも、それを買うのはもっとずっと先の話。自分があることを成し遂げたその時に記念に1本買い求めようと思っている。それが何年先、何十年先のことになるか分からないけれど、自分の中のそんな取り決めを守るのもまた愉しいかな、と思う。そもそも、今の私にはマイスターシュテュックはまだまだ似合わない。 百貨店に行くと、万年筆売場が別格に扱われていて、まるで宝飾品売場のような気品が漂っていて、ちょっと足がすくむ。 いつかモンブランのコーナーで、万年筆のカタログを頂いてきた。 ヘミングウェイやアガサ・クリスティといった文豪にちなんだ限定品の万年筆もあって、ため息もの。銀の蛇にルビーの目。いつか欲しい。けれども、その時はもう手に入らない幻の万年筆。芸術品だな、と思う。。 万年筆売り場では、その場にふさわしい客ではないような身の縮まる思いのする私だけれど、一度使い始めたらおそらく一生付き合い続けるであろうアイテムだけに、いつかこの娘も上客になるだろう、くらいの温かい目で接してくれる店員さんがいるところが、とても有難い。
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