あたろーの日記
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2003年05月11日(日) |
まんまと利用されたし |
5月に入って、住宅街の家々からあふれる花々が、なお一層賑やかになった。 最近はオールドローズが人気のようで、塀のあちら側から道路に向けて大輪の派手なバラがぽんぽんと顔を見せているのをよく目にする。今、道を歩いていてどこからか甘い少し官能的な香りがすると思ったら、たいていハゴロモジャスミンがどこかの家の塀に絡みついて白い小さな花をぎっしりつけているかと思う。ビオラの咲いたテラコッタ。クレマチス。 ローズマリーをはじめ、ハーブは今が一番元気なシーズンで、青々とした葉を上へ上へと伸ばし始めている。植え替えの終わったキッチンハーブたちが、柔らかい土の上で活き活きしているのを眺めながら、夕暮れの住宅街を歩いていく。 月桂樹の葉も勢いを増して、花の終わった桜の木も、ハナミズキも、いよいよ緑を街にあふれかえらせている。 以前は花を沢山あふれさせている家が好きではなかった。 ガーデニングブームとやらで、雑誌で見るような派手でカラフルな庭が幾つも並んでいると、どの家も画一的で個性がないような気がして。近所に建売の全く形の同じ家が2軒並んでいて、入居時期も同じなら幼い子供がいるのも同じ、挙句、植える花も花の多さも植木鉢の趣味も、庭においてある小人の置物まで、何から何まで同じ、というのがあって、通るたびに隣家の主婦同士競い合っているのを見せつけられているようで、なんだかあんまり気分がよくなかった。花を愛しているのか、見栄を愛しているのかよく分からん、なんて思ったりして。 そういう雑誌から抜け出てきたような庭よりも、植物に好き放題伸びてもらうような遊びのある庭が好きで、それは今も変わらないけれど、ただ、最近、庭というものに対して自分なりに見方がちょっと変わってきたかも。 なんて言ってもべつに偉そうな哲学がそこにあるわけじゃない。 ただ、庭というのはほんとは人間のためにあるんじゃなくて、植物のために存在している空間なんじゃないかということだけだ。 人間同士が競い合おうと、見栄えを気にしようと、園芸雑誌にお金を掛けようと、それは植物達の知ったことじゃない。 土をひっくり返して柔らかくするのも、虫や病気と戦うのも、ホースを引っ張り出してきて朝夕水やりするのも、どれもこれもみんな植物たちのためであって、庭の所有者達のためではない。 家の中やオフィスの観葉植物も、一見人間のために置かれているようであるけれど。 人間は森林を破壊し、自然の形を変え、地球環境をどんどん取り返しのつかない方向に持っていこうとしているけれど、一方で、都市では植物達が自分達の生き残りをかけて人間をうまく利用しているような気がする。もちろん、都市の緑は、地球のほかの場所で失われていく緑の量にとうてい及ばないけれど。 隣家の花壇に負けじとせっせと種を蒔く主婦は、きっとその辺りの綺麗な花々に、仲間を増やす魔法を掛けられているんだと思う。浅草のほおずき市や朝顔市に集まって大事そうに植木鉢を抱えて帰る人達は、ほおずきや朝顔たちの種の保存のために、まんまと吸い寄せられている人達に違いない。 かく言う私も、育てたバジルでバジリコスパゲティを作るのを楽しみに、ヨダレをたらしながら水遣りしているけれど、ほんとは狭いベランダを彼らに占領されながらうきうきしている、まったく彼らにとっては都合のよい人間なんである。
夕暮れの住宅街を歩いていて、ふと顔を見上げると、道路に沿ってずっと先までも、両側の家々から緑や色とりどりの花が道に向かってあふれかえっていて、彼らの種の保存に私達がまったくうまく利用されているものだなあと今更ながらに感心した。 要は、庭は人それぞれ好き勝手でいいんだということなんだけれど。 どうせ人間は植物に利用されているのだから、喜んで彼らのお役に立てればそれでいっかあ、と思う。 隣家と競い合う庭、派手派手花ばっかり庭、それもまた植物達の意思であるわけだし、まぁ、なんでもいっかあ、てな気分。
。。。つけたし。 さっきここまで書いたところで喉が渇いて無性に缶ジュースが飲みたくなって、近所の自販機まで120円握り締めて買いに行った。がしかし、お金を飲み込んだきり、自販機からジュースが出てこない。自販機というものはフィフティフィフティだと思っていたのに。頭にきたのでふんだんに蹴ったり叩いたりしていたら、通りかかったおまわりさんにたしなめられた。 飲めないとなるとなおさら喉が渇く。甘い味のついた冷たい飲み物がどうしても飲みたいのだ。仕方なく自宅に戻り小銭入れをスエットのポッケにつっこんで今度は近所のコンビニに行った。 そこは運悪くお酒も扱っているコンビニだったので、結局缶入りソルティードッグを買ってきました。ちゃんちゃん。
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