あたろーの日記
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2003年06月10日(火) ゆるすということ

 「ゆるしゆるされるとは、恋愛関係のピリオドなのだ」というくだりが、今読んでいる俵万智著「あなたと読む恋の歌 百首」(朝日文庫)にある。

 赦せよと請うことなかれ赦すとはひまわりの花の枯れるさびしさ(松実啓子)
 という短歌についての解説で書かれているのだけれど、読んでいてなるほどなあ、と納得していた。愛するにせよ、憎むにせよ、相手を強く思い続けるという行為に変わりはない、ということが前提にある。

 もう何年も前の話になるけれど、「4年経ったら帰ってくるから、それまで待っていて」と言われ、成田で見送った人がいた。何年でも待てる、と思った。会えるのが年に1回か2回でも、彼から来るエアメールの数が減っても、海の向こうできっと頑張ってるんだと思うと、会えない辛さはなんてことはなかった。・・・と、思う。
 そろそろ、あと1年、いや、あと数ヶ月で帰国になるかな、という頃に、それは突然終わった。今思えばいろいろ伏線はあったのだけれど、その時の私にとっては突然だった。
 「ゆるさなくていいから、ずっと憎んでくれてていいから」と電話口で彼は何度も言ったけど、結局私はゆるすことにした。しばらく、1年間、いやもっともっと長い間、涙も出ず、目にするものすべてが色褪せて見えていた。ほんとうに、ものや景色の色が褪せて見えるということは、ある。でも、その間ずっと、私は心の中で、相手をゆるす作業を一生懸命続けていた。裏切ったとかひどい奴だとか、そんな風に思いたくなかった。昔のように女友達に話して痛みを和らげてもらうことも考えつかなかった。ただひたすら、あちこちの重い扉を、1人で閉めて回っていた。相手が自分と一緒にこの先歩いていくことを選ばなかったのは仕方のないことだ、人は自分の幸せを第一に考えて行動していくのが当たり前なのだから、彼の行動を責めるわけにはいかない、と、そんな風に考えていた。人を悪く思うことに自分の心を費やしたくなかった。
 そんなふうに思いながら過ごしていたある夏の日に、街路樹のセミの抜け殻を見て、自分も今こんな感じかも、と、ふと思った。
 
 終わりかけた恋愛において、相手をゆるすということは、相手に対する想いの質や量を、自分から変化させることなのだと気づいた。
 愛情と憎しみは紙一重で、質量も同じ、費やすエネルギーも同じだ。ゆるすという想いは、そこから離れたところに存在する。愛情と憎しみにゆるすという心をくっつけるとまた違った意味合いが生まれるけれど、終わった、あるいは終わりかけた関係にゆるすという気持ちをくっつけると、「終わる」ということを自分で納得した、という意味も生まれるんじゃないかって思う。言い方を変えれば、最後の幕引きを自分で行った、ということになるのかも。
 
 俵万智さんの解釈、また松実啓子さんの意図されたことと微妙にニュアンスが異なるかもしれないのですが、私はふと、そんな風にも思ったのでした。

 愛するか、憎むしかない、というほどの関係に、私はたぶんまだ足を踏み入れたことがないのですが、もしかしたら目の前に横たわっているかもしれないし、もっと先、あるいはそんなものずっと幻なのかもしれないです。
 先のことは分からないけれど、少し楽しみにしながら、歩いていこうと思います。。。

 
 
                         


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