あたろーの日記
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先日田舎の妹と電話していたら、節約の話になった。 妹曰く「そういえば、府中で一緒に暮らしていた学生時代に、翌日どちらかのバイト代が入るまで互いの所持金合わせて百円ってことがあったね」 「そんなことあったっけ?」と私が聞くと、妹はよく覚えてるらしく、「あったよ。で、その百円で近所の八百屋で人参買って、それを細かく刻んでご飯と一緒に焚いて、人参ライスにして晩御飯にしたんだよ」だそうだ。 妹が上京する前は私が風呂なしのアパートに1人暮らしをしていて、やっぱり翌日のバイト代が入るまで所持金が数百円しかなく、銭湯に行ってしまったらあとは大根1本しか買えなくて、大根づくしの晩御飯だったこともあった。あ?いや、銭湯か大根どちらかを選択するしかなかった、だったかな。・・・「○○づくし」っていうのはたぶん二通りのニュアンスのある言葉で、「贅を極めた○○づくし」というのと、「貧を極めた○○づくし」の両方の意味を裏腹に持っている。どっちの意味に捉えるかは使う本人次第。便利で幸せな言葉です。かたや旅館で、かたや風呂なしアパートで使える。奥深い言葉です。 学生時代は学費と家賃分は親に出してもらってたのでまだ贅沢なほうだったけど、食費や他の生活費はバイトでまかなってたので、バイト給料数日前から生活費切り詰め大作戦はよくやった。それでも否が応でも出費はある。自分1人暮らしだった時は全財産を自分で把握していたのでうまく乗り切ることが出来たが、妹と2人暮しをしている時は、互いに相手がまだお金持ってるだろうという甘えがあったので、ふと気がついて互いに財布の中身をぶちまけて合計金額のあまりの少なさにびっくり仰天、数日間2人で隠遁生活をおくる羽目になったこともたびたび。。 結構逞しい(?)生活を切り抜けてきたのかも。。。 そのたびに二人で生活費切り詰め策を練ったり、光熱費を抑える工夫をしたり。閉店間際のスーパーに二人で行って、あーでもないこーでもないと相談しながら買い物かごに値引きシールの貼られた野菜を入れたり、出かける前はテレビやラジカセなども含めて、冷蔵庫以外の電気コードはコンセントから全部引っこ抜いて待機電力がかからないように工夫したり・・・今思えば、あの時はあの時で結構楽しかったな。喧嘩もけっこうしたような気もするけど。あの頃必要に迫られて、冷蔵庫の残り物でおかずを考える癖もついた。残り食材クッキング、結構自信あるよん。 そのうち姉妹は帰省のたびに、実家中のつけっぱなしの電気や入れっぱなしのコンセントをチェックして回り、挙句の果てには二つもある大型冷蔵庫の中を隅々までチェックして、無駄が多すぎると母親を説教する、実に可愛げのない娘になっていったのである。今でもそれは変わらない。 で、あれから十年が過ぎ、妹は結婚していまや二児の母親だけど、どうやら東京での暮らしで身につけた節約癖は健在らしく、さらに磨きがかかって私以上に倹約家らしい。おまけに、妹の連れ合いどのは、妹に輪をかけた徹底した倹約家で、子供の将来第一に考えて夫婦でいろいろ工夫してるんだそうだ。
その妹と話していて結論づいたのは、「必要にして十分な範囲は、価値観によって決まる」ということ。 必要以上にモノを持たない、買わない、消費しないという生活習慣は、イコール地球環境にも優しい、イコール人間にも優しい生活習慣なんだということ。けれど必要の範囲は人それぞれ。だけれど、それがないと駄目、ではなくて、それがなくても平気、なきゃないで十分楽しめる、という精神的な余裕があるかないか、がポイントだと思う。本当に欲しいもの、心からそれが必要なものであれば手に入れて大切にすればよいと思う。でも、もし、その欲しいものが、自分の心の中にある何かの代替品であるとしたら、なんだか哀しい。モノに囲まれた場所でなくては生きていけないと思うようになってしまったら、ちょっとツライ。 ほんとの自分が自分の中のどこにいるのか、見失ってしまったら、苦しいかな。。
だからね、節約って、結構楽しいもんなのです。
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