浪漫のカケラもありゃしねえっ!
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24日夜、NHKトップランナーで、加藤大治郎追悼特集が放映だそうだ。
....オレには、見る勇気がない。
書店で、セナを表紙にしたF1誌を目にする。 まー、WEB広告画像で知っていたけどさ。 でかい判の誌面を手に取ると、そのインパクトは大きい。中身もまた、セナ一色だ。 怒りで、侮蔑で、暗澹たる思いにかられる。 何故に今もなお、アイルトン・セナ・ダ・シルバなのか。
セナ個人にうらみはない。彼を愛する人達を貶めようという気持ちもない。 オレは彼を知らない。彼が消えることでこの世界に残った大きな空洞を通して彼を知るのみだ。 これは、この感情は、毎年3月に音楽誌の表紙をランディ・ローズが飾ってしまったときに感じるのと同様の、とても個人的な反応でしかない。 怒りを、侮蔑を感じるのは、それを表紙にすることを選んだ商業誌の商売っけに、であり、それを選ばせた世の中の趨勢に、である。 栄光は「今」ではなく「過去」の中にあるのか。 語るにたる存在を、生きてある人々の中に見いだせないのか、と。
彼らの死は、悲劇だ。 彼らは、その絶頂期に不幸な事故で命を落とし、彼らが築いたであろう未来を断ち切られた。 彼らの死は、そこに残された人々に大きな心の傷を残し、後にまで続く変化と波紋を生ぜしめた。 彼らの死は、ひとつの時代を語る切り口である。 それでもなお、彼らを英雄に、伝説に、神話にしてしまうことに、どうにも我慢ならないのだ。
語られるべき死者は、彼らだけではない。その思いもこみ上げる。 彼らだけではない。道半ばにして、失われていった人達は。 大好きな人、崇拝するような思いを抱いて、その人生を見つめ続けた人が失われる痛みを、喪失感を、オレもまた知っている。 知っていて、それでも、残酷な言葉が口をついて出てしまうことを止められないんだ。 ちくしょうめ、すでに死者の列に入った者達が、こちらの抱いた理想を裏切ることはないんだ! ちくしょう、どれほどいっしょに生きたかったか。英雄などと名づけられない人生であっても、失望を抱いて苦笑いすることがあっても、どれほどいっしょに老いたかったか。いっしょに時代を歩みたかったか。 ほしいのは、英雄じゃない。伝説でも、神でも、天使でもない。 生きて悩み、苦しみ、それを乗り越えてともに微笑み、同じ時を刻むことが、どれほど大切で、どれほど輝かしいことであったか。
....逝ってしまった人々を思う。 彼らが忘れられていくことに、耐えられない。 彼らが偶像とまつりあげられることにも、侮りを受けることにも耐えられない。 なにを言われようと反論する手段を持たない彼らが、彼ら自身の真のありようを明かすことはもう出来ないのだから。 それを受け入れることは、彼らが現在にではなく、歴史の中にある存在となってしまったことを、受け入れることなのだ。 ....そして、オレの心は引き裂かれる。 そして、オレは、怒り狂う。 オレ自身もまた、書くことでなにかを理想化してしまっているのだから。 ドラマが、歴史が、多面的な分析が、美意識に貫かれた画面や文が、好きでたまらない面をもっているのだから。
数日前、ひとつの命が、ひとりの未来が、失われた。 それが悔しい。それが悲しい。 それが、いつもより私を過敏に反応させているのか、とも思う。
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