独白「文字式」
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2003年08月01日(金) |
どうしても語らなければならないこと |
前回までのあらすじを無視して、どうしても書きたいことがあるので、今日の日記はそれを書く。
私、実は(って隠してるほどでもないが)「たま」ファンでして、中学生から、おっさんの階段を昇りかけている現状に至るまで、結構一生懸命聞いていて、パーカッションの石川さんのHPも毎日覗いていたのである。で、いつもどおり、ブックマークからHPを眺めて、とんでもない文字を見つけてしまったのである。
解散
ええええっ
思えば、「たま」との出会いは中学生のころである。そのころ、ばりばりの管理教育の学校に通っていて、ただでさえ息苦しかったのに加えて、クラスの中でも、いささか暗くて幼かったため、クラスのマジョリティに参加することが出来ず、お世辞にも楽しいスクールライフってやつに恵まれてなかったのだ。そんな鬱屈したときに出会った音楽が「たま」。彼らの演奏スタイルに加え、歌詞の言葉の奔放さに触れ、
「あっ、普通の日本語を壊しても人に何か伝わるんだな」 →「別に、普通であることや、マジョリティの中にいることが絶対じゃないんだな」 →「もっと、人は「自由」になれるんだな」
ってなことを思い、彼らメロディーの中で、魂の開放感を感じたのである。
で、その解放を与えてくれたバンドが解散する。ちょっとショック・・・・。でも、そのことで、新たに一つの決意をしたのだ。
それは、「自分の言葉で自分の魂の解放をしていくんだ」ということなのである。
「たま」が解散しても、自分の心を解放し軽くしてくれる音楽、言葉を探すことは出来るであろう。(現に、たま以外の曲もたくさん聞いている)しかし、たとえ他の人が出てきたとしても、彼・彼女らだって、いつ止めるかはわからないではないか。
その点、「自分」は生きている限り「自分」であり、「自分」を止めるときは無い、と思うのだ。(もちろん、忙しかったりして、なにも書けない時だってある。しかし、人の復活を待つよりは、自分の復活を待つほうが、よっぽど気持ち良い。復活を待てるということは、生きている以上、「自分」を止めることはないということだと思う。)
だからこそ、「自分」で「自分」を解放出来れば、(というより出来る、と信じていれば)なにかにすがったり、棚ボタを待つことなくやっていけるんだ、と思う。
そして、もっとつっこんだ話をすると、「自分の解放」(自分が書きたい、と思ったモチベーション)に何かしらの普遍性がある、と信じているからこそ、HPを通じて詩を発表しているのである。
なにはともあれ、自分に正直に自分が頑張るしかないんだなあ、ってことを「たま」解散で改めて思ったのだ。
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