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とりかへばや 2001年11月13日(火) | 「とりかへばや日記」は平安時代、後期の無名草紙。女性である姉が男装をして宮仕えをし、男性である弟が女装をして女官に仕える物語だ。河合隼雄氏の「とりかへばや男と女」を読んだのをきっかけとして、今原典にすごく興味を持っている。 もともとの身体的性別はともかくとして、何故か、どこの世界に行っても「男らしさ」「女らしさ」という社会的な性差が存在する。日本でも、「男前」「女の腐ったの」などと日常でもよく使われる言葉にその性差の意識が現れている。(その言葉を誰かに適用する場合、概して相手の本来の性別とはクロスしている。) 男と女の社会的性差を、このところ「ジェンダー」と呼んで、論じられる事が多くなったが、そのジェンダーの有りようが変わって来た現代ゆえの証しであろう。平安時代は男と女の入れ替わりなど、とんでもない事件だったが、現代ならば「そういうのもありかな。」と受容される。 元々、男・女にかかわらず、どちらに生まれついても「男らしさ」「女らしさ」は両方備わっている筈なのだ。それを後天的な体験によって、自分のオリジナルの配分を作り、それが「個性」と呼ばれる核となる。 人間は本来、男も女も併せもった存在。そのジェンダーを融合させ、ジェンダーを超越しようとする存在が現代人とするなら、自分の性や性愛の方法を選びとる時期がくるのも、そう遠くはないかもしれない。(肉体的な性別を転換できるといった意味ではなく。) 現代はそのジェンダーが融合したキャラクターが受けている。 源氏物語をもとにした、近日公開の映画「千年の恋」。主役の色男「光源氏」を元・宝塚男役の天海祐希が演じているのもそんな理由からかもしれない。 |