度々旅
INDEX|past|will
難しい本や文章がある。日本語で書かれているのに、何度読んでも理解できないのだ。 目はただ文字を追うばかり。 それに対して、すんなり読める文章というのもある。理解しようと意識しないのに、頭に入ってくる。読み終えたあと、内容は記憶として残っている。無意識のうちに、頭の中に刻印されているのだ。
日本語で書いてあり、知らない単語や文法方法が使われているわけではないのに、なぜ難しい文章は存在するのであろう。
その文章には、ぎゅっといろいろなものが凝縮して詰め込まれているからだろうか。それとも、書いてある内容に関しての私の基礎知識が足りないために、推論の過程などをすんなり理解できないからであろうか。
自分が書いた文章でさえ後に理解できないことがある。やはり、文章というのは、何かを記録したり伝えたいために書かれているのだから、何を筆者が言わんとしているのかということに注目し、その観点から読まなければならないのだろう。 自分の文章でいえば、自分が言いたかったことは、もっともっと多くであったはずなのに、文字へと還元されることによって、一度変身をし、色あせてしまうことがある。その文章を読む時には、自分のその時の状態を思い出さなければ理解できない。自分が何を訴えたかったかを振り返ることが重要だ。
論文を書くために読んでいた本に、涙を流したことがある。自分が訴えたいにも、言葉が足りなくて伝えられないこと、論理的に説明できないことが、他者の文章の中に、書かれていた。自分へのもどかしさや、自分の底の部分での共感によって引き起こされた涙だった。
やはり、言葉は何かを伝えるために存在する。人によってはその手段を言葉ではなく、絵や写真などにすることもあるであろう。言葉といっても、詩や短歌などの場合もある。本当にそれによって自分の中のものを伝えることが可能になった時、そのようなものは、もはや手段ではなく、自分の存在の証明であり、自分そのものである。
私もいつか、自分と自分の書くものがidentifyされるようになりたい。そして、他者の文章を読む時はいつでもその筆者の文章にidentifyできるようになりたい。そのことが可能になった時に私は、もっともと豊かな人間になれるような気がする。
|