机の引出しを整理していたら、新聞の小さな切抜きが出てきた。
2001年1月8日(火)朝日新聞家庭欄 「地元のおむすび全国で」日本ごはん党党首で作家の嵐山光三郎さんの話 新米の時期に全国の駅で、地元の米を使ったおむすびを売ることを提案したい、とのこと。
ドイツにいたときに切抜きしたのだと思うけど、なぜか今日まで後生大事? にとっておいたらしい。 ご丁寧にも新聞のコラムの余白には、自分のおむすびにまつわるエピソードのキーワードが書き込んであった。(あぁ、私って、ひまだったのね・・・) 今回はそれらのうちのひとつを紹介しましょう。
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大学を卒業して、会社で働いていたころ。23、4歳の頃だったと思う。当時、会社の同期の男の子とよくドライブに行った。 何回目かのドライブのとき、決して家庭的ではないこの私が、何を血迷ったか、おにぎりを作っていこうと思い立った。
その日の行き先は、赤倉。自宅出発予定時刻、6時。当然、家族全員まだ寝ている。 今でこそ、三角おにぎりはきゅっきゅっきゅっとお手の物だけど、当時の私にしてみれば、形よく作るのはちょっと難しかった。一人で四苦八苦しているうちに、時間ばかりが過ぎていって、ふと気が付くと出発時間まであとわずか。 大急ぎで、梅干用のビンもおかかもお皿もアルミホイルもボールもお塩も、ぜーんぶそのまんま台所のテーブルに出しっぱなしにして、とにかく遅れないように家を出た。
目的地に着いて、ちょっと小腹もすいたし、珍しくも私がおにぎりを作ってきたのだから、さぁ、頂きましょう! ということになった。アルミホイルの包みを友達に渡し、私は傍らで水筒のお茶の用意をしていた。
彼はアルミホイルを剥いている。視界の端に、おにぎりの白いごはんが見えた。彼は嬉しそうにさらにアルミホイルを剥いていく。
「なぁ、タシロ?・・・(←私の旧姓)」 といったまま、ちょっと長い沈黙があった。私は、 「うん?」 といったまま、熱い湯気のたったお茶をこぼさないよう、二人の間にコップの置き場を確保していた。 「なぁ、タシロ、おにぎりの海苔は?」 などという。 私が彼の手元を覗き込むと、な、な、なんと・・・。白いご飯の塊。つまり海苔を巻いてない白いおにぎりが・・・。が、が、が、が〜ん・・・。 慌てて私のおにぎりのアルミホイルをひっ剥がしてみても、どれもこれもぜーんぶまっしろけっけのおにぎり。 「タシロのシロおにぎりか?」 などと、彼はかろうじて下手なだじゃれをひとつかましてくれた。 ぐぁ〜〜、はずかし〜、慌てて家を出たので、海苔を巻くの忘れてた。 でも忘れるか、普通・・・。(いや、私普通でないもん)
帰宅して、母に報告すると、ひとしきり笑った後、 「お母さんも不思議に思ったのよ、ボールとか梅干とか出ていて、おにぎりを作った形跡はあるんだけど、海苔が出てなかったの。海苔だけちゃんと片付けていったのかな、とも思ったけど、まさか祐子ちゃんがそんなことするわけないしな・・・とも思ってね。あははは、やっぱりそうだったの・・・」 だって。 学生時代はほとんど自炊をすることなく4年間を過ごし、社会人になってからは自宅通勤していた私は、果物をむくとき以外、一人で台所になど立ったことがなかった。あーー、弁解にもなりませんね、こんな言い訳は・・・。
別の機会に信州にスキーに行ったとき、サンドイッチのからしバターを塗るつもりが、わさびバターを塗ったのを持っていったことがありました。 がー、これも今まで忘れていたのに思い出してしまったー。
昔の私を知る人たちへ。 祐子は10数年後の今もちっとも変わっていないんだよ。おにぎりに海苔を巻き忘れることはないけどさ。 いやはや、おはずかしい・・・。でもなんともまぁ、祐子らしいというか。 今の私を知る人へ。 今の私の原点とも言えるエピソードだったでしょ? ふふふ。
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