2003年01月31日(金) |
1979年のポーランドの寒波 |
最近、ポーランド語の授業で新聞記事を読んでいる。すごく難しいけど、興味深いコラムだったので、辞書と首っ丈ながらもまじめに予習をしていっている。
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1979年1月2日についての新聞記事の要約。 その冬の年末から年始にかけ、ポーランドは寒波に襲われ、4昼夜ふぶき続け、グダンスクでは−20℃。北ポーランド一帯では、発電所が損害をうけ、極寒の中、町の機能は完全に麻痺した。グダンスク港では、係留した船がしけの波をかぶり、甲板で氷の厚い層ができ、氷の重みで船は転覆寸前。汽車も車も雪に埋もれ立ち往生。ワルシャワも市内麻痺。 これはポーランドだけではなく、地球規模で寒波が訪れ、英国で死者15名など、世界各国でも被害があった。 マスコミは突然の寒波到来を国民あげて乗り切ろうと訴えたが、政府は自然災害の混沌の中、有無を言わさず、生産現場に平常通りの操業開始を要請した。 * * * * * * * *
この年の1年後、1980年の夏、ポーランド政府の食料品値上げに反発した労働者がストを起こしたのをきっかけに、民主化運動に発展し、ワレサ委員長率いる独立自主労働組合の「連帯」が発足した。 1990年に社会主義が崩壊してワレサが大統領に就任する、10年ほど前の話である。 当時、ワレサはグダンスクのレーニン造船場の労働者。上の記事でも特にグダンスクは寒波の被害が酷かったと書かれている。しかし、政府は卓上の討議だけで、現場のことは何もわかってはいない。 こういう小さな事件や出来事が積もり重なって、政府への不満が爆発し、ストへ、更には民主化改革へと発展していったのであろう。
単細胞な私は辞書を繰りながら、20数年前のポーランドがいかに寒波の被害が大きかったか、という話を延々読んでいるものだと思っていた。が、そうではないらしい。これは、歴史が動くまでの貴重な出来事の一幕について書かれたものに違いない。ぼんやり読んでいる場合ではなかった。 他人が訳した文章を手っ取り早く読み流すより、原文で読んだほうが数倍、胸に響くものがある。それを私の未熟な筆力では、上手にお伝えできないのがつくづく残念。
歴史や社会情勢は私の知識の死角でもある。今回の記事を読んで、遅ればせながら、少しポーランドについて調べてみようという意欲が起こってきた。 今現在、自分が暮らしている国なんだからさ。
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