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■ 不溶性を持つ自己の一部
人は人によって過ちを真の意味で裁かれることは無い。 裁きが下せるのは、 真の意味で責めることができるのは、 自分自身だ。 本人の自覚と認識なくしては真の意味の謝罪も反省も有り得ない。
それは赦しにおいても又同じだ。 いくら他人から――もしくは過ちを被った相手からさえも――その過ちに対する赦しを得たとしても、自分自身が自分自身を赦すことができなければ、その人は永遠に赦されないのである。
人は、自分以外の外界とは隔絶された部分を必ず奥に持っている。
いくら外界が呼びかけたとて全く動くことのない自己の中の「ある基準」は、自分にしか適用する事もできなければ作ることも出来ない。
その基準がいくら他人の目から見て非常識であったり信じ難いものであったからといって、それをどうこうしようと試みたところで、何の効果も為さないのである。
2002年06月12日(水)
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