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■ 究極の自己中かもしれない。
基本的に私は自分に何か不利益があったとして、それを受け入れないと相手又は周りの物事がうまく流れなくなると判断したならすっぱりと私情をすっぽぬかしてその物事を考え、もはや不利益とは認識されないその条件を受け入れる傾向にあるようだ。
それをするべきだ、と判断したら「いやだ」の「いやじゃない」のという私情の入らないチャンネルに切り替えるのだ。 あとはすべてを懸けてそのタスクに取り組むのみだ。
だが「するべきだ」と判断するということは私情を抜かして考えた場合「すべきでない」理由の模索が出来ない事に他ならない。
「しなければならない」理由や必然性を探す前に「出来る事なのに敢えてしない」という理由、「してはいけない」理由に考えを巡らせて、いつも”nothing”という結論を下しているだけなのだ。そんな理由どこにもないと。
だから端からみたらいいように利用されてるバカな人間、とか映ってるかもしれない。
だがそれこそ気の持ちようだ。
私のココロの中のテリトリーを踏み荒す様なマネや、私が絶対的にプライベートだと決めてるゾーンを破りさえしなければ、外界で私の身体が何を頼まれようと、しようと関係ないのである。 私のこなす様々なタスクは私の中心には1ミリたりとも影響を与えない。 私という人格の外でやってる事だからだ。
ぶっちゃけた話私が他人に何かをしようがせまいが、私には何の関係もない話なのだ、実際。 すべては通り過ぎていく。 私という個体を視覚的・物理的に形作っている肉塊が、その住んでる外界のどんなモノに触れたとしても。
こんな所にまで割り切った考えを持ってくる私は、何か間違っているんだろうか。
これってやっぱりあまりに未熟な人間てことなんだろうか。 でも私はこれ以外に自分が自分として立っていられる方法を知らないのだ。 本当に大切な、私を形作ってるもののモトのモトだけは、ちゃんとまっすぐ立たせておいてやりたいのだ。他はどうなってもいいから。 そうしないと足元から崩れそうで。 それに他でもないそこは、常に捜し求めている。手を伸ばせる先を。 他の部分はもう私の足元にちらばってる屑みたいなものだ。でも「これぞ」という欠片だけは残して、しっかりと立たせてやっている。 その欠片は私が年齢を重ねれば重ねるほど小さく、くっきりはっきりしたものになっていくのだ。 最後には究極の点になっていることだろう。
だがその点は何よりも存在を主張する点だ。
それが良いのか悪いのかなんて判らない。 もとよりそんな事で判断すべきものなのかどうかも判らない。
ただ、今の私は、こういう人間であるという事。
・・・だがどうだろう? これって多くの人にフツーにあてはまるんじゃなかろうか?
2002年06月24日(月)
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