 |
 |
■■■
■■
■ 「いのちの重み」を読んで��
第五章「誕生を待ち望む」に出てきた人工授精の話。 私も、前々から気になっていた話題だった。 あらかじめ生まれてくる存在の塩基配列やその並びの逸脱がわかる、という技術の進歩には驚いた。 そこから更に「あらかじめこの障害を起こさないように」と中絶の道を選んだり、果てはその遺伝子を操作することによって将来的には障害や特定の病気になる可能性の排除、更には性別だって操作できるようになるという、いわゆる「designed child(designed babyだったかどっちだったか記憶が定かでないが)」を産めるようになるだろうという話まであったりする。 それを最初に聞いた当時高校生の私は、「な、なんだそれ・・・!!」と憤りを覚えてしまった覚えがある。
この本の著者は「生まれてくるものの立場に立って考えてみてください」と言っている。それも最もだ。 生まれてくる存在は、誰のものでもないのだ。自分が生むからといって自分のものではないし、自分の子供だからって好きなように扱っていい存在でもない。 「私の子なんだから私がどうしようと勝手でしょ」とか、そういう考えは何処かおかしいと思う。「あなたの子だけれどもあなたの所有物ではない」と思う。 私達はこの地球に生きていて、その存在は何者にも侵され得ない存在のように思う。 私達は生まれては生き、死んでいく過程でこの世界をバトンにしてリレーしているのだ。そのためにどんどん次の世代が生まれてくる。いや、次の子孫が「授けられてくる」。そして私達はその子孫に、なるだけいい状態の「世界」を渡してそうして色んな「いのち」をつなげていくのだ。この「世界」すら、私達のものではないのではなかろうか。 私達は通過者だ。そんな私達は通過していく過程で色んなものを「授けられ」ては「次に伝えて」いく。それが何を目指しているのかわからないが、それが私達の営みの一部であることは間違いない。 DNAの二重螺旋のように連なっていくこのつながりは、私が思うにDNAが生命の設計図であるという重大な意味を持つのと同じくらい何かとてつもなく大きなもののためにあるような気がしてならない。 そして廻っていく色々な存在やいのちが、どれだけ価値のあるものなのか、そしてそれらを伝えていく意味や重要性を、私達はもっと考えたほうがいいように思う。
2004年07月21日(水)
|
|
 |