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■ 「いのちの重み」を読んで��
だがDesigned childのことを知ったとき、子供を持っているわけでもない私が憤ってしまった一番の理由は、少し別にあった。 生まれてくる生命のプログラムをあらかじめ操作しようというその事実だ。その考えだ。 都合の悪いものを排除して、後々に更なる問題が浮上しなかったことがあるだろうか?帰化動物や帰化植物という言葉はいったい何故生まれたのか。 遺伝子の塩基配列はそれそのものが一つの完成された存在だと思っている。 「エラー」や「配列ミス」が生じているとされるのは、それは「我々が知っている枠から外れている少数派」だからそうとしているだけではないのか。 「障害を起こす」とされている塩基配列は少なくともエラーではないと思っている。あれは、理由があってそういう配列なのだと思っている。でなければ、本当にエラーなのであれば胚の段階で死亡している筈である。 そもそも遺伝子にとって、生命にとって、種にとっての「エラー」とは何か?「障害」とは何か?その少し違った塩基配列の持ち主は、もしかしたらある種の病気に非常に強い抵抗力を持つかもしれない。特異的な力を秘めているかもしれない。それは一体何を意味するのか。種が生存していくための模索中の現われ、永遠の試行錯誤なのではないのか。必死に変わっていこうとする塩基配列を、手前で全部古い、同じ型の配列に「戻す」ことがはたして本当に我々のためになるというのだろうか。 私達は一体何を知っている?何を知らないのか、ということすらも知らないのではないのか。 私達の生命のプログラムに秘められた方向性や本当の意味もわからず可能性を排除しようとするのは、後退しているように思う。そうして邪魔なものを排除して私達は、一体何を目指すというのか。「必要ないもの」と切り捨てられたあとに残ったもので、本当にやっていけると思っているのだろうか。 その背後にあるもののもっと大きなものの意図を理解したい。
それに本当に問題なのは、「障害を起こす塩基配列」なのではなく、「ひとたび障害を持てば生きにくいこの社会」なのではないかと思う。これから生まれてくるものたちのことをどうにかしようと思うのなら、どうして今生きている人たちのことも考えないのだろうか。
2004年07月22日(木)
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