2011年06月09日(木) お風呂で呼んでいます。 |
我が家のお風呂の給湯器には呼び出しボタンがついており、ボタンを押すとチャイムのあと「お風呂で呼んでいます」とキッチンの給湯器がアナウンスするので、私が御ココをお風呂に入れ終わり、タオルを持った妻を呼ぶ際にとても便利である。 以前住んでいた部屋の給湯器はこのアナウンス機能がなく、娘を洗い終えて妻を呼ぶ際に風呂の扉を半開きにしてリビングまで聞こえるように「いいですよー!」と大声を出していたのだが、咽喉のコンディションによってはその声がリビングまで届かないこともあり、結果何度も真っ裸の赤子を抱えたまま「いいですよー! いいですよー! イーイーデースーヨー!」と半狂乱で叫ばなくてはならなかったりと不便極まりなかったのだが、今考えてみると別にあの頃不便とは思っていなかったよねと妻と晩酌しながら振り返る。 要するに「こんな便利なものがあるなんて知らなかった」と感じる以前の日常は、便利なものによって劇的に改善される行動であっても不便とは認識すらせずに、風呂場で半狂乱で叫ぶことが日常であり、そこに改善の余地は”別に”ない。そもそも携帯電話だって心の底から希求して手に入れたものでもない。あの頃は携帯電話の登場を願うよりも彼女の家に電話をして父親が出ないように心の底から願い続けていたものだ。 携帯電話の登場を「願う」ことと、彼女の父親が電話に出ないよう「願い続ける」人間として必要なことはどちらであろうか。そこにある願い、そこにある思いを全て置いてけぼりにして日々は発展する。「お風呂で呼んでいます」家族ではない誰かの声で呼び、妻は立ち上がる。 人は幸せな時期を回想する場面はきっと「不便でならなかった」愛すべき一場面だと思うのです。 |
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