Spilt Pieces
2002年05月09日(木)  言い訳
「マイナス思考をとると、何もしなくなる」
昨日、そんな言葉を聞いた。


「こんなことされたら嫌だろう」
『相手の気持ちになって考える』ということが、逆に何もしないという結論へと導いてしまうとのことだった。


確かに、マイナス思考のときは、受容よりも拒絶のことばかりを『相手の立場』として考えてしまう。
失敗してもいいからまずは動いてみないと相手の感情などというものは分からないよと言われた。


勿論、何においてもまず行動、というわけではないだろう。
推し量ることは重要なことだ。
日本人はしばしば曖昧で、また、言葉に表現されないものを汲むというところに美徳を覚えているように周囲を見ていても思う。
そして私はそういうのが案外好きである。
だが、そのことと何もしないこととは関係がない。


自分は他の誰かではないし、誰かの感情を完全に分かろうとすることなどできるはずがない、できると思うこと自体そもそも傲慢であろう。
誰かとコミュニケーションをとりたいとき、例えばマイナス思考で相手の気持ちを推測してしまったら、それは相手の気持ちを理解したと言えるのだろうか。
自分と他人は違う人間であるがゆえに、実際に相手と会話してみないことには分からないことが多い。
昨日マイナス思考気味だった私は、そんなことを指摘されて、心が痛かった。
何もしないことの言い訳を、「相手の気持ちを考えている」という言葉で誤魔化していたのだから。


ところで、「笑顔でいなさい」と、冒頭に書いた人に同じく昨日言われた。
中学生の頃からずっと考えていた、笑うということ大人ということ。
大人になるということが、年齢的にはもう成人だが今も分からない。
誰に対しても笑顔でいられる自分でありたいとは思う。
だが、それは自分にとっての嘘にしかならない。
本当は、嫌いな人も、許せない人もいる。
それでも笑っていなければならないのならば、そうしなければ社会の中から外れ者扱いされてしまうのであれば、私はきっと笑うことを選択するのだろう。
そんな大人にだけはなりたくないと思っていたのはいつのことだったろう。


まだまだ思うことはあるけれど、とりあえず今はこのくらいで。
また今度考える。
話変わって。


今朝、木を見ていたらせつなくなった。
幹を切り落とされた木々の古傷が、目のように見えた。
同じ木の空に近い方では、眩しいくらいの緑が揺らめいていた。
生と死と、しかしそれは自然の中で選ばれたものではない。
材木として用いる目的でもなく、景観のために切り落とされただけの枝の悲鳴。
人工的。
だからなのか、古傷が、人間の目のようだった。
何かを訴えているとは思わなかったはずなのに、なぜだか痛かった。
そして、私は何かをしようというわけでもない。
そんな現実。


足元で羽をばたつかせた鳩に驚いた。
鳩は、悠々と茂みの中に歩いて消えていった。


ネット上の割には何だか長い日記だ。
いつも文章がまとまらない。
日々の生活というのは、書きたいことが多すぎる。
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