Spilt Pieces
2002年05月26日(日)  性弱説
風邪が悪化した。
38度を超えるとさすがに動けない。
こんなとき、家族の存在のありがたさに気づく。
普段からもっとそういうことに気づいていれば、優しくなれるのにと思いつつ。
なかなかそうもいかないのが難しいところ。


題名に書いた性弱説というのは、私の造語だ。
孟子は性善説を提唱し、荀子は性悪説を提唱した。
私はこの二つの説のどちらを支持するのか、時と場合によって異なってしまっていたから(大抵は、自分の立場を援護してくれるようなものを選択していたように思う)、しばしば考えた。
性善説を信じていたいと心では叫びながら、性悪説だと思えるようなことを見ては落胆した。
そして結局、いつだって結論は出なかった。
そこで私は勝手に自分で言葉を作り出してしまった。


極端に聞こえてしまうかもしれないが、人は、元々その性が善いからでも悪いからでもなく、弱いから犯罪を犯したり人に優しくできたりするのではないかと思う。
その弱さをどう処理するかで個性も表れてくるのではないか。


その性が悪いから他者を傷つけるのではなく、弱いから自分を守ろうと必死になって、その結果傷つけてしまっているのだろうと思う。
自分のストレスのはけ口を見つけられなくて暴力に走る(一時的にすっとする、という効果は確かにあるのだということを以前聞いた。だからいじめは弱者を対象として起こるのだそうだ。強者に手を出して反撃されてしまったらストレスの軽減どころか増すだけなので、反撃をしないであろうと見込まれる弱者が狙われるらしい)というのは、憎いからというよりも自分が辛いからという要素の方が強いのではないか。


その性が善いから誰かに優しくするのだと考えてしまうと、優しくできない人のことを説明できない気がする。
性が弱く、痛みが分かるからこそ他人のことも分かってあげられるのではないかと思う。


善いか悪いか、と、はっきりと分けることはできないと思う。
弱さを処理する方法を学ぶことができたか否かによって、その処理方法が一般的に適応的だと認められるかどうかによって、善い悪いを判断されてしまうことがいいことだとは思えない。


書き足りないが(しかも続きをいつ書くのかも不明だが)、まだ鈍痛の残る頭が自己主張をするので今日はここまで。
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