Spilt Pieces
2002年05月27日(月)  生きる
生きることとは、一体何だろう。
私は、毎日食事をして毎日何かを考え毎日眠る。
そんなことの繰り返し。
私にとって、明日は獲得しようともがかずともやってくるもの。
何もしなくても朝日は昇る。
世界において、私のような人間はきっと少数派。


今、今日の講義で必要な実験計画発表用レジュメが終わらずにパソコンに向かっている。
風邪をこじらせるぞと母に忠告を受けながらも、一日中寝ていた身としては仕方がない。
それなのに飽きてしまって今日記を書いている。
レジュメが終わろうと終わるまいと、朝は来る。
私が望もうと望むまいと、一日は始まる。
そんな「当たり前」のことが、一体どれほど多くの人に与えられているのだろう。


以前大学の敷地内で一人暮らしをしていたとき、隣の部屋にパラグアイからの留学生が住んでいた。
共同の台所で立ち話をしていたときに、話題がメディアへと飛んだことがあった。
彼女は、日本で海外の情報を得ようと思ったときにその量があまりにも少ないことが信じられないと言った。
パラグアイでは、海外のニュースを一日中流している番組があって、しかもその内容は朝と夜では全く違うものだという。
だが日本のニュース番組では、国内の話題ばかりで、しかも同じニュースが何度も流される。
「日本のような先進国で、ここまで海外のニュースが入ってこないなんておかしいと思うわ」彼女は言った。


日本から出たことのない私は、恥ずかしながらその指摘があるまで何も疑問に思ったことがなかった。
テレビばかりではなく改めて新聞も読んでみた。
確かに、日本国内のニュースばかりだ。
そういえば、以前アフガニスタンの地震について報道されたとき、新聞を広げる私の隣で父が「どうしてこんなに重要なニュースがこんなに少ししか書かれていないんだ」と言っていた。


私たちはもっと多くのことに目を向けなければならないし、その余裕もあるはずなのに、しばしばそれを実行できない。
自分が今考えている「生きる」と、獲得しなければ明日が来ない人たちにとっての「生きる」では、おそらく定義が全く異なっているのではないだろうかと思う。
既成概念というものは、あくまでも既成のものであって、それを疑わずに生きていくことは怖い。
たとえ情報の規制をしているという意識が情報発信者になくとも、たとえ先入観を植え付けているという意識が教育者になくとも、その文化の中で育った者にとっては偏った考え方すら崩すのが難しい基準の部分に根付いてしまう。
例えば明日突然「一日を獲得して生きなさい」と言われても、きっと私は生きていけない。


生きることとは一体何だろう。
多くの価値観や文化が存在する中で、「生きる」ということを定義することというのはできるのだろうか。
いや、その前に、そもそも定義してよいものなのだろうか。
そしてここまでは人間に関して。
世の中の全ての生命あるものにまで広げて考えた場合、私は頭痛をひどくするどころの騒ぎではなくなるに違いない。
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