Spilt Pieces
2002年06月07日(金)  人間と歴史と
歴史は、私にとってずっと「暗記科目」だった。
とにかく覚えろと、今までずっと言われてきた。
「この人物は暗記しましょう」
小さい頃は周囲の世界は全て自分より大きくて、何も疑問に思わなかった。
そして思わないことがいいことだと教えられてきた。


過去を批判することはいくらでもできる。
もう過去となってしまった人には、どんなにいわれのない誹謗中傷を受けても反論するすべがない。
教科書の一文となってしまった人に関して多くの人が持っているのは、ただその一文内もしくはほんの少しそれを広げたその人の経歴だけだ。
どんなに悩んだか、どんなに考えたか、どんなに誰かを愛したか、何も知らずにただ残されたほんの僅かの事実だけを取り上げる。


不安になる。
私がたとえ今死んでしまったとしても、きっと親しい誰かは悲しんでくれるかもしれないが、将来私を知る人たちが亡くなってしまったら、もう私が存在していたのかすらもうぼやけてしまって見えなくなるだろう。
歴史に残る何千年も前の人たちのことを全て知っている人などいない。
誰かから伝え聞いただけだ。
真実というのは、いつだって保証できない。
今、という瞬間を除いては。


自分がなぜ生きていたのか、せっかく思考することができるのだから、それを言えない人生を送りたくはない。
だが、他人からの評価を気にして生きていく以上は、きっと言えない。
どこかに名前を残したかったから?
たとえ今の世界において一番有名な人になったとしても、きっといつかは消えてしまうのに。


自分が自分の中で消化するより他に、存在について考えた場合の答えなど出ないのではないか、など、少し極端なことも考える。
それ以外、私にはどうしたらいいのか分からない。


私は、子どもの頃の気持ちを覚えていたいといつも思う。
周囲のことに敏感な子どもにとって、「大人」の言葉というのは、その人が大人に見えるというただそれだけの理由で、子どもに一生残るような強い影響を与えかねない。
そう思うと、自分の生きている世界というのはなんと不安定で恐ろしいものなのだろう。
そんな中で、素晴らしい多くのことに出会って自分の内面から多くの好奇心が湧いてくるような大人になれた人というのはどれくらいいるのだろう。


歴史の中にあるのは、暗記すべき事項でも人名でもない。
ただ、多くの人間の悩んだこと、考えたこと、そんなことの集まりが一つのものとして捉えられ、大きな人間関係がとりあえず形としてまとめられてしまっているだけだ。
そうしないと、きっと考えるべきことはあまりにも多すぎて、収拾がつかなくなってしまうだろうから。
だが、それでも私は忘れないでいようと思う。
名前こそは分からないけれど、人間が、たくさんいたのだと。
自分のような人間が、たくさん生きてきたのだと。
そうすることは、きっと自分を慰める手段の一つなのかもしれなくて。
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