Spilt Pieces
2002年06月09日(日)  選択
命の選択をするのは誰か。
高年齢出産をした親戚の人との会話から改めて考えた。
彼女は今いる子どもを産む前にダウン症検査をしたと言った。
現在十ヶ月のその子どもは元気に育っている。
みんなに愛されて、幸せそうに笑う。


もし出産前の診断でダウン症だと判明した場合、彼女はどうしたのだろうか。
尋ねることはできなかったが、おそらく答えは「分からない」ではないだろか。
私も、分からない。
すやすやと、気持ちよさそうに眠っている。
起こさないように、と思いながら、そっと手を握った。
小さな小さなその手は、それでも暖かく体温を宿す。


もし産まなかったとしたら、この子はここにはいない。
誰が産むか産まないのかを決めるのかとい議論以前の前提として、胎児は話し合いに参加することができず、親はおろそうと思えばおろすことができる。
圧倒的に、親主導となるのは否めない、この選択。
そして子どもにとっては直接命に関わる選択。
そもそも選択などが、なされていいのだろうか。


現在の社会状況では、障害のある子どもを産んだ家庭が、言い方は悪いが負担を負いすぎる。
周囲の援助、と口では言っても、実際はどうか。
自分の子どものことで手一杯の親たち。
障害がなくても不安は尽きない。
どうやって育てていけばいいのか、分からない人も多いはずなのに、多岐にわたる障害全てを素人でも分かるように網羅したものなどどこにあるというのだろう。
現時点で、社会がとても頼りになる、とは言い難い気がする。


「欲って尽きないものよね、おかしいくらいに」
親戚の人がそう言った。
妊娠したら、生まれてくるまではとにかく五体満足で、と祈る。
それが叶えば今度は勉強がよくできますように、人よりいい人生を歩めますように、と、どんどんどんどん。


命の選択など、していいものなのかどうか、私は知らない。
このような問題を初めて聞いたときから、ずっと考えているけれど、実は結論が出たことは一度もない。
即答できるような人には、いくら望んでもなれない。
理想的には、産みなさいと私は自分に言うだろう。
だが、本音はどうだろう。
私はきれいな人間ではない。
実際に妊娠したらまた違うことを言うのかもしれないが、今はとにかく、分からない。
嘘をついてもどうしようもない。
命は全て平等だ、と思う(もしくは思おうとしている、のか)一方で、ならばどうしてこの問題にすぐさま結論が出せないのか。
私は、エゴにまみれているのだろうか。
否定できないし、する資格もない。
だがこれが私の真実なのだろう。


私が今こうして生きていること(今まで生きてきたことも含め)、命とは奇跡以外の何ものでもない、月並みな言い方だが。


ごちゃごちゃ考える私の隣で、眠る赤ちゃんは小さくいびきをかいていた。
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