Spilt Pieces
2002年07月17日(水)  隣の薔薇
隣の薔薇は赤い、という言葉がある。
確かにそうだとしばしば思っていた。


最近気がつき始めたこと。
隣の薔薇が枯れかけても、気にとめることは少ないのではないか。
美しい赤色を自分が持っていても、そのことには特に気にならない。
二つの意味を含んでいる。


小さな不幸に嘆くことのできる幸せを自覚することは少ない。
今日食べたランチがおいしくなかったと、毎日の食事にも困っている人が嘆くことは難しい。
今日指の先をカッターで傷つけてしまったと、交通事故で大手術をしたばかりの人が嘆くだろうか。


この前行った施設で、何も話せず動くこともできない人がいた。
こちらが話し掛けると、手に持つ音の出るぬいぐるみを押して「はい」という返事だけをしていた。
その人の奥さんと子どもが来るまで、私はその人が先天性の病気だと思っていた。
居室から聞こえてきた奥さんの声は、夫に何だか小難しい本を読み聞かせているものだった。
私には理解できないような内容。
その男性は、時折ぬいぐるみを押して頷いていた。
「お世話になっています」
幼い子どもの手を引いたその奥さんは、ただの実習生の私にまで満面の笑みで挨拶をして帰っていった。


近所の家から、最近三人目の子どもも産まれて毎日楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
ある日一週間くらいシャッターが閉まったままだった。
実家に帰っていたらしい。
母が、「旦那さんの親戚の人が心筋梗塞で急死したんですって」と言った。
よく話を聞くと、その親戚の人は昨年結婚したばかりで、一ヶ月になる子どもが産まれたばかりだったという。
幸せの絶頂の中に訪れた突然の不幸。
私は「それは奥さん大変だね」と言った。
だけど私には明日もきっと今までと同じ毎日が訪れる。


何を思っても、何を考えても、所詮は他人事なのだろうかと感じて胸が痛くなった。
悲しみも喜びも、隣の薔薇のことは結局遠くにあるものにすぎないのか。
私には叶えられないような理想的カップルを見てため息をつく。
私には耐えられそうにない出来事に遭っている人たちのことを思ってため息をつく。


だがそれは誰のためのため息なのだろうか?
ため息をつくことによって何かが変わるというのだろうか?


「他人事」である社会が嫌い。
そしてその一員になってしまっている自分が嫌い。
「隣の薔薇など存在しない、垣根など本当はないのだから」
そんなこと、今の私には言えるはずもなく。


理想だけでは生きていけない。
理想だけでも生きていけない。
バランスをとるのが難しくて、毎日ぐらぐら揺れている。
Will / Menu / Past : Home / Mail