Spilt Pieces
2002年08月07日(水)  身にしみる
先輩が言った。
「相手の欠点を指摘することくらい、やろうと思えば誰にだってできるもんだ」
「それを、分かっていても相手の気持ちを考えて言わないのが大人ってものなんじゃないか?」


最近の私は、他人の欠点ばかりが目について嫌になる。
それを指摘してしまいたくなる。
そういうとき、先輩の言葉を噛みしめる。
「相手の欠点を指摘して、自分は相手のためによいことをしてやったんだ、と思い込むのは、単なるガキのすることだ」
「相手のため、とか言いながら、本当は自分の優越感を感じるためだけの言葉なのかもしれないということを、言葉を発する前に考えろ」
言葉を口にしないための力というのは、口にする勇気よりも大きなものなのかもしれない。


相手の欠点を感じ取ってしまうことは、最近恥ずかしい。
自分にも同じような要素があるかもしれないからだ。
口に出すことで、それを認めてしまい、あまつさえ公言してしまっているように感じる。
近親憎悪という言葉がある。
まさにそれのような気がする。
その場合は、口に出しても出さなくてもあまり関係ないような気もする。
ただ、言わなければ、辛うじて誰かに知らせてしまう恥ずかしさからは逃れられる。


私には、嫌いな人が多い。
だが誰かの悪口を言うと、それは必ずどこかで跳ね返って自分に戻ってくる。
楽しくないし、だから言わないようにしていたいと思う。
それ以前に、悪いところではなくていいところを見ることにできる自分になれたら一番嬉しいのだけれど。
月並みだが、「ごめんなさい」より「ありがとう」を言える人間になりたいと思う。
必要以上にありがとうを言うと意味が薄れると聞いたことがある。
だが、それでも、ありがとうと言われると(それが嫌味でない限り)多少なりとも嬉しいというのが心。
そういう些細な喜びが、少しでも自分の周りに増えてくれるのなら、やはりその言葉を発する意味はあるのだと思う。
無駄なくらいの詫びよりも、無駄なくらいの感謝の方が、どちらかというといいような気がする。


父が言った。
お前は、母さんが死んでからそれと同じだけは生きなくてはならない、と。
母と私は25歳離れている。
だから、私は母が死んでから最低25年は生きなくてはならないのだという。
私には、母がいないなどと考えられないし考えたくもない。
だが、私が先に死ぬことはこの上ない親不孝なことだというのも最近はさすがに分かる。
だから、いつか、など考えたくもないけれど、それでもこれから先、ごめんなさいよりもありがとうの回数の多い娘でありたいな、とだけ思った。
私は不満を漏らすことも多々あるが、なんだかんだ言って、家族が大切だし大好きなのだと思う。


欠点よりもいいところを探していける自分に、少しずつでもなれたら嬉しい。
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