何しろもともと農業で、生計を立てている人が殆どの、町というより、 村に近い田舎のこと。 3交代のフル稼働をする工場、そのために、無料の通勤バスを、提供し、 そのバスの乗務員までも地域から募集するのだ。 瞬く間にたくさんの応募者があった。 電話機というものが70年代になって、本格的に普及したと言うことを 今は忘れてしまっているが、会社ができたときは、まだ町役場くらいしか、設置していなかった。 あの、黒い磁石式の電話である。 四角い形をしていて、右手でハンドルを2,3回まわし、 送受機を取り上げ、もしもしと、交換手を呼びだす。 そして何番と、番号を言うのだ。23番とか73番とか言う番号だ。 しばらくして、黒のあの大きな、ダイアル式に変わり、 一般家庭にも、普及し始めたのだが。 会社は、当時としては、精一杯の努力をしていたと思う。 社内には、大きな交換機が置かれて、ロッカーのような形で、 電話がかかれば、ジージーという音がしていた。 その形も、しばらくすると、受付でジャックを差し替えてする 交換機に代わって行った。 私たち現地採用の人員に対して、奈良から、スペシャリストというか、 係長以上、課長、工場長などがやってきた。 そして、本格的に工場が、動き出したわけだ。 大阪に販社があって、そこから来た若手の男性など、やってきた人たちは、関西弁を早口でしゃべるわけで、田舎の工場の事務所、 管理棟と呼んでいたが、そこは、もう別の空間になっていった。 彼らがやってきてすぐに言ったことを今でも忘れない。 「汽車を降りるとそこには、牛が、寝ていて車なんか一台もない、 と聞いてきたけど、さすがに牛は、寝てなかった。」 殆ど同じ年代の男性にとって、佐賀への転勤は、島流しに近く、 いやだったろうと思う。 彼らが来た事によって、工場の中には、きらきらした熱気が、 こもるようになっていった。 すべてが新しく、若く未来も夢もいっぱいだった。
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