くるくるくろりくくろにくる
いんでっくす|ふるいの|あたらしいの
昨日、映画「フィラデルフィア」を見ながら、自分は同性愛についてはどんな意見を持っているのかを考た。 嫌悪感や偏見が無いリベラルな感覚を持っているんじゃないかと思いながらも、実は身の回りに観察する対象がいないので問題として表面化していないだけであって、本当は極端に糾弾したいなんて事もあるんじゃなかろうか?と自問自答。
種族を残すと言うナチュラルな生態に対する異端ねぇ。
問題は、生殖行為がその意味を無くしているところなんだろうか?
たとえば性交が種族を残す為のものであれば正当化されるが、そうでなければどんなに愛情表現の一端だと言っても快楽追求というか欲望の提示でしかないような意味合いが濃厚になる。遥か太古から続く罪悪感の植付けの成せる業とも言えるけどね。
それは男女間だとて同じ意味合いなのだが、異性間であれば、好むと好まざるとに拠らず妊娠の余地があるから良しとされるのであれば、そんなの個人の意識のレベルであって道徳で論じるのはナンセンスだよな。
人間は快感を得る体を持ち合わせているのだから。
同性間の恋愛が異端視される根源はそこにあると思い至り、自己ではない他者を受け入れ信頼関係を築くという所謂『愛』と言われている精神的な部分は無いものとされるのはやはり憤慨なのだった。
その昔ニューヨークのブルーノートに行った折、ゲイのカップルと相席になったが、『おお!初めて実存するゲイ・カップルを見たぞ!』って一瞬だけ思ったなぁ。でもそれ以上もそれ以下も無かった。その一瞬の驚きが去った後はただ楽しくお喋りしていた。カップルとして普通にのろけられたり、そののろけに対してからかったりしてね。二人ともとても素晴らしい人たちだってのは、一見の旅行者に対しての接し方で良く判った。
結局、カップルの性別がどうであれ、向い合って二人を見たときに、その二人の醸し出す信頼関係がこちらにどう映るかってことなんだね。
巷じゃ見ていて反吐が出るアホカップルが氾濫しとりますから。
|