あまおと、あまあし
あまおと、あまあし
 眩暈 2002年10月08日(火)


 目がまわる目がまわる目がまわる。
 屋上を吹き抜ける秋の風は涼しくて、汚いものや醜いものを何一つ許さない清しさなのに、どうして、こんなにも。
 傍らにある熱の存在が、心の平衡をも吹き飛ばして、それは夏の太陽よりも激しい輝きのようだ。何処まで逃げても、忘れることはできないだろう。求めて、きっとこの場所へ戻ってしまうだろう。
 それは、罪だ。何か一つだけの存在に心奪われ、未来を見失って立ち尽くすなど。
 目を閉じた。明るい秋の日差しは瞼の裏に焼き付いて、黄色く染みをつくる。
 その残像の中に、どうしても消せない形があって、そこからまた眩暈が起こる。
 目を開けた。
 トンボが、透明な羽で空を切り裂いて飛んでゆく。
 いくつも、いくつも、それは小さな剣。

「──ドラゴンフライ」

 眠っているはずの男が、歌うように小さな虫の名を呼んだ。
 身体がぎくりと強張ったのに、彼は気付いただろうか。
 平静を装って、日焼けした顔を見下ろした。
 たった今まで眠っていたとは思えない、鋭い眼差し。
「蜻蛉」
「竜になれるか?」
「──夢の中でなら」
 失笑が、耳に落ちた。寝返りを打った腕が、降れるほど近くに落ちて、熱が。
 熱が、どうしてこんなにも伝わるのか。
 見上げる眼差しは、一向に緩む気配もなく真っ直ぐで、目をそらすことも出来なくて、きっと見ぬかれているのだと思う。この胸の中で、どちら側にも動けずに竦んでいる心を。

「──北辰の」
 とりあえず何か話さなければ。咄嗟にひからびた喉から、声を絞り出す。
「ああ、火に飛びこんだってな」
「知って」
「さっき、会長に呼びとめられただろ。緘口令が引けるわけねえし、こっちの祭りに影響が出るかもしれねえから、手え貸せって」
 そういう事かと、頷いた。
 他校の生徒とはいえ、文化祭の最終日のストームに飛び込んだ人間がいると聞けば、同じ年頃として平静ではいられない。
 現に自分も、考えた。炎の熱さは、どんなだったろう。何を捨てたいと望んで、何を得たいと望んで、自らを焼いたのだろう。
 考えて、それは恐ろしいことの筈なのに、一方でそれは魅惑的な事なのだと納得する気持ちがあって、確かに後を追う人間も出るだろうと思う。
 はたから見れば愚かな蛾も、止まない衝動があって炎に飛び込むのだ。きっと。

 膝を抱えようとした腕を、突然掴まれた。
 直接的な熱に、隠しようもなく身体が震える。
「──蜻蛉は、炎には飛びこまねえよな」
 同意を求める口調で、でも全く違うことを尋ねている、男の言葉。
 どうして、どうして、こんな風につきつけるのだ。
 何も気付かずに、何も知らずに、こんな小さな存在になど目もくれずに、飛んでいってくれれば良いのに。
 腕に、重みがかかって。起き上がった男の顔があまりに近くて、もう限界だった。必死に振りほどいて、熱から逃れようとあがくのを、今度は両手で、捕らえられる。
 身体が、痺れた。炎に焼かれる蛾は、こんな気持ちなのだろうか。死んでしまうのが解っていながら、逃れられない。
 逃れられないのだ、輝きから、目を離すことなど出来ないのだ。一度、見つけてしまったら。
 じゃあ炎は、炎は何を望むのだ。儚い蛾の生命か、それとももっと遠く高く遥かなものか。吹き消され夢と消えてしまうことか。

 めまいが、収まらない。
 もう、逃げられない。何もかも明らかにする輝き、その炎に焼かれて、自分は消されてしまうのだ。
 目を、閉じた。
 いっそうはっきりとする熱の所在を感じながら、ゆっくりと目をあける。鋭い眼差しに切り刻まれながら、焼かれてしまおう。
 焼かれて、燃え尽きて、この呪縛から開放されるのなら、いっそ。

 どこまでも、空は清々しくて。
 熱は、どこまでも確かだった。眩暈は、いつのまにか収まって。
 揺れているのは、世界のほうだった。
 


過去 一覧 未来


My追加
 著者 : 和禾  Home : 雨渡宮  図案 : maybe