(断章) 2004年02月14日(土)
「問題は」 そう言って彼女は、グラスの中に残ったアイス珈琲を、ストローでかき回した。 「そうね問題は、例えば私の人生が残り一週間だと決定した時に、その七日間の中に旦那のために使うべき時間は、一時間も無いだろうって事なのよ」 グラスの中に残った氷が、薄茶色の水をまとってガラガラと廻る。 「まだ見ていない風景があるわ。まだ聞いていない音楽があるわ。まだ読んでいない小説があるわ。まだ書いていないお話があるわ。……でも、そのどれを選ぶとしても、隣にあの人が居る必要はないの。むしろ、邪魔なのよ」 「でも、嫌いなわけじゃないんでしょう?」 あまりにもきっぱりとした彼女の言葉に、私はつい疑問を口にしてしまった。 彼女の眼が、少しだけ私を非難するように眇められる。 当然だ。これは彼女の独白であって、相談ではない。私はアドバイスや批判を口にするのではなく、ただ彼女の言葉を聞かなければならないのだ。 彼女は肩をすくめ、言葉を続けた。 「──もちろん、嫌いじゃないわ。あの人と一緒に暮らしている毎日を、不幸だとかつまらないとか、思ったことなんて一度も無い。愛しているのかと聞かれたら、もちろん愛していると私は答えるわ。でもね、必要じゃないの。人生をもしも区切られてしまったら、その時にあの人を傍に置いておく余裕は、私には無いのよ」 整った唇から、溜息がひとつ放たれた。 それはあまりにも利己的な、けれど実に率直な溜息だった。 「<愛している>というのは、自分の人生の全てを相手と絡め合わせる事なのかしら。例えば自分の人生が先に尽きると決まっていても、残される相手に美しい思い出を残すために、やりたい事を諦めて、思い出旅行に付き合ってあげることなのかしら。私には、出来ないわ。部屋に鍵をかけて、あの人を締め出して、自分のために残りの時間を使うわ」 でも、きっと恨まれるわよね。 そう言った彼女の爪は、短く切りそろえられて何の色も塗られてはいなかった。そんな事に使う時間があるなら、新しい本の一ページを捲るのが彼女だ。 「だから、時々思うの。私にまだ余裕があって、あの人にたくさん思い出を作ってあげられるうちに、あの人が病にでもかからないかしらって。はっきりと死期をつげられて、その日を指折り数えながら共に過ごすことは出来ないかしらって」 全く、馬鹿な望みよね。馬鹿馬鹿しすぎて、時々──。 |
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