2002年06月21日(金) |
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」フィリップ・K・ディック 1977年早川書房 |
雨の降らない梅雨(名古屋)の中、皆様如何お過ごしでしょうか。 最近口癖で性格がわかる?とかいう心理テスト?みたいなものが出来たとかなんとか聞いたんですけど、オヤジの最近の口癖は「まぁ・・・人生なんてそんなもんさ」です。そのセンセーに私の人生はこのままでいいんですか?とか聞いてみたい今日この頃です。 相変らず寝違えた?左肩に激痛が走りまくりのオヤジです。あげく皮膚には誰かが握ったようなアザも出来てたりして。腕が上がらない(四十肩かっ!)くらい痛いんですが、激痛が走るのは狭い角度なので、騙し騙ししながら、今夜もプールでひと泳ぎしてきました。 ええ・・・若いお姉さんの水着姿はとても眼の保養に・・・。
さて、今夜のお題は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 フィリップ・k・ディックの名作ですね。 「ブレードランナー」として映画化もされました。 そうです、私のサイトのテキストのサブタイトルにある「ブレラン症候群」とはこの映画に源を発しているわけです。 ただ・・・私はハリソン・フォードはどーも好きではないので、私にとってはその分この映画の魅力も減ってはいますが・・・。 ストーリーは、自分のルーツ?を求めて火星から脱走してきたレプリカントと呼ばれるヒトそっくりのアンドロイドと「それ」を追う警官、というもの。
原作で問われているのは徹底して「ヒトって何?」ということ。 見た目も中身もヒトなら、そやつは果たしてヒトなのか? ヒトとヒトでないものを区別するその一線はどこにあるのか? 冒頭に出てくるフォークト・カンプフテスト(チューリングテスト)の「砂漠に亀がいる・・・」っていう台詞は、漫画や小説ではお決まりのジョークとしてよく使われていますね。
ちょいと宗教じみた話にもなっちゃうんですが、作者のディックはヒト最も大切な能力に「感情移入」を上げています。要するに「共感」ですね。 ディックは作中のレプリカントを「内に閉じこもり、機械的な生活を送っている」人間性を失ったヒトの象徴として描いているようです。 後書きから引用すると。 「・・・出自は関係ない。問題はあなたがどれほど親切であるかだ。この親切という特質が、わたしにとっては、われわれを岩や木切れや金属から区別しているものであり、それはわれわれがどんな姿になろうとも、どこへ行こうとも、どんなものになろうとも、永久に変わらない」 つまり、親切なやつは人間だけど、親切じゃないやつは人間じゃないということですね。(笑) (特定の例外からの突っ込みは・・・勘弁して下さい) 親切なテレビとか、親切な椅子とかが出てきたら・・・。 恐い話だ・・・。 いや、奴等には共感能力が欠けているから大丈夫。うんうん。 このあたり、男と女の恋愛にもかなり共通する部分があるなぁ、なんて考えてしまうのはオヤジだけでしょうか。
「今のは痛かったぞ、デッカード」 自らの生を確かめるようにデッカードの殴打を受けるロイ。 「・・・俺は君たちの想像を絶するものを色々見てきた。オリオンの傍で炎に包まれていた宇宙船。タンホイザーゲートの闇の中で輝いていたオーロラ。あのめくるめく瞬間も・・・いずれは消える。時が来れば・・・涙のように・・・雨のように・・・」映画「ブレードランナー」より。 死に行く運命を悟った?ロイ・バッティ(レプリカント)が、デッカードを救った後に、呟くように語る台詞。 ロイの生き様は、古くからある「死は確かなもの、生は不確かなもの」そして「死を銘記せよ」というラテン語の箴言を思い起こさせてくれますね。 全ての生きとし生けるものに襟を正したくなる、そんな映画でした。
屁理屈ぶっこいちゃうと、エントロピーには誰も逆らえないんですね。 私もあなたも、そんなにあせらずともいつかは必ず死にます。 「江戸と背中が見て死にたい」じゃないですけど(あ、東京はもう2回?も行ったことがあるんで充分です。お腹一杯です)色んなモノやヒトと、精一杯関わって生きていくべえかぁと、ちょっとだけ前向きな発言をしつつ終わります。あはは・・・。
ブレードランナー2 ーーーレプリカントの夜ーーー ジーターさんの著作ですが、映画と小説を足して二倍したような、とても現代的で面白い続編もあります。
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