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一般病室へ移ってしばらくすると、ドクターから再び過酷な宣告を受けた。 いや、私の決断によっての宣告なのだが、この決断は今までの中で一番辛いものだった。
腎機能が著しく低下していて、透析を必要とされる数値を大幅に下回っているとのこと。 人工透析をするには血管のバイパス手術が必要だが、手術に耐えうるだけの体力には 疑問が残るとのこと。さあどうしますか?っと訊かれたところで即答などできる筈もない。
せっかく個室から脱出できたばかりなのに、そう思うと悔しかった。
「もしも、透析ができなければどうなるのですか?」 そう訊ねるのが精一杯だった。ドクターは少し間をあけて静かに言った。
「余命が半年だと申し上げるしかない・・・です・・ね。」
つまり、透析をしなければあと半年の命、だけど透析をするための手術には耐えられない。 もう答えは用意されているのと同じだ。
「親戚に相談してみます。」と答えた。私一人では結論が出せなかった。
私は生後2年で父と母の養女になった。つまり母と血の繋がりがない。 そんな私が、母の命の期限を決定してしまうのに躊躇いがあった。 いや血の繋がりがあったとしても、自分ではない人間の命の期限を決定するなど 荷が重い。 奇跡が起きるかもしれない。 だけどそうではないかもしれない。
いつも母を見舞ってくれる伯母と、すぐ近所に住んでいる叔父に相談をした。 どちらの答えも同じだった。
「お前の思うようにしなさい。」と・・・
そして伯母はとても小さな声で付け加えた。
「ただ・・・・苦しむことはしないであげて・・」
ドクターに返事をする期限は3日。 母のベッドの横で声を殺して泣いた。母は眠ったままだった。 あれほど嫌だった個室が恋しと思った。思う存分泣くことができたから。
ドクターに答えを伝える日、とても事務的に伝える私がいた。
「手術はしません。そう決めました。」
用意されていた答えを用意されていたように伝えた。 他に選択の余地はない。 これで少なくとも、あと半年の時間は与えられたのだ。
泣いた。泣いた。泣いた。泣いた。 子供が寝静まってから、一人で泣いた。 おそらく母が亡くなった時よりも泣いた。
次の日に瞼が腫れ上がって、酷い顔になるほど泣いた。 それでも仕事へ出かける私。 生活の為でもあったし、職場の友人と一緒に居たかった。 友人達は何も言わなくても、優しく迎えてくれた。
私には守らなければならない者がいた。 「母」と同時に「子供達」である。 私の孫を抱きたいと云うのが母の願いであり、私の願いであった筈。 その願いは叶えられたのだから、もうそれ以上は望むまい。 そんな理屈を自分に納得させて、自分の決断を正当化した。
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