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ドクターの宣告を受けて半年の後、私は相変わらずの生活を続けていた。 仕事と病院、それに保育園の往復。
ドクターの予想を遙かに超えて、母は頑張って生きていた。 心配されていた腎機能は良くなることはないけれど、急激に悪化することもなく 病状は一応、安定しているとの見解だった。
そんな頃、主治医であるドクターの転勤が決まったとの知らせだった。
母が入院している病院は、原則として長期入院はさせない病院である。 その病院にこれだけ長期間入院できているのは、MRSAであったことも 関係するだろうが、この主治医のドクターが強く要請して下さっていた事も 知っていた。そのドクターが移動になる・・・。
つまりそれは、転院を余儀なくされると云うことだろう。
そしてそれは現実となった。 ドクターは転院先を一生懸命探して下さった。そして、今より自宅から近くなる 老人保健施設に転院してはどうかと相談を受けた。
病状が安定している現在ならそれが可能とのことだった。
このままこの病院にいても、次の主治医のドクターがどういう判断をされるか わからないので、できるなら今、決断された方がいいとも言われた。
それだけドクターは母を庇って下さっていたのだろう。 MRSAに院内感染したのは、内科である主治医のドクターのせいじゃないのに。 あの時の緊急手術で外科病棟に移った時に感染した筈なのに。
私はドクターの申し出に「お願いします」と答えた。 ドクターとしてではなく、人間として信頼していた。
空きベッドがなかなかでないと聞いたその老人保健施設(以下病院)に まだ65才にもなっていない母が入院する。身障者の1級を認定されているとはいえ 少し複雑だった。そしてすぐ転院できたのは、そのドクターの御人力と、 国立病院からの転院であると云う理由だろう。 力関係とでも云うべきだろうか・・・
病気の全快ではなく病院を出ると云うことは、今まで築いてきたナースや ドクターとの人間関係が、またゼロから始まると云うことだ。 また始まるんだ。また・・・
転院の日、本当は一度母を自宅へ連れて帰りたかった。 だけど私一人の力では、母を抱えることもできずに諦めるしかなかった。 あの日骨折をして入院してから、3年間で母は一度しか帰宅していない。 親戚の男手を借りて、車から自宅へ、自宅から車へと大変な騒ぎだったのだ。 それも初期の頃だから、2年半は経っている。
しばらく「帰りたい、帰りたい」と言って困らせた母も、 もうその言葉を口にしなくなっていた。 だからこそ尚、一度連れて帰りたかった。
そんな気持ちとは裏腹に、転院先の病院から迎えの車が到着した。 お世話になったドクターとナースの方々に頭を下げ、 私も一緒に車に乗り込む。
この病院に入院した時グレイだった母の髪は、とても綺麗な白髪になっていた。 一瞬だけ太陽の光に当たった母の髪は、キラキラ光って綺麗だった。 母が太陽の光を浴びたのは、この瞬間が最後だ。
振り返えると、母の担当をして下さっていたナースの方が 外で手を振ってくれていた。 最後まで「みかちゃん」って呼んだ母を許して下さってありがとう。
沢山の思い出ができた病院だった。 良い思い出も、嫌な思い出も。 好きなドクターも、嫌いなドクターも。 好きなナースも、嫌いなナースも。 いつも売店のおばちゃんが励ましてくれた。 それだけいつも悲壮な顔をしていたのだろう。
そんな全ての思い出を後にして、車は転院先へ向かった。
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