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この「12月の憂鬱」には伏線があって、 今日は「休養」という名の有休中の出来事を書きたいと思います。
自宅療養をして2、3日した頃私はある人に電話をかけた。 昔つきあっていた人。当時は仕事の都合で在京だった。
突然の泣き声の電話にびっくりしたようで それでも長々と話しにつきあってくれた。
そして、「気晴らしに東京まで遊びに来ない?」と提案してくれた。 母がどういうかと心配になったけれど、「あの人のところならいいよ」と快諾。 私は次の日の早朝から飛行機に飛び乗った。
東京は仕事の研修などで何度も訪れていたし、彼が仕事中は ウィンドーショッピングをしたり、舞台を観に行ったりと一人で過ごした。 夜になり彼と落ち合い、美味しい食事をとりながら これまでのことを機関銃のように喋った。
不思議な人だけれど、彼に話しを聞いてもらうととても落ち着く。 それは今でも変わらない。 何度もプロポーズされたのだけど、仕事に情熱を燃やしていた私は 「そのうちねぇ」などとのらりくらり
「結婚しようか」 その時言ったのは、私。 生涯で一度だけした自分からのプロポーズだった。 彼の即答はなかったけれど、なかなか好感触だと思った。
そして次の日、私達はディズニーランドへ遊びに行った。 私にとっては何度か目のディズニーランドだった。 仕事の研修の帰りには必ず立ち寄っていたし、その状況をレポートにして 会社に提出していたりもした。 サービスを学ぶならここ以上の場所はない。
二人で居るのに、私はそんな事ばかり考えた。 楽しむつもりで行ったのに、ちっとも楽しくなんかなかった。
そんな私に気付いてか、彼が帰りのバスで言った。
「結婚は無しにしようね。逃げてこられても幸せにはなれないから」
そう、私は彼に逃げようとしていた。 仕事から逃げ出したのと同じように。
あの時彼と結婚しなくて良かった。 彼が断ってくれたことに感謝している。 今は・・・。
自宅へ戻り、母に事の顛末を告げた。 「そう」とだけ言った母だったが、事はそれだけで納まらなかった。
数日後、彼から自宅に電話があった時、受けたのが母だった。 母は凄い剣幕で彼をなじったらしい。そして、最後に 「もう娘には電話しないで!」と。
母にとっては、私は宝物。 娘のプロポーズを断るなんてと思ったに違いない。
母と私は共依存の関係だった。 母は子離れができずにいたし、私も親離れができていなかった。 私の結婚の条件はずっと、親との同居が一番先の項目だったし 何より母がソレを望んでいたからだ。
だから本来なら彼との結婚は、娘を手放すことになるのだから 断られて喜ぶのかと思ったけれど、そう簡単なものではなかったようだ。 手塩にかけて育てた娘が、今、目の前で泣いている。 自分のしてきた事が否定されたと思ったに違いない。
それでもその後の私の人生を見て、 「あの人と結婚してたらねぇ・・・」と呟く事もしばしばだった。
結局、母は子離れできずにこの世を去った。 それを皆は幸せだと言った。 私が最期まで傍にいたから 最期の最期まで傍にいたから。
そして私も、母が亡くなるまで親離れができなかったのだ。 語弊があるかもしれないが、 3年前の今日が、私自身の人生のスタートだった。
母を送りすぐに迎えたお正月に、 あの彼から突然送られてきた年賀状で、二人は再会することになる。 お互いに別々の人生を歩いて、また巡り逢った。
あの時の彼が、現在の主人である。 母が巡り合わせてくれたのだろうか・・・・。
今日、母の大好きだったイチゴを仏壇に供えた。 あれからもう3年。 私の新しい人生がスタートしてまだ3年。
私達の笑顔を、母は喜んでくれているだろう。
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