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ご承知の方も多いと思うが、先日、夫と喧嘩になった。 喧嘩というより、私が一方的に怒っていたというのが正しい。
私から見れば、夫の行動は不可解で不必要な物だった。 けれど夫にしてみれば、夫なりの責任を全うする為の術であり・・ 同じことで8ヶ月前にも喧嘩をした。 結婚生活1年間で、喧嘩はこの2回だけ。 いつまで経っても二人の意見は平行線のままだった。
話し合おうという夫に、私は耳を貸さなかった。 話し合ったところで、どうせ答えは同じ。 私が私の中でどう決着を付けるかでしかないと思っていたから。
ただ、私がこれだけ不愉快になることについての 謝罪だけは欲しかった。 一言「ごめん」と言って欲しかった。
どこまで夫の行動を妥協できるかを考えた。 私が妥協できるギリギリの線。 私が考えた妥協点は、夫の意志を尊重してはいない。 それは充分解っているのだけど、そこが私のギリギリだった。
それを夫に提案した。 おそらく却下されるであろう妥協点。 そう思いつつの提案だった。
子供が寝静まってから、少しだけ話し合った。 子供というのはとても敏感だ。 勿論子供の前では普通にしているつりだけど、 両親の微妙な雰囲気の違いをすぐに察してしまう。 特に我が家の子供たちは、実父母の離婚を経験しているだけに、 敏感になってしまうようだ。 子供たちの為にも早く解決しなくちゃいけない。 それが夫との話し合いに応じた理由でもある。
夫の返事は以外にも「イエス」であった。 私の提案を全て了承してくれた。 夫にしたら不本意であろう提案を 全て了承し、約束してくれた。
私は、夫のその約束の言葉を信じようと思った。 いや、夫の約束の言葉だからこそ、信じられると思ったのだろう。
できぬ約束は絶対にしない人だ。 夫が約束したことは、何があっても全うされる。 今までの夫がそうであったから、 私は夫を信じていられる。
仮に、もしも、 もしも夫が私の知らないところで、その約束を破ったとしても それはそれでいい。 そうするだけの必要があってのことだろう。
信じるというのはきっとそういうことだろう。
昔、友人の誕生日に送ったカードに書いてあった・・・
『信じるということは 相手への期待ではない
自分への決意なのさ』
ふとそんな言葉を思い出した。
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