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連日の爆撃映像に心を痛めつつも、ふと考えた。
みんな「戦争反対」だと口々に言葉にしているけれど 何かが違う気がする。
遠い場所で、直接的には大きな被害を受けることもなく (原油価格が上がるとか、不況が長引くといった間接的な影響はあるが) 「平和」というキーワードが、一人歩きしている気がしてならない。
いや、実際に自分の身の上が危険に晒されたことなどないから ファッション的思考で「戦争反対」と言っている人もいるはずで、 母の世代のように、戦争を身近に知っている人が口にするソレとは、 言葉の重みが違う気がしてならないのだ。
もしも、もしも、この戦争が私達が住む日本という国から 近くて遠い国、北朝鮮が相手だったら・・・ 皆、今と同じ気持ちで「戦争反対」と言えるのだろうか。
突き付けられた刃が 今にも喉元を掻き切ろうとするその瞬間に 後ろから助けてくれようとしている人に向かって 「暴力は反対だから話し合う」と言えるのか。
それだけの勇気を持ててこそ、口にして良い言葉なのかもしれない。
アメリカでの街頭インタビューで、戦争も止むなしと言っている人を見たとき 彼らの心の中には、『9・11』の記憶が、焼き付けられているんだろうと感じた。
だからと云って、この戦争を肯定もできない。 でも、私に真の勇気があるかと問われれば、それも肯定ができない。
人の命は重い。 それはどの人種も平等。
刃を突き付けた国の住民も 刃を突き付けられた国の住民も 皆、同じ重さの命がある。 それだけは確かなこと。
だから、 刃を突き付ける前に 突き付けられる前に もっとすべきことがある筈だ。 ある筈だった、今回も。
毎日、思考がクルクル変わる。 あの映像こそが悪である。 だけどその悪の中に、なんとか光りを見出したい。
昨日、今日と、この話題を書いてはみたけれど 私は、本当のところ何も分かってはいない。 ということだけが、真実であるようだ。
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