たそがれまで
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2003年03月28日(金) もう一人の母のこと 5




あなた達親子は、なんか不思議だ

そう友に言われたことがある。
「あなた達親子」とは、養母と私、実母と私、
その両方に向けられた代名詞だ。

「不思議」と云う言葉で表現された意味の中には
「変わってる」や、「おかしい」と云うニュアンスもあっただろう。

養母がいて、実母がいて、
その両方とつき合いがあって、
ある時は一人っ子、ある時は四女、
そんな関係が腑に落ちないんだろうと思う。




確かに私は、物心ついた頃には既に養女になっていたけれど
そんなことは全く知らないまま、いつも姉達と遊んでいた。
電車で二駅ほど、逢おうと思えばすぐ逢える場所に住んでいた。

養母もよく連れて行ってくれたし、家では遊び相手がいないので
母のお友達であるおばちゃんちに行くのが大好きだった。
そう、子供の頃の私にとっては、そこは「おばちゃんち」だったのだ。

節目には必ず訪れたおばちゃんち。
七五三のお祝いも、おばちゃんちの玄関前で撮った写真が残ってる。
小学校入学の日も、おばちゃんちの前で笑っている私の笑顔。

今ならわかる、養母は子を育てているという責任感を
おばちゃんちの前で形に残したかったのだ。
いや、実父母にこれだけしていると見せたかったのかもしれない。


亡くなった母の姉から聞いたことがある。
親戚中が、私と実父母、姉妹達とのつき合いを止めさせなさいと
反対したにも関わらず、養母は聞く耳を持たなかったのだと。

確かに、つき合いをさせない方が養父母はずっと楽だったろう。
我が子であって我が子でない子を垣間見る瞬間に、
両親の心に苦痛が伴ったと察する。

だけど、養父母はつき合いをさせ続けてくれたのだ。
それは、私の将来を考えてと云う他ない。

時が来れば、親は先立つものだ。
その時に頼れる姉妹が居るのと居ないのとでは、大きく違う。
それに、もしも、真実を知る日が来た時
心が受けるショックを少しでも軽くしてくれる為に。


実父母も姉妹達も、今思えばいつも、姉妹の一人として接してくれていた。
特に長姉と次姉は、私が養女に貰われた頃には物心がついていたから
初めから真実を知っていたのだ。
それでも何も言わず、だからと云って特別扱いもせず
他の妹と同様に、私には接してくれていた。

だから、私が養女だと知った時に、一番に相談したのは姉だった。
その時点ではまだ、姉妹だとは知らない頃で、
ただ私が「養女」だったことが判明した時だった。

「あんた、本当に今まで知らなかったの?
 私達、姉妹だよ。 
 呑気だなぁ、こんなに顔がそっくりなのに、本当に気がついていなかったんだ。」

そう言って大笑いする姉を見て、私も大笑いするしかなかった。

周りは皆、知っていた。
年子で当時は2才だった三姉も、妹も、皆が知っていた。
おまけに、誰もが私も知っていると思っていたようだ。
そんなのあり?という感じだったが、狐に摘まれたような展開だった。

だけど、そう思えるのは
養父母が痛みを堪えて、つき合いをさせてくれていたからだ。
養女になった理由は、聞く人それぞれに説があり
どれももっともらしく聞こえるし、どれも私を納得させるには不十分だった。
自分の子供を手放す理由、その心境は昔の私にも、今の私にも理解できない。
結局のところ、未だに実母には確かめたこともない。

ただ、当時の実母は1才の姉と、11ヶ月の私に手いっぱいで妹を早産してしまった。
妹が生まれて3ヶ月くらいという約束で、養父母の家に預けられたという。
子供ができなかった養父母夫婦にとって、それはそれは大事件であったらしい。
養母は私につきっきりであれこれと世話をやき、
3ヶ月が過ぎてからも帰したくないと思ったようだ。



いつか実母に問いただす時が来るのだろうか。
訊いたら答えてくれるのだろうか。
だけど今さら、訊いてどうする。
泣いて抗議するとでもいうのか。




この世で切っても切れないものの存在を、教えてくれたのは養父母だ。
だから私は「母」と呼ぶ。
おばちゃんではなく、母である。
それだけじゃないけれど・・・
それがすべてじゃないけれど・・・






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