2007年06月12日(火)  ごまかして 「あとで」はもはや 通じない


ベランダの花の話。

5月いっぱいまで芽を摘みまくって花を我慢したペチュニアとロベリアが咲き出した。ペチュニアは今1輪だけ咲いて、ロベリアは6輪ほど咲いて、2つともとても元気で、ほかに蕾がたくさんついている。単純にうれしい。

植物を育てるのって枯らし魔の私にはとても難しかったんだけど、ちょっと真面目にやるようになった今、やっぱり難しいなあと思う。機械的に芽を摘んだり水や肥料をやったりしてたんじゃダメで、その植物の様子をじっくり見ないといけない。植物も人間と同じで、「●●をやっていればいい」というのはない。私にはまだ植物の心はうまく読めていないらしい。

若い苗で買ってきたのは、ロベリアとペチュニアのほかに、カスミソウとアメリカンブルーとリトルチュチュの全部で5種類(私は小花が好き)なんだが、ロベリアとペチュニアに一日中日の当たる特等席を奪われたほかの3つが、少し元気がなくなってきた。かわいそうなので、日向が移動するたびに、できるだけ移動させている。

種から育てているのが、センニチコウと朝顔とジニアとかいう赤い花の3種類で、そのうち朝顔だけが元気に育っていて、ジニアは芽は出たがそのまま育たず、センニチコウは元気な芽が出たんだが、大きな植木鉢に定植したら、それがショックだったのか立ち枯れしてしまった。センニチコウなんて、すごく丈夫な植物のはずなのに、私って……。


失敗も多いが、かなり楽しい。庭がホシイ。

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まなティは自分のことを「まーてぃ」とどこぞの外人のように呼ぶようになった。ご飯中に私の箸を指して「ママ」、自分のフォークを指して「まーてぃ」と言ったり、鏡の中の自分を指差して「まーてぃ」と言ったりする。「他の人と自分は別人格」という観念を持ち始めたか。

言語発達が加速中で、すでに90語くらいは理解し且つ言える。この前、アンパンを割ってあげたら、「あんこ」と中を指差して言ったのでビビッた。特に教えてないのに、大人が言ってるのを聞いて覚えたんだろう。猫も「にゃんにゃん」と言っていたと思ったら、突然「ねこ」に変わっていた。

理解だけして言えない単語は無数にある。というか、私が言ってることはほとんど理解できる。やっていいかダメかわからないこと(例えばどこかのボタンを押すとか)は、「いいよ?」と言いながら首をかしげて聞いてきたりする。「ダメだよ」というと、「ばっちい」か「いたい」か「あつい」と判断するらしく、そのどれかの単語を発しながら去っていく。もうむやみに何でもかんでも触ったりしなくなった。


そんなまなティなので、もう子供だましなことはできない。例えば、「じゅーじゅ(ジュース)」と言ったときに「あとでね」と言って我慢させ、そのままあげないなんてことはもうできない。しっかり覚えていらっさる。あげるつもりがないなら、ちゃんと「ダメだよ」と言わないといけない。「さっき飲んだでしょ」とか「もうご飯だからね」とか言えばだいたい納得するので、面倒臭がらずに真実を述べるに限る。

仕事に行くときも、今までは昼寝しているすきに出たり(もちろん誰か大人がいます)、ご飯中や何かに夢中になっているすきにこっそり出たりしてたが、その後私を探しまくって泣くようになったので、正々堂々と「仕事に行ってくるね。お昼寝して起きてちょっと遊んでたら帰ってくるよ」などと言って玄関で別れるようにしたら、納得して笑顔でバイバイしその後も機嫌よくいられるようになった。


思うに、子供だろうとなんだろうと人間というものは「納得」すれば安心なんじゃないかと。特になんでも自分で納得しないと前に進めない私の子なのだから尚更だ。その安心感が落ち着きや、人への信頼、外界へ出る自信につながっていくんじゃないかと思う。

それに、私が塾で常日頃感じているのは、幼い頃に安心感を培って初めて、中学生や高校生になったときに、勉強を始めるスタート地点に立てるんじゃないかと。幼い頃に焦って勉強させるより(私がまさにこれ)、安心感を培って落ち着いた人間に育てる方が、あとあと高いところまでいける(相方がこれ)と思う。勉強する基盤を育てるということ。

安心感の中核は、親子の信頼関係だろうから、これからもウソはつかずに、真実を述べるようにしたい。親がウソをつかず首尾一貫した態度(←これ重要)をとって信頼関係をうまく築ければ、だだをこねたり、言うことを聞かなかったりする頻度が減ると思う。


つづく。


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>>「匿名メールフォーム」へのレス

・子供のやる気の無さは、
 いろんなことが複雑に絡み合って起きてるんでしょうなあ。
 一人の教師がなんとかできるレベルじゃないですよね。
 でも、まあ、千里の道も一歩からですからね、
 私のようなちっぽけな教師でも
 少しでも役に立っていると信じるしかありませんね。
 「説教〜」の件はどうでしょうかねぇ。
 説教で人が動かないのはどの時代でも同じだと私は思います。
 もちろん説教が生きてくることはあると思いますが、
 説教はマイナス要素の方が多いのが問題です。
 説教がうまく生きるのは、説教の内容はもちろん、
 タイミングや声色、相手の心理状況、場所、説教する人との関係、
 などなどなどなどなどなどなどなど、
 見えない要素が何重にもかさなりあって起きる奇跡のようなものなので、
 始めから「説教では人は動かせない」と肝に銘じて、
 別の角度から生徒のためになることを考えることに専念した方がいいと思います。
 説教で人が簡単に動くスポコンドラマや学園モノが、
 世の教師に勘違いを起こさせている嫌いがあるかと。
 説教って楽ですからね。当然それで動けば一番楽。
 もちろん、「説教をしない=生徒とドライに接する」という意味ではありません。
 説教しないで、生徒と気持ちでぶつかり合うことはいくらでもできます。

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