ミドルエイジのビジネスマン
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大部長、最近ひとりのメンバーと話をしていて思うところがあった。10月から他社に引き抜かれていった人のことを話題にしていたときのこと、「彼は仕事に自信があったから、何をしても許されていた。」と言う。何をしてもということの中には「何をしないでも」ということも含まれているのだろう。そして、それを指摘した人は「許されていた」のではなく、「実力者の振る舞いを許容せざるを得なかったのではないか」と言いたかったのかもしれない。大部長としては、彼は任せておけば仕事上必要なことはきちんとするので、あれこれ心配するより、預けっぱなしの方がうまくいくと思っていたのだが、人様から見ればまた違うのだと思い知った。
大部長の属する部署は一人ひとりがそれぞれのプロジェクトを担当して、業務を完結する。また、各メンバーは既に中核社員として位置づけられ、基本的には自律的に業務ができるものとして扱われている。だが、現実には要求される知識の量は多く、経験の幅は広いため、何年経ってもこれで十分ということはない。チーム全体の業務水準を維持し、さらにアップするためには、各自の遭遇した事例をケーススタディとして共有したり、あるいは制度改正によって新たな対応が必要になったときには知識を分業の形で吸収、消化しなければならない。このような、部全体でナレッジを共有しようという試みに対して彼は消極的であった。なぜか。会社が彼の知識、経験、業務ノウハウを正当に評価してそれに値する報酬を支払っていないと感じていたのではないか。彼は「どうせ勉強会をやるなら業務として行うべきで、発表テーマを与えてくれればきちんと報告する」と言っていた。「部内研究会」と称して形としては自発的に、だが現実には一方的に知的財産を供出させられることに抵抗していたのではなかろうか。また、積極的に手を挙げて良い子ぶりっ子をすることにも反発があったかもしれない。それでは、と上半期発表者とテーマを指示して公平にやろうかと思っていたが、後から後から押し寄せてくる仕事に忙殺されて(と、その時点では思っていた)結局、定期的に「部内研究会」を実施することはできなかった。 もう彼は会社から去っていった。新しい高層オフィスの窓から当社の方を見ながら、「大部長と称していても、何をテーマに研究しろと指示することさえ、できなかったではないか」と呟いているだろうか。
実際、評価と報酬は彼が期待するような明確な形では行われていない。だが、他のメンバーも全てが明確な報酬を求めているかどうかは分らない。 当部においては、なべて同僚は馬車馬のように働いているのであるが、ある者は同期の何百人かと伍していくには当然のことと思っているかもしれないし、ある者は求められている業務の質を追求すれば必然的にこうなってしまうと思っているかもしれない。また、業務に余裕のあるときには、純粋に知的好奇心の満足のために研究しているだろう。ごく稀に、誉められることの少ない私たちがお客様から直接感謝の言葉をいただき、この瞬間のために今まで一生懸命やってきたのだと心密かにガッツポーズをすることもある。
彼がいなくなって、おそらく「部内研究会」に無言の抵抗を示す人はなくなるだろう。だが、実態が彼の指摘するそのままであったなら、その矛盾はいつかまた別の彼が指摘することになるに違いない。大部長は、当部の本質は何本のプロジェクトをこなしたかではなく、どれほど上質の仕事をしたかであることだと確信を持っている。その意味では、忙しすぎるという状態はただそれだけでも危機的状況だ。それでも、私たちは当面その状況を乗り越えなくてはならない。自分が研究し、報告することで他のメンバーに何らかの示唆を与え、同僚の発表を聞くことで自らの未知の地平を切り開く。その好循環のうちに当部の業務の水準が上がり、実は当社のプレステージを高めていく。各メンバーが相互の啓発が自らの価値を高めるに役立つと実感するなら、「部内研究会」も継続されるだろう。
現状、確かに当部の業務は正当に評価されているとは言えない。忙しすぎて、しかも高い評価を受けていないのだとしても、下期、大部長はなんとかして好循環のエンジンを始動させたいと思っている。私たち自身の精進と研鑽により自分自身の価値を高め、将来、ある者は堂々と出世し、ある者は高い報酬でヘッドハンティングされ、またある者は異動先の業務に生かしていけばいい。
願わくば、多数のメンバーがこの趣旨に賛同して積極的に部内研究会を活用し、大部長がオフィスの席で心安らかに左団扇のコーヒーを楽しめるようご協力願いたい。なに?偉そうに言ってないで、お前も芸をして見せろって?ウヘッ。
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