朝顔がまだ咲いている。こう言うとおかしくきこえるでしょうか。 通りを歩きながら家の前などに置かれている朝顔の鉢を見るとついそう思ってしまいます。実は今を盛りに花はたくさん咲いているのですが。
朝顔が夏の花だというイメージが強すぎて、9月に入るともう枯れ始める、と思ってしまっているのでしょう。 奈良時代には桔梗のかわりに「秋の七草」に選ばれているくらいだから、朝顔は少なくとも「夏だけの花」ではないようです。
うちの近所も朝顔を育てている家が多く、早朝の散歩の際に目を楽しませてくれています。それを思いながら「朝顔の夢」という詩を書きました。
てもとに井坂洋子さんの詩集があります。 このなかの「始動の水」というエッセイを読みました。まさに詩人の覚書とでも言うべき内容なのですが、そのなかに
現実は起伏に満ち満ちていて、そのディテールを観察すれば、自分の両手ではない第三の手が私をひょいと向こうへ押し出そうとしているのがわかる。 その第三の手の働きが言葉の世界にもあるようなのである。
という部分があります。「自分の」ではないゆえに、時として第三の手は「わたし」をすら追放しようとするでしょう。 何も自分に都合の良い事ばかりは起きません。だけども「生かされている」あるいは「詩のことばがやってくる」と思えれば。つまり何が起きても「第三の手」を信頼していれば、人生を途中で捨てる事も、執着する事もなくなるのかな、と思います。
「朝顔の世話を続けるひと」という姿をじっと見ていたら、その前に立つ仄かな姿が見えたのでした。
(エッセイの引用は「井坂洋子詩集」・思潮社・によります。)
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