毎朝、トマトの熟れたものを3つぐらい獲りいれて朝食で食べてます。 「通い」の猫たちも物干しでくつろいでいて、近所のボス猫、通称「トトログロ」がくると隠れてやり過ごしたりしています。家の中の猫たちもころんころんと遊んだり寝そべったり。犬たちも10歳を迎えてすっかりデンとかまえるようになりました。
毎日、空と緑と街と人を見て過ごし、「東京大学物語」(江川達也)みたいに、意識の高速回転から言葉がこぼれたり。いつまでも忘れられない風景(シーン)がアタマに焼きつけられたり。 あの漫画には「○○秒」という書き込みがあったけれど、ほんとうに言葉を意識して、浮かび上がるのはコンマ数秒の単位じゃないでしょうか。
そして高速回転して出てきた言葉は、とにかく書くなりして、さらに意識化する事が大事だと思うようになりました。「出してしまう」という事。作品として発表はしなくても、外在化してストックした方がいい。悲しいかな人は忘れてしまうから。あるいは変形させて腐らせる事もあるし。
で、高速回転というのは止めると、とたんに錆びついていくんじゃないかという恐怖感もあります。一方、意識をきゅるきゅるとまわし続けていると、小池真理子さんのようなこともあります。
あっというまに「恋」(小池真理子)を読破した文庫本主義者とそんな話をしました。 「恋」は天啓のように閃いた小説だと後書きにあったそうです。書きながら進めていくというのではなくて、最初から終わりまですとーーんと見渡せてしまったのだと。これこそ「意識の高速回転のプロ」の為せる技じゃないでしょうか。
あるいは日ごろからそれを繰り返していたからこそ、おきたものかも。 ぼくには書く前にそれがあるのと、書きながらそれがおきていくのと二通りがあるような気もするんですが。「それ」とは「意識の高速回転」です。
それはさておき、小池さんはそれで食べていけるのなら、短篇ばかりを書きたいそうです。じゃ、それを読みましょう、ということになりました。手元にないので奴は先にエッセイを読んでいます。保坂さんは「季節の記憶」から読み始めていくとのこと。(「猫に時間の流れる」は二人とも読み終えてます。)
で、ぼくの「江國読書計画」は「こうばしい日々」を読了。この文庫に収録されている「綿菓子」のようなやり方には、とても興味があります。掌編を繋いでできあがる短篇のような。 素晴らしい詩を読んでいるような気になる、そんな数行がちりばめられている江國さんの小説、いいですね。
なんだか超掌編あるいは散文を書くことがふえてます。 詩ももちろん書きます。 「意識の高速回転」を意識する事はもちろんですが。
日々新たなり、でありますな。
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