婦人公論の9/22号が発売前に編集部から届いた。 届くということは入選した、ということなので嬉しくなって本誌を読むと、今までにない評を井坂洋子さんからいただいていて、ますます嬉しくなった。
ところで詩はどういうときな生まれるのか。 方法はいくつもあるけれど、詩的直感が閃かなければ、どんな方法もスキルも意味をなさず、何も生まれない。
ぼくの場合は、そういうときは呼吸数が少なくなり、脈も体温も落ちる。 何度も何度も詩に向き合い、書いてきた経験則からいうとそういう肉体的な変化が起きる。 とてつもなく小さな存在になり、空気の中に融けこんでしまう手前のような感覚になる。衰弱しきるような感覚だろうか。
ここのところ連載小説に心を砕いてきていて詩を書いていなかった。この日記で以前「発心して書き上げて投稿しました」と書いた詩が本作だ。 雨の日、ふらふらと歩くハナに寄り添ってふらふらと歩いているときに実は「詩的直感」が閃いた。
古い寺の山門をくぐりながら、この感覚は詩以外は無理だ、と思って帰ってから急いで書き付けたのだった。
さて、それなら逆はあるのだろうか。 呼吸数を減らし、ひたすら脱力し、じっとしていると…。 確かにそれで見えてくるものはある。浮かんでくる言葉が。
それを潰し、棄てて何日か。それでもまた同じ言葉が浮かんできたらまた潰す。それでもまた消えないのならそこから一生懸命作品にしようと集中する。言葉を生きようとする。
これを繰り返していたら小説を書いている時間がなくなる。 ぼくが最優先にしているのは「おとなのコラム」の小説なのだし。 これは困る。
ただ、今日のように地元の神社のフリーマーケットにいた近所のおばさんから「あなたの詩、久しぶりにスーパーの本屋さんで読んだよ。また書いてね」といわれると、詩を書かないわけにはいかない、と気を引き締めるのです。
婦人公論、大きな書店では今日。全国的には明日発売です。
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