2009年09月12日(土) |
「内向き」ということ |
昨日は久しぶりに祇園の「ごまや」へゆき、詰め替え用と練り胡麻を購入。祇園は相変わらずの祇園だったのだけれど、帰り道の河原町の汚さに唖然としました。これが観光都市でいちばん賑やかな通りだとしたら情けない。 御池通、四条通、三条通、木屋町、京都駅前…たいてい綺麗になっているんだけどなあ。
女性の映画監督の記事を二つ読みました。 ひとつは糸井さんの「ほぼ日」で西川美和さん。もう一つは週刊現代で河瀬直美さん。 おもしろかったのは、西川さんはシナリオを作り上げていく初動のところで、キメのシーン(たとえばエンディングだとか)を描くところから始めている様子だったところ。河瀬さんで興味深かったことは、シーンのそれぞれに音楽が貼り付いていそうな気配がしたこと。 これは小説や詩の制作に繋がる部分があります。
もうひとつ河瀬さんの語っておられたことで、思わず考え込んだのは、彼女が専門学校で映画制作を学んでおられたときに先生が彼女に語ったこと。 曰く。 「作品のベクトルが内へ、内へ向いているうちは、自分のプライベートな日記にすぎない」
これはとても大切なことだと思うし、とらえ方を間違えてはいけない言葉だと思ったのです。
あくまで「作品のベクトル」であって、それを獲得するために制作者は自らの内へ、内へと降りていく作業をするということ、です。 少なくともぼくはそう思います。
世界へ、歴史へ、なにより他者へと繋がっていく、そのために。
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