2009年09月13日(日) |
「これは物語なの、と思うことにして…」江國姉妹と雨宮さんの対談 |
フジテレビ系で毎週日曜日、午前7時から7時半に放送される「ボクらの時代」をよく観ます。この番組は同時代を生きる気のおけない友人が、だいたい「トリオ」の単位で語りあう番組。
これまでもほぼ同じ歳の香川照之、小泉今日子、本木雅弘という素敵な三人のトークがあったりしました。
今日のはずっと楽しみにしていた三人。江國香織(姉)、江國晴子(妹)、雨宮塔子(妹の高校の同級生)。 江國香織ファンとしては肉声が聴ける貴重なチャンスです。 江國姉妹の往復書簡は某誌で(ku:nelだったかな)読んでいたけれど、姉妹のツーショットというのは初めて拝見しました。
雨宮さんは、晴子さんの高校・大学と同級生で、さらに雨宮さんのお父さんは江國姉妹のお父さん、江國滋氏の担当編集者だったとか。縁が深いのです。
晴子さんは現役の編集者。雨宮さんはアナウンサー退職後、パリ在住で西洋美術史の研究をしておられます。ぼくは雨宮さんのマティスを取材した記事を読んだことがあります。 香織さんは言わずと知れた我らが小説家・詩人でありますね。
トーク・セッションの場は東京・西麻布の壁が全部本棚というバー(?)のような場所。 三人はそれぞれ飲み物を手に語ること、語ること。いちばんしゃべっていたのは香織氏。
さて内容は、幼少の頃の話(姉に厳しかった江國父のこと、例えば着るものは白、紺、グレーに限るとか)、結婚の話(夫婦間の愛情とか)など。
晴子、雨宮両氏はしっかりとしていて、穏やかな印象なのだけれど、香織氏はどうみても「突き抜けてる」ところが目立ってしまいます。
印象に残っている話は、江國父の「物事に執着しない」という主義が娘たちにも徹底されていたこと。 例えば「犬を飼う」ということに関しても、犬が死んでも「独身女のヒステリー」のように悲しまない、という条件がつくように。
その「モノに執着しない」ということが作家・江國香織のなかにもしっかり繋がっているように思えたのでした。例えば登場人物の性格にさえも。
そのクールさ、というか物事を客観視する生活の「癖」が生き方にも物語づくりにも大きな影響を与えているように思えたのでした。 例えば香織氏は夫と諍いがあつたとしても「これは物語なんだ」と思うことで、事態を時とともに過ごしていくといいます。そんな「生き方」。
実は同時刻に、ぼく以上に江國香織ファンである「文庫本主義者」も同番組を観ていて、わざわざ電話をかけてきたのです。 曰く 「私と一緒なの。江國さんのあの感覚とてもよくわかるの」と。 彼女の場合だと。幼い頃、両親が大げんかをしていてとても不安になったとき「これは物語なんだ。わたしは物語をの中にいるんだ」と思うことで、なんとか心のバランスをとったというのです。
物語だから紆余曲折ののち必ずちゃんと「結末」がある、と。そう思えば辛い今を耐えられる、と。 そしてそれは「物語」だから「経験」となるし…、と。
その話を聞いていて、以前、婦人公論で江國香織、川上弘美、山田詠美の三人の座談会で江國さんが「いつでもこれは小説に書かなきゃ、と思うことがある」と語っていたことが、今日聞いた「『これは物語なんだ』と思うことで、生きいく」ということがぼくのなかで重なりました。 ひょっしたら江國香織さんは「切実なまでに書くことが生きていくこと」なのでは、と思えたのです。
さてトーク・セッションでは雨宮さんがワイン(たぶん)、晴子さんがジンライム(たぶん)、香織さんがビール(やはり)で盛り上がるのでした。 ところで香織さんは「猫毛」ですねえ。くしゃくしゃのシャツも雰囲気にあっていて、まるで親しい友達の家で寛いでいる様子なのでした。
画像は週刊現代に連載している「真昼なのに昏い部屋」の切り抜き。クリアファイルが一冊終わりました。次週から二冊目に入ります。 物語は旦那さんが奥さんの不倫を疑い怒る…奥さま外泊す、というところにさしかかっております。さてどうなるのかっ!
MIXIだともう少し大きい画像になります。
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