28日に、太陽で14年ぶりの大爆発が起きた。 大きなフレアが舞いあがり、大量の荷電微粒子が太陽系に放射され、今、地球は磁気嵐のまっただなかにいる。
磁気が電気製品やICなどに与える影響は微々たるものであると言う。まれに、なにか不具合が発生するかも、というレベルらしい。
微粒子は眼に見えないけれど、太陽から物凄い量が飛散しているから、低緯度でのオーロラとして見ることができる。
とうとう今日の午前4時に京都の大江山でオーロラが観測された。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031031-00000059-kyt-l26
大江山は京都市から北西へ、京都府の丹波地方にある。 極地のような磁気が地球全体に降りてきている。 これが人々にどう影響するのか、誰にもわからない。 14年前?1989年?何か起きただろうか。
ところで、ここのところの異様な気象などから、地球規模で何かが起きそうだという話が特にミュージシャンなどの間から起きている。 感覚だけのものなのだけれど、彼らの感覚は鋭いから。
気の早い人は「とうとうASCENSION(昇天)の時が来た」という人もいる。ほんとかどうかはわからない。
そして今回の大爆発。大きな黒点が二つ現れた事。消えないアメリカの山火事など。気になることが多い。 ところで、以前ここで実はアメリカではずっと干ばつが続いていると書いたことを覚えておられるだろうか。 あれからもアメリカはずっと干ばつが続いている。ぼくの日記より前からだから数年連続の干ばつなのだ。 今、ちょうど山火事の起きているカリフォルニアの西のあたりから高気圧が動かないのだ。
もうひとつはイギリスと西ヨーロッパで、ここにはずっと涼しい高気圧がフランス西部の海岸を中心に張り出して、大西洋を渡ってくるカリブからの風をシャットアウトしていた。ところがこの高気圧が数年前に消えてしまい、カリブからの風がイギリスおよび西ヨーロッパに流れこみ始めたのだ。 その結果、冬がとても暖かくなった。そして、経験したことのないハリケーンのような暴風雨がやってくるようにもなったのだ。
確かに何かが変わろうとしている。 空を見上げてもそうだけれど、足もとからなにかが確実に変わろうとしていないか。
翻って、日本。自殺者が年間約三万人。人口あたりの率に直すと世界でダントツだ。 これが戦争でなくてなんだろう。 昨日、夜の散歩の同伴をしたある管理職のかたから、人間不信に陥ったと、信じられないような人間の話を聴いた。 エゴイストたちは究極に向かっている。そうではないひとたちもやはり、結びつきつつある。まるで二極化が激しく進んでいるかのようだ。
白人たちに追われたネイティブアメリカンの予言に「この大地は必ず我々の元に帰ってくる」というものがあったと思う。 大地が精霊たちのものになる日がやがてやってくるのだろうか。 日本の精霊たちも静かに動き出しているのかもしれない。
鬼伝説の大江山でオーロラが見えたのだから。
ここのところレヴューを書いていました。 自分の受けた感触を言葉に残す作業をしておきたかったんです。 ずいぶん推敲も不充分なうちに出したのもありますが、流れを切りたくなかったので。ざっと出していきました。 実は書こうと思えばいくらでもあるんですが、とりあえずここでストップ。 自分の作品にエネルギーを注ぎ込んでいきます。
ゴザンスの800字は書いたので、ブログのリルウィンの続きを、と思ったんですが、夕方の散歩で「詩」がきてしまいました。 いつ出てくるかわからないんですよね。ほとんど「衝動」のようにでてきます。
「詩を書くぞ」と決めて、ぐーっと入って書く、というのももちろんあります。それとは別に突然、来る事があるんです。詩を書き出してからずっとあります。
これはなんなのかな、と昔はよく思っていたんですけれど、わからないままでいいと思うようになりました。 浮かんでくる元の闇のようなものを信じる、と決めたのです。
闇はフレシキブルで、こちらの振舞いにあったものを浮かび上がらせてきます。 だから実は言葉を選んでいるのは無意識の自分なのかも知れないんですけれど。
今回も光の絡みの言葉です。人も出てきます。 ぼくは去年、よっぽどふかく「光」を念じてしまったのかもしれません。 いまだに「光」のことを書こうとする、というか選んでいるんです。
と、いうことで今から言葉を格納する作業をしようと思います。 夜はずいぶん寒くなってきました。 京都には今日、鴨川にユリカモメが飛来しましたよ。
いよいよ冬です。
昨日書き終わって、2時間後に雷雨が来た。短くて激しい雨。 朝、外はまだ濡れていて、抜けるような青空が光を素通しにしていた。
また夜にここに帰ってきた。 夜の濡れた道路はとてもグラマラスにみえる。 街灯の光が道いっぱいに粉々に散っている。
your love your love sealが、まるで冬の夜空に歌うように何度も声を響かせている。
とにかくこのSEALのアルバムは素晴らしい。聴けば聴くほど良くなってくる。 声と音楽は空を飛べる。ほんとうにそうだとわからせるアルバムだ。
透きとおった闇のような声。 heavenly…trust in me
ぼくらは空の階段を歩いていた。信じさえすればいい。 血と力。愛だけがすべてを可能にする。 Heavenly…Can‘t you see
これは対訳ではなくて、歌詞と湧きあがる言葉を同時に書いている状態。このアルバムには歌詞カードも対訳もない。制作側の意図としてない。ぼくは耳を澄ましてこの柔らかな深い声につかまりつづけていく。
まるで天使がLAに別れを告げるような曲。 Tinsel Town…これはLAの別名だ。ティンセルとはクリスマスツリーに飾るシルヴァーの飾りのこと。 LAの夜景は、まさにそのように見えるという。もちろん空から…。あるいは山から。
”ぼくは太陽からいちばん離れた もっとも寂しい星 何故ならぼくが自由だからだ”
このLonliest Starという祈り。 力強いHeavenly。 この二曲ばかり聞いている。
夜になっても妙に暖かい。 コンビニの灯りに背中を光らせてミニサイクルで走っていく子供はTシャツ姿だ。 まるで夏の終わりのような、24時間カフェのパーキングに、改造ワンボックスがぎらついて停まっている。
夜空には斜めにぼんやりと白い雲の帯が走り、そこから闇のなかに溶け出している。たぶん雨だ。 夜中に降るだろう。
北西の方を仰いで見ると、もうそこには黒くうずくまった寒気の頭が見えそうだ。 ハーレーの1300が駆けていく。ヤマハの、カワサキのバイクがいく。みんなアメリカンスタイル。ジーンズの上にチェックのシャツを羽織っただけで、光る胸で夜を切っていく。 雷まで、たぶんあと2時間。みんなどこまで走るのだろう。
昔、ミッドナイト・スペシャルという真っ黒なバイクがあった。いたってノーマルなバイク。だけどパワーは強烈。シェイプされた身体じゃないと似合わない。 それを操る女の子がいたんだ。いつもハンドルに赤いバンダナを巻いていて、黒い革のツナギを着てた。
ぼくは19歳のころサパークラブでバイトをしていた。ソウルも大好きだったしね。友達に誘われて。けっこうヨコハマから有名な人もきて演奏してた店。 あるとき、沖縄のバンドが来ていてね。ドラムの子の彼女も沖縄から京都に来ていたんだ。その子はバンドが沖縄に帰っても京都に残ってた。この街が気に入ったんだね。 気が強くて、あまり水商売にあわないみたいだねっていってたら、トラックの運転手になった。そのほうがあってるっていってね。沖縄で走ってたんだって。免許、持ってるんだもの驚いた。実はそれでドラマーを食わしてやっていたんだ。
その子の横にのって福井県の武生まで糸を運んだことがある。糸といっても一つ1トンはある塊だ。それを4つ載せて、琵琶湖の横を北上した。しばらく走ってると前の10トンが蛇行運転するんだ。居眠りかいって聞いたら、違う。ああやって後ろを確認しているんだって。大きいトラックはミラーだけじゃわからないんだ、と。 一回だけ手伝ったのかな、その仕事。
しばらくしてロードレーサーで北大路を走ってたら、真横にミッドナイトスペシャルがすーっと近づいてきたんだ。 黒い革のつなぎ、黒のフルフェイス、黒のグローブ。フルフェイスにもシールが貼ってあったけれど、そのメットから出ていた髪が彼女だった。 あ、と思ったらシールドを少し上げてにこっと笑った。口だけが見えた。そして指を二本立てて敬礼すると風より速く消えていった。
赤いバンダナをハンドルに巻いたミッドナイト・スペシャル。 あれから一度もあってない。
トラックに揺られた夜も京都は生暖かだったけど、琵琶湖の北の峠の上では土砂降りだった。 西大路をバイクが北へ走っていく。 雷まであと少し。
鉄の馬たち。今日はもう脚を休めた方がいいよ。
京都もようやく紅葉が始まりました。 市内はまだまだですけれど、山深く入った常照皇寺では色づき始めています。 うちの周りではイチョウが黄色に変わり、銀杏が道に散らばっています。 桂も葉が黄色に変わるのが早いので、要注意。去年は梨木神社の桂はほとんど散ってから見に行きましたから。
10月も後半、だけど夕顔はまだ咲いています。ところによっては朝顔も。 四季咲きの薔薇は今が盛り。うちのハイブリッドたちもどんどん咲いてます。 今年は裏口にコスモスを鉢に植えました。これがご近所でわりと評判が良いです。 たくさん花がつきました。
ブロッコリーがいよいよブロッコリーらしくなってきました。といってもこんなふうになるの、という育ち方にびっくり。画像もアップしたいです。
あとはトマトがまだ獲れること。プランターで初めて栽培したんですけど、こんなにもつんですか?気候が暖かい証拠かな。
書くことは、ゴザンスの課題が終わったら、ブログにフォーカスします。 それと、詩と。
「海より遠く」/ウォン・ウィンツァンさんのレヴューは、ウォンさんのサイトのレヴューページの立ち上げが遅れるようなので、それまでは原稿を持ったまま待機状態。 ページがなくなってもサイトにはアップします。
そういえば、アメリカハナミズキの葉も赤くなりだしています。 外猫たちも冬に備えて食べること食べること。 みんな元気でいこうぜ!
| 2003年10月26日(日) |
1日中書きつづけ…。 |
こんなに天気がいい日なのに、ずっとなにやら書きつづけていました。 ゴザンスの800字の構想からアップまで。それとほんとはここに書こうと思って用意した原稿。それからウォン・ウィンツァンさんの「海より遠く」のレヴュー。 で、最後にここに戻ってきました。ブログの方にも書かないといけないんですが、なかなか書けないで、話がアタマの中でぐるぐる旋回しています。
800字は女の子が主人公です。その事を書こうと思って、800字の前にさらさらメモみたいに書いた記事があるんです。どうしようかな。 うーん、やはりボツにしないで出してしまおう…。Just be a womanというタイトルなんです。ちょっとコピーしてきて貼りつけますね。少し待ってて下さい。
はいっ、午前中に書いた記事です。 ↓
Just be a woman
ぼくがボブ・ディランの「just like a woman」を聴いたのは いつだったろうか。単純なフェミニンな歌じゃない。女性的な感性を持たなければ人生は、あるいは世界は壊れてしまう。それぐらいのアイロニカルな危機感を歌の背後に感じた歌だった。 その歌が日本のシンガーに与えた影響も深い。いちばん端的なのは加川良の「女の腐ったやつで結構です」というフレーズかな。
女性的な感性ってなんだろう、と考えたところで男だから100%わかるなんてありえない。ありえないけれど女の子の詩を書けば「その女の子」のことはすぐにわかる。「降りていけば」女性の自分に出会えるから。 実はこれは松本隆さんのお話から教えてもらったこと。 「はつぴいえんど」でぼくを夢中にせた詩人の彼が、松田聖子の詞をはじめ、女性歌手の詞をつぎつぎと発表し、女性の圧倒的な支持を受けた。アイドルのファンで、そこから松本さんの詞にひかれた人もいるだろう。だけど、ここで松本隆という詩人を読まなくなった人たちも多い。
ファンになった人と、去った人と。だけど言う事は同じだった。 「何故、あんなに女の子の事がわかる詞がかけるんですか」 (何故、あんな女の詞がかけるんだ) 今になってはっきりわかる。ロックファンで( )の台詞を吐いた人は、少なくともアクエリアス・エイジになるチャンスを捨てたんだ。ボブ・ディランの歌を全然わかっていなかったとも言える。彼がプロだから書けたんだ、というのは二次的なもので、あそこまでの支持を得られたということは、とこまで深く自分の中に降りていったかを感じるべきなんだと思う。
(そう、基本的にぼくも松本さんと同じ考えで、瞑想しながら人間の心理というか心の根っこにまで行けば、性差は消えます。一人の人格のなかに女性性と男性は両方ともあるものだと考えています。実際に自分で創作するときには登場する女の子にならなければ書けないですからね。で、なれるんです。)
確かにプロの作詞家なら女性歌手の歌は書けるだろうけれど、それは観察とディテールによる外側からのアプローチを感じるものが多い。「内側」から響いてこないというか。
ずっとゴザンスの記事を書いてきて気がついた事がある。 800字、題の言葉三つを必ず入れる、という課題があるのだが、例えば「おとうさん」「おかあさん」となることがある。「父」「母」ではなく。 言葉は厳密に指定されているから「おとうさん」を「父」と言い変えてはいけない。 すると「おとうさん」という言葉を発する「男」というのが自由に想定しずらくなる。女性の場合はどんな年齢でもどんな職業でも自由にできる。 だから逆に言うと「男」を主人公にした方が設定も絞りやすい。そのぶんつまらない。なんだ、男って狭いなあと思う。
中年男性に「おとうさん」という台詞を吐かせて見せたりするのもいいんだろうけれど。ぼくは女性を主人公がすることのほうが抵抗がない。
「just be a woman」これはレニー・クラヴィッツの曲。 「女のように」じゃないものね「女でいて」だもの。だけど注意して欲しいのは、この歌は、自分がどうあれば良いのか悩む、女性の恋人に対して歌ったものだということ。 「男性優位」の振り子が戻ってきて、さらに逆にふれ過ぎた時代さえもう終わったということ。すくなくとも世界の多くでは。(日本ではまだ疑問符がつくけど)
スピリチュアルである事、フェミニンであることはもう、あたりまえの時代になったんだと思う。
というような記事を書いてから、800字へ向かったのでした。ゴザンスで読めます。タイトルは「アイロン」です。
| 2003年10月25日(土) |
朝を歩き 夜に抱かれて |
昨日からSEALを聴きっぱなしです。 昼前にウォン・ウィンツァンさんの新譜が届いたので、少し一服。 これもいいですよ。静かで確かな音です。
昼からは、ある「御手伝い」。骨髄性白血病で入院しているおばあさんに、1日だけ外出許可が下りたので、そのかたのためのベッドやら蒲団の準備、御風呂の準備、食事の手伝いなどとフル回転でした。
ぼくの知っているかたのお母さんなのです。姉妹二人だけでは大変で、やはり男の手も必要なんだな、と実感しました。 久しぶりにお会いしたんです。元気そうでよかったです。
御風呂も食事もとてもよかったみたい。全身の血量が減少気味だったので夕方に慌しく、だけど、ご機嫌で病院に戻っていきました。
だから、今日は昼から猫や犬はほったらかし。夕方から元に戻しています。 夜になってゴザンスの新しい課題の作品のメモをまとめてました。音楽はやっぱりSEAL。聴けば聴くほどよくなっていくんですよね。
哀感の漂う曲にはもう完全にはまってしまってます。 今回のゴザンスの「ことばあそび」の作品は、SEALを流しっぱなしにして書いた作品です。
今晩中になんとかアップしたいと思ってます。 御題はアタマの言葉が「くだものみたいなくちびるに」。 「る」は一度「瑠璃色」という言葉を使っているので、あたまをひねりました。 できるだけ同じ言葉を使わないようにしようと思っているので。
また、ゴザンスの文滴堂のページででもご覧ください。 さてと、またSEALを聴くんだろうな…。
ではまた。
とうとうSEALの4枚目のアルバムを聴きました。「SEAL �検廖� なんと5年ぶりのアルバム。5年前なんてサイトも持ってなかったな…。
期待はしてたけど期待以上。いいです。 あんまりここで書いてしまうと、レヴューに書く事がなくなってしまうんで、とにかくいい、としておきましょうか。ジャケットもかっこいいですよ。
SEALを知らない人のためにパーソネルを少々。
1963年2月19日、ブラジル人の父とナイジェリア人の母との間にロンドンで生まれる。寡作で、ソロデヴュー以来13年で4枚。 顔に深い傷のある、大きな輝く瞳をもつ「ヴォーカリスト」。
たとえばSADEを「ソウル」で括りきれないように、このSEALも「ソウル」では括りきれないほどの大きさと個性を兼ね備えています。 「ポップ」であり「ソウル」であり「ファンク」であり、ロックやレゲェの要素もある。もちろんクラブでもいけます。
とにかくね、曲が良いんです。わりと魅惑のハスキーヴォイスがいいといわれるけれど、この人のいいところはなんといっても曲づくり。本人もインタヴューで曲がすべてだ、といってます。
今回のアルバムはなにかふっきれたようにポジティブで、しかもマイナーな雰囲気の曲が漆黒の闇じゃなくて群青色の空をイメージさせます。スペイシーですらある。 うん、かなり高度は高いです。で、「強い」。
どの曲も、もう一度聴きたくなる魅力に溢れています。コンセプトを投げ捨てるということがこれほど自由なアルバムを作らせるとは…。 コンセプテュアルなやり方が出尽くして、表現の枠に窮屈さを感じたなら、「いい曲だけを」という考え方で良いのかもしれない。
ジャヒーム、ジョー、マクスウェル、デイアンジェロ、……だいぶ音は違うけれどSEALのいろんな音楽をミックスした個性と感覚も大好きです。 もちろん古きソウルミュージックにリスペクトを捧げた曲もあります。もうそれなんか、のりのり。
さっきから腰を動かしながら打ってるから、文章おかしいかも。 え?いつもおかしい。 はは、今日はこんな音楽聴けて幸せです。ほんと踊りたいぐらい。
Yeah!!
詳しくは後日、サイトにレヴューを載せますね。
| 2003年10月23日(木) |
養老さんのカンバセイション |
急に、一気に寒くなりました。 日本シリーズで投げているピッチャーの指はみんな凍えているみたいでした。
さて昨日に続いて京都新聞から。 ベストセラー「バカの壁」の著者、養老孟司さんのお話が面白かったです。 (養老さんの本は「唯脳論」からわりと追っかけて読んできたほうです。) 「バカの壁」「養老孟司の<逆さメガネ>」2冊で190万部売れた理由をご自身で説明しておられるんです。
ちなみに養老さんは東大名誉教授。解剖学者です。 で、その理由。 「語り下ろしの文体が良かった」と。
「バカの壁」は、著者が語り編集者がまとめた。 「逆さメガネ」は、語るように書いた。 つまり、新しい言文一致に挑んだというのです。 たしかに両著ともとてもよみやすく、ぼくの周りの人も「難しいかと思ったけどすらすら読めた」という人が多いです。
『携帯電話で誰もがメールを交換する一億総作文時代。おしゃべりしているような日本語でないと、読まれない。新聞の文章も。ぼくらが明治の樋口一葉を読むようなもの』とバッサリ。
そこで思い出したのが保坂和志さんの著書の後書きを養老さんが書いておられた事。 あ、カンバセイションだ!!と思った次第です。 カンバセイションとは「会話」という意味だから。
養老さんがいう「新しい日本語」というのは、確かにネットや、もっと凄い数のレベルではケータイで交わされる言葉。 解剖学では必須のものの見方。つまり、「ものそのものを直視する」という、実はあたりまえのようでみんなそうは見ていない「見方」を徹底する必要があるんじゃないか。そんなふうに思ったわけです。
そうしないと前に進めない。という意味で。 「言文一致」というのは今に始まったことでは無いけれど、今の言葉でなされているかどうか。モノカキはそれこそ「現実を直視する」必要があるのかもしれません。
もちろん売れるとか売れないとかの前に。
昨日の京都新聞夕刊に花園大学教授・安永祖堂さんの連載「禅ぜんZEN」が載ってました。それが面白かったので紹介しましょう。 ちなみに花園大学と言うのは禅の大きな宗派である妙心寺派のつくった学校法人です。 タイトルは「空と無」。仏教でよく使われる「すべては空である」あるいは「すべては空しい」という言葉をめぐっての論考です。
話は意外にもキリスト教から始まります。旧約聖書に「コヘレトの言葉」という章があります。これに興味を持って聖書を読み出す人も多いそうですね。ちなみに、カソリック教会での結婚式で必ず朗読されるのが「コリント人への手紙」。かくいうぼくも、友人の結婚式でクリスチャンでは無いにもかかわらず朗読を任されて、教会で声を張り上げたことがあります。
この「コリント人への手紙」は最初から最後まで「愛」について書かれた手紙で、「愛」という言葉がこれでもかというほど登場します。これはこれで読んでいて凄いなァと思いましたが…。 それに対してエルサレムに住む名も無き老賢者が書いたという「コレヘトの言葉」は、「空しい」という言葉が38回出てきます。 旧約聖書に「空しい」という言葉は73回出てくるそうなので、半分以上はここに出てくるのです。 『なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい』。と、いうように。
仏教だけでなく、キリスト教にも「空しい」という説教があるんですね。 ここで安永さんが強調されるのが、「ゼロの強さ」というか「ポジティブなゼロ」ということ。 「すべては空しい」と言ったとき、「すべては空しい」という言葉も「空しい」わけです。ということは「空しい」ということは「ない」ということになります。ニヒリズムではないのです。
「ある」と「ない」の堂々めぐりの世界。0というのは凄いです。+10、+100といくらでも足していけます。−10、−100といくらでも引けます。つまり「ゼロとは無限」ということなんです。
同じように、「ある」「ない」の世界から離れよというのが仏教だとして、「ある」「ない」を超えているのが「空」です。で、禅宗ではそれを「無」というのだそうです。つまるところ「ある」「ない」から離れることで得られる境地をめざすのかな?たぶんそうだと思います。
その「無」ということの、実際的な例がおもしろい。(禅は理屈にあらず)この部分を引用しましょう
……扇風機の羽根を思いだしてみてください。電源がオフのとき、3枚だか4枚だかの羽根はちゃんと見えていますね。しかし、スイッチをオンにして羽根が回転しはじめたらどうでしょう。強い風が欲しいので全速で回転させたら、一枚一枚の羽根は見えますか?羽にさわれますか?その時、扇風機の羽根は「あって、なく」、「なくてある」のです。 同じように、あなたがなすべき仕事に一心不乱に集中しているとき、自分を忘れていることがあるでしょう。 まさにそれが禅の言う「無の境地」の入り口なのです。……
だからどう、という話ではありません。 自分が何を求めているのか。求めていることすら忘れてしまうとき、自分のことさえ忘れてしまうとき、案外、扉は開いているものかもしれません。「案の外」というぐらいですからね。 そんなことを考えていました。
嫌な雨が一日降ってました。 夜になってなんだか熱っぽい。額に手をあてても熱くはないから 疲れかな。風邪だと困るんでビタミンのサプリを呑んだところです。
だから早めに寝ないといけない。今日はほんとに早く寝ます。いつも書き始めると夜中寸前まで行ってしまう。朝が4時とか5時だからいい加減にしないといけない。だけど寝ようとしてもアタマがほてって眠れないときもあるもんだから。
寝る前にはあまり激しい音楽は聴かないんだけど、そういう時は無理にも聴いてしまいます。それで倒れるように寝てたり。あんまりよくないな。 それでなくても最近は「ボクノフネ」ばかり聴いてるんですけど…。
そういえば音楽では待望の盤がでました。SEALのなんと5年ぶりのアルバム。はい、ソウルです。顔に傷のある男性シンガー。これは逃せないなぁ。
予約していたCDも、もうすぐ到着します。ウォンさんの新譜。今回はソロ。今までジャズ・トリオとコラボレーションのが多かったけれど、Asian Dall以来のソロピアノ。これもいいと思います。
音楽も聴くけれど、今、一番大切なのは「書くこと」。なんとかよい状態をつくりだしたい。。自分の状態をよくして、その一点にもっと集中したい。 そう思ってます。
だから、やっぱり風邪はまずいわけで、それならば1回書くのも空っぽにして寝てみようかな。 今日は禅宗のとても面白い話が読めたんだけどそれはまた明日書きます。
明日発売の婦人公論11/7号の読者フォーラムの「詩」の公募にぼくの詩が掲載されています。「意図」というタイトルです。 是非、本屋さんでご覧になってください。
ではでは。
昨日のテレビ「情熱大陸」をご覧になっただろうか。 ぼくはワクワクしながら見てました。今、ニューヨークで有名な日本人といえばダントツでヤンキースの松井だけど、ジャズファンの間では一人の若き日本女性が注目を浴びている。その名は上原ひろみ。23歳。ピアニスト。
この人の演奏は凄い。ジャズだから当然ライブのほうが凄いだろうと思っていた。それが昨日聴けた。凄かった。エネルギーの塊!! 息を呑んだ。
普段のホームグランドはボストン。バークリー音楽学院にいる。昨日の番組では彼女の私生活や発言も紹介していて、おもしろかった。 面白かったというと失礼かもしれない。もんのすごいエネルギーをもらった。
それでなくてもマイノリティのジャズ。その中の日本人、というのがどれほど好奇の目で見られているか、はっきり意識していた。 人影も疎らなジャズクラブの知り合いのライブを見る。テクニックと独創性がないと客は来ない。そして、テクニックと独創性「だけでも」客は来ない。
自らの印象を強くするために、典型的な小柄なアジア人の女性のように見える彼女は、黒髪を逆立て、膨らませて固める。そしてピアノの上で指が弾ける。 そう弾く、というよりも弾ける。出てくる音がとにかくすごい。
「できないとか、なんだとか言うのはセンチな子供のいうこと」と切って捨てるように言う。「曲がかけないとか。全部、自分がしていないだけのことなのにね」 若さの自負が彼女を前に前に送り出す。それでいいんだと思う。
けっして豊かとは言えない生活。週に一度のカップ麺が「ごほうび」だという。ニューヨークのライブに来たときの楽しみがyoshinoyaの牛丼だという。 着古したコート。ジーンズ…。生活のすべてをジャズに投企している。
多くのジャズの先達が彼女に賛辞を惜しまない。ほんとうにどこにでもいそうなな女の子のような彼女。激しいインプロヴィゼーションのあいまになんとも言えない至福の表情をするのも同じ人だ。ちょっと信じられない。
「幸運」と言う人もいるだろう。しかし、それを引き寄せたのは彼女の才能とそれをせっせと掘り返す彼女自身だ。「才能だけじゃだめ」ということを彼女は知っていた。
この音の凄さはしかし、「天才」である。 11月。彼女が日本に帰ってくるという。コンサートツアーだ。若さの刺激溢れるピアノが日本でどれだけ受け入れられるだろうか。
楽しみである。
| 2003年10月18日(土) |
カンバセイション・ピース 序 |
保坂和志さんに同名の小説があるけれど、その話ではない。だけどその本までいつか届こうと思って、ものすごく初歩的なところから話をはじめたくなった。 つまり、方法としての「カンバセイション・ピース」を自分なりに考えながら書いておこうと思ったんだ。
そもそも「カンバセイション・ピース」という言葉を知ったのは森瑶子さんの料理の本からだった。作家の書いた料理本。森さんはとにかく仕事も家事も完璧にこなそうとされた人である。亡くなった今となってはもう、その続きを望むべくもないけれど、その超多忙な生活で編み出された料理の数々は、とくに簡単スピードメニューとして重宝している。
その本、1994年第一刷発行の「森瑶子の料理手帖」はレシピを紹介しつつ、作家の本らしくエッセイが随所に引用されていて、楽しい読物になっていた。そのひとつに『カンバセイション・ピースとしての[私の器]』があった。それがこの言葉との最初の出会いである。 それは森さんが京都の骨董屋やタイで求めたガラス容器などの食器のことを書いたエッセイだった。つまり「カンバセイション・ピース」とは、
……器のひとつから会話が生まれる。そういう器や小物のことを英語では『カンバセイション・ピース』という。 何か見て、そのことについてなにかふと言ったり、質問したり、感想を言って見たくなる小物。 それは器でもいいし、玄関の小さな敷物でもいいし、飾り棚の上の人形の類でもよいのだ。そのことをきっかけに話題が弾み、会話が盛り上がるようなもの…… (森瑶子「森瑶子の料理手帖」・講談社/初出は「恋の放浪者」・角川文庫より)
となる。一人での発信、ということではない。例えば京都で見つけたいきさつを話しだすと、京都出身の人が現れたり、その箸おきがある店の話から京都の話になったり、あるいはこんな箸置きもあるぜよ、というふうに話からどんどん枝が伸びて、発展していくこと。そうさせるものが「カンバセイション・ピース」である。 これはテーブルを囲んでの話しだけれど、ネットでもがんばれば出来そうな話ではある。 まあ、がんばったらあかんのだけどね。すっと自然に話が転がりだして止まらない。そんな楽しさがいいんだと思う。 保坂和志さんの新著「カンバセイション・ピース」もその名がずばりとタイトルにあるように、基本の骨格はそうだ。だけど、保坂さんの「季節の記憶」だとか「プレーン・ソング」なんかも考えてみれば「カンバセイション・ピース」だ。読んだ人なら「うん、そうかも」と言ってくれる(かな?)と思うんだけど。
ぼくはこれをブログの walkxwalk でやろうと思った。今、「夕顔」「ジャズ」「猫」「ジミ・ヘンドリックス」などなどがでている。なんと今「児童虐待」から話を転がそうとしている。いっしょに転がす相手は自分のアタマの中の登場人物。結論は出ない。出るはずがない。もともとの骨格が「カンバセイション・ピース」なんだ。御喋りは延々と続く。どこまで続くか。それで Walk でもあるんだ。 その間に読んだ資料や本、聴いた音楽それがまた「カンバセイション・ピース」になる。
保坂和志さんの「言葉の外へ」という本にある、今後の文学の可能性としての 『薄い薄い事実をとにかく重ねつづけていくこと』 それが「カンバセイション・ピース」なのだと思う。で、そう思うと文章や詩もかける。つまらないことをあんまり考えなくなるんだ。今となっては大括りのテーマのすべてが嘘臭くしか見えないんだもの。
……高価である必要はなければ、こりにこったものである必要もない。工夫や発想に面白みがあれば、普段家庭で使っているようなものがカンバセイション・ピースになりうる…… 森さんはこんな風に書いてエッセイを終わっている。デザートのアイスクリームを味噌汁を入れるしかないような漆器に入れて出す外国の婦人がいて、それが目を見張るほど新鮮だった、と。
ぼくのカンバセイション・ピースの試みの第一歩はここからなのである。こういうやり方をネットや創作でやってみる。そういう試みとして。
ばらばらに散らばった雲と北風が空を乱雑に掃除したので 光だけが傷だらけの裸になって降っている
時速30kmで走る 目は痛く 血は踊り
なぜって 知ってるからさ 君が抱いたぼくの胸には うすく肋骨が浮いてたろ あのころ ぼくはほんとうに風を経験した 追うものでも向かうものでもない 風そのものを
ときは過ぎて 思うことにかまけすぎて ぼくは風ではなくなった ところがまた 風になれるチャンスが訪れた
白い光の 路地から路地へ 風に追われたり向かったりして 詩にあいにいく
あいにいくと含み笑いの店員が 他の店員と目配せして 詩を手渡してくれた 詩集を注文して引き取るたびにこの書店は ぼくを祝福するようだ
ちらりと見た表紙は火が燃え盛っていて それを死体と思うほど燃え盛っていて タナトス だ とつぶやいて
下に降りて自転車にまたがる前に 1階の書籍を眺める。 タナトス 緑の遺稿集 まるで辞書のような装丁の CDまでついていて
それをしずかに本棚に戻す(おかえり、という言葉がなぜか口ついた) なぜって 知ってるからさ 君がぼくを抱いたときに耳を破るほどの音量で部屋を揺らしていたのは 彼の声だから
裸の街 雨上がりか 強風の日か 彼のために ぼくは口を閉じた 一散に バイクで駆けた
パソコンを開き ほったらかしにして (タナトス) 衝撃の一行目を読む
その朝 わたしは修羅に着いた
こうして詩は始まった 長い彼女の「喪」ノローグを ぼくはなぞり始めた
**「箱入豹」 井坂洋子・著(思潮社)
| 2003年10月13日(月) |
「一生懸命」と「一所懸命」 |
たいていの人は「一生懸命」を使うし、語ると思います。 だけど目標をもし立てたとしたら、「一所懸命」であるほうが、事を成しやすいと思います。 と、いうような言葉に今日、出会いました。うすうすは前から感じていたことなんですが、二つを並べると違いがはっきりとわかりますね。
落語の真打ちの披露とか歌舞伎の口上なんかで、舞台にはっと手をつき、「このたびわたくし…うんぬんかんぬん…一生懸命頑張りますので、よろしく御引き立てのほどを」なんて言うわけですが、ぼくはそこでも「一所懸命」というのを聞いたことがあります。誰だったは忘れましたが。 で、「一所」のほうが素直だし、そう思っていればできそうだなと思うんですよね。
「懸命」とは「いのちがけ」でやる、ということですね。されだけ頑張るということですが。 それが「一生」なのか「一所」なのか。 「一生」はきついです。挫折の匂いがぷんぷんする。最初からカタチだけの言葉のように聞こえてしまうんですよね。 「一所」とは今、足元のことをコツコツやっていく、ということです。「ひとつのところ」を徹底して頑張る、ということです。
目標が小さいのなら「一生」頑張らなくてもできてしまうけれど、目標を大きく持たないと達成するしないは別にして進歩があまりない。 で、大きな目標をたてると。 だけれど、それに「一生懸命」だと、疲れてしまうと思うんですよ。心と身体がもたないと思う。
目標が大きければ大きいほど足許にこだわる。「今、そこ」のちいさな事を懸命にやり遂げる。そのほうが目標に実は確実に、速く近づいていくと思うんですよ。
禅宗の教えに「黒い石の上だけを歩け」という言葉があります。 長い道のりのゴールにばかり思いをはせて、肝心のあしもとを見失うな、という意味です。1歩1歩、足を踏み出す所をきちんと見定めて、確実に踏んでいく。 そのことが大事だ、と。
あまりに遠いゴールや到達点だと、気持ちが萎えてしまう時がありますよね。 ゴールや目標はあくまで高く、一度、設定して頭に叩き込んだら、もう足許だけを見つめていく。 そんなことを思った一日でありました。
正確には”Easy Rider”と書くのをわざわざ”EZY RYDER”と書く。
今の若い子達が”for you”を”4 you”と書く「はしり」は1960年代末のジミ・ヘンドリックスがやりだしたこと。 なまった発音のまま表記してしまえというやり方。
そのことに意味をもたせて、意図的にやったのがグレイトフル・デッドの”Amerika”という表記。 これは当時のヒッピーはじめ、カウンターカルチャーの連中が好んで使ったと思う。 もうひとつのAmerica。つまりAmerikaというわけだ。
いつの時代も「ここではないどこか」というものが願われ、それは常に「ここしか無い」という着地点に辿りつく。 「戻る」んじゃなくて「辿りつく」。同じ「ここ」でも、意味が変わってしまっているんだ。
「ここではないどこか」なんてどこにもない。 だけど「ここ」は変わりつづける。 「どこか」を忘れない自分が変わりつづけるからだ。
映画「Easy Rider」の冒頭。ステッペンウルフの”Born to be wild”があまりにも有名だけど、あの映画の中で最初にかかるのはジミ・ヘンドリックスの演奏なんだ。
あとはザ・バンドとザ・バーズの歌かな。
むかし、京都に留学に来てた女のこと”nishihara”の表記をいじって遊んでたら、「それ、『にぃすぃはら』。それだめ」と笑われた。 さて、どこをどう変えたでしょう?
ぼくはぼくからは離れられない。 そんなことも、あえて信じない時期があった。 過去も抱えてまるごと前に進む りきまなくても変わるのはあたりまえ。 わかっているのにね。
EZY RYDER Ridin‘ higher…
夕方の散歩の時、空はまだ真っ青で 狭い路地から見上げると電線がそれを区切っていて それと平行にテレビアンテナが短い線分になって浮かんでいて その上に鳩が止まっていました。
視線を目の高さまで降ろすと右横の金木犀の垣根ががさごそ。 何かと思って目を凝らしていると雀が一羽繁みの中で動いていました。
雀、と気がつくと飛び出してきて そのまま空に飛んでいきました。 いったい金木犀の中で何をしていたのかな 花粉をかぶって香りを身体に振りかけていたのかな。
青空に雀の軌跡が残像になって 言葉がぽろり 「自由」
猫がぼくを枕にして寝てくれた 嬉しい日でありました。
第41回藤村記念歴程賞が発表されました。(詩誌「歴程」主催) 今年は吉本隆明氏の「吉本隆明全詩集」と、われらが井坂洋子さんの「箱入豹」が受賞されました。 (あえて「われらが」と書いたのは毎月、彼女に向けて詩の公募に応募しているからです。)
いま、現代詩では不思議といっては失礼ですが25、000円もする吉本さんの「全詩集」がよく売れているといいます。たしかに決定版ともいえるものですが、高価な本がよく売れているというのがすごいです。
井坂さんの詩集もたぶん取り寄せでなければないとおもいます。京都の詩集をカバーしている事で有名な書店でもありませんでした。ジュンク堂でも品切れでしたね。
最近、井坂さんは公募の選評でも「言葉の使いかたの巧さ」を強調されます。結局、そこをどれだけ磨けるか、ということでしょうか。 きょうも知人とそんな話をしていて、「そうでなければ詩である必要がないでしょう」と言われました。 なるほど、こまかく説明したいのならそれなら小説を書けばいいわけだし。
それにしても「箱入豹」。字を見ただけで凄いイマジネーションを感じます。 この詩集については感想(書評)を絶対に書こうと思ってます。
いい詩集を読むとほんとにヤスリがかります。詩的直感に、というか世界を見る眼が磨かれるんですね。 そうやって読ませてもらって、自分でも書いて、毎日、なにかしら刻んでいるようです。
今日もあと少し考えてみようと思っています。 ではでは。
午前中、雨が少し降りました。もう晩秋のような気温。 道には金木犀と 萩と 白い百日紅と季節の入り混じった、それぞれの花が散らばっていて、しかも銀杏も落ちていて不思議に気分になります。
晩秋、ジャンがやっと歩きやすい気温になりました。 5日で10歳。なんだかあっという間。まだまだ元気でいてほしいです。
外猫たちは屋根の下の籠のなかに3匹が固まってたり、外においてあるトラベル用のキャリーバックのなかに二匹ずつで寝ていたりと、冬モードに入っています。 中の猫たちは布団のなかに潜ってくるし。 犬二匹だけは涼しさを満喫して大喜びで散歩に出てます。
相変わらずのモノカキが続いていますが、音楽もいろいろと…。 クミコさんの3枚目のアルバム、バンブー茂のフルアルバム、リチャード・ボナのソロアルバムなどなど。スティングの新しいものもあるけど手が回りません。 それにクラシックのピアニストでスペインの女性の演奏なんですが、是非聴きたいのもあるし…。 どれもこれも感想としてまとめて書きたいものばかり。
クミコさんのアルバムの感想は、今までにない書き方で書いてみたいし、バンブー茂のアルバムは、もっと聴きこんで書きたいと思ってます。
今、主に書いているのは「WALKXWALK」に続けている『籠』の続編の「リルウィン」。何日かに一度の少しづつの前進ですが、書きながら見えてくるものがあって、きちんと最後までいきたいと思います。 「夕顔の町」のほうもノート上では前に動いています。これは薄い皮を重ねていくように続けて行きたいと思います。
そろそろ詩も書きたいです。真っ白な状態で「待って」います。
それと『やはり本、作ったら』という意見が身近からでてきました。オンデマンドではなくて、「手刷りのコピーをホチキスで閉じたもの」。売るのではなくて欲しい人にさし上げるというかたちです。
ただ、ゴザンスのシステムは電子書籍までは無料なので、それを利用してもいいかもしれません。それをダウンロードしてプリントアウト。そしてコピー。というやり方です。
内容は詩とゴザンスにアップした短いテキストを書きなおしたもの。 どうもパソコンを持っていない人たちのための「本」というか「冊子」になりそうです。PCに書きこみだしてから、その人たちは全然ぼくの作品を読んでいないですからね。 実はそういう人からの要望でもあったのです。
うーーん、作ってみようかな。思案中です。
ついさっきまで、Blogの原稿「リルウィン5」を書いていたんですが、いざアップという時に半分が消えてしまいました。原因は謎。
原因よりも消えたことのほうが大事で、今回はぼくにとってはめずらしくPCに直接打ちこんでいたから、けっこう厳しいです。
プロットは覚えているので、また書きこみましょう。だけど削がれるなァ…。
うれしいこともありました。 「バンブー茂」のギタリスト さかさいつとむ さんがBBSに書きこんでくれたこと。ほんとに励みになります。 さかさいさん、ありがとう。
さあ、もうひとがんばりしますか。
ウェブ日記について。
「すばる」10月号の清水博子「カギ」という作品。姉と妹の二人の日記だけで構成されている。それ自体とても面白いんだけど、妹の日記はウェブ日記なのだ。
妹の日記は「ブランド日記」とでもいえるようなもの。買い物とかレストランとか、某誌に載っていた店とか…。それが毎日続く。
日記のために生活を組みたてているわけだ。生活と日常の順番が逆になっている。妹の言葉ではないけれど「日記を書いているのは誰」なんだろうと思ってしまう。 ……。
で、ここがそのウェブ日記のもうひとつの現場。「エンピツ」です。 この小説に書かれていることはよくわかるし、そういう人も実際にいるだろうと思う。 なんせウェブ空間なんだから、それが本当かどうかだって疑い出したらきりがない。 だけど、こうやってこの空間と付き合ってくると、「そんなものなんだ」という認識ができてしまっている。たぶん、多くの人もそうだと思う。 「仮想の日記」なんだ。
「公開を前提にした日記」というのはたぶん、毎日「エッセイ」を書くことだとぼくは思う。そうでなければ、もう一つは「ほんとうの日記」だ。 その日の出来事をメモるように、書きとめておくだけ。
本を読みまくる人なんかは、もうありたいていの小説はつまんないという。 筋が見えてしまうし、プロットもすぐにわかる。文章のウマイ下手にとても敏感になっている。そういうふうに装ってもすぐに見破られる。 そういう人たちが渇望しているのは「何てことない話」でもかまわないから、「ウマイ小説」「ウマイ文章」なのだ、とこないだ「そういう人」が語っていた。。
清水さんの想像力が捕らえたウェブ空間についての想像力は評価できるけれど、実際は暗黙のうちにそれはみんな「知っている」ことだと思う。 「言葉が軽い」とよくいうけれど、問題は実は読み取る側にこそかかっているのかもしれない。そういうふうにしか読まないもの。あるいは読めないのか…。
書く側はどうかというと、だからこそすべて「創作」に流しこんでいく態度でいいんじゃないのかな。何も無理に日常を強調する必要はない。 むしろ自分の考えとか創作を表現することのほうにこそ力点を置くべきだと思うんだ。 なにしろディスプレイは世界に開かれたミニシアターでもあるわけだから。 ヴァーチャルであることを了解した上で、だからこそ成立する作品世界へ。流れはそうなると思う。
いわゆる「日記」は、そして、世界のデータベースとなっていくのだろうか。 なんだかそんな気がする。
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