散歩主義

2004年10月31日(日) しんしんと紅葉が進みます。「光函」のことも…。

今年の夏はとにかくとんでもなく暑かったので、紅葉が心配だったんです。
紅葉の前に暑さで枯れてしまう葉が多いから。

ところが、10月、劇的に涼しくなったおかげで、ゆっくりと紅葉が深まりつつあります。
イチョウはもう葉を落とし始めていますが、モミジや楓はこれからです。だめなのは桜の葉。夏の暑さにほとんど落ちてしまいました。

北の方から、山の方から紅葉は進んできますから、まず丹波や丹後の方からです。だけどあちらは台風24号の被害をまともに食らった地域なので、いく人も例年より少ないかも。道路の環境も不安です。

それでも自然のサイクルそのものは正確に起動し続けるものですから、今年も美しい錦を見ることが出来そうです。

最近ですが、地元の方に「光函」を購入していただけたようなのです。
誰がとか、そんなことはわかりませんけれど、もしこの日記をごらんになっておられたら、この場を借りて心より感謝いたします。ありがとうございました。

実はネットでどれぐらい販売それたのか、全くわからないので正確な部数は把握していないのですが、ネットで購入なさってくれた方にもこの場で御礼申し上げます。ありがとうございました。

一人一人の方が手にとってくださって、「にしはら」の作品なら読んでみようと思ってくださったら、と。それが念願です。

顔の見えない読者の方へ、きょうもこつこつと書いています。
ブログのin paradisumのほうに「夜の金魚」をアップしました。
一度、読んでいただければ嬉しく思います。



2004年10月30日(土) N`s jazz house vol.9 




村上春樹さんは、新しい作品がでるごとに執筆中に何を一番よく聞いていたかを書かれることがあります。もともとジャズのお店をやっていた方でもあり、ジャズが出てくるのは当然ですが、「海辺のカフカ」の時はジョン・コルトレーンの「マイ・フェヴァリット・シングス」で、ロックではラディオ・ヘッドでした。

今回の「アフター・ダーク」は題名がもう曲名ですし、登場人物がトロンボーンを吹いているので、最初からカーティス・フラーの名盤「ブルー・スウェット」だと見当がつきました。ハード・パップのこの名盤は古いジャズファンなら必ず聞いている盤だと思います。

だからどうしても、ついトロンボーンのカーティス・フラーに目がいきがちなんですが、この曲の作者でもあり、フラーとの共演者でもあるべーニー・ゴルソンこそ、ジャズ界で重要な位置を占める、コンポーザーにしてアレンジャー、テナーサックス奏者なのでした。

コルトレーンやロリンズなどの天才たちのプレーばかりがジャズではなく、むしろ酒場のダンスミュージックだったジャズの、底抜けの生命力と「粋」を演出していたのはゴルソンたちといっても過言ではないでしょう。

マイルスやコルトレーンががシーンをごろんと変えてしまい、酒場でちゃらちゃらしてられなくなってから、ジャズはとても難しくなりました。
ぼくがジャズに惹かれていったのもそのころです。なんせ音が切れまくっていましたからね。
だけど結局、マイルスが亡くなって、彼の一生を振り返った時、彼の追い求めていたものは生命力が一番宿っている音楽なんだと自分なりに感じてからは、パップもクールもましてラップでさえも、それがジャズなんだと思えるようになりました。

難しくなりすぎたジャズよりもファンクやロック、ソウルのほうが軽々と新しいことをやってのけていて、そのころジャズからは足が遠のきましたね。
だから古いジャズは、ロックやファンクから解釈し直したジャズというか、ジャズと違う目線から入っていくジャズとしてとても新鮮に聞こえてきたんです。

例えばリー・モーガンなんて、とんでもなくファンキーだし、この日記でも紹介した、ソニー・クラークやベニー・ゴルソン、それに当時のマイルスもコルトレーンも、とにかく曲がいいんです。

「いい曲をつくる」という切り口ならば、ベニー・ゴルソンはジャズ史上、屈指の一人にはいることは間違いないでしょう。
ゴルソンの特徴は「ハートウォーミング」であることと、なんといっても「ハーモニーの良さ」。ソロでもむせぶテナーを披露したりもしますけれど、とにかく管二本、あるいは三本のアンサンブルが抜群なのです。

だから彼の仕事は誰かと組んだものが多く、組んだ相手がそれで名盤のリーダーになることが多いですね。まるで「仕事師」。
アート・ブレイキーも、カーティス・フラーもアート・ファーマーも。
そしてなにより若くして逝った、天才クリフォード・ブラウンとの仕事が彼には重要だったのでしょう、「アイ・リメンバー・クリフォード」という傑作を作曲しています。

90年代に入り再評価されだしたベニー・ゴルソン。
ジャズのアレンジャー、コンポーザーとして当然といえば当然のことでした。

そんなこんなでふと自分のジャズのコレクションをみると、ベニー・ゴルソンが入っているのがたくさんあるんです。
特にオススメはカーティス・フラーとの「ブルー・スウェット」ですが、これは村上春樹さんが「持って行ってしまった」んで、あえてアート・ファーマーの「モダン・アート」をあげておきます。

これも名盤中の名盤。6曲目でゴルソン自身、渾身の力を込めてバラードを吹いています。
ピアノはマイルスにスカウトされた頃の、ばりばりの若手だったビル・エパンス。
とにかくジャズがめっちゃ、かっこよかった頃の一枚です。
一曲目から踊れます。うん、たぶん踊れますよ。少なくとも指は鳴らすでしょうね。

不良やってた頃、よく聞きました…。えっ!!!!



2004年10月29日(金) あれはタローくんなのかな?

新潟中越地震に関して、先日、山古志村の犬のことを書きました。
今日、一部ではあるけれど、一時帰村が実現したというので、夕方のテレビの各チャンネルを順に回してみていました。

置いていかれた「タロー君」はどうなったか知りたかったんです。
どうもそれらしき映像が一つありました。しっぽを振りながら家族と一緒に再び避難している場所へ帰っていく後ろ姿です。

あれが「タロー君」ならいいんですが…。

「タロー君」を記事にしたのは京都新聞でした。記者さんがその後も追跡していると思うのですが。夕刊には記事が無かったので、明日の朝刊をよく見てみます。
きっと大丈夫だと思うので。

ところで、これはテレビでインタヴューしていたから事実なんですけれど、やはり置いてきた猫をザックに入れて連れ出した女性がいました。
おじいさんとおばあさんが猫の心配ばかりしていたので、これで二人とも喜びますと、目を輝かせて語っていました。すると黒いザックの中からにゃあ、と顔を出した猫君、いやー、さすがに強いもんです。
名前を呼んだら飛んできたとか。どうか家族を癒してあげてほしいですね。

明日は雨だとか。
台風で大被害の出た京都府北部で、二次災害が出ないことを祈るばかりです。




2004年10月28日(木) 読み始めと書き始め、そして猫。

読み出したのは大江健三郎さんの「宙返り」。
再読です。大江さんの提唱される「ゆっくり読む」やり方で読むので、とにかく時間がかかると思います。
ぼくの周りには速読の達人が多いんですが、今回は「大江流」で…。

書き始めたのは詩です。やっとひとつまとまりそうです。もう少し練ってから投稿します。

で、と。
猫たち。
チャチャがおととい、避妊手術を受けました。手術自体は簡単なんですが、やせていて術後が心配だったんです。だけど、今日、ご飯もたべたし、歩きにくそうだったのが、すたすた歩いたし、階段も下りられなかったのが、ぱたぱたと上り下りしたので、一安心です。

問題は残りの三匹。いつも誰かが病院に行ったり、手術をしたりすると帰ってきてからしばらくは、敵意むき出しでフゥーッと威嚇するんですよ。
この時だけは、ほんとに猫という種族が情けなくなります。犬ではあり得ないことですからね。

なんだろう、血の匂いがしたり、消毒の匂いがするのかな。だいたい時間が解決してくれるので、大丈夫だと思いますが、威嚇するルル、ピピ、キキの姿を見るたびに情けなくなりますね。

仲間意識ゼロ。ほんとにもぉ。



2004年10月27日(水) I say tomato,You say tomato

へへ、さてなんでしょう。
これがあるラブ・ソングの歌詞だと知っている方は、英語の先生かも。

お話は高校の修学旅行から始まります。ぼくの知り合いに高校の教師が何人かいるのですが、彼らが生徒を引率してアメリカのサンフランシスコへ行ったときのお話。

生徒たちのホームステイの手配も終え、フリータイムになった先生たち。
フィッシャーマンズ・ワーフなんかへ繰り出していきました。
ある先生が同僚にアメリカのピザを食べてみようと提案、早速、スタンド売りのピザ屋へ。
アメリカのピザは宅配でもそうですが、トッピングを指定するのが普通です。

その先生、たどたどしいけれど英語を操り、トッピングを指定していったんですね。
「オニオン、あー、チーズ、ソウセージ、アーンド…」
その辺までは同僚も、おお、と彼を見直していたらしいのです。

次の瞬間、彼の周りはフリーズしました。
トッピングメニューの看板を見ながら彼はこう言い放ったのです。
「トマトス」
店員は「what`s???」と眉間にしわを寄せて、大声で聞き返したといいます。
そこで同僚が
「おい、それトゥメイトォとちゃうんけ」といったところで全員大爆笑となったというんですね。

外国に行くと英語で苦心惨憺する話はよくあって、ほかにも
エクスキューズミィというところをエクスキュウジュウニといってその場から逃げ出して笑う人をつくりだしたという人もいますし、
チキンオアビーフ、あるいはチキンオアフイッシュときかれて、
「ノア」と答えてスチュワーデスを困らせた人もいます。
(早口で尋ねてくるのでチキノアビーフ、チキノアフィッシュと聞こえますよね)

で、さっきの「トマトス」なんですけれど、実はこれ、あながち間違いでもないんです。今日のタイトルの歌詞をカタカナで書くと
「アイ・セイ・トゥメイト、ユー・セイ・トマート」となります。

イギリスでは「トマート」と発音するんですね。
オーストラリアではdayを「ダイ」と発音しますし、ま、いろいろと発音が違うわけで、先の教師も
「ぼぼぼくはそそれを知っていたんや」といって何とか面目を保った…かどうかはわかりませんが。

アメリカで喫茶店に行くときは日本のスターバックスで予行演習した方がいいかもしれません。とにかくメニューが大変だし、ミルクの濃さまで指定する場合がありますから。

それと向こうでは「ホット・コーヒー」は通じません。コーヒーはホットなものなのです。「アイス・コーヒー」という概念がありません。「コーヒー」だけでいいのでした。
それと「I love COKE」とはいわないように。
「私はコケインが大好きです」といってることになりますからね。

と、いろいろと英語のお話でした。



2004年10月26日(火) 「新しい人」からの発想

これから書く文章は読書感想文ではありません。
ある作家の構想する人間像に、とても共感するところがあった、とそう書いてしまえば終わる文章です。その共感について書きます。

作家とは大江健三郎氏で、人間像が構想されているのは「『新しい人』の方へ」という作品です。
最後の章で、この本は、前著「『自分の木』の下で」を書いたのち、もう少し役に立つものとして、もうひとつの本を作ろうと思いいたったとありました。そして読者として、子供といってよい若い人やその母親を念頭に置いていることも述べられています。
したがって、とても読みやすい本になっています。読みやすいけれど決意を迫ってくる本でもありました。ぼくのような「古い人」の部類に入るものにとっては、そのように襟を正したくなる本でした。

「新しい人」とはどんな人か。
「ウソをつかない人」「他人を傷つけず、自分も傷つかないように生きる人」
「意地悪をしないし、されない人」
 なんだか冷笑が聞こえてきそうですね。そう「冷笑を乗り越える人」。

こんな人ばかりなら、世の中なんの問題も起きないよ、と思えるでしょう。
大江氏は本気で「こんな人」を構想されているのです。

その具体的なモデルがイエス・キリストそのひとであり、(大江氏はキリスト教徒ではありません)「新しい人」というのは新約聖書にあるパウロの「エフェソの信徒への手紙」から、その着想を得ています。

引用します。
≪キリストは平和を表す。それは対立してきた二つのものを、十字架にかけられたご自身の肉体を通じて、ひとつの「新しい人」に作り上げられたからだ。そしてキリストは敵意を滅ぼし、和解を達成された…。
 私は、なにより難しい対立のの中にある二つの間に、本当の和解をもたらす人として、「新しい人」を思い描いているのです≫

そして、「新しい人」とは、例えばきみは「美しい人」、きみは「かしこい人」、きみは「優しい人」などと同列できみは「新しい人」と並べられるものではない、と。
もっと特別なものなのだと述べられています。そのことはそのイメージが重層的に語られていく本書を読んでいただければわかると思いますが、人のありようとして次元が違うあり方。むしろよりラディカルな姿。そう、まさに「特別な」あり方なのです。

引用します
≪子供たち、また若い人たちに、「新しい人」になってもらいたい、(略)
 少なくとも「新しい人」になることをめざしてもらいたい。自分のなかに「新しい人」のイメージを作って、実際にその方へ近づこうとねがう。子供の時そうしてみるのとそんなことはしないというのでは、私たちの生き方はまるっきり違ってしまいます。≫

ぼくの端的な感想を述べるならば、大江さんはみなさんに「キリスト」になることをすすめているのです。
笑止、というなかれ。ここ2000年で「新しい人」とはまさにイエス・キリストただ一人でした。あるいは仏陀もそうでしょう。
あらゆる敵意を廃し、和解を成就した人として。

そしてイエス・キリストも仏陀も、「誰もがわたしになれる」といって説法を開始したのではなかったでしょうか。
ですから歴史上「新しい人たち」は存在したとぼくは思います。
価値観の尺度の違うありようとしての「新しい人」が。

逆に考えるのならば「新しい人」が方々に現れなければ、人類は死滅するのかもしれません。そんなせっぱ詰まった状況下であるのかも。

ぼくはこの本を読み終えて、ひと連なりの文章では語れない「新しいひと」のイメージを持ちました。それはキリストでも仏陀でもありません。
ひとりひとりの生き方としてしか表現できないもの、だと思います。

そしてそのことにひたすらに励んでいけば、まるで孤島のように世の中に浮かぶいろんな「新しい人」の存在に気づくのではないか、そんなヴィジョンすら持ちます。

要は「新しい人」になろうとすること。それは「なってしまう」ことよりも重要かもしれません。そんな気もするのです。つまり「新しい人」は生きていなければならないから…。

ぼくの共感は表現者の立場として「新しい人」に依拠しようと考えるところにあります。
価値体系の外。大江健三郎さんの、いや渡辺一夫さんのことばでいうなら「準アウトサイダー」としての発想として、そこにこそぼくの立脚点をつくることこそ、人をめざして表現できると直感したからでした。

興味のある方にご一読をすすめます。

大江健三郎・テキスト  大江ゆかり・絵
「『新しい人』の方へ」  朝日新聞社






2004年10月25日(月) 新潟中越地震…タロー、がんばれー…

とんでもない地震が起きた。
阪神淡路大震災の時、京都は震度5で、その怖さは今でも覚えているから、現地の人たちの恐怖が想像できる。

なんとか、くじけないでいてほしい。阪神淡路の時よりもはるかに現地入りが困難のようだから、時間がかかるかもしれないけれど、この国は被災者を見捨てるような国じゃないから。

現地の病院で血液が不足気味だという情報が流れるや、近畿の各都市の献血ルームには多くの若者が駆けつけて満員だったという。
そんな「今できる行動」が積み重なっていくと思うし、神戸から「ボランティアのプロ」の人たちも現地に向かったという。
神戸の教訓としてボランティアのノウハウの蓄積は十分あると思うので、是非とも活かしてほしいと思う。

一日たつごとに確実に状況はよくなるはず。そうなるように現地の人たちは懸命の努力をしているはずだから。
ぼくは具体的に身体を使った救援はできないけれど、お金、つまり募金の形で関わりたいと思う。

ただひとつ残念な記事が京都新聞の夕刊に載っていた。
被害のひどかった山古志村は全村避難したのだけれど、愛犬を連れて行こうとした方が機動隊員に「犬はだめ」とヘリコプターに犬を乗せられなかったという。
全文引用したいけれど、個人名も乗っているのでそれは控えておく。

かわいそうなのは10歳の翔太君で、「一緒に行こうね」といったのに、といって唇をふるわせていたという。事情はあるだろう。だけど長岡や小千谷の避難場所では愛犬と寝起きしている人がいる。それを見たとき、翔太君はどんな思いがするだろう。彼の心に癒しがたい傷が残るような気がして仕方がない。

夕刊の紙面いっぱいに写ったヘリの中に犬一頭が入れるスペースはいくらでもあった。残念。これが災害なのか…。

神戸の時は、料理研究家の小林カツ代さんが、被災した犬のために無償で炊き出しをしていた。あまり知られていないけれど、こういう人がいてくれればと祈るしかない。それに今回はあまりに山深い。

愛犬の名前は「タロー」というらしい。壊滅状態の村に入る人に翔太君は懸命にお願いをしているのではないだろうか。
何とか早く仮の道路だけでも開通すれば、みんな飛んで帰れるだろうに。

タロー、がんばれー。それしかいえないけれど、ずっと念じていたい。
がんばれ、がんばれ。



2004年10月24日(日) 温かな闇

今日は京都中、いたるところで秋祭りがありました。
我が家の町内もそうです。
御輿があっちで振られ、こっちで振られ、ある家では酒を振る舞われながら神社ににぎやかにたどり着いて、またひと暴れ。賑々しく祭りが終わりました。

そんな中、祭りに来た少年の小説を書こう、と昨日の夕方思いついて、今日ずっと書いていました。
(掌編小説 「ジョージ」)

夕方にはできあがり、誤字を見直してそのままアップ。読んでみてください。

in paradisumへ

それから、お祭りの夜なんで、鯖寿司を食べて、ジャズを聴きながらこれを書いています。
聞いているのは大西順子「crusin`」。彼女のセカンドアルバムです。
1993年の作品。彼女のCDも気がついたら、たくさんラックに入っていました。

デヴュー作の「WOW」があまりに衝撃的だったので、わりと見落とされがちですけれど、ぼくはこのアルバムが好きです。
デューク・エリントン、オーネット・コールマン、ソニー・ロリンズ、ガーシュイン。それがこれだけバランスよく並んだ作品はほかにないですね。

テンションの高さと激しさ、色気とユーモアが絶妙にブレンドされた抜群のピアノトリオの演奏。このころ、大西トリオのテンションの高さは素晴らしいものがあります。それとほかの若い女性ピアニストと違うのは、ブルースが弾けること。
単なるマイナーの「泣き」じゃなくて、蹴り飛ばすようなブルース。

そして、ぼくがいちばんこのCDが好きな理由は「キャラバン」の素晴らしい演奏があるから。それとベース奏者ロドニー・ウィテカーのオリジナル「ROZ」がなんといってもいかしてる。
で、この二曲が並んでいて、さっきからそればっかり聞いているんです。

保坂和志さんの「書きあぐ」によれば、映画をショットで見るのが詩人で、ストーリーで見るのが小説家となるんだけれど、ぼくは音楽でもひとつの曲をしつこく聴いたり、ギターのワンフレーズにとことんはまるタイプだから、やっぱり「詩人タイプ」なのかもしれないです。

といいながら、またリプレイ。
このCD、いいですよ。
大西順子 CRUSIN`  (somethin`else5555)

温かい闇に浸っています。



2004年10月23日(土) 月命日

ジャンが亡くなって、ひと月が過ぎました。
毎朝出会う散歩の方たちからジャンの様子を尋ねられては、悲しい知らせをお伝えしてきました。そのたびにその方の心に、池の波紋のように悲しみが拡がっていくのがみえました。

時間が傷みを癒してくれるものですが、散歩道のあるところで突然、思い出に襲われ、気がついたら頬が濡れているということがいまだにあります。

日にちが経てばたつほど、かけがえのなさが偲ばれて、ハナに語りかけながらの散歩が続いています。

動物たちとの暮らしは、その死に立ち会うことがほぼ必然ですが、ジャンとともに、よく生きたと、今でも思えることがなによりの幸せです。

ジャンに改めて感謝を。
ほんとうにありがとう。



2004年10月22日(金) 「祈り」が書けるか、どうか。

大掃除の副産物というと怒られてしまいそうな発見をしました。
それは小川洋子さんの「博士の愛した数式」を読むために購入した「新潮」2003年7月号の中にありました。

怠惰といってしまえばそれまでなんですが、小川さんの著作のためだけに購入したもので、ほかの記事は全く読まなかったんです…。
この本を読みたいという人がいて、その人に貸すためにぱらぱらと何気なくめくっていたら、後半の文芸評論で読むことを止められなくなってしまったのです。

井口時男「八十年代以降」…大江健三郎と中上健次(3) というのがそのタイトル。
興味深かったのはテキストと現実との往還に関しての論考と八十年代以降の文学の大きなテーマの一つである「宗教」についてでした。

むろん「70年代で私小説は終わった」とする説は小島信夫、古井由吉、そして大江健三郎の名をあげて「書きながら生きる人」としての性格を帯びた作家の存在そのものがそれを否定するとしていて、その先の論考なのですが。

ぼくなりに乱暴にまとめるとこうなります。

抑圧されたものの解放としての暴力、というテーマが60年代にあったとして、その暴力が、実は他者を巻き込んだ「事故=偶然」でもあったという切り返しのような証言、あるいは巻き込まれたものの理不尽な被害があった。それこそ疑いと暴露と敗北の70年代であったとします。
するとその「事故=偶然」の当事者たちはその意味を求めようとします。偶然に意味などないにもかかわらず。問えないものを問おうとする。その行き先は当然人にあらざるものになり、そこに「神」があらわれるわけです。

まさに象徴としての事件もありました。

「こちら側」と「あちら側」という分け方が文学にもあり、その代表ともいえるのが村上春樹だと思います。彼がこれほどに受け入れられるのは、やはりその欲求が社会にそれだけあるからでしょう。
だけど、それを突き詰めれば結局、オウムに行き着きます。

彼が「アンダーグラウンド」で懸命に取り組んだ誠実な姿勢はすばらしいと思うけれど、村上作品はそのタイトロープようなところにあるといってもいいのではないでしょうか。「アフターダーク」は違うと思いますけれど。

「こちら側」に懸命にとどまろうとする人、端的にぼくは「生活者」と呼びます。
「あちら側」に生活はありません。生活がないということは現実のこの世界はあり得ないということです。そして生きて「あちら側」にはいけるはもがない。
しかし、「あちら」にしか「説明」を求められないという「気持ち」もあるのは事実。
しかしそれでは苦悩が解けることはないと思うのです。

「あちら側」「こちら側」という二分法では、人の苦悩を解けやしないんじゃないだろうか。ぼくが、ものを書きながら直観的に思っていたのはそういうことだったんです。

井口氏は問います。
『「こちら側」は有限にして相対の世界だが「あちら側」は無限にして絶対である。無限にして絶対のものに関わる体験を崇高とよぶ。では、無限にして絶対なるものはあるのか(神は実在するのか)』

詳しい論考ははぶきますが、否定的弁証法による肯定、つまり「呈示できないものがあるということを呈示する」ということをのりこえて、人がたどり着くのは「境界」であるという説が登場します。「あちら」でも「こちら」でもない「境界」に人はたどり着くのだ、と。

ぼくがいちばん引っかかった箇所が次の言葉です。

『彼方というものはない。しかし芸術の限界には、奉献の所作がある。芸術を捧ぐ所作が、そしてそれによって芸術自身が自分の限界に触れる所作がある』
                …ジャン=リュック・ナンシー…

「奉献の所作」。これこそ「祈り」ではないでしょうか。

井口氏は語ります。
「祈りにおいて人間は自分自身の限界に触れ、自分自身を捧げるのだ。限界の彼方に?しかし<彼方というものはない>。あるのはただ、捧げる、という所作だけである。「彼方=あちら側」とは、この所作とともに、この所作のうちに生起する方向性に他ならない。だから祈りにおいて人は「彼方」に触れているのではない。人間の限界に触れているのであり、人間の限界において、限界に向けて、自分自身を差し出すのだ。祈りとは傲慢とは反対のもの、人間の究極の誠実であり究極の慎ましさである」

そしてその事の見える作品として、大江健三郎「静かな生活」「宙返り」「人生の親戚」をあげています。

しかし、この稿を読んで即座にぼくにひらめいたのは藤原新也さんの「何も願わないただ手をあわせる」に登場する遍路路のお寺にいた少女であり、「ぽろぽろをします」といってぶつぶつと語り出す、田中小実昌さんの父親が書かれていた「ポロポロ」でした。

何かに向けてではない。「その所作」が彼を、彼女を生かすのです。
「あちら側」にではなく、「あちら側」にむけた「私たち」でなく、例えば「宙返り」の最後では
『魂のことをする』といいます。それはそのまま小実昌さんの「ポロポロをします」に繋がっていくように思えて仕方がなかったのでした。


自分なりにものを書く、その姿勢を定める一つのポイントとしての「祈り」。
これはとても大事にしたいと改めて思いました。






2004年10月21日(木) 日記の後が大変だった昨晩

日記を書き終えた頃から、台風の吹き戻しがひどくなっていたんですが、
あれから明け方まで凄まじい嵐でした。
台風本体はとっくに関東まで行っているのに、雨は降り続き、風はますます強く吹きすさんでいました。

いまのところ京都府下で死者が7人。ここのところなかった被害です。みなさんテレビで水没した舞鶴の映像を見られたと思います。あんな事になるような所じゃないんですよ。バスの屋根に37人取り残されていたあたりです。
とにかく全員救助されてよかったですけれど。
今回の台風は中心から離れたところでも、被害が凄かったように思います。

昨晩、五条大橋のいっぱいまで水が来ているってかきましたけど、深く浚渫して水害にいちばん気を遣っている三条大橋でも水が警戒水位を突破してました。

京都府北部は豊岡も福知山も川が氾濫していました。
丹後地方であの状態ですから、分水嶺の太平洋側、つまりこちらに流れてきた川の水量も凄くて、桂川もいっぱいまで水に覆われ、不法耕作の畑たちはだいぶ流されてしまったと思います。嵐山の渡月橋もあわや、と言うかはっきりいって水が溢れていました。大事には至っていないものの、川沿いの旅館の玄関が川に洗われるぐらいにはなってたようです。

うちの近所でも、ものが飛んでました。隣の不動産屋さんの店舗のテントが鉄の枠組みごと吹っ飛ばされてました。
下に人がいなくてよかった。

朝のうちも雨が降っていて、今ようやく台風一過の青空が拡がっています。
それにしてもこれでまた野菜が高くなりますね。
白菜一つ1000円てほんとですかね?

まだ24号も来そうです。補強しなければ。うむむむ。



2004年10月20日(水) 台風の日にテテを聞く






22時をまわって、ものすごい吹き返しの風が吹いています。吹き荒れているという感じです。

今日は台風が近畿地方を直撃。今年はいくつもの台風が上陸したけれど、今回がいちばん近畿地方に猛威をふるったんじゃないかな。
雨も風も凄かったです。
あの鴨川に洪水注意報が出たのを聞くのは初めてでした。

それぐらいひどかった、ということです。

そんな日に、テテというアーティストを聞いています。
アフリカのセネガル出身、ポームグラウンドはパリ。ストリート出身。
レニー・クラヴィッツがフランス語で歌っているような印象も最初あったんですけれど、この人の歌詞と声がとてもいいんです。

バンドはアコースティック・ギター、ドラム、ベースといういたってシンプルなもの。今聴いているアルバムには曲によってストリングスがはいってますけど、それも「生きて」ます。曲もポップで魅力的。

彼のアイドルはディラン、ジミ・ヘンドリックス、セルジュ・ゲーンズブル・ボブ・マーリィだというから、これだけでもユニークでしょ。

どことなく60年代から70年代の香りがするのも、まあ好きです。

でもやっぱり歌詞がいい。ほんとにいい。
今ぼくが追っかけているテーマの切り口があって、ああ、こんなところにあったなぁと感心しきりなのです。

それは「きみの不在」という曲で、これはメロディーも「嘆きのシャンソン」を彷彿とさせていていいんだけれど、この歌詞を、この声で聴いたときはぞくっとしました。悲惨な男の声…。

まだびゅうびゅうといってますが、これから少し書いて寝ます。
また、寝不足が…。
じゃ。

*「ア・ラ・フォブール・ドゥ・ロートン」テテ  (EPIC)metacompany



2004年10月19日(火) 混沌が秩序に変わるとき…創造への覚え書き

今日は部屋中を大掃除しました。
迷惑そうなハナを隣の部屋に行かせて、本から原稿から自転車部品からベッドからジーンズまでなにからなにまで不要なものは全部棄てました。
おかげですっきりさわやか。スペースも広くとれました。

こういう時には、必ずあきれるような「もの」がでてきたりするんですが、まず本。あまりの「積ん読」のひどさにあきれました。読むことどころか買ったことさえ忘れていた本が何冊もあって、がっくり。頑張って読みます。

それともう一つは原稿やメモの多さ。半端じゃないです。とにかく書き直しが多いのと、ノートに書きつけておく、というのがもうここ10年以上の「癖」になっていて、それが山盛り。それをしばし読みふけっていました。

ほそぼそと詩を思い出したように書いていた頃のノートは詩以前のところで止まってしまっているし、黄ばんだ原稿用紙120枚の小説の原稿は力みしか見えない。
よくこれでめげずに書き続けててきたな、と妙に感心してました。

詩の原型になる走り書きは無数に近くあって、作品として実を結んだもののメモは廃棄しました。たとえば「光函」という詩の下書きは30通りぐらいありました。
ほかのも多くて、なんて非生産的なんだろうとあきれながらも、いつからかこのやり方に確信を持ちだしたことも思い出しました。

それは実際にぐにゃぐにゃとしたメモから作品ができあがるという経験から導き出されたものもありますが、自分では歌人の河野裕子さんの
「うまくなってから、では遅すぎる」という言葉を読んだときから確信を持ったと思っていたのです。

ところがこれが情けないことに、自分で頭にすり込むほど読んだある新聞の切り抜きのことを完全に忘れていたんです。今日、それが古いノートのなかから出てきました。
この「忘れていた」ということが今日の最大のミステリーですが、「今日」というタイミングで再び読めた幸運に感謝しました。

記事は1999年9月14日の京都新聞。「提言」というコラムで建築家の高松伸さんが書かれたものです。高松さんはそのユニークな建築物で京都を代表する建築家の一人といえる方です。京都大学教授でもありますね。

高松さんが書かれいたのは彼の「創造の流儀」についてでした。
曰く『創造とは秩序をつくりだすこと』である、と。

高松さんは紙と鉛筆のスケッチによって建築のアイデアをつくりだしていくのですが、一つの建築物に対して数百枚、数千枚の紙を費やすというのです。
しかも、それでアイデアが見つかるという保証はありません。

ところが、疲労困憊してその紙片の山に埋もれているとき、その中から青天の霹靂のごとく「それ」が生まれる、というのです。

引用すると
…私はその感じを「来る」としか言いようがないのであるが、まさしくそれは、探索の過程にまつわるすべての難問と呻吟を一気に解き放ち、ゆるぎなき秩序としてあらぬかなたからやって来るのだ。その証拠に、うず高く積もったそれまでのスケッチのどこを探そうと、到来したその秩序の片鱗さえ見つかることはない。…

ただ、ご本人も書いておられますが、最初の一枚にそれが「降臨」してくれればいいんですよね。ところが高松さんの場合はどうしても数百数千と描かねばならないそうなのです。
まったく、創造とは不経済であり、その苦闘と労働の堆積(それこそ混沌=カオスだと高松さんはおっしゃいます)から生まれるものこそ創造だとおっしゃいます。

そしてご自身の経験を裏打ちされるように二つの例をだされます。
一つがノーベル化学賞を受賞したI.プリコジンの「散逸構造理論」です。プリコジンはその著書「混沌からの秩序」の序文にこう書いています。

…平衡から遠く離れた系では、無秩序と混沌から『自己組織化』の過程を通じて秩序と組織が『自発的』に生じる可能性がある…

…液体は加熱し続けると、ある一点で一斉かつ唐突に、世にも美しい六角形の秩序を創造することは誰でも知っている。それは決して偶然ではなく、必然との共同によって起こる…

ここから高松さんは…秩序が生まれる必然的な可能性…ということに大いに励まされたのでした。「必然」ですからね。「かならず生まれる」可能性があるとうのですから。しかも『自発的に』です。
スケッチに「それ」が「立ち上がる」のです。
まるで高松さんの経験を裏打ちするような理論ですね。

もうひとつは画家で彫刻家のジャコメッティでした。
彼の創作の姿というものが、モデルを務めた男性の著書から伺えるのですが、単純なんです。つまり
…日々、描くこと。日々消すこと…なんですね。

したがって彼には完成作はなく、あるのは痕跡。断片的な秩序。
彼にとっての勇気とは「すでに描いた一切の細部を消すこと」だったといいます。
そのシジフォスのごとき苛酷な仕事を彼は延々と続けたのです。
ですから、創造とは秩序の建造に向けての倦むことのない労働そのものでもあるかもしれない、ともいえるのではないか、と。


今描いているこの稿の文脈を詩、あるいは小説に置き換えても同じ事はいえる、かつてのぼくはそう思ったのでした。
とにかく書くのです。「それ」が来るまで。

高松さんはこう励ましてくれます。

…それは働くこと。混沌(カオス)が高まり、絶望の澱が重く降り積もろうとも恐れずに働き続けること。厳密な科学の理論と苛酷な労働を生きた芸術家の日々が、励ましてくれている…と。

そして、たぶん形は今みえなくても「必ず来る」んだ、とぼくは信じたのでした。
とにかく続けること。ひょっとしたらその事こそすべてなのかもしれません。

…仕事すること、生きるために。
 生きること、仕事するために。
 よりよく生きるために…     ジャコメッティ
  



2004年10月18日(月) 「光函」をどうぞ

ゴザンスネオブックから発刊した、初めての作品集「光函」のことです。
この本はネット販売のみで、書店販売はありません。
ほかにぼくの手持ちをお送りするという、手っ取り早い入手方法があります。

京都市の左京区、京都大学のある百万遍交差点の北東角「レヴン書房」には好意で置いてもらっています。いついっても「光函」があります。

こんど京都市の北区、等持院の「とりはら」さんというお店に置かせてもらいました。等持院の山門のすぐ前で、立命館大学の自転車置き場の隣です。
ここにもいついっても「光函」があります。

で、この「とりはら」さん、純粋な本屋さんじゃないんです。基本的にはパン屋さんでお菓子屋さん。ほかに雑貨もあればレディボーデンもあるというお店。
その片隅の家庭画報などの女性向け雑誌や週刊ポスト、週刊現代などと並んで「光函」が置いてあります。

なんだか不思議な風景ですけれど、なかなかいいなあ、と自分では気に入っています。

…にしはらさんのこの本は、「もうけるとかどうとかじゃない本」やね
…はいはい、そうです。

というようなやりとりのあと、置いていただけました。
外から見ると全面硝子の正面に本の棚があって、その一番上に白い小さな背表紙がみえます。

何ともいえない気持です。

ほとんど営業的な努力をしていないままでしたけれど、こういうふうにぽつぽつと拡がっていけばいいなあ、と。
だから次の本も出したいという意欲がわいてくるのです。

「光函」の横に次の本を並べられたら…。そんな気になるのです。
タイトルだけは決まっている次の本、いい原稿を集めて、いい本にしたいですね。
がんばります。

そうそう、プロフィールもろくに書いていないのに、やはりネットの力なのか、近所にどうも読者さんがおられるようです。ぼくを見破っている方がね。
…にしはらさんて小説かかはるんでしょ。
いきなり言われるとびっくりしますよね。
そんな体験もしました。

みなさん、これからもよろしく。



2004年10月17日(日) それにしても松井は凄い!

日曜日で、しっかり時間がとれたんで一気に掌編小説をアップしました。
「天使形」というタイトルです。in Paradiumにアップしてます。

アップが終わる頃、メジャーリーグのリーグチャンピオンシップを見ました。
アメリカンリーグです。ヤンキース対レッドソックス。
スイッチを入れたとき、すでに13点もヤンキースがとっていて、これは松井も…と思ったら、いやいややってくれましたね。
6打数5安打、うちホームラン二本、二塁打二本。打点5。
まぁ、このまま明日決めてしまえば、MVPは松井でしょう。
いやあ凄い。ある意味イチローより凄いです。なんせヤンキースの4番に座っての結果ですからね。

特にポストシーズンは4割以上の打率です。いやあ凄い。ただただ凄い。
まるでジャイアンツの4番に座っていたときと同じ姿になってきました。

日本の野球の実力の証明と言うよりも、イチローや松井の努力に敬意を払いたいです。
いやあ、凄いな。



2004年10月16日(土) もう一息

長いこと書けなかった掌編小説が半分ぐらいまで書けました。
時間の合間を見てはこつこつ書きためてきました。
もう一息。

これは Blog in Paradisum にアップしますので今しばらくお待ちを。

ジャンが亡くなったのと、ゴザンスの課題が消えたのがほぼ同時期で、あれからまとまって書いたのは、in Paradisum というCDの感想と投稿した詩一編と未明さんの「絵物語」についての感想文ぐらいでしょうか。

今書いている、その掌編ができればペースももとに戻りそうです。
詩の草稿も書けるようになってきました。

なんとかこつこつ前進しています。



2004年10月15日(金) ずいぶん涼しくなりました

朝なんか寒いぐらいです。
ハナが布団の上だけれど、ぼくにくっついて寝ています。

さて、一度「りとろぐ」に作ったスレッドを全部消しました。
記事も全部消しました。たぶん誰も読んでいないんだろうなあ。
もうしばらく考えます。
ゴザンスの記事の移動は完了しています。

その間、書いたものはほかのブログにアップしていきますので、そちらでご覧ください。

やはり「書くこと」が本筋なんでそちらの方を優先したいんですよね。

でなおしです。




2004年10月14日(木) ブログのこと

旧ゴザンスが新しいブログとしてスタートしました。
システムはまだ不具合が多いようだけれど、とにもかくにもスタート。

ぼくは今ブログを三つ持っています。一つは完全に動きが止まっているし、もうひとつはメモ。もう一つはこれからですね。
で、いちばん書いているのはこの「散歩主義」だったりします。

なぜたくさん持っているかというと、作品をどう発表するか、場所をまだ模索しているからなんです。けれど、書く前にネットの環境作りに四苦八苦してたら本末転倒だなあなどと、しょっちゅう思います。

書くだけ書いて後はさっとアップできればそれがベストだから、かつてのゴザンスの方法がいちばんよかったんです。それにメルマガ機能がついているのがよかったです。

こんどのブログサイトは「りとろぐ」という名前。「文芸ブログ」になっているし、メルマガ機能もついているから期待してます。
だけど本格運用まで時間はかかりそうですね。

待っているわけにはいかないから、そろそろ「西原文滴堂」のメルマガ機能を使って、メルマガで読んでくれている数少ない読者にアナウンスしようかと思っています。

どこに移行するかということ。メルマガを継続するかどうかということ。実は「りとろぐ」での手続きはもうすんでいるんだけれど、今ひとつなんだかぴんとこないんですよ。
それとパソコン初心者はここにはこないだろうとも思います。サポート掲示板見てわかる初心者はいないでしょう。
このあたりはニュースハンドラーに近い感じかな。

だから思い切り停滞したけれどドリコムブログの誠実さはとても感じてしまっていて…。

この日記を読んでいる方でぼくのメルマガが届いた方がいれば、サイトの方にでもご一報ください。たぶん、届いていないと思う。
同じくゴザンスに詩を書いていた方も「りとろぐ」へ移行されていて、その人のメルマガを購読していたので、新しいブログからのメルマガも届いたんですが、タイトルが文字化けしてました…。

最初の不具合はどこでもあることだから、待ちます。
だけど書いたものはしばらく違うところにアップしていきます。
しかたないですね。



2004年10月13日(水) モンブランの万年筆

昨晩、ほんとに久しぶりにモンブランの万年筆にインクを装填しました。
何年ぶりになるかなぁ。覚えていないぐらいほど時間がたってました。

中に入れたままのカートリッジはもちろん空っぽ。それをはずし、ペン先を水洗いし、全体も拭いて新しいカートリッジを入れました。
久しぶりのブルーブラックのインクがとても新鮮です。

ぼくの持っているモンブランはたいていの人と逆で、いちばん細いペン先。極細。
大きな字だと少し頼りないけれど、走り書きのメモだとこのほうがいいと思ったんです。
というのも自分の書いた字が後で読めなくなるからなんだけれど、太字だと訳がわかんないし、鉛筆だと消えるし、消されるし…。

ネットもパソコンも今日は少しお休み。
どこかにだけ書いておこうと思い、結局ここに書いておくことにしました。

万年筆でリハビリ中です。



2004年10月12日(火) 花のお好きな方…

「花のお好きな方、どうぞご自由にお持ち帰りください。鉢もどうぞ」
と段ボールの裏にマジックで書かれて玄関の横に貼ってあるお家がありました。

玄関は通りに面していて、家の壁と道路とのわずかな隙間で、鉢に植栽をされていたのです。ゼラニュウム、ベゴニア、サボテンなど健在なものもあれば枯れてしまって元々何が育っていたのかわからなくなっている鉢もあります。

ハナとの夕方の散歩コースにある、わりと近所の古い家で、その貼り紙があるまでその家に、おばあさん一人だけで暮らしていたことを知りませんでした。

昨日、息子さんのような方が来られていて、おばあさんと引っ越しの段取りについて玄関でしゃべっているのが、聞こえてきました。
体が不自由になって、息子さんたちと一緒に暮らしていくような話しぶりでした。

そういえば、このミニ花壇が荒れているな、とおもった頃があって、たぶんその時は体が思うように動かなかったんでしょうね。

実は今、ある花の登場する、下町を舞台にした掌編を書いている途中で、鉢をもらおうかどうかと考えているところです。その花の鉢もあったものだから。
これを書いたらのぞいてみようと思いますが、この辺はみんな植栽が好きだからもうないかな。

「花のお好きな方…」
とてもきれいな楷書で書かれていました。



2004年10月11日(月) 贈り物のサイクリング

本当に久しぶりにサイクリングにいきました。時間は短かったけれど、本当に久しぶりに風を切る感覚を味わうことができました。
もちろん愛車、コルナゴです。タイヤを新しいのに替えていたこともあって、走る走る。

いきなりの遠出はむりなので、だいたい20�劼阿蕕い�な。家から嵐山へ行き、そこから桂川沿いに南下。五条で西岸から東岸へ渡りさらに南下。久世橋を越えて八幡に出る途中で川から離れて東へ。ずっといくと、奈良に向かうただ一つの国道24号線にでて、そこからすぐ脇を走っている旧街道の大和街道を北上。どこまでも北上。七条から鴨川沿いに川端通りを北上。御池通から西へ、堀川通りから北へ。丸太町を西へ、千本を北上、今出川通りを西へ。

つまり、京都市内大回りのショートカットコース。ほんとうは鴨川にでないで東福寺から東大路を北上して熊野神社から東へ、岡崎天王町から白川通りを北上。詩仙堂に行く道を横目にみながら北山通りら西へ、仏大から金閣寺経由で帰るというのが正式コース。これはけっこうきます。

だけどもう歳が歳なんで、飛ばさないし、無理しません。桂川の自転車歩行者の専用道なんか、ぶっ飛ばしている若い子がいたりして、危ないよなぁ。
赤ちゃんも子供もいるんだから、飛ばしたいやつは山道に行けばいいんだよね。

ゆっくりと風と光を味わいながらのサイクリングでした。
なぜ贈り物かというと、こんなことができたのも実はジャンがいなくなり、時間ができたからこそ、できるんです。
優しいジャンからの贈り物に、ありがとうと心の中で手を合わせました。




2004年10月10日(日) 秋雨前線はどこに

今日は家が空っぽになる日で、ぼくとハナと猫たちが家にいました。
京都は夏のような日差しの晴天。ところが日本海の方はずっと雨降りだったらしく、先ほど帰り着いた家の者たちは疲れ切っていました。

ほんのすぐのところなのにね。ちょうど裏日本と表日本の境にあたる土地なので、峠一つで天気は激変するのですが、あまりの違いに少しびっくり。

キンモクセイ、ギンモクセイの香りが街に濃厚に漂っています。
朝晩はひんやりしていて、こないだほんとに久しぶりに、8ヶ月ぶりかな、「さむー」とつぶやく朝がありました。それでもなんとか秋にはなってきたようです。

昨日から導入の「一太郎2004」、好調です。全く問題なし。フリーズに四苦八苦していたのが嘘のようですね。
キーの押し方がほんの少し違いますけれど、この程度だったらすぐになれると思います。内蔵してある辞書が全然違うし。

ブログをもう一つ増やしました。In Paradisumといいます。
同名の音楽から受けた感覚が出発点です。静かなテキストをどれだけ書けるかやってみます。

ブログサービスも群雄割拠になってきました。今度のブログではテキストを連載小説の形で書いている方がおられますから、限りなく文芸ブログに近い展開ができるかもしれません。

もうしばらく様子を見て、統合できるものなら統合していきたいと思っています。



2004年10月09日(土) 夜の志賀直哉

文豪・志賀直哉が京都の街を好んでいたのは有名で、実際、いろいろと所を変えながら住んでいた。
もっとも有名なのは山科区・竹鼻で、ここには巨大な石碑が残っている。竹鼻に住んでいた頃にはすでに名声は確立されていたと言っていい。さらにここから奈良の有名な住まいへと移るに従い、巨匠と呼ばれていく。

その竹鼻以前、まだ生活が苦しかったころの志賀直哉の住んでいた京都の街がある。
これは哲学の道のいちばん南端のお寺のあたりが有名で、彼が京都に最初に住んだのはここである。

この時分の志賀直哉の生き様は「暗夜行路」とだぶるところが多く、主人公の時任謙作と直子の出会いと結婚、そして二人が散策する道も、実生活とだぶっている。
そして、まさに「そのころ」、彼は京都でもう一カ所、西の衣笠にも住んでいたのだった。

衣笠というと現在の北野白梅町から西のあたりをいう。等持院があり立命館大学がある。昔は市街地のはずれで静かな住宅街というよりも、まだ畑も残るところだった。年表によると志賀直哉は父との不和を抱えたまま、勘解小路康子と結婚し、その年に衣笠に移り住んだのだった。

この結婚で父との関係はさらに悪化し、康子は神経衰弱に陥ってしまう。
二人はほどなく京都を後にし、鎌倉へと移っていく、さらに赤城山、千葉の我孫子へと移住し、我孫子でようやく落ち着くのだ。そしてその後に京都の家が再び登場する。満を持して京都に「戻った」ともみえるから、おもしろい。
有名になってから住んだ「京都」は、最初が粟田口で次が例の山科・竹鼻である。

つまり衣笠は志賀直哉が人生の最も苦しい時期を過ごした場所ともいえるのだ。
志賀直哉の生涯のなかで、なんどもなんども繰り返された(二十三回といわれている)転居の中でも、もっとも闇に包まれた場所におもえるのだ。
しかも新婚である。

それが「暗夜行路」とも重なり、物語の主人公たちは衣笠から北野の天神さんへと散策をしていたりする。

この「散歩主義」をかなり昔から読んでいる方なら、ぼくがよく歩いている道と符合するとお気づきかもしれない。
実際、ぼくはそのとおりの道を歩いて天神さんにいく。

椿寺、大将軍八神社、紙屋川の橋、物語に出てくる場所はすべて健在だ。
この道を夜によく歩く。今では大将軍商店街になっていて、ずっと東へと名前を変えながら続いている。

大規模売店が白梅町にできてから、火の消えたように静かになった商店街は夜に似合う。
歩いているとまさに「夜を往く」風情なのだ。

最近まで自分の好きな夜の散歩道が志賀直哉の「散歩道」と重なっていることを知らなかった。
現在、志賀直哉の住んでいた場所は黒板塀に囲まれた邸宅になっている。
驚くことに、都市型郊外住宅のはしりであったという。
一種のバンガロースタイルの共同住宅ともいえて、ほかに気鋭の日本画家も何人か住んでいたという。

志賀直哉というと晩年のひげを蓄えた堂々たる人格者をイメージするけれど、たぶんこのころは触れれば切れるほどの鋭い眼差しだったのでしないだろうか。

ちなみに椿寺には与謝野蕪村の師匠にあたる夜半亭巴人の墓がある。関東出身の彼の墓所がどこにあるのか案外知られていないけれど、ここにある。

もう一つトリビアを。
名をなした志賀直哉が最初に住んだ粟田口三条は東海道の洛中への入り口にあたり、罪人の遺体をまとめて乱暴に埋葬した場所であった。明智光秀の遺体もここに棄てられたのだけれど、誰かがここを這い回り、その遺体を密かに運び去ったという。


今夜も天神さんへ散歩をした。
粟田口は最近行っていない。
「光函」にでてくる「carco」は粟田口のすぐ近くである。



参考文献
「関西名作の風土」 大谷晃一・著
志賀直哉の「京都」 清水康次…京都新聞9月20日



2004年10月07日(木) Next

部屋の模様変えと「プチ大掃除」をしました。
それからパソコンのデータ整理も。じゃんじゃんフロッピーに放り込んで片っ端から削除。

そんな事をしていて、ふと次の本のことを考えました。「光函」の次のテーマでいろいろと書いてきて、どれぐらいになっているかコンテンツを書き出してみたのです。

ゴザンスと婦人公論の投稿の分がほとんどで、一つのテーマでチョイスしていくと11ありました。詩と掌編小説。それと限りなく短篇小説に近いもの。
詩の数は「光函」よりも減りますが、掌編は増えて、枚数も多くなりそうです。

だけど前回の「月光」のように、テーマと合致していれば過去の作品を直して出す事もあるし、そこから新しい詩なリ物語も創ることは可能です。
今、書いている掌編ができれば本の輪郭が見えてきます。これはゴザンスにアップします。

だけど、ネオブックの新規の発刊は凍結されていますし、編集者も不在ですから仮に再開したとしても実際に動き出すには相当時間がかかるのではないでしょうか。
来年の早々に出すとして、原稿を集めて、推敲整理をしてPDFに送るとしても、その後の校正や表紙制作、印刷の進行からいって、来月一杯がリミットでしょう。

ゴザンスからなんのアナウンスもないままに時間が過ぎていくということはあまり考えたくないけれど、ネオブックの体制はいまだに不透明なままです。

印刷業界もオンデマンドの技術はどんどんとりこんでいて、自費出版のほとんどはオンデマンドになるでしょうし、インターネットのサイトを発信基地とする作家たちは、ますますオンデマンドからの発行に傾いていくと思います。

いわゆる豪華本とか美しい製本を否定はしないけれど、本の流通のスタイルとしてよりラジカルであり、スポンティニアスな動機がすぐさま反映されるものとして、オンデマンドとそれに付随する製本、印刷技術はさらに進歩していくと考えています。
個人が版元、あるいはオーナーとなる感覚でしょうか。

ぼくの本もおかげさまで、様々な方から評価をいただきました。
誰もがネツトの画面を毎日見てくれているわけじゃなく、本だけで繋がってくれている方たちもできました。
そういう方たちのためにも、次の本を是非とも出したいと思っています。
最近は、こんなふうに「本」の制作というところから逆に作品制作のモチベーションをもらっています。

次の本の仮の名前だけは決まっています。
なんとか「本」の実現に向けて頑張ります。





2004年10月06日(水) 美しく晴れて…「富士日記」のことなど。




素晴らしい晴天に恵まれました。
日向でもそんなに暑さを感じなくなりました。秋が来ました。

昨日きた未明さんの本の中で、とても嬉しい事が書いてあったんです。
それは歌手のクミコさんの愛読書が武田百合子さんの「富士日記」だったこと。

夏ごろから、ぼくの周りでは武田百合子、武田泰淳夫婦の本ばかりが飛び交っています。泰淳さんの本の話はここでも書きました。

で、「富士日記」は、もう読んでるだけで心の底から笑えて、なんていうか「のって」くるんですよね。いつのまにかいっしょにドライヴにいったり、散歩している気分になるんですよ。
何か賞も取っていると思うけれど、とにかく最高に面白い日記なんです。文庫本主義者なんて、これを読んで日記を書き始めました。

お茶目で、聡明で、べらんめぇだし、可愛らしい。百合子さんはとても素敵なんです。お二人とももう亡くなっておられるけれど、日記にも出てくる娘の花さんは写真家、エッセイストとして活躍しておられます。
たぶん、ぼくとほとんど歳は変わらないんじゃないかな。

ある本で、その花さんが好きな音楽としてソニー・スティットをあげておられて、思わず、やったー!と思ったことがあります。
そりゃあ図太いテナーサックスの弾けるようなジャズが好きだ、と、さらりというご婦人はあまりおられませんからね。

花さんのエッセイも面白いです。


富士日記 上・中・下 武田百合子(中公文庫)



2004年10月05日(火) 幻の誕生日




今日は亡くなったジャンの誕生日。生きていれば満11歳でした。
ちょうど昨日、ある方からお悔やみの花が届いたのだけれど、これがなんとも賑やかなフラワーアレンジで、まるで誕生日のお祝いのようなんです。

その方はもちろんジャンの誕生日は知らないんですけどね。
でもその花がいかにもジャンらしくて、思わず遺影に向かって笑っていました。
イノセントでいつも上機嫌だったジャン…。
おっと、いけないいけない。

残されたハナの近況ですけれど、ずいぶん柔らかになった感じがします。目線とか表情とか。すっかり甘えん坊になってしまって、ほとんどいつもいっしょです。
以前は「私は私」とばかりに、独りで平気だったのですが。

猫たちはマイペース。
だけどジャンが亡くなってから、なんとなくみんなが一つになった気がしています。
犬も猫も死の観念というものはない、はずです。だけど彼らなりの認知のしかたはあるのでしょうね。
うわべだけではわからないけれど、言葉を超えて、ずっと深いところで互いの哀しみを感じあえれば、と思います。
たぶん、それを言葉として、まるで井戸から汲み上げるように掬い取ってくるのが人間なのでしょう。

朝からずっと雨が降っていましたが、夕刻には上がりました。
未明さんの本が届いて、それを読みながらの夜です。
かなりひんやりしてきました。

やっとジャンが楽になる季節だったのにね。

最近、想いのなかのジャンが、やっと笑顔になってきました。



2004年10月03日(日) イチロー

イチローがメジャーリーグ年間最多安打の新記録を樹立しました。ずっと彼に注目してきた人間としては、なんら驚くべきことではないのだけれど、テレビで現場を見ると、さすがにぐっと来ました。

彼から学んだものは多いです。生き方の基本的な考え方として「準備」を怠らない。「状況に逃げない」。この二点は常に見習いたい点です。準備を怠らない、ということは自分が何をするのか明確にわかっているということだし、状況に逃げない、ということは自分がどういう姿でいたいか、はっきりと掴んでいるということ。

で、何をするのかというと好きな事。彼の場合野球なのだけれど、とことん野球が好きなんだなと思います。いちばん興味深いのは「野球はばりばり趣味です。仕事だったらここまではしない」という言葉。で、座右の銘が「継続は力」なんだから、全ての人にとって、生き方のヒントにもなるんじゃないでしょうか。プロであるのなら趣味も仕事も関係ないんです。事実「お金のためだけならこんなにまでしません」というぐらいの努力を「趣味だからこそ」します。彼にとってプロとはお客さんを楽しませるプレイヤー、ということ。イチロー流の「趣味」という言葉、普通でない事は確かです。だけどこうまで言い切れる事が彼の才能であり、ゆえに幸運を引き寄せたとも言えるのでは。

ところで、何をするのかを明確にするためのメンタルトレーニングは高校ですでに徹底して教え込まれていて、小さな目標と大きな目標の組み合わせが実にうまくいっているようです。
「小さなことをこつこつやることが、大きな目標へ到達する唯一の道です」
この言葉は大事ですね。

イチローだけでなく松井秀喜、松井稼頭夫、それにカーディナルスの田口とそれぞれの「生き方」が示唆してくれるものはとても大きい。特にどん底から這い上がってきた田口と故障を克服しつつあるカズオにはとても注目しています。



2004年10月02日(土) 「ctrl+s」

朝、散歩していて銀木犀の香りに気がつきました。毎朝歩く道の途上に突然、柔らかい空間が出現したのです。それは小さなお寺の境内から塀を越えて道まであふれ出た銀木犀の大きな木で、白い花をいっぱいにつけていました。

家に戻り、今日の作業、と思ったんですが、ここのところMS−Wordの突然のフリーズに悩まされ続けていて、ctrlキーを押しながらsキーを押しまくっている状態です。
確かにパソコンそのものも古いし、そろそろ買い換えないと駄目なのは百も承知なんだけれど、なんとかこの「超こまめ上書き保存」で対処していこうと思います。

と、今もフリーズ。やっぱり句読点で、或いは変換一度に限り1回ずつ、このctrl+sをしないとだめですね。「書きこみ」→「ctrl+s」→「書きこみ」→「フリーズ」→「再起動」。このあくなき闘いなのです。yahooとかgoogleでWordのことを調べても、けっこうボロクソに言われていてびっくり。毎日、なにか強烈な言葉を見つけるんですが、今日調べていたページには、『このソフトを作った人間はどう考えても脳死している』と書かれていました。この方は某研究所でリポートを書きまくらないといけないのですが、10ページ以上の文書はWordでは恐ろしくてとてもじゃないけれど書けない、と。そうしてみると、ぼくなんかどうなるんですか!!冷や汗たらり。

この「ctrl+s」は日本語で書きながらできるプチテクニックにして、最終手段かなとも思っています。これができなくなったら、ほんとうに一巻の終わり。よくよく考えみれば、今の今までトラブルなしできたのが奇跡的なんですよね。
会社ではマジで長い長いレポートを一瞬で白紙にした人もいるし、注意はしてたんですけれどね。で、案外、日本語で打ちこみながら「ctrl+s」を押している人、少ないんですよ。これも怖い。ソフトへの盲目的な信頼は怖いです。

フリーズが増えてきたのは文書数がどんどんふえだしてからなんだけれど、要はソフトそのものが「へたってきてる」という感じがしますね。「一太郎」をインストールしようと思います。フルバージョンじゃなくて「定価」9800円のバージョンでいけるんじゃないかな。

そういえば「一太郎」はwindows版のみでした……。もうwindowsそのものに疑心暗鬼になっているものだから…。

と、この文書もなんとか、「超こまめ上書き保存」が功を奏して完成しました。この間、フリーズは1回。少なかったな…。酷い時は書き出し4文字でフリーズですからね。ほんとに「闘い」です。さあコピペしよう。


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