散歩主義

2006年01月31日(火) ハスキル/ジョイス/パウンド/ヴァレリー/谷崎

インプットの時期だとは意識していないのだけれど、音楽を聴いたり本を読んだりという日々が続いています。文章を書くための資料は集めている最中で、読むのはこれからです。

●クララ・ハスキル
今日も朝一番に聴きました。1895年生まれ1960年に亡くなったピアニストです。彼女を聴きだしたのは何年前になるのかな…。
モーツァルトの「ピアノ」は誰がいいだろう、と思案している時にある詩人の方から囁かれたのがハスキルでした。それ以来ハスキルの盤があれば躊躇なく購入しています。

幼い頃から異常なほどに音楽的才能を発揮し、8歳の時に公開の演奏会でモーツァルトの協奏曲を演奏したというほど。その後も天才ぶりを示すエピソードには事欠きません。演奏旅行にあけくれた人生といい、なにかモーツァルトとたぶらせて見てしまいます。

実際の演奏はもはや聴くことはできませんが、CDからも十分その「凄さ」はわかります。
特に名高いのはピアノ協奏曲20番、24番。
ぼくがよく聴くのは、今朝もそうだけれどコンサート・ロンドイ長調K.386。途中、オーケストラの音の隙間をもの凄い速さで、しかも軽やかに、ピアノの音が駆け上がるような部分があって、聴くたびにカタルシスをおぼえます。

ほかにバイオリンのグリュミオーと組んだバイオリンソナタもよく聴いています。

●これは自分でも驚いたんだけど、本棚の整理をしていたらツール・ド・フランスの大量のビデオテープの裏にジョイスのユリシーズがあったこと。
いつのものかというと昭和39年の発行。あるとは思わなかったから驚いてしまいました。世界文学全集だから、配本の途中のこの時期、本なんて読んでいなかったんでしょう。だから当時の貴重な「月報」も本に挟まれたまま。
それがなんと詩人西脇順三郎さんのコメントなものだからますます驚きました。その次が訳された丸谷才一さんたちの座談会。これもおもしろい。

この「ユリシーズ」は1904年6月16日のダブリン、という「その日その場所だけ」を精密そのものに書いたという凄まじい作品。しかも長い。この河出書房新社の世界文学全集でも二巻にわたって「ユリシーズ」が続きます。

●その世界文学全集の棚に「世界近代詩十人集」というとてつもない背表紙が…。当然これも「発掘」。編者は伊藤整です。
このなかにヴァレリーとT.Sエリオットがある!!!
これはこれは、ということで早速読み出しました。
ただし、旧仮名遣い。読みにくいです。おもしろくもあるけれど。
ヴァレリーが思いの外面白くて、新しい訳でもよんでみたくなりました。

ジョイスはほかの作品で新しい訳があるのでそれをいつか読もうと思っていたけれど
出てきたものは読まなければ、と読み出しました。いやあこれは凄い!
凄いけれど困ってもいます。読んでたら時間がすぐにたってしまう…。
ちなみにこの世界文学全集、一巻350円です。

●ジョイスが出てくるまでエズラ・パウンドの「大祓」をずっと読んでいて、これはこれでとても面白い。イメージの詩。
まだ読み続けています。

●で、最後に谷崎潤一郎。こちらもまだ読み続けていて「月と狂言師」を読了したところ。

だから時間がないんですよね。速読しなければ。







2006年01月30日(月) まるで春雨

●朝から細い雨が降ったり止んだり。
厳しい冷え込みはなく、まるで春の前兆のような天候。


●「音函」を2冊作ったところで本文用紙が無くなる。表紙の用紙も。
また時間を作って買いに行こう。

紙とか印刷インクについて経験を積み重ねているところだけれど、大量印刷をしているところではスペアのインクに純正でない「エコ製品」をほとんどのところが使っていると思う。廃棄された純正インクの空ケースにインクを充填したもの。値段は純正よりはるかに安い。消費サイドは助かるけれど当然、メーカーからの風当たりは強い。
ぼくがいつも行く量販店でもとうとう置かなくなった。

●「音函」の発注は続いていて、毎日少しでも多く作ろうと作業は続行中。
インク代がちょっとイタイ。
ところで小口の化粧断ちのみを依頼している軽印刷の方には少しずつ信用を積んでいるところ。時々値引きしてくれるようになりました。
ほんとにこつこつです。

●久しぶりに詩ができました。
こちらもこつこつ。

●こういうことをしながらぼくも死んでいくわけだけれど、こういうことができるというのはなんとしあわせなことだろう。
感謝しながらの日々。

●ジャンと天神さんで毎日会っていた、やはりグレートピレニーズの「ジュゴン」の飼い主だった鳥居さんが亡くなりました。

順番にみんな死んでいくのだなあ。
春のような雨を見上げてありし日を思う。
合掌。



2006年01月28日(土) はな

ぼくはほとんど夜、外に出ない。
皆無といっていいぐらい。
十代の後半からある年齢まではその逆で毎日夜は外にいた。
特に20代はほとんど家にいなかったからその頃のテレビ番組とか、どんな歌がはやっていたとか全く知らない。

犬と暮らしだしたことが大きな転機になった。
たぶんそうならなければネットもやらなかっただろうし、詩や文章もこんなふうにはならなかっただろうと思う。
それどころか肉体的にはかなり危機的な状況になっていたとも思う。

生後間もないハナが車の下に棄てられていて、それを拾い上げた時に人生が変わった。
やがてジャンが加わり、理屈抜きで夢中に犬と向き合う日々が続いた。
やがてジャンがさよなら、といってハナが残った。
夜はずっとハナと一緒にいる。

今晩、町内のあるお爺さんが亡くなり、ぼくは当番ということもあって葬儀ホールでお通夜の受付をするために出かけた。
たまたま家のものも外出しなければならず、ハナがひとりで留守番となる。
猫たちはそういうのはへっちゃら。四匹でくっついている。

昼間なら時々ハナはひとりなるけれど、ひとりの夜は久しぶり。そのせいか家のものが帰ってきた時の歓待ぶりはすごかったという。
ところがひととおり喜ぶと、玄関から外を見て動かないのだという。無理に部屋に入れるとこんどは出窓にのってずっと外を見ているのだそうだ。

普段はストーブの前から動かないのに、つけても知らん顔。
家のものがじゃれても相手にならない。さっきの歓待ぶりはなんだったのかというぐらい。

で、やがてぼくが帰り着くと、耳がぺたんと折れて、切ない声をだし、尻尾を激しく振り、おろおろおろするそうだ。
横で見ているとしらけるほどだという。
家のもの曰く、ハナはあんたがいなきゃ駄目だよお。


今は安心したようにストーブの横で寝ています。
大丈夫、ずっと一緒だよとアタマを撫でるのでありました。



2006年01月27日(金) プリムラジュリアン/モーツァルト

冬の花壇は色がないのがあたりまえ。だけど最近は冬でも鮮やかな色の花が街に溢れています。
そのほとんどはパンジーやビオラなのだけれど、それよりもはるかに鮮やかな原色の花をつけているのがプリムラジュリアン。
特に黄色と赤が鮮やか。
たしかミメイさんがこのタイトルで作品を書かれていたはずです。

さて、今日はモーツァルトの生誕250周年。
天才を様々に形容する言葉がテレビで飛び交っていましたが、ドイツ文学者の池内紀さんが、毎朝必ずモーツァルトを聴いていると語られた時の嬉しそうな表情がとても印象的でした。
池内さんの「モーツァルトは必ずかえってくるのです」という言葉も意味深。
曲の構成としての「帰結」。あるいはイマジネーションの飛翔の「帰還」。
あるいは生涯最初の作曲した曲と最後のレクイエムとが見事に重なってくる、という意味での「還ってくる」など…。

ぼくがバッハを聞き始めたきっかけは、昔、NHKFMで放送されていた「朝のバロック」でした。それを毎朝聴くうちにどんどん嵌っていったわけですが、こんど、NHKBS1とBShighで「毎日モーツァルト」という番組が始まります。毎日一曲、月曜から金曜まで、来週の月曜から始まります。BS1では朝8時から10分間。(詳細はご確認を)
夜もあります。
ぼくは全部録画しようと思ってます。

今年中全部聴いたとしてもモーツァルトの全作品にはとても及びませんが、まだ聴いていない演奏や隠れた名曲に出会えるかもしれません。

前にも書きましたけれど、ぼくはピアノ協奏曲を中心にモーツァルトを聴いてきましたから、もうひとつ馴染んでいない交響曲とオペラを今年、重点的に聴いていきたいと思っています。



2006年01月26日(木) モーツァルト生誕日前夜

1月27日、モーツァルト生誕250周年になります。
今年はそれにあわせたように様々なコンピレーションアルバムが発売されています。

それに対してモーツァルトの熱心な聴き手の人たちから、曲を細切れで売るのはいかがなものかと疑問の声がでています。
だけど同時に、これがきっかけでクラシックを聴く人が増えるのならいいことだ、という意見も併せて述べられていることも多いですね。
たしかにコンピレーションは交響曲やオペラの中の一曲をつなぎ合わせたものがほとんどです。

テレビにも彼の特集がよく登場します。そこで語られる天才のエピソードが愉しい。楽譜は半分しか書かず、演奏会で演奏しながら譜面を埋めていったとか。

今日はピアノ協奏曲の26番と27番を聴きました。内田光子さん。

モーツァルトの熱心な愛好者の組織「モーツァルティアン・フェライン」の会長、若松茂生さんが京都新聞のコラムで
『日々の糧のように聴いてください』と提案しておられるのだけれど、ぼくはまさにバッハをそのように聴いてきたから、モーツァルトも一度そのように聴いてみるのも面白いかなと思っているところです。

ちょうどピアノ協奏曲15番の素晴らしいアルバムが出ているとのことなので、そちらもチェックしたいですね。



2006年01月25日(水) 初天神

am5:00 起床。コーヒーを碾いて、淹れる。掃除。水が手の切れそうなくらい冷たい。

am6:10 ハナと散歩。
am7:30 朝食、ごはん、舞茸、椎茸、シメジののみそ汁、黒豆、高野豆腐と人参、三度豆のたき合わせ、小松菜の胡麻和え、焼き明太子、ヨーグルト。

●今日は「初天神」。今年になって初めての、天神さんの縁日です。今出川通りは凄い人でした。最近さっぱりいかなくなって前を通り過ぎるだけ。今日もキャットフードを買いに行った帰りに、通り過ぎたのでした。

●作品の題材を捜していて、老子の言葉にであう。

木も草も柔らかく生えてくるのに
だんだん成長するにつれて固くなり、やがて枯れて死んでいく。
死ぬ時は人間もカチカチじゃないか。
柔らかさ、温かさ。そういうものこそあなたの命なんだから、
その命に従いなさい。

タオはやさしいですね…。

正午 昼食。カレーライス。

●「音函」製作続く。今日、化粧の済んだ25冊がぼくの元を離れていきました。
●瞑目して作品を考える。
Babyfaceを聴く。

pm15:00 お茶。昨日から中国茶を飲んでいます。ジャスミンと緑茶のブレンド。

pm17:30 ハナと散歩。
pm18:30 夕食。牡蠣と三つ葉、葱の鍋、雑炊、揚げ餃子。

●「相棒」をみる。



2006年01月24日(火) Like a Rollin`Stone

ライヴドア社の堀江貴文社長が逮捕された。
逮捕前に強制捜査を受けており、ほかのファイナンス系の取締役も逮捕された。まだ全容が解明されたわけではないけれど、彼らへのインタヴューを聴いていて彼らが勘違いしていると思った点がある。
「違法性はないと認識しているから逮捕されることはない」といっていたことだ。

検察にとって、というか犯罪の立件に必要なのは被疑者の「認識」ではなくて「事実」かどうかという点だけなのだ。事実を認めた上で違法性はないといっても、違法かどうか決めるのは被疑者たちではない。法であり、裁判官である。
「違法性はない」ということと「逮捕されることはない」はイコールで結ばれない。
逆にいえばだから怖いんだけれど。
(国会で証言をことごとく拒否したヒューザーの社長がいちばん恐れたのはそのことだと思う。証言すれば「事実」が積み上げられていくからだ)

ポータルサイトとしてのライヴドアには定評があるし、利用している人も多い。また22万人もの株主がいるという。逮捕されなかった取締役たちはたぶん本来のIT系の人たちだろうと思う。その人たちで会社をなんとか存続させることができるだろうか。
彼らには厳しい季節が続く。

「常は無い」
物事はすべて変わっていく。
仏教の最大の教え「無常」を思った。

考えてみれば悩み苦しみながらも一つの道を歩んでいることが答えなのかもしれない。
何故なら変転を続けるものには苔も生えない。

だから結果として自分自身は一つもぶれていない。
成功とかをいうからややこしくなる。信じることをやるだけだろう。

それが間違っていたら?
潰れるだけ。子供でも知っている。

我慢できるか?自分を支え続けることができるか?
肝に銘じたい。



2006年01月23日(月) 雪は降るけれど

am5:00 起床。相変わらずの冷え込み。ストーブに点火して珈琲を淹れる。珈琲は今日からしばらく自宅で豆を碾きます。豆はいただきもの。ローストが深いので香りがいいです。
外はうっすらと雪。

am6:00 ハナと散歩。路面が凍結しているので慎重に歩く。雪はさらに積もる。

am7:30 朝食。ごはん、舞茸とワカメのみそ汁、お揚げとおろし、ほうれん草の胡麻和え、

●一時はまた積雪かと思われたけれど、昼から一転して晴れ上がりました。ただし西からの強烈な風。空から雲が吹き飛んだ恰好です。

●「音函」を送付。二十冊を化粧断ちに。ちなみに送付させていただいている宛先では圧倒的に神奈川県が多いです。ありがとうございます。

正午 昼食。焼き飯。だけ?だけ。

●さて今週はモーツァルト・ウィークです。1月27日はモーツァルトの250回目の誕生日だから。アマデウスは水瓶座だったんですね。なんだか納得です。
というわけで世間に便乗してモーツァルトを聴く一週間にしてみます。毎日聴き続けると止められなくなる可能性もありますが。

pm15:00 お茶。今日はダージリン。
pm17:30 ハナと散歩。雪はすべて融けて、冷たい西風が吹き抜けていま。

pm18:30 夕食。お好み焼き。(豚、牡蠣)

●エズラ・パウンドを読み直す。





2006年01月22日(日) 天神さんの梅が咲く




気温はかなり低く、しかし雪は降ってこないという天気。
北野天満宮の梅を見にいったらば、この低温にもかかわらず蕾はどんどん脹らんでいて、白梅が一輪だけ咲いていました。

どんなに寒くても、やがて春が来る。
植物たに内在している「時計」は刻々と春近しを告げているのでしょう。

谷崎潤一郎「月と狂言師」のなかの「磯田多佳女のこと」を読了。
通人、粋人には京風、東京風はなく、おしなべて同じタイプの人間だと谷崎が述べているのは、まさにそのとうりだと思いました。

ただし京都の古典芸能を東京風にアレンジするのはまちがい、とも。
京都の踊りでも東京風にすると結構、繊細なのは東京のほうなのだけれど、「そうしてしまうこと」が間違い。

つまり野暮なものは野暮でおいておく、それが「味」だから。
例えば野暮な地唄を洗練させたら味が無くなる、と。
谷崎はそういうことをいっているのだと理解しています。

だんだんお多佳さんの姿がイメージできるようになってきました。
何とも美しい、というと語弊があるけれど、まるで文人の美に殉じたようなその人生の最後といい
ぼくのなかで物語ができつつあります。
なんとかまとめ上げることができればよいのですが。




2006年01月21日(土) 尖る

●婦人公論を読んで考える。
今年最初の詩のフォーラムが掲載されている号が届きました。
今回は「音函」に没頭していていい作品を応募できなかったのですが、気になったのは井坂さんがある投稿者に「詩集か詩誌か次のステップを考えなさい」とおっしゃっていること。この方はとても素敵な詩を書かれるかたで、注目していました。佳作、入選の常連でもあります。

井坂さんの言葉は、彼女のレベルならばもっと「上」を目指せ、ということだとぼくは思います。
ぼくは、このフォーラムは詩集をだしておられる方でもどんどん投稿されてくるレベルの高さを感じていたのですが、井坂さんから見ればやはり力のある方はさらに上を目指しなさい、ということなのですね。

彼女の詩はもはやこういうコンペティションの場にとどまっているものではないということでしょう。

以前ある詩人のかたが詩集を出した背景について、ある新人賞をもらったためにどこのコンペでも門前払いをくった、とおっしゃっておられました。それでもう自分の詩集を自分で出していくしかなくなったのだ、と。

編集者がついてくれて、本を作るということは生半可ではできません。自分に自信が持てずに投稿を続けるというのもあるし、他流試合というか、自分のレベルを知るための投稿もあると思います。
今回の自覚を促している評は厳しいようにも読めるけれど、喜ばしいことでもあるのでは。
井坂さんがひとりの「詩人」の誕生を告げたのだと思っています。
さて二冊の本をだし投稿を続けている私はまだまだ投稿を続けていきます。

●同じような文脈、というわけでもないのだけれど、週刊ポストに連載されている重松清さんの小説「なぎさの媚薬」にも、プロの小説家をめぐる話がこぼれだしています。これは主人公が駆け出しのフリーライターで小説家志望だったという説定だから当然といえば当然。

村上春樹さんのデヴュー直後に対する気持ちとか、フリーライターの先輩がいきなりサスペンス大賞を受賞して大作家になっていくエピソードには説得力を感じます。こういうふうに書く重松さんの「目線」を思います。

ぼくの同世代の文学部の連中はほとんど「風の歌を聴け」を読んでいませんでした。
「なぎさの媚薬」にでてくる『あんなの一発屋だよ』という台詞以前のことです。たぶん読まないまま歳をとった人が多いでしょうね。最近になって読み出したという人は多いかも。
あうあわないはあるし、好き嫌いもある。賞賛と反発もある。だけど読まなきゃわかんない。
ちなみにぼくの後輩には、熱狂的な村上春樹ファンが多いです。先輩には大嫌いという人が多い。

そんな「なぎさの媚薬」のなかで後年、大作家になっていく先輩のフリーライターの言葉が何度も登場します。それが「流されるなよ」という台詞。
書き出してみます。
……
「いいか、流されるなよ」
目先の仕事に流されるな。
フリーという気楽な立場に流されるな。
スキャンダルを追い続けるうちに、まっとうなオトナなら誰でも持っているはずの感覚が麻痺してくる。その慣れに流されるな…。
その先輩の言葉を噛みしめるようになったのは、三十を過ぎてからだった。
四十を過ぎると、噛みしめるのが辛くなった。五十を過ぎた今は、それを聞いたことも忘れてしまったふりをしていた。
(中略)
あのひとはフリーライターの仕事をただの一度も下積みだ愚痴ったことはなかったよな…。虚空に浮かぶまなざしになった今、初めて、気づいた。
……

若かりし頃の主人公は、記者生活十年のこの先輩に、あんたとは違うんだよ、とこっそり冷ややかに笑っていました。俺がその気になれば、今書いている長編小説が仕上がれば、あんたはもう先輩づらして忠告することなんてできないはずだ、と。
しかし、結果として当時のフリーライター仲間から作家になったのはその先輩ひとりでした。

この小説を読んでいて気づかされるのは、もちろん「流されるな」ということなんだけれど、じゃあどうするのかと考えた時に「尖る」という言葉が浮かんできました。

しかしその「尖る」というのは、世間に対して傲岸不遜なまでの自信を持つというのではなく、自分自身に向けてだということ。
「書くことなんてこんなもの」という気持ちがすこしでもでだしたら、それで終わりということでしょう。

そんなことを考えています。











2006年01月20日(金) 部屋に絵があるということ

午前五時、起床。紅茶をいれようと昨晩、思っていたのに、いもどおり珈琲を淹れてしまう。今朝は昨日より寒い。曇っている。

午前六時過ぎ、ハナと散歩。プールとフェンスを取り壊した公園は、まんなかあたりにあった灌木もすべて抜いてあった。跡には真新しい土が花壇のように盛られている。花壇ならまだしも、公園の管理を市がそれほど頻繁にするとは思えず(つまり毎日の水遣りなど)、つまりは芝生を敷くのではないかと思っている。

午前七時半、朝食。ごはん、舞茸とワカメのみそ汁、小松菜とお揚げのたいたん、じゃこおろし、ヨーグルト。

正午 昼食。バケット、バターとジャム、牛乳。

昼過ぎ 大丸から竹林柚宇子さんの絵が配達される。17日まで展示されていてそれから送ってくださった。「いち、にい、さん」という三連作のたぶん「さん」だと思える一枚。観にいってその場で購入したもの。

部屋に絵があるということは、ずいぶん精神に及ぼすものがある。生活に、というべきか。
作品を展示されている場所で購入するのは、実は初めてのことだ。それが竹林さんの作品でよかったと思う。
竹林さんの作品は「光函」の表紙となったものも戴いているので、これで二つめになる。

絵を飾ると部屋に「気の輪郭」ができる。それはぼくの望んだ輪郭でもある。
しあわせなことだ。

午後三時 お茶。今日はイングリッシュ・ブレクファスト。もう午後だが。
BabyfaceのGrown&Sexyを聴く。

●小説「シャツ」を全編原稿用紙に写す。これから書き直し。作品集の材料はほぼでそろった。
●詩を書くべく薔薇の前に座る。

●次の本について。
全編書き直し中のため、発行は遅れます。ページ数が200ページ前後になるのでホチキスの綴じは無理。糸で括り、製本糊をつかった本格製本になるため、冊数も多くは一度にはできません。
目次も流動的です。変更の場合があります。
ということで骨組みだけができている状態です。実は本文も一度はレイアウト済みなんですが、全部破棄してみなおしています。

午後五時半、ハナの散歩。
午後六時半、夕食。おでん。お造り(ヒラメ、鯛、中トロ)

●岐阜の読者の方からメールを戴く。
「音函」を介護のあいまに病室で読み継いでいただいた。
「温かい雨」について、素敵な感想をいだいた。とても嬉しい。
勇気百倍です。励みになります。ありがとうございます。





2006年01月19日(木) 1.19

am5:00 起床。雪がちらついているけれど積もるほどではないし、凍てつくほど冷えてもいない。珈琲を淹れる。

am6:10 ハナと散歩。児童公園の「ちびっこプール」が解体されていた。公園内のフェンスも撤去。財政難と少子化の影響だろうか。少なくとも「児童公園」とされているのに、実体はゲートボール場になりつつある。
2007年、大量の定年退職者が町に溢れる。今まで会社や工場に行っていた人間が一日中街を徘徊する。世の中の風景はかなり変わるだろうと思う。どちらを向いても老人がいるというふうに。

am7:40 朝食。ごはん、舞茸とシメジとエリンギのみそ汁、小松菜とお揚げのたいたん、じゃこおろし、ヨーグルト。

正午 昼食。ピザ・マルガリータ、ミルク。

pm15:00 お茶、玉露。

pm17:30 ハナの散歩。一日中雪がちらついていたけれど、積もることはとうとうなかった。寒さは明日の朝から本格化する。

pm18:30 夕食。おでん各種、ごはん、カレイ、

●詩を書きすすめる。小説の推敲もすすむ。
●ルルが家のものから「よしおさん」と呼ばれている。ほんとにそんな感じなのだそうだ。で、よしお、と呼んでみると確かにそんな感じがするから不思議だ。 



2006年01月18日(水) 小説を再開、詩を書き始める。

am5:00 起床。珈琲を淹れる。明日から紅茶にしてみようと思う。
新聞はライヴ・ドアと耐震偽装工作についての証人喚問。
いつもの5:00起床に戻したので、あたりまえだけど掃除が終わるのが早い。

am6:10 ハナの散歩。
am7:45 朝食。ごはん、舞茸とワカメのみそ汁、鰯のみりん干し、納豆、黒ごま、トマト、ヨーグルト。

●「残光」を読み継ぐ。小島信夫さんの「菅野満子の手紙」「寓話」を読めば作品世界の厚みはさらに増すと思います。
大庭みな子、河野多恵子、両「女流」の登場で話はさらに層を重ねていっています。
とにかくこの小説を読み出してから、小説に対する考え方というか見方がぐらぐらに揺れています。「何か」ということを具体的に指摘はできないけれど、「小説に対する考え方や取り組み方」がその中にはいっていることは間違いないと思います。

●自分の本の仕事を再開する。
●Maxwell;Now

正午 手巻き寿司

●芥川賞に絲山さん。彼女の「袋小路の男」はたのしく読みました。受賞作は未読。彼女が中学生の時、一年に500冊以上本を読んだという紹介があって、それに驚きました。

pm15:00 玉露

pm17:00 ハナの散歩。少し食べ過ぎていて二度歩くことに。犬も人も。

pm18:30 夕食。自家製餃子、麻婆豆腐、豚ともやし炒め。

●夜。ドラマ「相棒」をみる。もちろん水谷豊がめあて。毎週見ています。
ぼくにとっての彼の元型のイメージははいつまでたっても「傷だらけの天使」であり「青春の殺人者」なのです。今でも強烈に残っています。特に「青春の殺人者」。

水谷豊の現在を思う時、彼の演技の一つ一つが「意図的に大人であろうとする意志を見せている」ように思えて仕方がないのです。そのためにあえて癖を創る、というか。
例えばあのクールな眼。小説ばかり読んでいる人のような語り口。若かりし頃の水谷豊はかけらも、片鱗すらありません。若い時は若い時なりの「癖」を演技につけていましたけれど。

彼の生き方や演技には興味があります。


●「残光」読了。
自分の作業にかかります。本の原稿を詰めていくこと。新しい詩を書き起こすこと。

それでいいのではありませんか?



2006年01月17日(火) 1.17

阪神淡路大震災から11年が過ぎました。
亡くなった方のご冥福を祈ります。

am5:00 起床。珈琲を淹れる。ラジオをつけるとちょうど発生した時刻にあわせての神戸での追悼行事を中継していました。それを聞きながら掃除。
●そういえば地震の時はジャンが生きていて、取り乱すことがなかったな、と思い出す。

am6:20 ハナと散歩。

am7:45 朝食。ごはん、舞茸とワカメのみそ汁、新じゃがとモロッコインゲンのたき合わせ、焼きお揚げのおろしのせ、トマト、ヨーグルト。

●「残光」を読む。この小説には小島さんの周辺の方が登場するのだけれど、脳梗塞、アル中、痴呆など改めて書き出してみるとかならずしも「穏やか」とは言い難い状況であり、それに加えてご本人の「老い」も確実に進行しているのだけれど、そのことが隠されるそぶりすらない。むしろ、繰り返しなんども語られている。
庄野潤三、山田稔、甘糟幸子など「老い」を書いた小説はあるけれど、そのどれとも違う。しかしながら率直に書かれているのだな、という思いはどれを読んでも思う。


正午 昼食。パン各種、牛乳。

●Babyface;Grown&Sexy
●「残光」を読み続ける。小説はますます闊達に動く。厚みをましていく。これはいったいなんなのだ、と思う。凄い。だけど形容しがたい凄さでもある。美しいとか汚いとか優れているとか傑作だとかいうものとは違う「凄さ」。

pm15:00 お茶。玉露。

●「残光」を読むと、小説が書きたくなる。書けるという気になる。

pm17:30 ハナの散歩。また寒くなるそうだ。そりゃあ冬の本番はこれからだ。

pm18:30 夕食。手巻き寿司(玉子焼き、トロ、鯛、穴子、いか、蛸、など)

●「残光」を読む。ところで文庫本主義者はスカーペッタの新作のできが酷いとぷんぷん怒っている。

●「残光」にでてくる「弱い男」の文学。三島由紀夫が「小説に弱い男が登場するのには我慢ならない」と対談でテネシー・ウイリアムスに言ったところが、彼は非常に驚いて「戯曲や小説に登場するのはみんな弱い男ばかりだ」といったとか。小島さんも「弱い男」の小説である。少なくともぼくにはそう見える。それがよいとか悪いとかいうものじゃ無いとも思う。

●Babyfaceを欠かさず聞いている。
彼の歌詞には昔から明らかに彼がスーパー・フェミニストであることが強く打ち出されている。何が弱さかと考える時、マッチョであるということに対してはぼくはネガティヴな思いしかない。
ジョーとかベイビーフェイスなんかは本当にフェミニストだ。

●「残光」を読み継ぐ。



2006年01月16日(月) 「日曜大工」式

am5:20 起床。珈琲を淹れる。新聞をぱらぱらと読む。

am6:30 ハナと散歩。昨晩ハナはぼくのベッドからとうとう自分のベッドにいかなかった。つまりぼくにくっついて寝ていたんだけど、どうしたのかな。ただ、そうしてみたくなったんだろうな、と思っています。

am7:40 朝食。ごはん、舞茸とワカメのみそ汁、みりん干しねお揚げと小松菜のたいたん。海苔、漬け物各種。

●小島信夫「残光」を読む。保坂さんの「書きあぐ」の中で小見出しとして書かれた「小説は〜である」という言葉がすべて当てはまる。圧倒的であり小さなお話をできうる限り集め重ね、層をなしている小説。特に「物語を重ねる」ということは強調したい。
単純ではなく、ひっかかりはそこらじゅうにある。なによりおもしろい。
小説を書く人、書こうとしている人にこういうのもあるんだよ、と伝えたい。好き嫌いは置いておくとして。

正午 昼食。トーストと紅茶。昨日のミネストローネ。

●「残光」を読む。「残光」という意味がいくつものイメージとしてぼくに見えて来つつある。

pm17:00 ハナと散歩。少しずつ寒くなってきた。
pm18:30 夕食。マカロニのボロネーゼ風、ビーンズ、ローストビーフ。

●「残光」を読む。ちょうど田中小実昌さんの「ポロポロ」を読んでいた時のような感覚になる。流れている空気がとても似ている。

●Jaheim;Ghetto Love
Babyface;Grown&Sexy

●1983年に「流行通信」という本屋が、当時パリに滞在中のいろんな分野のアーティストがいたと見えて、彼らひとりひとりとのインタヴューを大きな写真入りで出した。その中にクロード・シモン(この人は私より二、三年、年上かもしれない)が、もともと絵描きだがそのなかで「日曜大工」ということをいって自分の小説の書き方の話をしているところがある。家を建てたり、道具をこさえたりする人は、普通見取り図を書くだろう。ところが「日曜大工」は行き当たりばったりに仕事をする。仕事とまで行かないかもしれない。自分はその「日曜大工」式にやるのだ、といっている。私もこの方法が好きだ。不安だが、いつも現在とりかかっているところから始まる。以上のことも、もしそうできればやりたいと考える。やりっぱなしで無責任のように見えるが、責任なしには一歩も進めるものではないでしょう。

(「残光」小島信夫:「新潮」2月号より)



2006年01月15日(日) ガンバレ!ニシハラ!!!

am5:30 起床。ずいぶん暖かい。空は曇り。珈琲を淹れる。
日曜なので軽い掃除。

am6:20 ハナ子と散歩。冬至から日にちも経ち、「日」は延びているのだけれど、どうも日没が先に伸びているようだ。日の出はそんなに早くはなっていない。ここのところの暖かさ、といっても僅か二日だけれど、山茶花が散り始めた。次は侘助。

am7:45 朝食。トースト、自家製リンゴジャム、愛東町の夏みかんジャム、サツマイモのミネストローネ(サツマイモ、人参、セロリ、ピーマン、など野菜がどっさり)

●新潮二月号を読み出す。もちろんお目当ては小島信夫「残光」。のっけから保坂さんの名前が頻出。話がうねるように続いていく。急がずにゆっくりと読んでいます。

●Babyface;Grown&Sexy

正午 昼食。生姜焼き弁当。ここのところお昼は府庁前の路上でリヤカーで売られている無農薬野菜だけの精進弁当を買いに行くことが多いです。府庁前というよりも第二日赤の前といったほうが正確かな。病院の用事のついでに見つけた弁当屋さん。この辺りは京都の官公庁が集中しているところで車の弁当屋さんが多かったのだけれど、全部姿を消しました。たぶん交通の邪魔になるからでしょう。その弁当屋さんは30歳代くらいの女性が独りでやっていて、一度、下長者町を日赤に向けて走っている時に、黄色にペイントした小ぶりのリヤカーをひいている彼女を見たことがあります。
で、このお弁当おいしいんですよ。薄味で。野菜だけで。
身内に病人がいる関係から食べ物には気をつかっています。そちらにもいいですからね。
今日は日曜日だからお休み。
そうそう何故彼女にだけ立ち売りの許可が出ているかというと、自動車を使わないからです。小ぶりのリヤカー、かっこいい。

●昼から全国都道府県対抗女子駅伝で街は賑やか。
優勝候補の京都はしかし、一区、二区と大きく出遅れ。京大の前を走るところで小崎さんが凄みのある走りでトップにでたけれど、アンカーの福士さんとそのまえの中学生まで繋いでいくのは高校生。 後ろからは大学生や社会人が追ってくるというハラハラもんの展開。だけど高校生たちは譲らずに快走しました。結局、優勝したのだけれど、その高校生に西原加純さんという方がおられて、彼女もがんばってトップを死守したのだけれど、ちょうど北白川別当町のあたりで「ニシハラ、ガンバレ!!」と歩道から声が飛んだんです。テレビで見ていてぽーんとこっちまで声が飛んできた感じがしました。自分が励まされたような、というとだいぶおめでたいようだけれど、「おめでたいままに」その言葉を大事に受け取りました。

西原選手は宮津高校の所属。天の橋立のある街です。
ニシハラという名前が珍しいというか、あまりこういう場では聞かないので不思議な感覚がしました。


pm15:00 お茶。今日は玉露。

pm17:00 ハナの散歩。空は晴れてあたたか。風が少し冷たかったけれどそれが気持ちいいぐらい。

pm18:30 夕食。牡蠣フライ、ごはん、トマト、たたきゴボウや数の子などおせちの残りをさらえてしまう。ほうれん草の胡麻和え、生麩のたいたん。

●Babyface;Grown&Sexy
Randy Crawford;Naked and True    



2006年01月14日(土) 拠点と作品

昨年の秋に作品集「音函」を出してから、次の本の制作をはじめ、今月には出そうと思っていました。すでに「音函」以上のページ数がパソコン上にはできています。だけどちょっと待てよ、と思うのです。本当にこれでいいのかということ。簡単すぎないか、と。
もっと、本来「踏みとどまらねばならない難しいところ」を合理化してしまっていないか、つまりすり抜けていないかという引っかかりがあるんです。書く時は結構苦しんだのに、まだ本当の苦しさをくぐっていないという気がしています。作品の体裁はそれなりに整えられても、不満が残りました。それは作品がもうひとつ生きていない、と思えたこと。動いていないというか。
全く違う観点から小説を見直したいと思ったのです。いくつかの「きまり」をつくって全編書き直したいと思います。

ということで本の制作はもう少し先になります。よいものを納得のいくものを創り、送らせていただきたいので今しばらくの時間をください。

制作と発表の拠点をサイトにしようと思います。
サイトに発表したものも推敲と書き直しを加えています。それはたぶん本の形で結んでいくと思います。各ブログに掲載した作品も順次、サイトに組み込んでいき、ブログそのものの数を減らしていきます。ブログにはアダルト系のトラックバックが多くて、いちいち禁止IPをだすのも手間だし、そういうものの少ないところに集約していこうと思います。

それと原稿用紙の復活。制作のスキル上、原稿用紙100枚以上どころか50枚程度でもスクロールして読んでいくのはしんどいんです。作品全体を書いたところまで読み返しながら前進していくぼくのやり方だと、どうしても追うのが辛くなるのです。
今年は長編を書くと新年に決めました。最低でも200枚は超えていきたいので これは原稿用紙に書きこみつづけていくことになります。詩はすでに原稿用紙に書いていて、それをPCに打ち込んでいたのでそのやり方を続けます。

さらに筆記用具。太字から中字へ。つかう原稿用紙がB4です。(これは投稿に指定されたサイズでもあるのですが)升目が大きいので三菱のユニボールシグノの太字を使っていました。ところが小説で細かく推敲を書き込むと字が潰れて読めなくなるんです。それで「中字」サイズを使ってみます。細字を使うとぼくの筆圧だとペン先がすぐに摩耗してしまうんですよね。モンブランの万年筆もいいんだけどそれだと買い換えなければならないし、だいたいぼくはインクのカートリッジの消耗が早いものだからあまり積極的に使い込む気にならないんです。
今いろんな会社のペンを試しています。

それでも本は出したいので、一生懸命作業は進めていきます。
よろしくお願い致します。




2006年01月13日(金) 耳と鼻

この日記を読んでくれている方の地方でどうかわからないけれども、この冬、京阪神では火事がとても多い。
例年になく寒さが厳しいために暖房器具をフルに使っていて、間接的にはそれが原因になっているようにも思う。

ぼくがとても気になるのは火事の時に必ずと言っていいほど死者がでることだ。昔の個人宅の火事でこれほど死者が出ただろうか、と思う。

ある方から最近の火事で亡くなる方は焼死ではなく、新建材が燃える際に発生する「毒ガス」で亡くなるんだと言われたことがある。
例えば外から見たらぼやのような火事でも人が亡くなっていたりするのはそのせいかと思っていた。

だけどその説明でもイマイチ納得できないのは古い木造家屋でも亡くなる人が多いのだ。何故だろう何故だろうと思っていたら、似たようなことを考えている人がいて、その方は「感覚脱落」という説明をされていた。
書かれたのは鴨下信一さんで、昨年末のサンデー毎日に書かれていたと思う。

鴨下さんがおかしい、と感じたのは火事を発見した人たちが一様に、火柱が上がっているのを見て火事だ!!と思ったといっていること。
そういえば確かに昔はそうじゃなかった。火柱が見える頃というのはもうかなり火が回っている状態で、その前に絶対「匂い」がしたはずなのだ。
「きな臭い」という匂い。それでおかしいと思ってよく調べたら火事だったというパターンがおおかったと思う。

ひょっとしてその「きな臭い」匂いに対するセンサーが退化してるんじゃないか、と鴨下さんは言う。
うーむ。そういえばなんだかやたらと死者が多いのも説明がつく気がする。
発見が遅れるし、何より当事者が全然匂いに反応しなかったとしたら…。

鴨下さんは「音」に対しての感覚も鈍麻しているという。それはなによりも街でも部屋でも大音量を浴びまくっているというのが理由。
繊細な音に対する感受性がどんどん失われているのではという推論である。
確かに大音量を浴びすぎると年齢と共に酷い難聴になるリスクを抱えてしまう。それは事実だ。

これらの感覚の「退化」についてその原因を視覚優先の現代の文化にあるとおっしゃるのだが、どうだろう。
何でも視覚優先。
こうやって打ち込んでいるネットからしてそうだなあ。

じゃあどうする。
少なくとも意識的ではいたいけれど、
問題はその先の生活行動なんだろうなと思う。



2006年01月11日(水) BLUES

ブルースを聞くとなにをやってもトラブルが続くというジンクスがある。
ここのところバディ・ガイやジュニア・ウエルズばかり聞いていたからなにをやってもヘマばかり。

いいことはないのか。
あるよ。
薔薇に元肥をたっぷりやって、上から畳屋さんからもらった畳の切り落としたヘタのところをほぐしてマルチングができた。
冬の薔薇はふかふかのベッドのようにしてやるのがベストなんだ。

畳の縁の5�僂阿蕕い世�らたいしたこと無いと思っていたのだけれど、糸をほぐしたら結構な量の藁がとれた。あんなにたくさんのい草をぎゅうっと締め付けているんだな。

もう一つは、本づくりが進んだこと。
もう全部いれちゃえ、とたくらんでいる。

もう一つは保坂さんの本を読んだこと。めげた時は保坂和志という、これも決まり。

これから寝る前に何を聞くかな。
スティヴィー・レーンボーンだね。間違いなく。



2006年01月10日(火) ああ詩人よ

ひとりの女流詩人の詩に関する記事をじっと読みました。
たまたまです。それほどきっちりと読んだことのない方でした。
平田俊子さんといいます。

記事を抜粋して写しておきます。

<私は平凡になりました/平凡な女になりました/
 いいえもともと平凡ですが/平凡ゆえに/
 平凡であることを認めたくなく/ほかの人と多少違いはしないかと/
 平凡にうぬぼれておりました>

 平田俊子が2004年に出版、萩原朔太郎賞を受けた詩集「詩七日」のなかの「十四月七日」はこんなふうに始まる。
「書いても書いてもつまらない気がした。『わたしは平凡な人間だ』と開き直ってやっとできた詩です」
 自分は特別な存在だと思いたい。だからこそ表現もしたい。だがそう思うことこそ平凡なのだと平田は気付く。
「どこまでいっても平凡からは逃れられない」と。
             (京都新聞1月10日朝刊より)

「詩七日」は「詩なのか」にかけてあるのと同時に、詩誌の連載のために毎月七日に詩を書くことを自らに課したことからきています。

 ああそうだな、と思いました。女を男と書き換えても成立する詩だけれど、はたしてこう書ける男がいるかな、とも。

 さてだとしたら平凡にヤスリをかけて尖らせていくのでしょうか。平田さんのその後の詩を読みたくなりました。

 彼女の歩みは詩集そのものに現れています。別居夫婦のこと、離婚のこと。苦しい時、詩を書くことで自分を支えていた、といいます。
 これ以上底割れしそうにない心がころん、と転がっているようです。
 そしてこの「詩七日」の詩に到達したわけです。

 もともと言葉遊びの詩の人だと勝手にイメージしていたんですが、読まないと駄目ですね。反省。
 もちろん言葉遊びの詩で面白い詩はすでに詩集としてありますからそちらを読めばいいわけですが。

 イメージの詩を書こうとしていた矢先にずんっとやられました。
そしてイマジズムでも言葉遊びでもシュルレアリスムでもなんでもいい、ああ詩人よ、と思ってしまうのです。

それによって自分を支える人よ、と。

平田さんの言葉
「本当のことを書いてもうそに見えてくる。百パーセントのうそも難しい。詩を書きながら引き裂かれる感じがあるんです」

現実と詩との距離についての言葉です。
なんども読んでは考えています。



2006年01月09日(月) 厳冬は終わるのか

こないだ書いたとおりになりそうだ。
来週、曜日は定かではないけれど一気に三月下旬なみに気温があがるとか。

大雪災害の地域には救いだけれど、屋根からの落雪や雪崩れ、ところによっては雪泥流に要注意ですね。
だけどこれで記録ずくめの厳冬が終わるのかどうか…?

今朝は焼き餅とけんちん汁をたべました。朝から焼き餅っていうのもいいです。

相変わらず「音函」も印刷。
新しい本の原稿も少し前進。



2006年01月08日(日) いかに生きるか。いかに死ぬかではなく。

わたしは同年代の人が亡くなっていく歳になりつつある。
脳疾患系の病気はむしろ40代に多かったような気もする…。
わたしは団塊の世代の真後ろの世代に属しているけれど、亡くなる人が結構多い。

一方では長寿が進んでいる。けれど、そのクォリティー・オブ・ライフについての言及があまりなされていない。
極端な話、あなたはそんなに無理をしてまで長生きしたいですかと問われたらなんと答えるだろうか、と考えてみた。
ある一定の年齢に達したとして。

とにかく生きてればいいんだと、中味なんて二の次、と思わざるをえないような老人医療の現場も実際に見ている。
淡々と寿命をまっとうするだけ、といいたいのだけれど果たして現実はどうかわからない。それすら許されないかもしれない。

人が死ぬたびに思うこと。
一日、一日を大事に生きよう。
ほんとうにそう思う。

長生きしたい、そしてころんと死にたい。
それは死に方への構想、願い。
それよりもそれまでの生き方だけを考えていたい。

手本にしたい人は先達にいるのだし。




2006年01月07日(土) 太陽

早朝の空は澄み切っていて、ハナと散歩に出た時の冷たさもむしろ心地よいくらいに感じていました。ところが午前八時前後から天候が急変。雪が烈しく降り始め街はあっという間に真っ白に。
そういえば天気予報で現在、鳥取あたりに強力な雪雲の塊があってそれが西に向かって進んでいますといっていたっけ、と思い出す間にも雪は降りつづき、あれよあれよという間に積もり出しました。

それにしても今年の寒さは凄みがあります。
こないだ牛乳配達のおじさんが、ぼくらが子供の頃に戻ったみたいやねといっていました。確かに、昔、京都にまだ市電が走っていた頃の冬は本当に寒かった。だけども気象台によればその頃よりもさらに寒いそうです。
ある気象予報士は江戸時代の冬だと思ってくださいといっていました。

きょうは作業をしながらバッハのヴァイオリン協奏曲をかけていました。するとそこに現れた文庫本主義者。この人はバッハが大嫌い。ショパンが大好きで、次がモーツァルトというひと。バッハをやめてヨーヨー・マのチェロでSoul Of Tangoをかけました。文句はでず。

ピアソラの曲を弾きまくっているヨーヨー・マのCDです。
ヨーヨーのタンゴといえば映画「タンゴ・レッスン」に大フューチャーされているけれど、より本格的な演奏はこちらで聴けます。
リベル・タンゴとムムーキは気に入っていてよく聴きます。

そして太陽。
昼から雲が切れて太陽が顔を出した途端に、積もっていた雪が全部融けました。やっぱり凄いな。

気象台によれば現在地球規模の気圧配置で北米の気圧配置が動き出しているとのこと。これが本格的に動くと日本は一気に暖冬になってしまうそうです。地球規模で観測できるから予測も立つのだけれど、観測システムの無い時代だったらこんな冬は人々がパニックになっていたんじゃないでしょうか。

そして夜。
冷え込みは厳しく。雪が降れば積もるでしょう。
新しい本の推敲をすすめ、構成を練りなおしています。
ゴザンスからの、「一つの」総決算になることは間違いありません。ゴザンス時代に書いたものを書き捨てておかないできちんとした形にしておこうと思います。



2006年01月06日(金) 本づくりは果てなし

●今日もせっせと「音函」づくり。
有り難いことです。
しかしながら時間がかなりとられてしまう。
それ以外のこともしなければならないので、一日の仕事量を冊数で決める。

●次の本の原稿書きは朝のうちに少し前進。これも少しでも前進させた形で一日を終わりたい。

●babyfaceの「Grown&Sexy」とmaxwellの「Now」を聴く。

●婦人公論の「谷崎潤一郎と『細雪』」・森まゆみ を読む。谷崎の光源氏批判ともとれる「にくまれ口」が絶筆、とある。未読。全集でないと収録していないだろうか。読んでみたい。
●婦人公論の新しい連載小説は恩田陸さんになった。



2006年01月05日(木) 没頭

「音函」の発注があるので製作に精を出しつつ、新しい本の原稿に没頭中です。だから今日は書くことが少ないです。

ひとつだけ。
リピートモードで流しっぱなしにしている曲。
ケアリ・レイチェルの「You were there」
Babyfaceの曲です。



2006年01月04日(水) いち、にい、さん

四条高倉の大丸に行きました。
六階のアートスポットで竹林柚宇子展へ。

美術品の展示コーナーの一角、ほんとに狭いスペースに竹林さんの作品たちが展示されていました。
昨年の個展に出品されていた肖像画が数点あり、事前に竹林さんから教えてもらっていた、サムホールくらいの小さな作品も発見。
「いち、にい、さん」という三連作。これがすっかり気に入ってしまいずっと見ていました。


それから寒い洛中を自転車で我が家へ。
明日はまた一段と寒くなるらしいので要注意ですね。

今日聴いていたのは渡辺貞夫「Wheel of  Life」。
本づくりはアイデアと目次をすりあわせつつ詰めているところです。









2006年01月03日(火) 箱根が終われば

毎年のことながら箱根駅伝が終わると、お正月気分がだいぶ醒める。
さあ自分も今年を始めていこうかという気分。

今日もいい天気。吉行淳之介「街の底で」をもう一度読み出す。
「メダマゴロン」の小説のことを考えてみる。

生前、吉行さんがメダマがゴロンとだけしているような小説を書きたい、とおっしゃっていたのを野坂昭如さんが聴いたのだという。
その「メダマゴロン」について。

一月に出す本に入れる作品のラインナップを書き出して検討中。すべてに手を入れることになるし、新しく書き始めるモノもある。
あんまり焦って作品をおとしめないようにしたいとは思っています。

箱根は意外や意外の亜細亜大学の総合優勝。スーパースターは一人もいないけれど、ブレーキになったものも一人もいない。下馬評にもあがっていなかった。優勝候補のチームにはことごとくアクシデントが起きた。だけどそれも実力のうちなのだろう。

さあ集中集中。



2006年01月02日(月) 静かなお正月

am5:30 起床。冷え込んでいる。珈琲を淹れ簡単に掃除。
今日はどんよりと曇り。路面が濡れている。昨晩は雨が降ったのか。

am6:00 ハナの散歩
am8:00 朝食。京風のお雑煮

●午前中からずっと箱根駅伝をみる。

正午 昼食。たたきゴボウ、なます、筑前だき、だし巻き、ごはん。

●昼から晴れてくる。年賀状の返事を二通書く。

●詩一編、推敲。

pm15:00 年賀状第二弾届く。
pm17:00 ハナの散歩。

pm18:00 夕食。おせち。

●ある方のアドバイスを軸に今年上半期のおおまかな目標をたてる。明日から具体的な作業に。

●夜。
なぜだかBabyfaithを新年早々から聴き続けている。この人のCDもほとんど聴いているけれど、なかでもライヴはくつろいでいてとてもいい。




2006年01月01日(日) あけましておめでとうございます

年が明けました。
穏やかなよい天気です。
朝は冷え込んだものの、ぐんぐん気温が上がり10℃を超えたくらいだと思います。

元旦だというのに文庫本主義者の旦那さまは会社から呼び出しがかかり出勤されたそう。
うーーーむ。……。

初詣は近くの神社へ。
午後には自転車で梨木神社へ。御所の東側の神社です。
途中、北野天満宮前を通過した時は車と人の多さに呆れたけれど、梨木神社は人も疎ら。静かに参拝ができました。

参道の石畳では羽子板をしていて、羽子板を見るのがとても久しぶりだということに気がつきました。もう何年も見ていなかった…。

そこからゆるゆると御所を走るとのんびりと芝生に腰を降ろしている人たちや日向ぼっこの老夫婦、たこ揚げの親子連れなどがまるで絵のように光の中にいて、不思議な高揚感が心に湧き上がってきました。

それから西陣の町のなかを走って帰宅。おだやかな京都の町を満喫しました。

今年も創作活動を続けていきます。着実に作品を積み重ねていくことが目標です。
読んでくださる方を想い続けながら。

新年に聴いているのはbabyfaceのアンプラグド・ライヴ。
本は吉行淳之介全集に立ち返って読み直し。
詩のメモ 二行。

というわけで
皆様、今年もよろしくお願い致します。


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