| 2006年06月29日(木) |
メルマガ「京都余情」について |
メルマガ「京都余情」についてお知らせ。 毎週金曜日に無料メールマガジンをお届け致します。 週に一度の極私的京都ノートです。
何故ブログでなくてメルマガなのか。 読んでくださる方にきちんと届く「手紙」を書きたかったのが決断した大きな理由です。 最後はえいやっ!という決断でした。 一週間かけてレポートをまとめ、皆様にお届けする作業は ぼくにとって、大変貴重なものになります。
よろしければご購読ください。 すでにプロローグは発行しています。 明朝、本文第一号が発送されます。
お申し込みはサイトのトップページの申し込み欄からどうぞ。
| 2006年06月27日(火) |
ENGLANDサポーター御用達 |
梅雨の中休みというよりも真夏の暑さに近い。 梅雨前線がこれから北上を始めると九州の豪雨がこちらに流れてくるだろう。災害がなければいいのだが。
●谷崎潤一郎随筆集、多田富雄、カズオ・イシグロを読んでいる。 カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」にぐいぐいと引き込まれている。力がある。おもしろい。
●音楽はピアノのインプロヴィゼーションをよく聴く。実はハナが大好きなのだ。
●メルマガの審査がおりない。却下の場合は休眠中のブログを動かそうかと思う。原稿は関係なしにどんどん書いていくつもり。それかスタンドを替えるかもしれない。アフィリエイトもつけようがない。興ざめ。
今日は散歩の時、サッカーENGLANDチームのサポーター用のオフィシャル・ポロシャツを着て歩いた。 2002年の日韓大会の時から続けている。サムライブルーが嫌いというわけじゃないけれど、デザインがとても綺麗なのだ。ENGLAND絡みの人間関係の、とある方からプレゼントされたもの。…非国民かね。
通りの突き当たりにある三弦の弦を製造販売している家の親父は冬以外いつもサムライブルーを着て散歩している。 今までもなんどかENGLANDポロを着ていて出あったのだが、まず「おはよう」という挨拶が消え、次に睨みつけるようになり、最近では無視をする。 あまりの見事な変わりように、感心した。
で、ぼくはもちろんイングランドチームが好きでもある。
朝の散歩途中、いつもの児童公園でダバティ神父と出会う。 神父が連れている柴犬のキキはとても元気だった。
公園の入り口と通りを挟んだ向かい側にはコンビニがあって、夜、そこで買った食べ物を公園で食べ、散らかして帰るものが多く、毎朝、ゴミが散らばっている。
今朝も例外ではなく、ふたりでそのことに憤慨していたのだけれど、ゴミを散らかす人間を非難するぼくに対して神父はゴミ箱を設置しないことを非難するのだった。
「あほですね。なぜしないか。あれはあほですね」と言う。(彼はフランス人である)
公園は市の公園管理課が管理しているのだけれど、ゴミ箱を設置するとゴミを処理する人の人件費がかかるから、置かないのかな、と説明すると
「あほですね。とてもあっほですね」
公園は、だから週に二、三度老人のボランティアの人が掃除したり、子供を連れて遊びに来たお母さんたちが片づけているようですよ、と説明すると
「週に一度ボランティアがゴミ箱のゴミを片づければいい。なぜそうしないか! あっほですね!」
ぷりぷり怒る神父とキキ、まあまあというぼくとハナは出口の方へ歩いていった。 すると鉄棒の柱の上に何とも器用にあるブツが置いてある。 間違いなく財布だ。
「おおあなたみつけたねえ、あなたけいさついくねえ、ひゃっほお」 神父はずいぶん嬉しそうだ。 実は早朝、犬の散歩をしているといろんなものが落ちているのだ。イヤリングやたまごっちなんかはざらで、時計や財布もよく落ちている。
ぼくも神父も何度か拾い、警察に届けたことがある。 そのことでも二人で一回、怒りと不満を語りあったことがあった。
それは派出所が無人だということ。 大抵、本署へ連絡を、と書かれて電話が置いてあるだけで、夜と早朝はほとんど警官はいない。(「あっほですね」) だからぼくらは拾得物を手に持ったまま呆然としてしまうのだ。一度家に帰って本署に出向くのだって時間をつくらないといけないし、だいたい人のものを持っているというのは気持ちが悪い。
ある朝であった神父はまるでカードの束のようになった財布を手に泣きそうになっていた。 「ああけいさついくねえ、めんどくさいね、それにいないね」 その時、さっさと帰ったぼくの後ろ姿がよほど憎たらしかったのか、今日はとても嬉しそうだ。
「けいさつよっろしくね」といって帰っていく神父。 柴犬のキキと神父のお尻は最近よく似てきていて、いっしょにぷりぷり振りながら帰っていく。これから朝のミサなのだ。はんっ。
おはようございます、といっておそるおそる派出所を覗くと、奥から返事があった。若い警察官が出てくる。おおラッキーじゃん。 いろいろと説明し、書類に記入し、権利を放棄するところにサインし、中味を二人で確かめていく。
うーん、カードの嵐だ。ぼくと同じTSUTAYAのもある。 定期券が出てきた。警察官と一緒に読む。 XX公園???小田急相模原??????
関東の某大学生と判明。京都に遊びに来てたんだね。 じゃ、あとはよろしくといって派出所をあとにする。 久しぶりに「ひとんち」に行った気分のハナはご機嫌だ。
やっぱり、深夜の逆上がりは注意しましょうね。 それよりゴミ箱をどうするか、だな。 また神父と語らねば。
| 2006年06月25日(日) |
ジェノベーゼペースト |
今年はバジルが上手に育ち、葉をちぎってもすぐに繁ってくれる。 そこでバジルをたっぷり使ったジェノベーゼ(ジェノバ)ペーストを作って保存しておくことにした。
つくりかたはとても簡単。 バジルの葉とクルミをミキサーで粉々にして、パセリ、パルメザンチーズを加え、塩胡椒をしてオリーヴオイルと混ぜるだけ。 パスタやバケットにとってもあう。 忙しい時などこのペーストとあえるだけでおいしいスパゲテイが出来る。 今日のお昼はそれを食べました。
午後には還暦を迎える先輩にデジタルオーディオプレイヤーをプレゼント。 iPodではなくて国産のもの。たぶん先輩にはアップルの説明書がざっくりしすぎと思ったのと、アフターケアは国内メーカーの方がはるかにいいから。
先輩に手渡すと、ぼくにはできないから、と音楽データの入力も頼まれる。 全編モーツァルトで埋めていこう、と午後の間ずっとかかって、夜、もう一度手渡しました。 容量に余裕があるし、まだ他のものも入りますよ、と。
先輩はパソコンからラインで入れた音が綺麗なのにびっくりしてた。 そう、綺麗なんですよ、先輩。 モーツァルトを聴いて、コンディションがよくなりますように。
一日の最後、パソコンの前に戻って、自分に必要な精神状態を考えてみた。
「心、沈めて」
この言葉の感覚に集中したい。当分、そうありたいと思います。
| 2006年06月24日(土) |
メルマガ準備中です。 |
今日は一日かけてメルマガ発行の準備をしていました。 登録は済んでいて、すでにプロローグあたる文章もアップロードして審査待ちの状態です。
内容は小説や詩ではなく、エッセイを選びました。 京都のことが中心になります。なるべく週に一度の配信を続けていく決意です。
このような書くことのノルマを自分に課すのは「ゴザンスの800字」以来のことです。エッセイと言えばこの「散歩主義」もエッセイのようなモノですけれど。こことはまた違って、「手紙」を書く気持ちで作っていこうと思います。
配信が決定したら皆様にお知らせします。 無料です。是非、メルマガも読んでみてくださいませ。
さて、今日は梅雨の中休み。蒸し暑かった。明日は曇り空だとか…。 夜の九時。ビートルズのサージェント・ペパーズを聴いています。 やっぱりぼくはビートルズが好きだな。一日一度はどれかの作品を必ず聴きます。
「アフィリエイトやってみないか」
ある方から、そういう提案をされた。 アフィリエイトとは、簡単に言えばブログなりホームページやメルマガに広告を貼り付け、その自分の媒体経由で読者がクリックしてくれて、なんらかの売買などが成立した場合数%のマージンが支払われるというしくみ。
確かに毎日眼にするブログやホームページの多くにそういうものはある。
どうしようかと考えている。
もとより収入は期待してない。たぶん限りなくゼロに近い。 そんなうまくできるはずがない。
だけどその提案を受けてぼくが考えはじめたのは無料メルマガで何かを配信することができるか、そして続けられるか、ということだった。 配信するモノというと、ぼくには詩や小説などの作品しかない。 しかもネット上だと長いものは読まれない。というか、読むのに難儀する。 読み切りの短い掌編を連載するか、詩を配信するかなのだ。
それができるか、だ。 これは旧ゴザンスを引き継いだ「りとろぐ」にもそういう機能はあるけれど、ベースになるサイトはを置かずメルマガのみの展開を考えている。
で、最近は原稿用紙の世界に戻りつつ、ネットにおける文学の可能性というのもずっと考えている。とにかく画面の制約というのは予想以上に大きい。 いつでもどこでも好きな時に読む…そりゃあ本の方がいいに決まっている。
それならメルマガの方がいいんじゃないか、と考えたわけだ。またメルマガをノルマとして強いることで自分を鍛えるという意味もありはしないかと思う。
メルマガをきちんと出し続けるのなら、たぶんそれがネット上の表現のメインになるだろう。 何しろ読んでくれる人にダイレクトで届けられるんだから。 最近では写真が貼付できるメルマガもあるとか。 だけどメルマガというのは今では「古くさい」らしい。
メルマガを配信するのなら、広告付きになる。 まあそのことにデリケートになる必要はなくて、ぼくは自分に何が出来るか、そのことばかり考えている。 それともブログにこだわるか…。
梅雨が戻ってきた。 熱に浮かされたような地面や空気にはちょうどいい案配。
創作少し前進。
梅田望男さんへのインタヴュー 前編 後編と、 「ウェブ進化論」にも登場する羽生善治さんへのインタヴューが興味深い。 前編 後編
夜、三人の大人が囲碁をする横で創作が少し前進。
路にクチナシの花の匂いが流れだしたのは、ついこないだ始まったばかりなのにもう花は焦げ茶に朽ち果てだしていた。 暑さのためか。明日から雨が降るというけれど。
川上弘美「蛇を踏む」を読む。すっ飛んでいる。「鞄系」ではなく「椰子系」のほうだ。多和田さんの「犬婿入り」と似た味わいの。 この作品は好きだ。 だけど「鞄系」もよく読んでみるとすっ飛んでいるなあ。
「新潮」5、6、7月号を続けて読む。 平野×梅田対談とパワーズの春樹論、出口さんの安吾論。 読み応えのあるものばかり。
創作、少し前進。 目鼻が付きそうだ。
胸にすとんと何かが落ちた。 車谷長吉さんの「赤目四十八瀧心中未遂」を読んだあとだった。 昂揚したのではなくて、精神が静かになった。 静まり返った精神は、好ましかった。
それからエッセイ集「雲雀の巣を捜した日」を引っ張り出し、 気になっていたところを読み返した。 去年出版された「文士の意地 車谷長吉撰短編小説輯」に収められたもの、また収められなかったけれども車谷さんが推挙する短編小説の一覧である。 車谷さんは「小説の醍醐味は短編小説にある」という方なのだ。 選んだ基準のひとつは「言葉に人の生魑魅(いきすだま)が息づいているかどうか」であるという。
84名あげられているうち、自分の読んだものをチェックしていった。 夏目漱石、森鷗外、内田百�痢�吉行淳之介、多和田葉子、川上弘美…。それだけ。 それ以外の作家はほかの作品を読んでいるか、全くの未読であった。 自分の読書量があまりにも少ない気がする。
古い作家が多い。もう一度本棚をさらえてみて、読めるものがあったら次々と読んでいきたい。 ただ、短編の収められている「日本文学全集」は少ない。 図書館で個人全集や文庫を細かく調べてみようと思う。
「『雨瀟瀟』永井荷風」 など書名だけでずいぶんとそそられる。
一日中、夏のような日が射し続けた。「もうすぐ夏至です」とラジオから聞こえていた。
自分がどのような傾向の小説が好きなのか、自分でもよくわからない。そんな大袈裟に考える必要もないのだが。とにかく何でも読む。 最近、古い小説をよく読んでいる。特に漱石と鷗外なのだけれども、どちらかというと鷗外に熱中している。
鷗外に限らず谷崎潤一郎のものでも好んで読むものは、さみしい男が歩いている場面が必ず現れる。 漱石もよく歩くのだけれど、鷗外や谷崎のような「蔭のある歩く姿」が、どうも好きなようだ。
今日は、車谷長吉さんの「赤目四十八滝心中未遂」を読んでいる。この人の小説は、(エッセイも)好きだ。 たぶんに自伝的な部分もあるのだろうけれど、「蔭」というよりも「傷」が生々しく見え、それが消えることがない。
流れ流れて、身体のまん中に大きな風穴が出来たような男。 それはまた「ぼく」でもあるぞ、と読んでいる。
車谷さんの文章が抜群にうまいという人もいる。独特の言葉遣いは播磨のものか。それともあてのない日々の中で読破されたという鷗外の影響なのだろうか。 もちろんぼくも文章に魅了されてしまっている。
昨日同様、雨上がりの朝。 朝一番で茄子を収穫する。それから自転車で丸太町通りを一直線に駆け抜けて病院へ。 どうも食欲がないらしく、バナナなら食べられると聞いていたので、生鮮食品もあるコンビニ、Shop99に寄っていくことにした。ところが丸太町通りにある、というのはうろ覚えで 、実は今出川通りだった。寄り道の時間もないのでローソンでバナナとマンゴーのミックスジュース、水を買う。それと新聞、ヨーグルトを病室へ届けてから帰宅。
朝の散歩でハナが草を食べて、毛玉もろともに吐く。最近の湿気と暑さにバテ気味のハナだ。
哲学、あるいは現代思想の最先端のひとつであると思われる、 「象徴の貧困」(ベルナール・スティグレール著) を精読しようとしている。哲学的な言葉の使い方になじみがなくて四苦八苦しているけれど。
同書はコンピューターとネットが席捲する、あるいはポスト・モダンで簡単に語られる現代社会の「貧困」について書かれている。
今日、関口宏「サンデーモーニング」で、タイトルだけがトークのテーマに使われていた。結構、話題を呼んでいるようだからこれからいろんな局面で取り上げられることだろう。 同番組では、ワールドカップに対しての日本人の過剰な期待と落胆が題材として語られていた。その中で「みんな本当のこと(本当のレベル)を知りたくないんじゃないか」と中西君(彼は同志社大からJリーガーになった人)が、その「貧困」をずばり言い当てていた気がする。
その書評が京都新聞にでていて、スティグレールの言葉も引用されていたんだけれど、あえて引用は書かない。 哲学的でない僕流の言い回しでいうと、情報洪水の中で自前の選択も判断も出来なくなっているということを「貧困」と書いている。 もっと簡単に言うと「踊らされて薄っぺらになっている」。
だから例えばこの日記にしても、自分はどう思うのかということに力点を置くべきだといつも以上に感じている。
「象徴の貧困」とは「象徴=個の消失」ということだ。
だけど考えてみれば、この間読んできた梅田望男さんの「ウェブ進化論」にしても 茂木健一郎さんの新書にしても、例えば「大渋滞のその先は」、とか「コンピュターを越えろ」 などシンクロするようなメッセージがあった。
自分で判断すること、自分で考えることにもっと意識的にならないと足許は凄い勢いで崩れ続けていくようだ。 五感を研ぎ澄ますこと、それぐらいしか考えつかない…。
朝7時前、下立売通りを東へ一直線に駆け抜けて病院へ行く。 土曜日で人も車も少なく、朝日に照らされた道を走った。新聞やヨーグルト、水を届ける。
帰ってから遠藤さんの「『深い河』創作日記」を読む。その苦闘ぶりに感じいった。そしてその制作のためのテクニックも学んだ。 しかし何より、苦闘しながら「結局、無意識が書いているのだ」という記述に至る、その心境を思う。
いかに「回路」を開くか、なのだ。そのために24時間、何をしていても意識の一片が小説から離れることはない。まさに消耗戦。
「登場人物が動き出す」という記述は夏目漱石「虞美人草」についての新聞に掲載した漱石本人のコメントにもある。 「動く」というのはわかる。わかるけれど250枚を越えて動かしたことはない。 今書いている小説はゴザンスの「800字」の書き直しから始めたものだったのだけれど、ひょっとしたらあとから書き始めたもう一つの小説と合体するかもしれない。800字がいきなり長編になる可能性が出てきた。
それこそ無意識が本や資料を呼んでいることもあるのだし…。出来事も。人も。 大丈夫。無意識に引きずり回されはしない。 ぼくは光を信じている。
ミルハウザーを少し読む。 小説に関することばかり書いたり読んだりしている。詩はどうなのか。 いつもモチーフは探している。しかし、今は小説だと思っている。
顔を洗い髭を剃り、豪雨のあがった朝を歩いた。 イタリアンパセリの、徒に伸びた葉を摘む。それを手に持って他の植物の様子を見てまわったのだけれど、早朝の僅かな時間の間にパセリは萎れてしまった。一日のはじまりはそんなふう。
午後、パセリはキッチンの水の入った硝子瓶の中で蘇り、ぴんっと張っている。三時には冷たい珈琲を飲み、夜、シャワーを浴びる。
遠藤周作さんの「深い河」を読む。もう何度目になるだろうか。 新潮社へ電話して「新潮」のバックナンバーを注文。読み落としていた論文があったので。
吉行淳之介さんの作品は大抵読んだけれど、遠藤さんの著作には読んでいないものが多いことに気がつく。最近、ハイヴィジョンで見た遠藤さんの留学時代を追った、関係者へのインタヴューと作品朗読と現地の映像とで構成されたドキュメントの衝撃がまだ残っている。あれは魂の軌跡を幻視することができた。 この際、文庫本をすべて読むことにする。亡くなってから編まれたものに貴重なものがあるようだ。
久しぶりに梅雨らしい雨が降りました。 「極小菜園」では茄子が大きくなり、穫り入れの時期が近いようです。梅の実ももうすぐ収穫です。枇杷の実は熟れているものから順番に小鳥のデザートになっています。
茂木健一郎さんの新書系の一冊を読みました。<世界知>と<生活知>のこと。科学的なものの見方の重要性。ミラーニューロンのこと。「人は傷つけられうる存在」であること、などなど。創造に関する励ましともとれる部分も多かったです。 まるで「トニオ・クレーゲル」。
今年は植物が例年よりも活発だという気がする。 薔薇がとてもたくさんの花をつけたし、ハーブも緑が濃い。果樹もたくさんの実をつけている。
近所の栗の木がたくさんの花を咲かせた。 柿とか栗は年によって当たりはずれがあるのだけれど、これほど旺盛に花を咲かせていることは、近年なかった。
強い匂いが街を漂っている。
| 2006年06月13日(火) |
パソコン不調につき硬い鉛筆で日記を書く |
パソコンの調子がすごぶる悪い(かった)。 本体から異音がするし、しょっちゅうフリーズする。とうとう起動時に動かなくなった。HDDの容量とかにまったく問題はないから、何か最近インストールしたソフトが問題だ、と英文の文章がずらずらとでるのだが、そんなソフトはない。インストールしたものといえば某社の更新ファイルぐらいだ。
動かないなら動かないでかまわない、と電源も抜いてPCはお休み。 ノートに鉛筆で原稿や日記を書いていた。 原稿の書き方で先輩からいろいろと指導されたなかで、いまだに完全に守れていないことがある。それは「すべてを原稿用紙に書け」ということ。ぼくはずっとノートを使い続けている。 先輩はたぶんそうしないと字数の感覚がつかめないといいたかったのだと思う。
さて、梅田望男さんの本は精読できたのでひとまず置いておき、茂木健一郎さんの著作群をもう一度精読していく。 茂木さんのブログも面白いので見に行きたいのだけれど、PCがこれではどうしようもない。
(蛇足。 原稿の流儀だけれど、遠藤周作さんは原稿用紙の裏に硬い鉛筆でびっしりと書きそれを赤いボールペンで推敲されたという。もちろんというか、原稿用紙への清書はご本人ではない。)
そうこうするうちにパソコンの不調の原因がわかった。 やはり某社のファイヤーウォールの更新ファイルだった。起動するたびにトラブルを起こすので「自動復旧」が作動したのだ。「自動復旧」で一つ前のパターンに戻る。するとこの間のトラブルが嘘のように異音も消え、パソコンは滑らかに動き出した。もちろんファイヤーウォールはその後最新版に更新したけれど、トラブルはない。
「火消し」も大変なんだな。
「Arne」16号が届いた。 松浦弥太郎さんの「BOOK」欄はいつも楽しみにして読んでいるのだけれど、今号の文章はとても素敵だった。「その男ゾルバ」についての記事。
「Arne」についてはこちらまで。
遠藤周作さんの「心のふるさと」も届く。 短いエッセイの文庫。吉行さんとの愉しい昔話に和む。小説の「作法」がさりげなく書かれている。一時間で読了。何度も読む。
■京都新聞日曜版の読書欄に「漱石という生き方」という本が紹介されていた。面白そうだ。 書かれた人は秋山豊さんといって漱石の自筆原稿に直接あたって新版漱石全集を編纂された方だという。 原稿を読んでいく作業だから、ずいぶん活字とは違う感覚で読めたのだろうなあ。
■自分の「立ち位置」について考える。いろんな意味で。 ■森鷗外「百物語」を読む。だから、というわけではない。
■珍しくハナが夜の散歩をせがんだ。いつもなら夕方の散歩以降はごはんを食べおとなしくくつろいでいるのだが、身体の具合でも悪いのかと思い、外に連れて出た。 ハナは大喜びで歩いていく。別に下痢などしているわけでもなく、ふっと歩きたくなったようだ。 ひんやりとした夜風が吹いていた。新緑の匂いがたちこめていた。 散歩をしている一家と出会う。子供たちが懐中電灯を手におおはしゃぎだ。 ふと顔を上げると、満月。
■学生の頃、同じ下宿に滋賀大の学生がいた。彼は毎日、京都・左京区から中古のスズキフロンテで途中峠から比良・比叡山麓を抜け、琵琶湖大橋を渡り通学していた。 今日、森鷗外を読んでいて、句読点のリズムが彼のしゃべり方の呼吸にそっくりなのに気かついた。 おまけに彼は大阪南部の出身なのだが、言葉がまるで漱石の「小説言葉」のようだった。 ふうむ。彼は漱石と鷗外を読み込んでいたに違いない。確か昔もそんなことを感じたんだった。
記憶では彼の部屋にはバイトで貯めたお金で買ったという、とても作りのいい、黒い、木目の綺麗な文机と同じ木で出来た背の低い本棚だけがあった。 文机の上にはペリカンのインク壺とノート。本棚には小川未明全集が全巻ぴしっと入っているきりだった。 その部屋がシンプルで恰好よかった。
開けたことはなかったけれど京間六畳の部屋にしつらえてある押し入れにはたぶん漱石や鷗外の本がびっしり詰まっていたに違いない。
などと、久しぶりに鷗外を読んでかつての隣人を思い出していた。 そういえば文机の上には手碾きのコーヒーミルもあったな。 それも黒い木で出来ていた。
| 2006年06月10日(土) |
「ウェブ進化論」、再び |
以前ここに書いたことのある梅田望男さんの「ウェブ進化論」をなんども読み返している。最近、文芸書以外でこれほど読んだ本は久しぶりだ。
「新潮」6月号、7月号と続いた平野啓一郎さんと梅田さんとの対談がかなり刺激的だったからだ。 対談はさらによく読む必要があるけれど、時代は少しずつに緩慢ではあるけれど確実に、本質的に変わっていっていることを実感する。 たぶん後戻りはないだろう。
平野さんはネットに対してかなりネガティヴな考えの持ち主だと思っていた。ネットに依存した二重生活を鋭く指摘していたし、日本のネットにおける匿名性の問題も指摘していた。だけどだから単純に否定的だと割り切れるはずもなく、ネットをめぐる彼一流の問題提起であったように思える。というか意識を前進させるための仕掛けだと。
この対談を巡り、何故平野さんはブログをやらないのか、といった疑問に対するご自身からの返信も別のブログ上であったりする。 (このやりとりこそブログじゃないか!!と思わず膝を叩いた。この江島さんのブログの他の記事も刺激的です)
そこで語られる小説家としての書く内容の濃度なり集中を担保するために「あえて」ブログを書かない、という姿勢が、すっきりしていて気持ちがよかった。
ぼくが平野さんの今年の作品群で感じた「二重性の問題」(平野さんは「複数性」という言葉を使われていた)については解決云々ではなく、少なくとも「そう生きてしまっている今」を意識し続けよ、というメッセージを受け取ったように感じている。 自分でも作品を書いていく上で、伏流水のように意識を刺激し続ける問題でもあると思う。
さて「ウェブ進化論」である。 この本が出てからネットに対するネガティヴな意見を持った本が相次いで登場したり、グーグルに対する露骨な警戒論まで飛び出し始めた。 (例のネットから離れる若者が増えている、という論もそう)
「ウェブ進化論」のようなポジティヴな本はなかった。おまけに、だからこそ出てくるであろう上記のような反応さえ予見しているかのような内容でもある。 そもそもネットについてこういう見通しを持っている本は書かれたことはなかったんじゃないだろうか。 ネットが本質的に、決定的に、徹底的に「新しい」ということをここまで書かれると、昂揚もするし、隅から隅まで読みたくなる。何度も。
ぼく自身の問題でいえば、最近、サイトは「孤島」と書いた。今もそうだ、と。 じゃあそれでいいのか、ということだろう。 それでも誰かに届くと信じて書き続けているのだから、個人としても「脱孤島」をはかるべきかもしれない。 それともあえて旧来のスタイルに固執するというのならばブログなんて止めるべきだろう。 同書に出てくるロングテールの一翼にいるという自覚を持つなら、ネットでもっと書きまくるべきだろう。 ネットにおける文芸の見せ方の限界は梅田さんも指摘しているとおり悲観的なものだが…。 最近、少し揺れていた。
同書の特に第四章は何度も読み返している。 平野さんの本は「滴り落ちる…」から読み返している。
「持たざるもの」が何に依拠するか。答えは明瞭だ。
梅雨入りしたものの夜半の豪雨が上がったあとは曇天。 ひんやりとした強い風が一日中吹き続けた。 曇り空は眼が痛くない。 いろとかたちがくっきり見える。
夏目漱石「永日小品」を読む。創作、少し前進。
| 2006年06月08日(木) |
梅雨入りに野良猫を想う |
近畿以西が梅雨入り。 お昼頃から雨が降り出し、夜の今も降り続いている。
夜、小屋根の上に乗って野良猫のサクが下を覗き込んでいた。 野良猫はサクとノゾの兄弟の二匹だけになった。 あと十匹近くは隣の猫フリークのおばさんが家の中で面倒を見ている。 幸せな猫たち。
猫は外を自由に歩かせるべきだという意見がある。 もう二十年近く昔、当然飼い猫でも外を自由に歩かせるものだと思い、そのとおりにして猫と一緒に暮らしていた。 その結果、猫はいろんなところに迷い込んだり、トラブルで泣きわめくことを繰り返した末にあっけなく死んでしまった。交通事故だった。
今はどうか。 ぼくは猫は家の中で飼うものだと考えている。危険は昔より増えている。車、毒、病気、人…。 狭い部屋の中で猫が可哀相だという人がいるけれど、外のトラブルを考えるとどちらが可哀相なのかわからない。 動物の自然の姿、というけれど猫と犬は遙かな昔から人間と共生することで生きのびてきた。むしろ人ともにいることが自然なのだと思う。 そうでなければ山猫やワイルドキャットだ。そういう猫はイリオモテヤマネコ以外に日本にはいない。
最近の獣医さんやブリーダーの意見のほとんどは「猫は室内飼い」である。 猫は室内に慣れる。一番時間のかかる野良猫で半年くらいだという。 暴れてどうしようもない猫もいるにはいるけれど。
ぼくは今まで何十匹という野良猫を保護し、4匹は育て、あるものは死を看取った。死産も何度も見たし、幼猫の手当てもし、自分の手の中での死も経験した。交通事故も何度も処理した。埋葬もし、保健所にも何度も行った。 そんなことを十年以上やっていると、猫を外に出すということがとてつもなく罪作りなことに思えて仕方がない。
飼い始めた頃は自分自身、まったく逆のことをしていたのだけれど、経験はぼくを変えてしまった。 野良猫がどれほど悲惨な目に遭っているのか。避妊も去勢も一顧だにしない人たちに知ってもらいたい。まして猫を棄てるなど…。
隣の猫フリークのおばさんは眼から膿を流して歩いていた黒い野良猫を見て半狂乱になった。 そして延べ数にすると相当な数になるこの界隈の野良猫対策をぼくに変わって引き受けてくれた。
サクとノゾももうすぐ保護される。そうなるとぼくたち二人の念願、野良猫ゼロが達成される。
今日も快晴、見事な青空でした。 五月に植えたものたちがどんどん花をつけています。 ひときわ目立つのがニューレンベルキアのブルー。今が盛りです。 もう一つは昼咲き月見草。その名の通り普通の月見草とは違って昼に黄色い花を咲かせます。 この黄色がとても綺麗。
ほかにもステラ、サフィニア、リトルチュチュ、バーベナ、イソトマ、イングリッシュラベンダーなども咲いています。 そして植え付けが遅れたツル薔薇のニュー・ドーンが薄いピンクの花を咲かせました。 この苗はこれからじっくりと育てて来年にはたくさんの花を咲かせたいです。
さて婦人公論の最新号が届けられました。 川上弘美さんと田辺聖子さんの対談が面白かった。 でもこれは女性のほうがピンと来る記事でしょうね。
■詩のメモを一つ。これから熟成。 ■小説は三つが同時進行中。いつ終わるやもしれず、まったく先の見えない状態です。 ■遠藤周作さんの文庫を注文。
今日は2006年6月6日。「6,6,6」の並びは映画「オーメン」でお馴染みの「悪魔の子ダミアン」を象徴する数字だった。
その続編が今日公開、と朝からCMが流れていた。 キリスト教文化の国々では見かけ以上にセンセーショナルなのかもしれないけれど、 非キリスト教(非宗教?)の日本では恐怖映画の定番としてひたすら怖がられ、そして忘れ去られるのだろう。
「ダ・ヴィンチ・コード」のように、欧米ではキリスト教の本源的な姿や教えへの渇望が地下水脈のようにあって、それが最近噴出してきているように思える。 教会が中世を通してキリストの教えをねじ曲げたのではないかという疑義はつきない。所謂、異端の認定にしても魔女狩りにしてもすべて教会の権威強化のために行われてきたからだ。 地上から消された書物や殺された人の存在は隠しようがない。
そんな今日、ナショナル・ジオグラフィックからパンフレットが届いた。 昔、しばらく定期購読していたのだけれどバックナンバーが結構場所をとってしまうから購読を止めていたのだ。 その再開を促すパンフだったのだけれど、現在、ナショナル・ジオグラフィックの研究成果として 最もプッシュしているのが「ユダの福音書」なのだった。
キリストの弟子の中でキリストを売った男、ユダ。 キリスト教徒が最も忌み嫌う男が実はキリストと密約を結んでいて… という内容のようだ。 そもそもこの文書が発見されるということ自体が奇蹟といえるだろう。 ローマンカソリックや各宗派はどういう反応をしているのか知らないけれど、 ナショジオのことだから微かなところまできっちり裏をとっていると思う。 いままでも何度か歴史的な発掘の実績もあるのだし。 目次を読んでいると、とても逆説的な魂の解脱について書かれているようである。
まさかこの日を選んでこのDMを送ったのではないだろうけれど、妙に気になる。
さて「六」のつく日。 京都では「六」のつく日に稽古事を始めるとものになるという言い伝えが昔から残っている。 罪がない。
朝の散歩コース途中に古いお寺の外周を回る道がある。 その外周道路の、ちょうど庭園の池の裏あたりへさしかかるとウシガエルの鳴く声が聞こえてくる。 ほんとうに牛のような声が塀の向こうで響いている。
この声を聞くと毎年、夏がゆるゆると始まったと思う。梅雨前だけれどこのころからだいたい九月頃まで聞こえる。 だいたい半袖の季節と重なるのかな。
紫陽花も雨を待ってます。 今日も30℃。
■ネットのサイトは、みな孤島のようにみえる。昔、そんなことを日記に書いたような気がする。 今もそう思う。 半信半疑だったけれど、巷間いわれているように若い世代のネット離れは確かに進んでいるようだ。 ネットにかかわるものはより深く、かかわらないものは見向きもしない。かなり両極端に別れているそうだ。 ■「イン・ザ・ペニー・アーケイド」を読み続ける。巷間、保坂和志さんの「途方に暮れて、人生論」がよく売れているとか。「今という時代の生きにくさに耐えている人たち」への小声で歌う応援歌のようなエッセー集だという。草思社から。たぶん買います。 ■茄子、トマトに次いで唐辛子が花をつけた。二年目の柚子、今年の花は四つ。植栽の次のイベントは朝顔、そして枇杷の実の収穫である。 ■ブログのいくつを整理。というより全然繋がらない。 ■友人が制作活動を本格化させるために、サイトを停止した。いいことだと思う。
早朝、植物に水遣りをしていると町内のTさんから声をかけられた。 一昨日、Tさんにはピエール・ド・ロンサールの剪定した枝を差し上げた。「挿し芽」にして苗を作られるそうだ。植栽でもほとんど園芸のプロといえるレベルの方は、いとも簡単にこういう作業をなさる。 ロンサールはそのゴージャスさゆえに人気があるのだという。
Tさんはその挿し芽用の枝のお返しに、とコスモスの苗を三本くださった。 まだ梅雨にも入っていないのにコスモスの苗はすでに20�僂曚匹棒�長していた。花の色は赤だそうだ。このままだと夏に咲きますねえ、と二人で笑った。 家の花壇ではそろそろパンジーが終わるので、その鉢に植えようと思う。
ところで、 「エンピツ」で日記をつけだして数年になるけれど、その間、よく読んでいた日記のいくつかがブログへと移動していった。すでにエンピツ無料版はなく、年間そこそこの金額を支払ってこのスペースを使わせて頂いているのだが、ここにはコメントやトラックバックの機能がない。 つまりブログじゃない。
ぼくも何度か「ここ」をたたんでブログに移行しようかと思ったけれど、サーバーが安定しているのとアダルトサイトからのトラックバックもないので、ここから移らないでいいと思うようになった。 ただアクセス禁止機能がないのが玉にきず。
さて、創作は詩を一編書いた。これは投稿することに。 そして今日はPIPIの誕生日。4歳になりました。
昨晩、NHK.BS−HighVisionのハイヴィジョン特集で柳澤桂子さんのインタヴュー番組を見ていました。
柳澤さんは般若心経の現代語(詩)訳・「生きて死ぬ智慧」がベストセラーとなり、多くの人にその思索が知られるようになりました。 主に同書と「いのちの日記」「癒されて生きる」の三作で柳澤さんの思索の足跡を知ることが出来ると思います。
原因不明の病と闘うこと30年、いや激痛に耐えること30年といったほうがいいでしょう。ようやく病名に行き着き、劇的な薬との出会いがあって現在では症状は改善されました。 しかしながら、その間の肉体的な痛みはもちろんのこと、原因不明故に医師や周囲のものから受けた不信の眼差しと心ない言葉の数々による精神的な傷は相当のものであったと想像します。 そうして、そのような痛みをまともにひき受けながら考え抜いた故に、柳澤さんの「苦」に関しての言葉のひとつひとつは、多くの人に受け入れられたのだろうし、多くの人を救う力を持っているのだと思います。
ぼくはかつて「癒されて生きる」を熱心に読みました。今回の放映に併せて本棚から引っ張り出してみると、いくつかのページに「ウサギの耳」ができていて、それはジブラーンの詩であったり、マザー・テレサの言葉であったり、エックハルトの言葉であったりしました。 彼、彼女たちの言葉はけっして優しいものではありません。決然としていて厳しく自らに向かっています。 そして「苦」を克服せよ、自我を越えよと語ってきます。
番組は「いのちの日記」の目次さながらに時系列を追いながら、般若心経を中心に据えた構成。そんななかで「神はすべての人の脳にいる」という有名な言葉をご本人の口から聴けたのも嬉かった。
思っていたとおり、柳澤さんは生命科学者としての矜持も立場も崩さず、きちんと論理だてて話しておられました。 まさにそのことが言葉を揺らぎのないものにしているのです。
「仏性のある脳の場所」ともいっておられました。「場所」という言葉を使うほど誰の脳にもあるということを強調されていました。しかし、ほとんどの人が無自覚で、磨こうとしない。 そして仏性を磨くことが「苦」からの脱却であり、それはつまり自我からの脱却であると主張されます。
これはかつてカトリックの異端中の異端とされ、その本を持っているだけで極刑に処せられたというエックハルトの主張によく似ています。エックハルトは死後600年たってその禁を解かれ、今では「学聖」として祀られていますが、重要な著作はほとんど失われました。それでも「神の慰みの書」が残っており、柳澤さんも大いに励まされた、と書かれているのですから、なにやら運命を感じます。
とまれ、柳澤さんが対談の中で、誰もが脳に持っている神、仏性を磨くために、考えるべきは生き方の道徳…と呟いておられました。その声が耳に残っています。
我執を捨てること…。難しい課題ですが知った以上は避けられない課題でもあるように感じています。
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