無責任賛歌
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2002年07月31日(水) |
しげ、肉離れ?/『けろけろ 緑の誓い』(矢島さら)/『風雲児たち 幕末編』1巻(みなもと太郎)ほか |
昨日作った麻婆豆腐、残りを朝飯にする。 朝、ちゃんと食事したほうがいいとはよく言われてるが、実際に朝食事して行ったら、確実に体重が増えるんだよね。 御飯と味噌汁だけにしておいてもやっぱり太る。マンナンライスを混ぜても太る。多分、誰かが私にデブの呪いをかけたに違いない。誰か祓って(-_-;)。
と言いつつ、晩飯は「焼肉のさかい」。 たっぷり寝てるくせに「気分が悪い」とか抜かしやがるしげが、飲みものを飲みたがったので、焼肉屋で唯一ドリンクバーがあるこの店を選んだのである。 「……気分悪いんなら、焼肉なんて食わないで帰って寝りゃいいんじゃないのか」 「だって肉も食いたいんだもん!」 「欲望を抑制できないから病気になるんだよ!」 「欲望抑えたら気分が悪くなるやん!」 それってアル中の理屈じゃねーか。っつーことはしげは「肉中」か。 それほどまでに肉に固執したしげであったが、焼き肉の匂いに咽たか、焼肉をいつもの3分の2ほどしか食べられない。 更にまだ焼いていない肉が残っていたので、「どうしたん? もう食べんと?」と聞くと、「先に車に行ってていい?」と答える。 一瞬、聞き損ないかと、キョトンとする。 しげと結婚して10年、しげが肉を食い残して帰りたがるなんてことはただの一度もなかった。これは本気で具合が悪いのか。 しげ、悔しそうな顔で言う。 「食べたいけど、食べきらん」 ……「肉欲」自体がなくなったわけではなかったようである。 けれど、さすがのしげも、10年前に比べれば少しずつ少しずつ、食事の量が減ってきていることは事実だ。味覚も変化してきていて、以前ほどの甘党でもなくなってきている。 このまま、少しずつ和食の微妙な味なんかも分かるようなオトナの舌になってくれると、濃い料理に付き合わなくてもすむし、私の舌とも趣味が合ってくるのだが、果たしていつのことになるのか。
ベスト電器、紀伊國屋書店を回って帰宅。 具合が悪いのが分かってて引き摺りまわすのだから、私も悪党である。 帰りつくなり、「きつい」と言って、しげ、ぶっ倒れる。 病院の健康診断でも正常、と言われたのだから、あまり過度に心配したってしょうがない。要するに生活のリズムが狂ってるせいで自律神経失調症になってるんだろうから、栄養の偏りがないようにして、運動して体力つけりゃいいのである。 ……一番やりそうにないよな、しげ。
偶然、『ETV2002 祖母・幸田文への旅』を見る。 幸田露伴の娘が幸田文で、その娘が青木玉で、って、ここまでは一応作品に目を通してたけど、更にその娘さん、青木奈緒さんまではフォローしてなかった。しかし4代に渡っての作家って、ギネス級じゃないのかな。青木さん、結婚してないみたいだからここで途絶えちゃいそうだけど。 番組は、奈緒さんが、祖母の幸田文が、晩年、山の崩壊現場を見て回って書いた作品『崩れ』の現場を、再び自分の足でたどる旅を追いかける。 『崩れ』については未読なので感想は述べようがない。しかし、今に残る幸田文の日本各地を旅するドキュメンタリーを見ると、足腰の弱くなった70歳を越してなお、幸田文がどうして「崩れ」に興味を持ったのかがなんとなく見えてくる。 自然は人間が手を加えるから変化するものばかりではない。自然は自然のままでも川の氾濫、地殻変動等で時々刻々と姿を変えている。奈緒さんが祖母の足跡をたどった時、20年前と同じ風景は全くと言っていいほどなかった。 この「変化」はなんなのだろう。人間と関わりがなくても、自然が息づき、壊れ、再生されていく過程を知る者は実は少ないのではないか。なぜなら、我々「個人」は、その変化を見続けるにはあまりに短い生しか持たないからだ。 この番組が面白かったのは、個人が見続けることの出来ない長大な自然の変化を、幸田家という、脈々と受け継がれる作家の眼を通して発見させたということであろう。 そう、それはまさしく「発見」である。 崩れた崖を見ても、個人にわかることは、それがかつては崩れていなかったであろうという「憶測」でしかない。そして、彼がまたこの地に来るとは限らない。別人が再びこの地を訪れても、そこにはもう一つの繋がりのない「憶測」が生まれるだけである。 そこにあるものの意味を知る者は、かつてそこに来たものの意志を継ぐ者でなければ決して把握はできないのだ。奈緒さんはまだ、道を辿り始めたばかりだ。私は受け継がれる「血」というものをあまり信じないほうだが、もし「血」に意味があるとしたら、そういうことなのではないかと思う。
矢島さら『けろけろ 緑の誓い』(徳間デュアル文庫・620円)。 うーんと、なんつーか、かわいいはなしですねー(^_^;)。 言っちゃなんだが、中学生のかえる好きの女の子が、初めてお話作ってみました、みたいな。……かわいいだけならともかく、話そのものが稚拙なのはどうも頂けない。 はるか太古に地球に移住した宇宙人が、地球環境に適応するために変身したのが「かえる」族であるという設定は……どうなんでしょうねえ。私、かえる食ったこともありますが、それって、イケナイことだったんでしょうか。 かえるの長老が「それが少年たちの成長過程に必要な遊びなら、ワシら喜んでケツに爆竹刺されて死んだもんなあ」なんて言っちゃうけど、いいんですか、そんなんで。命を大事にする感覚がかえる族には欠落しているのでしょうか。 そのわりに、地球環境の悪化を促す農薬の開発を阻止するために、かえるたちが今こそ立ちあがるって……そんなのが自分たちの素性を明かす理由なら、もっと昔から地球人たちに対して訴えかけてたんじゃないですか。これまでの人間たちの歴史を振り返って見て、安心して見てられる時代がちょっとでもありましたか? 環境保全とかシリアスなテーマを持ちこむなら、もうちょっとそのテーマについて研究しておかないと不勉強って言われちゃうと思うんですが。 読者として想定してるのはは子供なのかな? いや、子供向けの小説だからこそ、子供だましのもの書いちゃいけないと思うんだけどね、プロなら。
マンガ、みなもと太郎『風雲児たち 幕末編』1巻(リイド社・550円)。 オビの惹句がなぜか富野由悠季。 「風雲児たらんと欲する者はこれを読め!! 目を覚ませ!!」ですか。アツイなあ。けれど、ふと気づいたけれど、富野さんが『風雲児たち』テレビアニメ化したら面白いものできるんじゃないか。作家性が強くて、オリジナルしか作れないように思われているけれど、もともと富野さんは絵コンテ千本切りを自ら課した職人演出家でもあったのである。みなもとさんの歴史観と、富野さんの歴史観がぶつかって昇華されたら相当面白いものができるんじゃないかと思うが。 さて、再開した幕末編、『雲竜奔馬』をなぞりつつ、新展開も組み込んでいく構成。カラーページ付けるならおイネもカラーにしてほしかったけれど、ホント、かわいく描いてあるなあ。実物のおイネの写真見るとガックリくると思うけど(おタケさんもおイネもトシとってからの写真しか残ってないからしかたないけどさ)。 しかし、阿部正弘の活躍する1巻の流れだけを見ていると、これでなぜ幕府が倒れてしまったのか、理解しがたいね。この人が急死しなければ、そして井伊直弼があせりさえしなければ、幕末の様相は全く変わってたんじゃないか……というのも歴史のIFだね。
マンガ、CLAMP『ちょびっツ』6巻(講談社・530円)。 初回限定版が見当たらなかったので、通常版を購入。特典、何だったのかなあ。 裕美ちゃんと店長さんの過去の話が語られるけれど、直接ちぃと秀樹の関係に絡む話ではなかったみたいだな。6巻かかってなかなか話が進んでいかないのがもどかしいけれども、アニメのほうはもう原作に追いついてるんじゃないかなあ。福岡じゃ放送してないからわかんないけど。
2001年07月31日(火) 山田風太郎死す/『新・トンデモ超常現象56の真相』(皆神龍太郎・志水一夫・加門正一)ほか
2002年07月30日(火) |
ウチにキンチョールはない。/『ゴーストハンター ラプラスの魔』(安田均・山本弘)ほか |
一日、マジメにお仕事、定時には職場を出る。 不況の中、いい御身分だねと言われることも多いが、定時に出られるように立場を作るためには失ってるものも結構あるのよ。 晩飯、もういい加減で外食はやめたいが、しげは全く食事を作らないし、結局私が家事ばかりすることになるので、それもいやだ。せめて別の店に行きたいとしげに頼む。 初め、「孫悟空」というアジア料理店に寄ってみたが、開店が6時から。 河岸を代えて「ジョリーパスタ」。ここも職場からの帰り道にあるのに、なぜかここしばらくほとんど寄ったことがなかった。……5年ぶりくらいじゃないか。しげが王将とめしや丼にだけ拘ってるせいだけど、ムリに別の店に行くと、必ず「あっちのほうがよかった」とか駄々をこねるのである。これで自分がワガママじゃないとか思ってるあたりが、しげが人間としてサイテーなとこである。 コースは千円で、ホタテのスープ、チーズの団子、サラミにサーモンにマシュマロみたいなの、アイスカフェオレ、キャラメルコーヒー、エビとサーモンのスパゲティ、イカとタラコのクリームスパゲティ。 なんだかこう並べるとえらく豪勢だな。品数が多いし、満腹もするし、どうしてしげが嫌うのか理由が分からん。 おみやげにピザも頼むが、トッピングにサービスで半熟卵がついてくる。これが帰宅して箱を開けてみると、当然のことながら殻に入ったまま。 しげ、突然「卵、アンタにやる」と言い出す。 「あれ? 半熟卵は好物じゃなかったっけ?」 「うん、好きだよ」 「じゃあ、なんだ食べんの」 「殻に入ってるから」 「……割りゃいいじゃん!」 「めんどくさいからヤだ」 呆れて絶句。ヤだって、半熟卵を割ってテイクアウトにするわけにゃいかんだろうに。グータラと言うより、大バカじゃん。いや、もうずっとバカだバカだとは思ってたけど、またバカに磨きがかかってきてるぞ。他人ならこういうバカも笑ってられるんだけど、このコバンザメ、くっついて離れないしなあ。やっぱりバカって治らないのかなあ。知性を注射できるような医療技術がありゃいいんだけど。
先日からずっと、部屋の中をコバエが飛んでいる。 見た感じではショウジョウバエみたいである。 懐かしいなあ、昔、理科の授業の宿題でハエの観察してたけど、母親が「そんな宿題があるか!」と信じてくれなくて捨てられたっけなあ。おかげで観察日記が出せなくてクラスで一人叱られたっけ。あの時の恨み忘れてないぞ、お袋。……くそ、もう死んでやがるぜ、あのアマ(←「それはダメだよぉ」by.シティボーイズ)。 いや、ハエを懐かしがってどうする。 パソコンに向かってると画面の前をチラチラ行き交うので、まさしく五月蝿い(旧暦じゃまだ5月じゃないかな)。部屋のどこぞに卵が生みつけられてるんじゃないかと思って探してたんだけど、なかなか見つけられなかった。理由は、私の家の中をご存知の方には説明不要であろう。 どんなに部屋が散らかろうと壊れようと化学実験の匂いがしようと(おいおい)平気なしげも、ついにたまりかねたか、久しぶりに台所を片付け始めた。 「排水溝から上がって来たんじゃないかなあ」とか言ってたが、結局、それらしいものはなかったそうな。 けれどもともと大雑把でガサツなしげだから、片付けたと言っても手抜きがあるのではないかと思い、ふとまな板を裏がえして見たら……。 うにょ。 うにょにょにょ。 あー、あの、子供のころ、地べたの石をめくったらそこに虫がうぞぞぞとへばりついてた光景を思い出してください。 白くて、小さなウジがうにょにょにょにょと何10匹もビッシリ……。 ええええ、洗いましたよ。大掃除しましたとも。シャレにならんぞ、これ。 ……しげに家事を任せるとこうだからなあ。結局、私が掃除も洗濯も全部やらなきゃならなくなるのだ。
夜食に麻婆豆腐を作る。 これだって、市販のものを利用してるんだけれど、それだけだと物足りないので、サバを混ぜ、焼き肉のタレ(甘口)を混ぜる。サバの臭みは煮沸して予め取ってあるので、結構美味い。何かひと工夫して美味しくしないと人には出せないと思うのが主夫のささやかな拘り。……しげ、ホントになんのためにウチにいるのかなあ。 しげ、「辛い辛い」と言いながらパクパク食べる。それでも辛さ抑えてるんだよ。「食べたんなら方付けはしろよ」と声をかけるが、しげは無視。あ、またこいつ方付けしないつもりだな。コバエまで発生させたと言うのに。 だいたい、家事については役割分担の約束は何度もしている。私が料理を作っていいから、片付けはしげが、と口が酸っぱくなるくらい言ってるのだが、全然守らない。 辛い辛いと文句つけながらも食いはしたのだから、方付けくらいはしてくれよな、しげ。
DVD『必殺必中仕事屋稼業』、ようやく上巻を見終わる。 岡田英次が2話連続の悪役に扮しているけれど、前編でうまく仕事屋の手から逃れることができたのに、後編であっさりやられちゃったのは筋としてヘン。悪役の造型って、強く見せようとすればするほど難しくなるんだけど、無駄な描写を増やして結局チンピラにしちゃってるんだよなあ。構成の失敗は、時間帯変更を考慮して1話完結のセオリーを崩したせいかもしれない。 緒形拳の半兵衛がヒゲを落としたのも、梅安と重なっちゃうし、失敗だったのでは。このあと、『仕事屋』は視聴率低迷にあえぐことになる。
安田均原案・山本弘著『ゴーストハンター ラプラスの魔』(角川スニーカー文庫・600円)。 『ゴーストハンター』シリーズのリニューアル再刊。 でも読むのは実はこれが初めて。タイトルだけ見て気にはなってたんだけれど、初刊時の80年代後半、もう随分トウが立って来たなあと感じていた私は、明らかに中高生ターゲットのスニーカー文庫やらファンタジア文庫やらといったライトノヴェルにはあまり食指を動かしてなかったのだ。これもまた私の不明。 で、実際に読んでみて思ったのは、面白いことは面白いんだけれど、もっと早く読んでれば更に面白かったんじゃないかなあってこと。 と言うのも、「ラプラスの魔」の正体がね、初刊当時の1988年だったら相当斬新だったと思うけれど、今読むと、どうしてもありきたりに見えてしまうことなんだね。だってこのネタ、もうマンガでも小説でも腐るほど使われちゃったものね。 おかげで、昔読んでたら気がつかなかったかもしれない伏線にも早々と気づいちゃって、これってもしかして○○○○○? って思った瞬間、ちょっとばかし脱力してしまった。もちろんその責任は山本さんにあるわけじゃないんだけれど、これがパイオニアの宿命みたいなものかと思うと、SFやファンタジーが古びてしまうのも仕方がないのかなあ、という気になる。 ゲームを原作としていることのデメリットも相当あったんじゃないかな。明らかにキャラが多すぎ。前半の、まるで七人の侍を集めて行くようなワクワクする展開をさせといて、あっさりキャラ殺してくのはゲームのシナリオでもそうなってるのかもしれないけれど、ちょっと失敗じゃないかな。あのキャラとあのキャラが実はああなってってとこはうまいけれど。 ……うーむ、ネタバレしないように書くのはこれについてはムリだなあ(-_-;)。未読の方には何のことかわかんないと思うけど、カンベンしてください。でも○○○○○シリーズのことを知らない人にはかえって面白いんじゃないでしょうか。
2001年07月30日(月) 八女って全国的にどの程度有名なんだ?/『ロマンアルバム・太陽の王子ホルスの大冒険』ほか
2002年07月29日(月) |
肉は血となり肉となる/『砲神エグザクソン』5巻(園田健一)/DVD『マジンカイザー』6巻ほか |
一年中でいつの季節が嫌いかというとこれはもうまったくもって夏である。 薄着のねーちゃんが見られるやないか、と目尻下げてるオヤジも多かろうが、私は視力がないので全然嬉しくない(あったら嬉しいんかい)。 だいたい、夏の太陽を青春のシンボルみたいに言って、のーてんきに喜んでるのは、四季があって、世界でも最も暮らしやすい環境にいる日本人の奢りみたいなもんである。アラブじゃ灼熱の太陽なんて、悪魔の化身だぞ。日本の某食品メーカーが太陽をシンボルマークにしてたせいで、缶詰が全く売れなかったって話もあるくらいだ(ちょっと都市伝説混じってると思うが)。 暑いと当然汗をかく。 汗をかけば臭い。 だから風呂に入る。 けれど外に出ればまた汗をかく。 臭い。 風呂に入る。 いくら風呂に入っても汗臭いのが取れないような気がする。 段々イライラしてくる。 しげも臭いし、あいつはなかなか風呂に入らないからから、ダブルで臭い。 そのうち、腋の肉と腹の肉を殺ぎ落としたい衝動に駆られてくる。 頭痛が痛い。目眩がする。 むやみやたらに他人に当たりたくなる。 本気で精神に以上を来たしそうな気がして来たので、これはヤバい、と午前中にちゃっちゃと仕事を片付けて、半日で帰宅。
先日の検査結果を聞くために病院に行く。 平日の昼だというのに、来院者多し。やたら待たされるうちに喉が異常に乾いてくる。大きな病院だと売店もあるしウォータークーラーもあるんだが、ここにはそんなものはないのでガマンするしかない。 でも我慢しきれずに、看護婦さんに頼んでコップに水を汲んでもらったのだが、これも随分時間がかかった。看護婦さんたちだって飲み水は必要だろうに、すぐに出せるところに水が置いてないって、どういうことなんだ。水を出せ。出すんだ。そうやって、私を飢餓状態において苦しめて、その様子を見ながらほくそ笑んでいるのだな。だ、だれの陰謀だ。黒幕は誰だ。CIAか、スペクターか。分かったぞ、○○○○だな。あのとき○○○○○が○○○○○○したのを逆恨みして、裏で手を回したのだな。く、く、くそう、こうなったらこの病院の○○○○○を○○○○して○○○○○……。 ……いかん、暑さのせいで本気で思考回路がショート寸前だ。せーらーむーんか。
今日も担当はいつもの先生ではなく、院長先生。 どうしたのかなあ、夏休みでも取ってるのかなあ。いつもの先生、すごく明るく喋ってくれるので、どんなに悪い結果聞かされても気落ちしなくてすむんだが。いや、それがなんの解決にも繋がってないことは重々承知しております。 「……どうでしょう、血液検査の結果は」 「よくないですね。……よくないどころじゃありません、ハッキリ言って悪いです」 「はあ」 「血糖値が220越えてます。コントロールができてないでしょう。運動してますか?」 「車で通勤するようになってからはほとんど……」 「体重も80キロを切るようにしないとね。一気に落とすのはムリだとしても、少しずつでも落とすようにしないと、危険ですよ」 「はあ」 「奥さんにも協力してもらって」 あ、そりゃムリだ。まず確実に不可能。蟷螂の斧、焼け石に水、桃栗三年柿八年、ちょっと違うか。ああ、先は短い(T.T)。こうなると、定期的に入院するしかないかなあ。 入れ代わりで診察室に入るしげ。と思ったら、ほんの数分で出てくる。 「どうだった?」 「ほとんど健康だって」 「……ほとんどって、じゃあ何が悪かったんだよ」 「『肉を食べすぎてませんか?』だって」 何たる慧眼。ここの医者、もしかしたらすごく信用できるかもしれない。まあしげの体型を見れば一発で分かるとも言えるが。 しげ、「何でこんなに頑丈に生んでくれたんだ」とか親を恨む発言。遠藤淑子の『エヴァンジェリン姫』シリーズのセリフを受けての発言なので、悪気はないのだが、病院で患者さんたちがいるところで口にするコトバじゃないな。
セガワールドにちょっと寄ったら、UFOキャッチャーでいかにも取りやすそうな位置に『あずまんが大王』のおーさかがあったので一発ゲット。……ああっ、UFOキャッチャーではコップとか時計とか、使えるものしか取らないと決めていたのに、つい……(*・・*) 。 まあ、おーさかだからいいか(なんでだ)。 しかしねー、生身の女の子にはねー、あまり癒されるような感覚持たないのにねー、実際、癒し系とか和み系なんてコトバは聞くだに虫唾が走るってのにねー、どうしてアニメのキャラにはほわんとした気分になってしまうのか。おーさか巨乳でもないし。 人間としてやはり何かがケツラクしているということなのだろうか。
昼飯はガスト。 なんだか久しぶりに来たような気がするが、のどの乾きが続いているので、ドリンクバーがある店を選んだのである。 ここのココアがお気に入りなのだが、今日はお茶やコーヒーにする。糖分を控えるつもりだったのだが、飲んでみると苦いばかりで美味しくないので、ついシロップを入れる。この一杯が死への第一歩。 注文したのがスパゲティにオムライスだから、もう五歩くらい進んだかもしれない。しげの影響か、私も自分の欲望を押さえ切れなくなってるのである。
しげ、検査結果がよかったせいなのか、いつにも増して機嫌がいい。 ただでさえうるさいやつがさらにうるさいので、助手席に座っていると鼓膜が痛くてたまらない。 何しろ乗ってる間、謎の言語で歌いまくっているのである。 「ぴゃぴゃぴゃぴゃー、ぴゃぴゃぴゃぴゃー、ぴゃっびゃっぴゃっぴゃっ、ぴゃぴゃぴゃぴゃー」 狂ってるよなあ。 近所のベスト電器で生ビデオテープを買い込み、マルキョウに寄って帰る。 しげがなぜかそうめんに拘ったので、山ほど買い込む。誰が食うんだそんなに。
マンガ、園田健一『砲神エグザクソン』5巻(講談社/アフタヌーンKC・540円)。 これだけ超爆乳の女の子出しまくってて、砲一の初体験の相手が微乳の茜だってのも趣味に走ってるよなあ。巨乳と微乳のどちらがいいかというのはそれこそどうだっていい問題なのであって、巨乳には巨乳の、微乳には微乳の醍醐味が……。 おっと、それがメインのマンガじゃないって(^_^;)。 エグザクソンでのハデな戦いはいったん休止、表面的には戦いが沈静化した中での権謀術数の情報戦が繰り広げられる。こっちの展開のほうがドンパチやってるより面白いな。 砲一は姿を変え、甲弾として学校に戻る。エグザクソンの活躍で、生徒たちも以前ほど砲一のことを阻害するような雰囲気はなくなりつつある。その間、勇華の分身が砲一に変身し、各地の人命救助にあたっている。地球人の諦めムードがこれで少しずつ変わっていく。リオファルドの地球人処理工場の様子がリークされ、反リオファルドの動きが少しずつ高まっていく。 細かい描写を積み重ねてリアルさを表現しているのは、リオファルド側も同じで、シェスカを死んだものとして英雄として祭り上げるあたりや、実際には生き延びたシェスカが造反していく過程は、この先戦いが三つ巴、四つ巴の複雑な様相を呈していくことを予感させる。 もっとも、読んでいて息苦しく感じる面があることも否めない。随分面白くなってきたし、リアルになることがいけないとは言わないけれども、なんだかまだまだムダに血が流れそうな(流れないわけにはいかない)雰囲気が漂ってるのは、ちょっとツライのだ。まあスカッとしたヒーローものを描こうってワケじゃないからそれは仕方ないんだけれども。キンバー先生は死んでほしくないなあ。もう充分苦しんでるんだから。
DVD『マジンカイザー』6巻。 あと1巻で終わりってことで、クライマックスになるはずだけれど、どうもイマイチ盛り上がらない。甲児がマグマに飲みこまれる程度じゃ、今更スリルもサスペンスもない。マジンカイザーに乗ってるんだから平気でしょ? ってなもんで。マグマ程度で溶けるんなら超合金(今はなんて名前になってるんだ。ガンダリウムか?)の意味がないじゃん(それにしても兜十造博士は超合金をどうやって加工したのか)。 1・2巻で盛り上げ過ぎたんだなあ。ありったけ機械獣導入するわ、ダブルマジンガー絶体絶命になるわ、マジンカイザー暴走するわ、クライマックスの連続(日本語になってないな)。 これを更に盛り上げるのが至難のわざというのはわかるが、でも作った以上、グレードを落としちゃいかんよなあ。合体機械獣ガラダブラなんて、ギャグでしかないじゃん。ブロッケンやゴーゴン大公出せよ、ローリィ&ロールはどうして ミリオンαに乗らないんだ。最終回、マジンガー軍団出さないのか。 ホントに第2シリーズ作ってくれるんじゃなきゃ、物足りないぞ。私ゃあしゅら男爵の「なぜだブロッケン!」の断末魔のセリフが聞きたいのに(悪趣味)。
夜、NHK『桂米朝 最後の大舞台』の再放送を見る。 米朝さんをテレビで見るのも久しぶりなので、急に老けこんだ印象。もう銀髪で顔色もよくなく、確かにもう昔日の溌剌とした面影はない。 ただ、口跡もはっきりしていないし、老いは確実に米朝さんの芸に影を落としてはいるのだが、眼光だけは濁っていないのだ。恐いというか、鬼気迫る印象すらある。噺家としてはそれはもう余裕がなくなっているということで、あまりよいこととは言えないのだが。老いと戦い、追いつめられているのである。 桂枝雀の思い出を語る米朝さんの表情はあまりに痛々しい。 米朝さんの後を継ぐのは、枝雀さんと誰もが思っていた。「枝雀が生きてたらなあ」。米朝さんは本来そういう泣き言を言う人ではなかったと思う。 番組の途中だったが、居たたまれなくなってテレビのスイッチを消した。……芸人のこういう裏事情を伝える番組は、感情的には不要に感じてしまう。記録として残しておく意義があることは理解できるのだが、噺家は笑わせてナンボじゃないのかなあ。
2001年07月29日(日) いっじわっるはっ、たっのしっいなっ/『竜が滅ぶ日』(長谷川裕一)ほか
2002年07月28日(日) |
台本書いてると仕事してる気になるなあ/『アベノ橋魔法☆商店街』2巻(完結/出口竜正)ほか |
えーっと、その昔、鎧甲着て都知事選に立候補した羽柴誠三秀吉さんて方がいらっしゃいましたね。いや、今もいるんですけど。 なんとまあ、その方が、東京都知事選、大阪府知事選に続いて、長野県知事選に出馬することを表明いたしました。 私ゃ、この人は「月光仮面」みたいな、近所のただのおっさんかと思ってたら、ホテル・土建業などの会社を経営する羽柴グループの代表でいらっしゃったんですね、すみません、無知でした。年商70億円、総資産200億円ということですから、こりゃもう堂々たるものです。 うーん、となると、これまでの立候補も生半可な気持ちや単なる売名行為ではなく、本気も本気、マジで国政に参画することを考えてたってことなんでしょうねえ。自分を太閤秀吉の生まれ変わりと信じたり、自宅に国会議事堂に見立てた温泉旅館を造ったりと、その言動はまさしくトンデモさんなんですが、なんだか憎めない。と言うのがこの人、どうにも落語『寝床』の義太夫好きな大家とイメージがダブっちゃうんですよね。ドヘタクソで聞くに堪えない、けれど歌ってる本人はイイ気持ちって、ジャイアンみたいな大家(^^)。羽柴さんにとって、政治への意欲はまさしく真剣そのものなんでしょうが、周囲にとってはハタ迷惑な道楽でしかない。けれど止めようったって止まらないんでしょうねえ(……と思うんだけれど、まさか家族も立候補を喜んでやしないだろうな)。 政治をマジメに考える人にとっては「なんだコイツ、ふざけやがって」ってことになるのかもしれませんが、それを言い出せば田中康夫だって似たようなもの、長野県知事選、一層トンデモ対決の様相を呈して参りました。しかも羽柴さん、のっけからトバしまくってます。 「田中さんは独裁者のようで、こらしめてやりたいと思った。ほかの候補者には負ける気がしない。実質的には(康夫氏との)一騎打ちになるんじゃないか」どこから出てくるのでしょう、この自信(^_^;)。結果はわかりきっているものの、これからの選挙活動のドキュメンタリーを見るのは楽しみです。どこかのレポーター、田中候補に「羽柴さんをどう思いますか?」と聞いていただきたいですねえ(^o^)。
朝から次の芝居の台本のシノプシスをちゃちゃっと書く。 これまでの脚本の作り方としては、メンバーがやりたい作品(既成・創作コミ)を持ち寄って、その中でオーデションを行う、という形を取っていた。 しかし、率直に言って、メンバーの発想が貧困なために(自分も含む)、毎回どこか似たような印象の作品ばかりが連続することにもなっていた。それで今回は、それぞれの持ち寄ったアイデアをゴタ混ぜにして三題噺的に物語を作ることにしたのである。 これが頭の中でまとまるのに時間がかかってよ(-_-;)。 公演前なので、詳しい話はできないけれど、チラッとだけ書いとくと、「集合」「どろどろ」「記憶喪失」「どっちが本物」……このキーワードを一本の脚本にしなければならないんだよねー。 なんじゃそりゃ(^_^;)。
しげは9時には出かけるので、それまでに原稿をプリントアウトしておかなければならないが、勢いがある時にはさほど時間がかからないもので、2時間弱で書き終える。 短くまとめたつもりだが、それでもA4の紙、4枚分ほどになる。短すぎて、どんな芝居だか分らないってことにはならんだろう。 前回の『ねこまん』、しげからシノプシスが出された段階では「主人公が猫になる」のヒトコトしか書いてなかった。そんなのはシノプシスとは言わない(-_-;)。それをあそこまで膨らませたんだから、我ながらよくやったと思う(近日、劇団HPにUPされる予定)。 構成的には、思ったよりドラマツルギーに則った整然としたものになった。もっともそれは内容が通り一遍で破綻がないということにもなるので、少しギクシャクしたところを付け加えていったほうが、ナマの芝居としては面白くなろう。
しげが練習に出かけた後、アニメ『ぴたテン』など見る。 なんかもー、この作画の工夫のなさ、どうにかしてねって感じだねー、70年代のアニメって言われても納得しちゃうぞ。海に行く話で、各キャラの水着が拝めるというありがたいエピソードなのだがまるで萌えない(萌えてどーする)。制作会社変えんか、IGあたりと(引き受けねーって)。 一応、テーマソングはなんとか歌えるようになった。今度カラオケに言ったら練習してみよう。
何気なくCSキッズステーションをかけていたら、テレビアニメ『うる星やつら』が連続放送中。 しかも、85話『宇宙かぜパニック!』、86話『竜之介登場! 海が好きっ!!』、87話『さよならの季節』、88話『ランちゃんのデート大作戦!』と、『うる星』が最も油が乗り切ってた頃の作品だ。 特に見所だったのは、86話と87話。 前者は宮崎駿がたまたま見て誉めた回で、後者は脚本・絵コンテ・演出を押井守一人が務めた『うる星やつら』最高傑作である。 『さよなら』の原作の『あたるの引退』は、原作中でも1、2を争うつまらない回なのだが(高橋先生ごめんなさい)、それを、モチーフのみを残して大胆に脚色、メガネとしのぶの裏の攻防を描くという一大スペクタクル(^o^)に昇華させたのだ。……いやあ、20年経った今でも笑えるわ。しまったなあ、ビデオに録っときゃよかった。 今回初めて気がついた発見。 押井守作品の隠れキャラ、ケツネコロッケのお銀(本作では仏滅女学園の番格になってますが、本来は女立ち食い師で、「ケツネタヌキの竜」の愛弟子。初登場は『逆転イッパツマン』の第14話。『紅い眼鏡』でも天本英世扮する「月見の銀二」がその名前を口にしています)、声をアテてたの榊原良子さんだったんだね。『ミニパト』に至るまで、押井作品との縁はこんなに深かったのか。
アニメ『サイボーグ009』第40話「シンクロワープ ―同調跳躍―」。 意識の同調によって時間を超越することが出来るという「シンクロワープ」のアイデア自体はオリジナルだけれど、「時間跳躍」のアイデアが出てきたところで『移民編』らしくなってきた。 ミーたちと009たちとの間には、原作のような血縁関係はなさそうだけれども、原作のエッセンスを生かそうとしていることは伝わってくる。完全に原作をなぞるのが映像作品としていいものになるとも限らないので、これくらいの改変はコアなファンも納得してあげてほしいな。作画も安定しているので、安心して見られる。 後の話数を考えると、もう『時空間漂流民編』や『海底ピラミッド編』は映像化できそうにないけれど、『神々との戦い編』に組みこんで映像化するのだろうか。まあ、OVAにするという手もあるし。
『決定!これが日本のベスト100』、今週は「アニメソングベスト100」。 選集は随分腹を立ててしまったが、まあ、今週はアニソンだし、フルコーラス流せないのは普通のベストテン番組でもそうなんだから、あまり腹を立てずにすむだろう。 ……と思ったら、太田光が独自で選ぶベスト3で、実写版『ルパン三世』(目黒祐樹主演の『念力珍作戦』)を紹介して、漫画を実写化することのムリさを語ってるのを見て、腰砕けしてしまった。 そりゃ、マンガは実写にならない、ってのは、正論は正論なんだけど、それを言い出せば、マンガ原作からの映像化をほとんど否定してしまうことになりかねない。比較的評価の高い『ガラスの仮面』の北島マヤ=安達祐実や、『ショムニ』の坪井千夏=江角マキコだって、原作とイメージが一致してるわけではないのである。 要はマンガのエッセンスをドラマに移行できたかどうかであって、『念力』は一応、成功例に入れてもいいほうだと思う。それを、写真一つで笑っちまっていいものかどうか。 今でこそアニメのイメージが定着してしまっているが、この実写版『念力珍作戦』が公開されたのは旧テレビシリーズがコケた直後、『ルパン』の名前だってそんなに世間に浸透してなかった頃だ。ルパン三世=目黒祐樹、次元大介=田中邦衛、峰不二子=江崎英子、銭形警部=伊東四朗ってキャスティング、当時はそんなに違和感はなかったのである。 先週も思ったが、太田光のこのコーナー、全然つまんなくて、場つなぎになってない。爆笑問題が面白かったのは『ボキャブラ天国』のころまでで、最近はテレビに出すぎでちっとも面白くないけど、そろそろ芸風考えないと飽きられて行くんじゃないか。
あ、一応、アニソンベストテンだけ紹介しておこう(^^)。 1 『宇宙戦艦ヤマト』 …………『宇宙戦艦ヤマト(OP)』 2 『おしえて』 …………………『アルプスの少女ハイジ(OP)』 3 『マジンガーZ』 ……………『マジンガーZ(OP)』 4 『ルパン三世のテーマ』 ……『(新)ルパン三世(OP)』 5 『キャンディキャンディ』 …『キャンディ キャンディ(OP)』 6 『まんが日本昔ばなし』 ……『まんが日本昔ばなし(OP)』 7 『ガッチャマンの歌』 ………『科学忍者隊ガッチャマン(OP)』 8 『おどるポンポコリン』 ……『ちびまる子ちゃん(ED)』 9 『哀 戦士』 …………………『機動戦士ガンダムⅡ 哀・戦士編(主題歌)』 10 『ラムのラブソング』 ………『うる星やつら(OP)』 当たり前すぎて面白味がないな(-_-;)。 1位の『ヤマト』、佐々木功さんが招かれて、1クールバージョンで歌ってくれたのは嬉しかった。若い人だと、カラオケなんかで知ってるだけで、作品自体に当たったことがない人って多いと思うけど、それでも投票してる人はいるんだろうなあ。 そういう人が、今回のイントロのないバージョンを聞いたら、放送トラブルか? と思うかもしれない。……アンディ・カウフマンかい。
マンガ、GAINAX原作・あかほりさとる脚本・出口竜正漫画『アベノ橋魔法☆商店街』2巻(完結/講談社/マガジンZKC・550円)。 1巻にもまして、オタクなネタが多いなあ。 作中でも快傑のーてんきを見て、「いったい何人の読者にわかってもらえるか?」とアルミが口にするけど、その通りだよ(^_^;)。山賀監督と庵野監督もブルース・リーと宮本武蔵に扮して登場するし、内輪ウケだけ狙ってるよなあ。 でも、徳光康之や堂本たかしほどに読んでるこちらの心が動かされないのは、パロディにする対象の面白さを伝えたいって思いが欠けてるせいだろう。つまり、面白がってるのって、作者だけなのである。 絵はなあ、口の形が全コマ同じ(ホントにそこまでじゃないけど)であることを除けばイロっぽくて好きなんだが。アルミちゃん、アニメじゃムネないけど、マンガじゃムネムネには負けるけどそれなりにふっくらしてるし。でも話が慌ただしいばかりでメリハリがないのがちょっとねえ。……あかほりだからか?
2001年07月28日(土) アイ・ラブ・アッシー。……違うって(-_-;)/『スーパーロボットマガジン』第一号ほか
2002年07月27日(土) |
イナジュンはいいねえ~♪/DVD『カタクリ家の幸福』/『雨柳堂夢咄』其ノ九(波津彬子)/『ガンダムエース』9月号ほか |
休日につき、のんべんだらり。 って、それっていつもか(^_^;)。 どこかに出かける気も起こらなくて、昼食は久しぶりにピザクックに頼む。 床に新聞が散乱する中から、しげが最新のメニューチラシを探し出す。……だから新聞まとめて廃品回収に出すことくらいしろってば。 しばらく食べてなかったら新メニューもいろいろ増えてるねえ。なんだかよくわからないが、きのこっぽいのとアイダホっぽいのを頼む。一応野菜メインのものを頼むようにしてるんだが、少しはカロリー制限になってるかどうか。
CSファミリー劇場『稲川淳二の超こわい話』『超こわい話2』。 「夏と言えばイナジュンよね」のギャグは細野不二彦の『ごめんあそばせ』。いやあ、あのギャグは好きだったなあ。このマンガを読んだことのある人なら「イナジュン」と聞いたら、稲垣潤一ではなく稲川淳二のことであると認識するようにならねばモグリであろう。何のだ。 あ、でも私マジで、もうひとりのイナジュンって誰だったっけ? と、Google検索かけなきゃ思い出せなかったよ(^o^)。 でも、全然怖くないなあ、イナジュンの語り。っつーかヘタだよ、すごく。妙に念を押すような、反応を窺うような姿勢が客をシラケさせる原因になってる。怪談ってのは客を自分の方に惹きつけないといけないのにねえ。自分から客のほうにノコノコ降りてっちゃ、恐怖も半減しちゃうよ。 全く、いったい、いつから「怪談はイナジュン」ってことになっちゃったのかねえ。でも考えてみたらフォークロアとしての怪談を語ってる人って、あとは私ゃ北条きく子(今の北條霊峰)くらいしか知らない。古すぎるな。つまりイナジュンが重宝されてるのは、「他にいない」ってことなんだろうね。 それでもたらたらとイナジュンを見ていたら、寝室のほうからしげが寝惚けた声で「いやああああ」と悲鳴。悲鳴って言ってもヤギの鳴き声にしか聞こえない(^_^;)。どうやらイナジュンの語りに反応して目が覚めたらしい。でも、こんな下手な語りですら怖いものなのか。しげだってイナジュンのギャグには笑った口だから、これくらい、笑って見てもいいと思うのに。 ……さて、これだけ「イナジュン」を連発すれば、もうみなさんもこれから先「イナジュン」と聞けば稲川淳二を連想するようになったことでしょう(^o^)。時代はイナジュンだ。
DVD『カタクリ家の幸福』。 特典はキャストへのインタビューだけれど、松坂慶子のときだけビデオがハレーションを起こす(^_^;)。……シワ増えたんだろうなあ、ハダも荒れてるんだろうなあ、シミも出てるんだろうなあ、○○も○○たんだろうなあ、もう50歳だっけ。映画本編だとうまいこと紗をかけてたからあまり目立たなかったけれど、ビデオだとハレーション起こさないと誤魔化しようがないんだな(^_^;)。 実は隠れ松坂慶子ファンの私にしてみれば(さすがに『ハットリくん』のころまでは遡れないが、『なんたって18歳』のころはもう認識してた。あの頃はどっちかっつーとキツイ役や悪女役が多かったが、今や気のいいオバサン役ばっかりになっちゃったね)、随分遠くまで来たのだなあ、と感慨深い。あまりムリはしなくてもねえ、普通におばあちゃんになってくれてもいいと思うんだけど。 それにしても、キャストがみんなホントに楽しそうにインタビューに答えてるのな。三池監督の誉めかたも全然お世辞っぽくないし。実際、撮影中の監督、実に楽しそうで怒鳴ってダメ出しするような様子が全くないんだよな。こんなにスタッフ、キャストが和気藹々としてる様子を見せてくれるメイキングも珍しい。ギスギスした雰囲気がピリピリ伝わってくる『ガメラ3』のメイキングとは好対照だ。これだけ平和な現場ってのもそうそうないんじゃないかな。大林宣彦だってもう少し役者に文句つけそうなもんだ。 しかも三池崇史監督の模範演技が実際のキャストより数弾上手いのにはビックリ。動きにキレがあるんだよね。大きな声じゃ言えないが、主役の父さん(あるいは詐欺師のアンちゃん)、三池監督が演じてもよかったんじゃないか。 ああ、そう言えばこの映画のCD、買おう買おうと思って忘れてたな。やっぱり丹波哲郎の歌声が聞けるってだけでもこれは絶対買いだよな(^o^)。
夜はリンガーハットで食事。 と言ってもしげは自分の店では食べたがらないので、わざわざ諸岡まで出かける。ホンダを回ってまたまた本を買い込み、皿うどんと一口餃子のセットを食いながら本を読む。しかし、読みながら食ってるので味はほとんどわからない。 食ってる間は本を読まなきゃよさそうなものだけれど、なぜか食うことだけに集中できないのである。家で食事をするときでも、テレビを点けるかDVDをかけてないと落ち着かない。食事するだけなんて、なんだか時間をムダにしてるような気になっちゃうのである。 けれど、リンガーハットで『ガンダムエース』読んでる客って、店側から見れば気持ち悪いかもなあ(^_^;)。
マンガ、波津彬子『雨柳堂夢咄』其ノ九(朝日ソノラマ/眠れぬ夜の奇妙な話コミックス・910円)。 コンスタントに釉月&篁のエピソードとそれ以外の奇談とが語られる形式が定着した感じで、これがいいリズムを作っている。語りがぎこちなかった初期の頃に比べると、随分面白くなった。 『午後の清香』や『おつかい猫』の話、本当に中国の古譚にありそうなくらいに完成度が高い。いや、語りのうまさだけでなく、登場する精霊たち、付喪神たちのことが愛おしいと思えるくらいにその細やかな感情が描かれていることに感嘆する。これでもちっと絵が上手くなってくれればなあ(^_^;)。 けれどまだ完結してないのにもう文庫化されちゃってるんだなあ。それが悪いって言いたいわけじゃないけど、文庫の乱発って、長い目で見たら漫画出版の低迷を呼びはしないか。今の状態、間違いなくマンガのバブル状態だもんね。 どうせなら、今まで単行本化されてない作品や、絶版作品を文庫で復刻してほしいものだけれど。 朝日ソノラマさんよう、速星七生の先生もの(タイトル忘れた)、『たい問』に併録して文庫化してくれよう。
モンキーパンチ責任編集『ルパン三世 公式OFFICIAL MAGAZINE』WEEKLY漫画アクション8月19日増刊号(双葉社・500円)。 頼むから通巻番号付けて(T∇T)。巻頭対談はモンキー・パンチ、大塚康生、おおすみ正秋、納谷悟朗の四人。 中身はほとんどはもう知ってる話ばかりなんだけれど、納谷さんが銭形を演じることになったのが、納谷さん自身の売込みだったということは今回初めて聞いた。パイロット版で五右衛門演じた時、納谷さん「セリフが少ない、やるなら銭形」と感じたんだそうな(^o^)。しかしパイロット版通り、銭形を近石真介さんが演じてたら、もう初めからコミカルな銭形になってたろうなあ。 けれど納谷さんが当時の出来事で覚えてるのはそのくらいで、最初のころの銭形がシリアスだったことや、自分がオープニングでナレーションを担当したことがあることもすっかり忘れているのである。ホントにボケてるよ納谷さん(/_;)。 笑えるのはみんなで新作の『ファーストコンタクト』をけなしていること。身内が営業妨害してどうするのか(^o^)。 モンキーパンチの単行本未収録再録漫画は『銭さんサスペンス』。 あ~、センスかなんつ~かアメリカのカートゥーンだね。ハンナ・バーベラの『チキチキマシン』とかワーナーの『ロードランナー』とか。しかしこれだけコミカルな銭さん描いてたら、「銭型はもともとシリアスだった」ってモンキーさんの主張、根拠が薄らいじゃうね。
『ガンダムエース』9月号(No.006/角川書店・650円)。 表紙は「マチルダさぁぁぁぁん」。 ……うーむ、今やショムニだったり千本ノッコだったりする戸田恵子さんが当時、椎名へきるを越える声優界のすっげぇアイドルだったことを知る人は少なくなったろうなあ。何しろ、ほとんどマチルダさんとイメージが一致していたのである。アムロの叫びをわが叫びと感じていた男どもが全国に何万人いたことか。私もLPまだ持ってるっスよ(^_^;)。「か~ぁれ、分かってくれたらしぃ~いのっ♪」誰も知らんか。
テレビ新シリーズ『機動戦士ガンダムSEED』の紹介グラビア。 監督の福田己津央さんって名前初めて聞くけどサンライズの新人さんなのかな。世代交代は大いに歓迎したいところだけど、番組そのものはあまり魅力的に感じないなあ。 ストーリーもキャラクターも、なんだかファーストのリメイクの『W』の更にまたリメイクって感じだ。 ストライクガンダムにイージスガンダムにデュエルガンダム、バスターガンナダム、ブリッツガンダムですか。Gガンの時に既にもうなんでもアリだなあ、と思ったから、もう新鮮味全く感じないねえ。 それでも放映されれば多分見ちゃうんだろうけど。
安彦良和『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』。 ガルマ編、やっぱり今号で終わらなかったなあ、124ページも使ってるのに。ここまでが3巻とすると、4巻まではかかるか。更にその後グフとの戦いも含めると、5巻で映画版第一作の終わりあたりまでという計算になるかな。となると全15巻。……やっぱりテレビでカットされた分も含めて、20巻くらいは行ってほしいぞ。ちょこちょこと元シリーズになかったエピソードも加わってるし。 ……と言っても一応全話見ているとは言え、私も記憶だけでモノ言ってるから自信がないこと夥しい。セントアンジュに向かう母子のエピソード、テレビにあったっけ? ドレン中尉の水着は絶対なかったと思うが(^_^;)。イセリナ、もっと水着見せい。 安彦さん、旧シリーズでも映画版でもイセリナをただのバカな女にしか描けなかったのが残念、とか言ってたから、キャラクターをもっと膨らましてくれるかと思ったけど、今のところはまだそれほどの印象はなし。……でも、ガルマが死ぬとき、イセリナが走って来る映像をインサートするのは止めてほしいな。世間は広いから、もしかしてあれが気に入ってる人もいるかもしれないけど。でも、当時、劇場じゃあそこで失笑が起こったんだけどねえ。
他のマンガで読めるのはやっぱりトニーたけざきさん、大和田秀樹さんくらいしかいないなあ。北爪さんも夏元さんも美樹本さんもどこか同人誌の域を出ていない。さとうげんさん、徳光康之さんは相変わらずパロディになりきれていない。徳光さん、連載打ち切られてるし(^_^;)。 今更、パロディ論を云々したくはないけど、やっぱ元ネタ知らなくても笑えるっていう点を考えてマンガ描いてる人と、そこに気がついてない人との差がハッキリしてるんだよね。
巻末の安彦良和VS高千穂遙対談、今や知る人ぞ知る『OUT』1981年2月号に載った、高千穂さんの「ガンダムはSFじゃない」発言を巡る対談だ。 全く、この人のおかげでどれだけSFの敷居が高くなったことやら(^_^;)。 何しろ、当時、九州の僻地であるわが母校においても、高千穂発言に追従する自称SFマニアと、私のような横田順彌系の「SF何でもアリ」派とが口角泡を飛ばしてSF論議をやらかしていたのである。多分、その様子を見ただけで、「SFには近付いちゃなんねえだ」と思ったトモダチは多かったろう。 で、この人が当時どう発言していたのか、今回の対談から抜き出してみるとこういうことになる。
高千穂「《ガンダムはSFではない》って書いたわけじゃなくて、《SFはこうである》という前提を披露した上で、その前提にのっとれば、巨大ロボットアニメはこういう理由でSFではなくなる。その例のひとつとしてガンダムについて書いた」
つまり、「ガンダムはSFじゃない」とは言っていない、あるSFの定義において、「ガンダムがSFでなくなる場合もある」と言いたいわけね。 まあねー、言いたいことは分かるけど、ハッキリ言ってそんな細かい区別をしたって意味ない。 ガンダムが立派なSFだと思ってる人にとっては、たとえ「定義次第では」という条件つきでも「SFでない」と言われれば立腹するものである。高千穂さんは「ガンダムをSFかどうかで評価することに何か意味があるんですか?」と逆に問いかけてるけれど、だったら、ある作品がSFであることを分析することに、どのような意味があるのか、そこを説明しないとねえ。 だから、もともと「SFを語るのに、例としてわかりやすいロボットアニメを挙げた」こと自体に、誤解が生じた原因があったのだ。自分がSFでないと考えているものを例にとって、SFを語っちゃいかんですよ。そんなの、「『おそ松くん』はSFではない」と言ってるのと同じだってば。……『天才バカボン』はSFかもしれんが(^o^)。 SFの特徴を語りたいなら、『クラッシャージョウ』と『2001年宇宙の旅』は同じSFでもどう違うかって語ってくれたほうが分かりやすかったと思うけどね。 もっとも、一応、それに近いことを語っている箇所がこの対談中にもありはする。 高千穂「ハードSFっていうのは制約を極限にまで高めた特殊なSF。それ以外に、プロパーと呼ばれる本格SFや、うんと端っこに位置しているスペースオペラなんかがある。(中略)スペ・オペをやる人は最初から理論抜きで反重力もワープ航法も出しちゃう。」 安彦「例えば『クラッシャージョウ』でいえばテラフォーミング的な事ができるとかさ。」 高千穂「テラフォーミングやる時は、担当するチームが全部集まって各パートを受け持ち、何年もかけて作業を行う。そういう設定が作ってある。でも、これをわざわざ表に書く事はしない。スペースオペラですから。」
うーん、まだ説明不足だし、じゃあ、『ガンダム』は結局どこに入るのか、語ってないものな。 そりゃ私だって、『ガンダム』がハードSFであるとは思わない。誤解のないように、ハードSFとしての面白さを持った作品ではない、と言ったほうがいいか。それは、オープニングの宇宙空間で整然と並んでる戦艦やザクを見た時点で、SFセンスよりも映像的快感を優先しているなとわかる。もちろん、それで『ガンダム』の評価が悪くなるわけではないのだ。そして広義のSFには『ガンダム』は充分値すると思うのである。 高千穂さんが「巨大ロボットが出て来た時点でSFとしてダメ」と断定するのはSFの範囲をあまりに狭く取り過ぎてると思う。必然性がないってことなんだろうけれど、ちゃんと「ミノフスキー粒子」って設定があるじゃん。っつーか、どうも高千穂さん、ミノフスキー粒子が何か知らないで語ってる気がするんだよね。『宇宙の戦士』のパワードスーツを評価している高千穂さんが、どうしてモビル・スーツを評価できないのか、設定知ってりゃ評価したってよさそうなもんだけれども。 もっとも、そのミノフスキー粒子の設定が本編中でまともに語られたことがなかったせいで、高千穂さんがあれを「ただの巨大ロボットアニメ」と認識した可能性はあるな。私だって、『ガンダム大辞典』で初めて知ったし。 こうなると、高千穂さんには「『エヴァンゲリオン』はSFですか?」と聞いてみたくなるなあ。単に使徒と戦うためだけと考えたなら、エヴァみたいなモノに乗り込む必然性はないけれど、そこに代理戦争の変形モチーフを持ちこんだSF設定があるんだからね。それまで否定したら、藤子・F・不二雄の『ひとりぼっちの宇宙戦争』も永井豪の『真夜中の戦士』も石ノ森章太郎の『四次元半襖の下張りサイボーグ戦士(ウォーリア)』もSFじゃなくなるぞ。そこまでの暴論を高千穂さんは吐けるかなあ。
2001年07月27日(金) 『クレしん・オトナ帝国同人誌』完成!掲示板も見てね/『怪』11号ほか
2002年07月26日(金) |
親しき仲ほど礼儀なし/『風の帰る場所』(宮崎駿)/『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(なかいま強)ほか |
『北の国から』がようやく終わるそうである。 そのことを知ったのが、内田有紀と吉岡秀隆の熱愛発覚のニュースなんだけど、もしかして話題作りのためのガセか? でもこの二人なら何となくありそうだよなあ。 10年ほど前のアイドル人気のピークが過ぎて、内田有紀は本気で「役者」になろうと舞台出演などを繰り返している(テレビでは未だにどーでもいー役ばかり振られてるしな)。その意欲は買うけれど、選んだのがつかこうへいの舞台って時点でなんか外してたよな。そして今回が倉本聰である。でもって、吉岡秀隆コースに流れるというのは、演技者としても「転落」っぽいんだけど。なんとなく永瀬正敏と結婚した小泉今日子のラインに乗っちゃった気がしませんか。 これが渡部篤郎と結婚した村上里佳子(RIKACOになってるのか戻ってるのか覚えてねー)だと出世したってイメージなんだけどね。いや、あくまでだのイメージでホントに出世してるかどうかはこれも定かではない。 それはそれとして、シリーズ最終回『北の国から 2002 遺言』である。「遺言」とはまたいかにもクラモトなハッタリかましたタイトルやなあ、と思うが、田中邦衛死ぬのか。ラストが、五郎が静かに息を引き取るシーンで終わったりしたら、倉本版『ゴッドファーザー』って雰囲気になりそうだよな。根は同じだし。 とか言いながら、実は私は『北の国から』シリーズをまともに通して見たことがないのである。初期の作品は児童文学としても評価されてるし、チラチラと見てはいたのだけれど、世間の人ほどハマれはしなかった。まずさだまさしのテーマソングで引いたし(^^)。都会の生活に疲れたからって富良野へってのも短絡的だなあ、と思ったが、倉本さんの作品ってどれもこれも苦悩とか情念とかそんな心のマイナス要因をムリヤリ美化してるような胡散臭さを感じるんでねえ。っつーか、『前略おふくろ様』以降、どれもこれもなんか田舎臭くて。 ああ、でもマトモに見てないのに断定しちゃいかんな。『浮遊雲』は好きでしたね、渡哲也版の。時代考証無視したり、歴史上の人物が素通りするだけのギャグとか。ギャグもっと書いてよ倉本さん。 で、私は今度の『遺言』を見るだろうか。内田有紀の役は人妻だそうだが、全く純っつーか吉岡秀隆は不幸な恋が似合う男だ。
宮崎駿『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(rockin'on/1680円)。 1990年から2002年まで、渋谷陽一による宮崎駿のインタビューを集めたもの。 ……すごいなあ、表紙。タイトルより「宮崎駿」の名前の方が大きいよ。 宮崎さん本人がいくら「宮崎ブランドなんてものはない」と言い張っても、そりゃ通らんリクツだってことだよな。 なんだかなあ、ナウシカ以前から「宮崎駿はいいぞ!」といくら主張しても「ふ~ん」ですまされてた身にしてみれば隔世の感があるな。今は「『クレヨンしんちゃん』はいいぞ!」と言いまくっててて相手にされてないが。 DVD『名探偵ホームズ』の特典解説で鈴木敏夫プロデューサーが語ってたが、ナウシカ以後でも、『アニメージュ』で宮崎駿を特集すると売り上げが落ちたそうである(←実話)。 1980年代のアニメファンの人気は『ガンダム』『銀河鉄道999』に集中していて、宮崎駿っ誰? ってのが当時の一般常識であった。アニメファンと言っても、『カリオストロの城』の追っかけアクションに驚嘆していた連中はごく少数で、総体として『ヤマト』以降の俄かファンばかり、たいしてオタクとは言えない連中が多かったのだ。……思い返すに、私の周りの人間が濃いドオタクばかりだったというのは僥倖だったのかもしれない(不幸という説もある)。 宮崎駿の名前が本当の意味で「ブランド」となったのは、『となりのトトロ』がキネ旬ベストテンなどで評論家からの評価を得て後のことである(『トトロ』自体の興行はコケた)。具体的には『魔女の宅急便』以降ということになろう。情けない話で、大半の日本人は未だにアニメに対して偏見を持っており、誰かおエラいさんが誉めてくれないと、それが自分の眼で本当に面白いかどうかを確かめようとはしないのである。 そのことを一番身を持って感じているのが宮崎駿だろう。自分が売れない映画を数々作ってきたことも実感しているし、今、売れているからと言って天狗になっているわけでもない。渋谷陽一のヨイショ気味なインタビューにも、宮崎さんは自らの傲慢を(ないわけはないと思うが)戒め、注意深くかわし、それでいて言いたいことは好き放題言っている。全く食えない爺さんだ(^_^;)。 だから、一部の言を切り取って、宮崎駿を批判することは簡単だが、「子供は毎日『トトロ』ばかり見てないで外で遊べ」等のセリフが決して自尊心の裏返しでなく、本気で言ってるんだということもインタビューを通して見えてくる。そりゃ、そんなガキがいたらフツーの親なら少しは外に出ろって言うだろうに。オタクのマイナス面までフォローしてやるのは甘やかしってものである。 宮崎さんはただのエコジジイではない。もっと性根の腐ったクソジジイなんである(←これ、誉め言葉だからね。平凡な人間に傑作は作れないよ)。
仕事帰りの車の中で、しげの職場の裏話を聞く。 いやあ、面白いなあ、これはここに書いておきたいのだが、さすがに個人のプライバシーに関わりすぎるからちょっと憚られるなあ。 と言っても、相手の身を配慮して、なんて殊勝な感覚から遠慮しているわけではないのが私の人間性が腐っているところである(^o^)。
ネットでほかの人の日記を覗いていると、職業からプライバシーからもう曝け出し、なんてものもザラにあって、ハンドルネーム使ってりゃもう何書いてもいいと思ってるんだろうなあ、と感嘆することもしばしばである。 その基本姿勢には大いに共感するが、不思議なもので、自分の内面を思い切り書いときながら、読者から内容について批判的な感想が寄せられたら、今度は自分の殻に閉じこもっちゃってサイトを閉じちゃう人も未だに多い。いったい何を考えてサイト開いたんだろうね。「もう日記を書くのやめようと思います」なんて簡単に書いてたりするけど、初めから何も考えてなかったんじゃないか。 ……こういうこと書くとまた、「人がみんなあなたみたいに強いとは限らないんですよ、救いを求めてサイトを開く人もいるんですから」とか批判を受けたりもするのだが、私ゃ別に強くなんかない。だいたい「トモダチの輪」とか「憩いの場所」を求めてサイトを開くって発想自体、ネットってものの性格が全く理解できてないのではないか。 基本的に、ネットにプライバシーはないのである。 ネット自体が一つの大きなフォークロアの温床であり、そこに「プライバシーを暴くな」なんてキレイゴトを持ちこんだって、そりゃ逆にバカにされるだけの話だ。現実の世界だって人の口に戸は立てられないんだから、真実もデマも含めてウワサが一人歩きするのがネットの特性である。 ネットにだってマナーは必要だろう、という反論もあろうが、「ネットマナー」と言うのは、たとえどんなウワサが流れようが、情報の受け手がそれを鵜呑みにしない姿勢を持つことなんであって、他人に「ウワサを流すな」とか発言の規制をすることではない。掲示板に「中傷の書きこみはご遠慮下さい」と書いてあるサイトは多いが、そんなん本気の荒らしにあったら屁の役にも立ちゃしないでしょ。 要は荒らしにあったらどう対処するかって覚悟が管理人にあるかどうかってことになるんだが、どうもそのへん甘く考えてる人が相変わらず多いみたいなんだよねえ。だからすぐにサイトを閉じてしまう。サイト開くんだったら、自分と合わない意見の書きこみがあることぐらい覚悟しとかないとねえ。 ……山本弘さんとこのSF会議室、定期便のようにトンデモさんが来てるけれど、ホントによく頑張ってるよなあ(^_^;)。
だからまあ、本来日記には何書いたっていいとは思うんだけれど、それでも日記にプライバシーを書きにくいのは、たとえそれがどんなに面白いものであっても、論争になれば、論点が「プライバシーを晒すことの是非」ってことだけに集中してしまうからである。そんなん論議したって、晒す人は晒すんだからしょうがないじゃんかよ。 それに、書き手はどんなにプライバシーを書きたててるように見えていても、それは文章化した時点でそれが自分のものでも他人のものでも客体化してしまっている場合が多い(そうでないやつも確かにいるが、文章に一家言のある者なら、そこはキチンとしているものである)。面白いのはあくまで出来事そのものなのであって、個人の人格まで面白がってるわけではないのだ。人のドジ話を笑ったりするのはたいていそんなものであろう。「アイツもバカだよな」と口にはするが、相手を個人的に嫌っているわけではない。それは文章を読めば見当がつくことだ。 他人のプライバシーを傷つけるべきではない、というのは確かに正論ではある。しかし、これを声高に言う人って、公的な部分までプライバシーに入れちゃう人、多いんだよねえ。『脱ゴーマニズム』の作者もそうだったけれど、小説や映画の批評や、役者の好き嫌い、時事評についてまで「悪口言うな」って文句つける人がいるのだ。自分が正論言ってるって思いこんでるから、現実的には頗る常軌を逸してることを言ってるってことに全く気がついてない。自意識過剰だから、まるで自分が責められているように錯覚してしまって、誰かが誰かを批判するという状況自体が許せなくなってるんだろう。 だいたい外国のプライバシーの感覚と、日本人の考えるそれとでは相当にその内容に差があるのである。日本人はやっぱりウチソトの意識で個人情報を判断してるんで、同じ情報でもウチの人間が語ると許されて、ソトの人間が語ると弾劾するのだ。自分勝手っつーか、サベツなんだけどな、それって。ウチの人の情報だからと思って面白がって喋ったら「親しき仲にも礼儀ありじゃないか」と言われたことないかね。もちろんそれはソトの人間として阻害されたってことなのである。 ま、そんなわけで、しげの職場の話はしげ自身が語らないと、私が語るとソトの人間が介入するってことになるから今回は遠慮しておく。……なんだかすっかり思わせぶりですまないねえ。
晩飯はまた「びっくりドンキー」。 しげのルンバルンバはもう定番である。 「あ、ここのハンバーグ、トッピングもできるんだ」 初めてそのことに気がついたので、目玉焼きとパイナップルを乗せてもらう。 しげ、「ハンバーグに果物って合うと?」と胡散臭そうに言う。 「合うも何も、たいていのソース類に果物は入ってるじゃん」 少なくとも、昔、牛乳とレモンを混ぜて「ヨーグルト」と称して飲ませようとした味覚音痴のしげに言われたくはないな。
金曜ロードショー、アニメ『ルパン三世 episode:0 ファーストコンタクト』。 毎年恒例のスペシャルだけれど、もうそろそろテレビシリーズのパート4を作ってくれないものかねえ。キャストの老齢化も激しいし、掉尾を飾る意味でも「最後の」テレビシリーズを望みたい。今回わざわざ「エピソード0」とまで銘打ったのは「仕切り直し」の意味が強いんだろう。これがテレビシリーズの布石、と考えるのは穿ち過ぎかな。 ルパンと次元、そしてもちろん不二子や五右衛門、銭形のとっつぁんとの出会いを描くという発想そのものは悪くはない。 なんだかルパン一味が馴れ合いのような関係になってる最近のシリーズのマンネリ化を打破するために、かつての緊張感溢れる関係を描くことは、一人一人のキャラクターにスポットを当てて掘り下げることになる。それは確かにある程度成功してはいる。 原作や旧シリーズとの違いには目をつぶろう。あくまで旧作に固執しては「エピソード0」自体が作れない(だってこの五人が同時に出会うなんてありえないから)。 ルパンを殺そうと狙い続ける次元、ハードなムードは一応出せている。ただ、なぜルパンに心酔するに至ったかの描写が弱い。それは不二子、五右衛門も同じで、敵がヨワっちぃせいで、彼らが結束しなければならない理由付け自体が弱くなってしまっているのだ。危機一髪を切り抜ける時の脚本、演出のアイデアが決定的に欠如している。 何より、銭形のとっつぁんがどうしてあそこまでルパンを追い続けることに固執するのか、その理由がほとんど描けていない。毎回思うんだけれど、どうして脚本が欠点になるかなあ。いっそのこと次回作品は一般公募してみたらどうかとまで思う。
マンガ、倉田真由美『どっちが委員会!? 世の中の小問題を考える毒舌バトル▽』(講談社・KCデラックス・900円)。 今がチャンスだ、稼げよくらたまって感じで新刊出しまくってるなあ。 でも、マンガとして面白いかどうかってことになると、普通の常識を持ってる人なら、これはちょっとねえ、と、ためらうところだろう。しげは「これまでの倉田さんのマンガの中で一番つまらない」と言い切ったが、そこまで言わんでもとは思うが、納得はする。 というのもねえ、「世の中の小問題を考える」とあるけどねえ、扱ってるネタがねえ、ど~いうんかっちゅ~とねえ。 「彼にするなら、年上の彼と年下の彼、どちら?」 「女友達にするなら、美人? 不美人?」 「水着を着るなら、ビキニ? ワンピース?」 「長くてかっこいい足と放漫な色っぽい胸、どっちがほしい?」 「ダイエットするなら、食事制限? それともスポーツ?」 「ブランド派? ノーブランド派?」 「フォーリンラブするなら、渋い中年? さわやか美少年?」 あ、そこの一般常識持ち合わせてる男性諸君、脱力しない(^_^;)。私もあまりにもバカバカしくって、とても目次の全項目、引用する気になれんのよ。 「世の中にくだらないものなんてない」が私のモットーではあるが、これは本気でくだらない。女から見た価値基準、という点を割り引いても、目次の項目の価値基準で、なるほどと首肯できるものがただの一つとしてないのだ。っつーかよ、男でよ、「年上の彼女と年下の彼女のどっちがいい?」なんて話題するやつって、まずいないし、そんなん気にしてるやつがいたら、まず確実にバカ扱いされるよ。 こんなどーでもいいことにだけ拘れるくらたまさんという人は何者なのか。 もちろんバカなのである。 でもしげから見てもバカに見えるみたいだから、これはもう本気で究極のバカなのではあるまいか。 私も世の中のバカに対しては比較的寛大な方ではないかと思うが、ここまでバカの烙印押して構わないと思えるような女性って、そうはいないよなあ。 男から見たら、こういうことに拘るバカ女は、どう扱っても痛痒を一切感じないのである。弄んで捨てても全然平気なのである。くらたまさんがだめんずうぉ~か~になるのも自業自得だなあ、という気がしてくる。 しげが一番ハラを立てていたのは、くらたまさんが何本かの原稿を収録しなかったことだ。後書きで「この頃描いた新婚ネタ、痛くてよう載せませんでした……作家としてはどうかと思いますが、カンベンしてください」とか言ってるけどさ、そりゃプライバシー切り売りをウリにしてる作家としては間違いなく失格でしょう。カンベンしません。 でもここまでバカだと、かえって同情して仕事くれる人も現れるんではなかろうか。現われてるから仕事が続いてるんじゃないかね。私もくらたまさんってバカだなあとは思うが、やっぱりどこか憎めない。バカでもひがみっぽくて性格歪んでて根性なしでも、それが必ずしも本人のせいじゃなくて、この日本に生まれたせい、つまり男に甘えてればいいだけの女として生まれてきたせいだということを思うと、同情を禁じ得ないのである。……まあ、同情も女に対するサベツだからさ、素直にバカにするほうが一番妥当な判断かもね。
マンガ、なかいま強『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(小学館文庫・各670円)。 連載当時は全く注目してなかったんだけれども、何年か経って近所のラーメン屋で通読したら、滅法面白かった。けれど現物は既に店頭には見当たらず、文庫化されるのを待っていたのである。 もともと私はスポーツマンガはあまり読まず(っつーか梶原一騎嫌いだったのだが)、例外的に『野球狂の詩』とか、『1、2の三四郎』、『すすめ、パイレーツ!』などを、これ、スポーツマンガじゃないよな、とか思いながら読んでたのである。『五所瓦』は完璧な相撲マンガだった(と思っていた)ので、まるで興味を抱かなかった。不明と言えばこれほど不明なこともない。 あちこち、ちばてつや・ちばあきおの諸作や『1・2の三四郎』の影響を受けているのはわかるけれども(ちばさんとこでアシストしてたんだから当然だろうが)、ギャグで間を繋ぎながらシリアスな展開に持ちこんで感動を作り出す技術は『わたるがぴゅん!』で経験を積んで、本作で結実した印象だ。 廃部寸前の武蔵山高校相撲部に残った、たった一人の部員、五所瓦角は、実は全国でも有数の実力の持ち主。運悪く高校チャンピオンの黒島高校の田門に毎回初戦でぶち当たって敗退しているために、世間的には未だにその実力を評価されてはいない。 高校最後の大会、ぜひとも「団体戦優勝」を目指す五所瓦は、柔道部主将の清川薫を部員にと勧誘するがケンもホロロに断られる(当たり前である)。しかし、五所瓦の男気に打たれた清川は、五所瓦に柔道対相撲の勝負を挑む。自分が敗れれば、相撲部に入ることを条件として。勝負は五所瓦のぶちかましに押されながらも起死回生の一本背負いを仕掛けた清川の勝利で決まるが、清川はその前にこれが土俵の上でなら自分が押し出しで負けていたことを認め、部員となることを決意する。 五所瓦と清川の熱意に打たれて、次々と部員が集まるが、使えるのはレスリング部のハミダシ者、関内孝之のみ。あとはノリだけはいいもののただのヒキョー者の難野一平とただのデブの雷電五郎。五人のうち三人が勝てば勝利できるとはいうものの、無敗を誇る黒島高校相手に果たして勝機はあるのか? 展開がいやに映画『シコふんじゃった』に似ているが、アレは1992年、本作は1988年。パクったな周防正行(^^)。 五所瓦は実直過ぎるほど実直、しかもドモリで、少年マンガの主人公として考えるとあまりにも華がない。今だったらサベツ問題にも引っかかるし、こういう主人公は編集者からボツを食らわせられるかもしれない。しかし、スルメが噛めば噛むほど味があるように(^o^)、この地味なキャラが巻を追うに連れ、なぜか見栄えがしてくるのである。 もちろん、脇を締めるキャラクターがいてこそ主役は映える。ギャグメーカーとして、挑発、けたぐり、塩で相手の足を滑らせるなど、ズル手を駆使する難野のキャラは、ルーツは『おれは鉄兵』あたりにあるとしても、個性的なキャラ揃いの本作の中でも特に光っている。もちろんそれで勝てるわけもなくメンバーの足を引っ張りまくっているのだが、それでも次にどんなワザを披露してくれるかと読んでるほうは期待してしまうのだ。普通、物語がシリアスに展開していくと、こういうキャラは後ろに回されていくのだが、難野は最後の最後までドラマに絡んでくる。そこがなかいまさんがキャラを大事にしていることの証明だろう。 少年マンガの「王道」ってのは、こういう作品を指して言ってもらいたいものだ。
2001年07月26日(木) 全ての知識はマンガから/ドラマ『美少女仮面ポワトリン』第一話ほか
2002年07月25日(木) |
本当にあった怖くない話/『くっすん大黒』(町田康)/DVD『ミニパト』ほか |
もちっとしたら北九州に出張する予定がある。 しげに仕事の休みを取って一緒に行かないかと相談する。 「なんで? 仕事で行くっちゃろうもん」 「仕事は仕事だけど、夜にはカラダ空くしさ、二日間だから一泊したっていいし」 「もったいないやん。JR使った方が安かろ?」 「そりゃそうだろうけど、帰りが遅くなったら淋しがるやん、お前」 「昼は一緒におられんやん」 「小倉で何か見てまわっときゃいいやん」 「……北九で何を見るん」 問題発言が出るなあ(^_^;)。 「よしひとさんや塩浦さんにも連絡とってみてさ、一緒に食事でもしようかって思ってるんだけど」 「……すれば?」 ああ、またこいつ、ヤキモチ妬いてやがる。 なんでオレが人と会おうとするとすぐジェラしるかなあ。しかも男も女も関係ないし。いや、ジェラシられたらイヤだからしげも一緒にって考えたんだけれど、自分がその場にいるいないは関係ないのね。私が誰かと語ること自体、しげにとっては気に入らないってこと、何度も経験してるけど、こういう悪いクセはいい加減で治してもらわないとマジで困る。しげに一日の行動について何一つ相談ができなくなる。 そのことが理解できる程度のアタマは持てよな。 ともかく、出張については私の方からはちゃんと相談したのだ。その返事が「すれば?」なら勝手にさせてもらおう。たとえ当日ほったらかされたとしてもそんなのは知らん。自業自得だ。しげが休みを取るかどうかについても、しげから相談されない限り私の方からはもう、声をかけまい。 ホント、つまらん言葉で人生損してるよな、しげは。
いつものごとく、迎えの車の助手席に座って『新耳袋』を読んでいると、しげが「やめり」と文句を付けてくる。 ボソボソ音読してるからしげが嫌がるのだが、怪談はもともと口伝えを基本としたものだ。黙読するだけでなく、音読することで、その空気を自ら味わうことの何がいけないというのか。 「そんなに怖がらせるなら、オレも怖い話するよ」 自信満々にそんなことを言うので、「できるならやってみろ」と私もしげを挑発する。 「昔、こたつん中に入って寝とったと」 「ふんふん」 「起きて、ふとフトンを捲ったら、そこに白ヘビがトグロ巻いておったと」 「ふんふん」 「……怖いやろ」 「別に噛むようなヘビやないやろ」 「怖いやん! ずっと一緒に寝とったとよ」 「追い出しゃいいやん。実際、追い出したっちゃろ?」 「隣りのおばさんに追い出してもらった」 「よかったやん」 「よくない! だっておばさん、『それは死んだ母ちゃんよ』とか言うとよ!」 「母ちゃん追い出したんかおのれは!」 確かにしげが怖いやつだということはわかったな。私が死んでもコオロギとかカメムシには絶対化けてでて来れんな。殺虫剤かけられてコロリである。
晩飯は「マルちゃん」でうどん。 この店はトッピングが豪華だが、一番美味いのがコロッケである。私もしげも注文したが、売り切れていた。確かこないだ来たときも売り切れてたし、ここのコロッケを賞味するのはなかなか難しい。やっぱり人気メニューなのだろうなあ。仕方なく、テーブルの上に置いてあるネギと掻揚げを山ほど入れてコロッケを食った気分になる。ならんか。 その足でマルキョウで買い物。 いつも食材はいろいろ買いこむのだが、しげにメシを作ってやっても、片付けを全くしないので、段々バカバカしくなってくる。結局、私は自分で作った物をあまりしげに分けないまま食べちゃってるのだが、そんな目にあって淋しくはないのか、しげは。 スパゲティもカレーもカニたまも麻婆豆腐もサバの煮付けも、今日買ったやつも結局、全部私の胃に収まってしまうのだろうな。いや、一気には食べないけど。
町田康『くっすん大黒』(文春文庫・410円)。 なんだこれは、面白いのか面白くないのか、自分にはすぐさま判断がつくことではないが、面白いと言うてる人間が多いことも知っているし、それは実は『おごってジャンケン隊』で泉谷しげるがそう言っていたと記憶するのであるが、何しろ記憶力にはこのところとんと欠けているのでそれが泉谷しげるであったか、それともそんな記事は全くなくて自分の妄想に過ぎないのか、自信はない。自信はないが町田康自身は『おごってジャンケン隊』に登場しているのである。実はこの人、町田町蔵で、その名前をどこかで聞いたこともあるし俳優としても『黒い家』なんかに出てたということであるから、当然顔は見覚えがあるはずであるが、とんと記憶力に欠けているので見覚えがないのだ。野間文芸新人賞、ドゥマゴ文学賞をこの『くっすん大黒』で受賞したということであるが、ほかにも『きれぎれ』で芥川賞、『土間の四十八滝』で萩原朔太郎賞を受賞しているのである、この町田は。この中で三つは人の名前が冠されているが、耳慣れなくて珍しいのはドゥマゴである。もしかしたらこれも人の名前で、ドゥマゴさんとかいう外国人であるかも知れぬが、そんな名前の人間に会ったことはもちろんないので、デマかもしれない。なぜなら実はドゥマゴとデマとは似ているからである。ではなぜこのような厄介な文体を試み、何が言いたいのかはっきりせぬ、というのも、筒井康隆を読んだ人間が筒井康隆の文体をまねてみたくなるように、町田康の文体はさながら水の如く油の如く、付かず離れずこのような文が長々と書き重ねられ短く切られ、やっぱり批評家もこの文体には魅力を感じるらしく、解説の三浦雅士もこんな厄介な書き方をしているのはそういうわけなのであった。わかったかわからんか。わかれよもう。
普通に戻そう。 『くっすん大黒』とは妙なタイトルだが、なぜか主人公の男の部屋に転がっていた金の大黒、これが泣きそうな顔をしているので、くっすん大黒。この物語は、男がその大黒を見ているだけで腹立たしいので捨てに行く、というだけの話である。舞台が大阪というだけで、明確なストーリーラインはなにもない。 ストーリーが明確にない物語は別に目新しくはないが、映画が映像のみで純粋芸術として成立する如く、小説もまたストーリーやドラマを排した純粋な文体のみで成立し得る。ドラマがない以上、どれだけ読ませられるかってのは、まさに文体技術にかかっている。 そういう文体に関わる実験小説は、筒井康隆編による『実験小説傑作選』に詳しいが、町田康、確実にこの本読んでるね。あるいは石川淳(マンガ家じゃないぞ)。ダラダラと長いのに読点の使い方がうまくて心地よいリズムを生み出す文体は石川さんの特徴だけれど、長文のあと、「というのは」という接続のさせ方をするあたりが町田さんの文章はそっくりだ。これが偶然の一致だとしたら、町田さん、この文体をどうやって創造したのか気になるところである。
アル中の男の一人称、という設定だから、こんなメチャクチャな文体で書いてるのかと思ったらそうではなく、同時収録の『河原のアパラ』の主人公は普通の若者だがやっぱりこんな文体なのである。やはり町田氏、意図的だ。そしてその試みは充分に成功していると思う。 『大黒』にも『アパラ』にも、主人公以上にエキセントリックな人物が登場する。自分の勤める職場の売り物を着服する吉田のおばはんや、外国帰りのおばはん・チャアミイのキャラなどは最強最悪である。 「ぅあたしのビャアーグはどこかしら」なんてチャアミイのセリフ、最初はどういう意味だか全く分らなかった。「ビャアーグ」は「バッグ」のことだったのだ。どこの何人がそんな発音するってんだ。「ゥベッドルームは、まっっっっっっ白なのぉー」と絶叫するチャアミイに主人公はこっそり「医者へ行け、医者へ」と突っ込む(これがシェイクスピアの『ハムレット』の「尼寺へ行け、尼寺へ」のパロディであることに気づいた人間がどれだけいるだろうか。いないだろう。そりゃそうだ、これは私の妄想だし)。 そうやって突っ込んでる主人公自身、イカレているし、そのイカレた頭で見ても、世の中にはもっとイカレたやつらが横行していて、しかもその象徴が捨てるに捨てられないくっすん大黒なのである。つまり、みんな狂いたがっているのだ。それが町田さんがやってたパンクの意味なのかもしれない。 それにしても、この本読んだあとは大阪人のメンタリティって、実はみんなこいつらみたいなんじゃないかという気がしてきて、ちょっと大阪人と付き合うのが怖くなってきたりもするのである。確かに大阪芸人見てるとこいつら基本的にイカレてるなって印象、強いものなあ。 ……で「アパラ」って何よ?
DVD『ミニパト』。 しげが仕事に出かけながら「一人だけ先に見て」と不満そうなジト目を私に向けるが、待ってても一緒に見る時間がないじゃないのよ。 劇場公開時は第3話しか見られなかったので、ようやく1話から通しで見る。 けれどこれ、ビデオ版もテレビ版も劇場版もコミカライズも、旧シリーズをほぼ全作見てないと全然面白くないんじゃないか。 というか、更に制作の裏事情、例えば、「原作のヘッドギアのメンバー内で、当初、押井さんはパトレイバーをあんなカッコイイデザインにではなく、いかにも土木作業用の流用、みたいなゴテゴテしたデザインにしようと企んだけれども却下された」なんて事実を知ってないと、どうして後藤さんやシゲさんや南雲さんがあんなに皮肉っぽい語りを行っているのか、意味が分らないのではなかろうか。 後藤さんの「何せ尺が短いんでね、波瀾万丈の物語とか、手に汗握るサスペンスとか、息を飲むアクションとか、そんなのはすっぱり諦めてくださいよ、ねぇ」というセリフがいかにも人を食っていて後藤さんらしいんだけれど、もちろん彼は脚本家たる押井守氏の分身である。ゆうきまさみ・出渕裕両氏が作りたかったのがまさにその「波瀾万丈」以下の物語であり、押井さんの意向とはハナから水と油だったのである。ゆえに、このたった3話のミニシリーズは、押井さんの『パト』シリーズに対するリベンジになっているのだ。 ……ラストにこんなタチの悪い作品持ってくるって、まるで宮崎駿の『さらば愛しきルパン』だねえ(←もうこれについても説明が必要な若い衆が増えちゃったね)。
第1話『吼えろリボルバーカノン!』。 銃に関するウンチクを後藤隊長が語る。 昔見たLD『GUN百科』を思い出したなあ。私は銃器に全くと言っていいほど魅力を感じないのだが、後藤さんに説明されると、おお、こんなにもタクミの技が、と感心してしまう。ターゲットを粉砕しつつもその周辺に被害を及ぼさないように弾丸は開発それてるとは、よく考えられてるものだね。でもそれを持たされてるのが結局は太田だったりするので何の意味もないのだが(^o^)。これも押井さんの皮肉か。 太田役の池水通洋さんのキレた演技が隠し味の一編。
第2話『あゝ栄光の98式AV』。 あはは、『パト』シリーズがロボットアニメのエポックメーキングになりそこなったってこと、シゲさんの言葉を借りて断言しちゃったぞ。もう変形、合体、超合金とオモチャを売るための発想でしかロボットアニメが作られないんだったらこの路線に未来はないって思ってるんだろうなあ、押井さん。もっともまさしく「レイバー」なデザインで客が付くかどうかは分らないけれど。 声優の千葉繁さん、コメンタリーで喋ってたけど、このアフレコのせいで口の中が4ヶ所出血しちゃったそうである。いやもう、怒涛のマシンガントークですがね。おトシを考えると、もしかしてこれが千葉さんの最高最後の傑作になるかも。
第3話『特車二課の秘密!』。 映画見たときに一応感想を書きはしたけれど、再度見て気になったこと。 公務員がハゼの干物作って売ったら、これ犯罪になるんじゃないか(^o^)。 そんなこと、押井さんが知らないはずはないのでこれは間違いなく確信犯だろう。管理社会と言うか、組織に対する押井さんのルサンチマンの深さが垣間見えるなあ。
押井さん、一応スタッフロールは脚本及び音響プロデュースのみの担当になっているけれど、メイキングを見る限り、このパタパタアニメの手法のアイデアと言い、主題歌を『迷宮物件FILE538』『御先祖様万々歳!』の児島由美さんに頼んでいることと言い、本作の押井色は相当強い(ついでだけど、この児島由美さん、あの『ひらけポンキッキ!』の名曲『ほえろ!マンモスくん』を作った人だ。私はこの人と谷山浩子が組んで作った『ネコじゃないモン!』のLPを持っているぞ。これは名曲揃いだからぜひCDで復刻してほしい)。 実際の監督は神山健治さんなのだが、カワイソウなくらいに影が薄い。DVDのパンフのとり・みきさんのマンガに「たくもー1人で全部やったよーなことばかりしゃべってあの人は」とニコニコしながら愚痴っている神山さんが描かれているが、「あの人」が誰を指すかは言わずもがなだろう。実際、CMのキャッチコピーも全部「押井守最新作」で、どうしてもそのように見てしまうのは如何ともしがたい。『ミニパト』は押井守の呪縛の上に成り立っているアニメなのだ。
いったい、映画における脚本の位置は奈辺にあるか。 映画構成の要であることに間違いはないが、ともすれば演出と役者がもとの脚本を原形を留めぬまでに改竄を加えることは珍しいことではない。脚本はあくまで映画の叩き台であり、最終的に映画の完成の決定権を持つのは監督(欧米じゃプロデューサーの場合が多いみたいね)というのが通り相場である。 しかし、中にはそう簡単にいかない場合もある。脚本が演出をも縛る、というか、既に脚本段階で演出が施されていて、下手に演出家が自らのささやかな個性とやらを主張しようとしてイジろうものなら、どうしようもないことになりかねない、そういう脚本もあるのである。 ……的確な表現とは言いがたいが、“巨匠”と呼ばれる方々の脚本はそうですね。アナタが映画監督だとして、『七人の侍』や『2001年宇宙の旅』のシナリオを「改稿」して再映画化する自信あります? 私はありますが(←すげえ思い上がり)。 押井守もいつのまにか巨匠になってしまった(西尾鉄也さんは「アニメ界の尊師」と呼んでいるが)。『パト』映画版のころはまだそんな呼ばれ方してなかったと思うんで、やっぱ、『攻殻機動隊』がアメリカでビデオ売り上げ1位取ったのがきっかけだろうか。おかげで『うる星やつら』テレビシリーズのころのすちゃらかギャグ作品のファンだったこちらの身にしたならば、新作が作られるたびに毎回毎回「ここはどこ私は誰」テーマが繰り返されることに、それ自体が押井さんの悪い冗談ではないかと勘繰りつつ、何か物足りないものを感じないではいられなかった。 本作は神山演出によって毒が随分薄められてはいるが、紛れもなくルサンチマンに満ちた押井作品である。銃の乱射、HOSの暴走、後藤隊長の不気味な笑みで幕を閉じる各話のラストに、ようやく懐かしさを感じた押井ファンも多かろう。 さあ、果たしてこれがホントにホント、パトシリーズの最終作になるのか。 押井さん、パンフではそう書いてるけど、コメンタリーでは千葉さんも神山監督も「ネタはいくらでもあるって言ってる」と暴露してるぞ。ちょっとくらいは期待したいなあ。 やっぱりパトシリーズは押井監督でないとね。
マンガ、『パタリロ!』74巻(白泉社/花とゆめコミックス・410円)。 猫間天狗にサンダース部長が復活。使い勝手が悪くなると主要キャラでも出番がなくなる魔夜マンガにあって、これはなんと珍しいこと。 こうなるとプラズマXとか警察署長も復活してほしいなあ。タランテラやピョートル大帝は、作者がもうどう展開させたらいいかわからなくなって、そのままほったらかしちゃったらしいけど。
2001年07月25日(水) 福岡腰痛クラブ/『庵野秀明のフタリシバイ』ほか
2002年07月24日(水) |
ウソから出たアホウ/『追悼の達人』(嵐山光三郎)ほか |
日に日にアホ度が増してくるしげであるが、口数だけはやたら多くなっているのである。もちろん、その分、手は動かない。もはやウチは人の住める状況ではなくなりつつある。 これはもう、しげがどれだけ口先三寸で何一つウチに寄与していないかを知らしめようと思って、野崎昭弘の『詭弁論理学』を貸す。 「これ読んで、自分がどれだけウソついてるか自覚しろよな」 「なん、これ読んで詭弁の使い方もっとうまくなれってこと?」 「誰もそんなこと言っとらんだろーが! 自分の言い訳がただの詭弁だってこと、分れって言ってんの!」 「だから、もっとうまく使えればいいわけじゃん」 ……ダメだ。こいつの根性は根っから腐っている(-_-;)。
晩飯は国道3号線沿いの「しーじゃっく」で安い寿司。 しげはまたアイスクリームを食べたそうな顔をしていたけれど、値段のわりに量が少ないことがもうわかっているので頼まない。 頼まないけれど欲しいことは欲しいのである。未練がましくアイスクリーム製造機の方をチラチラ見ているのがなんともイジマシイ。 「『すし大臣』よりこっちのほうが種類が多いから好き」 としげは言うが、品数で言えばそうたいして違いがあるとも思えない。むしろすし大臣の方が多いくらいだ。値段が安い分、遠慮せずに食べられるのでそんな錯覚を起こすのだろう。 どうせウナギとアナゴと卵とエビくらいしか食べないんだから種類に拘ることなんかないと思う。
そのあと、しげは仕事の時間が迫っているので先に帰り、私だけ天神・博多駅を回って本やDVDを買いこむ。 一人で回るとしげと一緒の時に比べてやはり時間がかかる。ついつい目移りがして、買い忘れてる本がないかと2、3軒回ってしまうせいだが、そうするとやっぱりホントに目当ての本が見つかるものなのである。 『ウォーターボーイズ』のDVDがないかと2、3軒回って見たのだが、初回限定版のボックス仕様のものはほぼ売り切れ。こうなると「BOOK OFF」に出回るのを待つしかないかなあ。
角川文庫が夏の文庫フェアでブックカバーを配布している。 「2002夏のリラックス 冷やし文庫、はじめました。」というやつなんだが、コンセプトは表紙にイラストやアルファベットのシールを貼って、自分だけの文庫の表紙を作れるってこと。でも、あまりいい出来ではないんだなあ。 まず、フローネとかいうオリジナルキャラクターのデザインがなんだかバーバパパのできそこないみたいで、おもしろくない。1年経てば忘れ去られてるのが確実って感じだし、そんなもん表紙に貼ったって楽しくもないぞ。 更に色が薄い青でいかにも安っぽい。こういうのに惹かれる客っているのかなあ。シールなんて剥がれりゃ汚くなるだけだし、素直にブックカバーのデザイン自体をもっと工夫した方がよかったんじゃないか。 ブックカバーに凝る本屋とそうでない本屋があるが、最近出色だなあ、と思ったのは福家書店の手塚治虫カバー。文庫が鉄腕アトムCGイラストで(講談社の愛蔵版で使ったやつだな)、単行本が赤地にブラックジャックのコマをあしらったもの。世の中にはカバー嫌いの人も結構いるけれど、これなんかはちょっとコレクションしたくなるんじゃないかって感じで、いい出来だった。
それはそれとして、角川のシールカバーだけれど、こういうのって案外しげが好きかも、と思って何部かもらってきたら、「貼る貼る!」と喜んでぺたぺた貼り始める。 ……センスねー(-_-;)。 レイアウトの仕方ってものが全くできてない。美術の評定、いくつだったんだ。 それだけならまだしも、書名のスペルが間違いだらけだ。 フィリップ・K・ディックの『マイノリティ・リポート』、しげが貼ったスペルは「MAINOLITY RIPOAT」。作者名は「P・K・DIKK」。 もちろん本の本体にスペルはちゃんと書いてあるのにここまで間違えるのである。しげの脳の構造はいったいどうなっているのか(正確なスペルを念のために書いとくと、“The Minority Report”“Philip K.Dick”である)。
嵐山光三郎『追悼の達人』(新潮文庫・860円)。 作家の追悼文、弔辞から、生前の作家の実態を浮き彫りにしようという試み。前作の『文人悪食』も面白かったけれど、これはそれを更に上回る名著だろう。 『お葬式』という映画がある。故・伊丹十三の監督デビュー作だが、伊丹氏が「葬式」を題材に選んだのは、それが死者を悼むために行われるのではなく、生者同士がお互いの人間関係を再確認するための場であるからだと喝破したからだということである。まさしく「死」はその人自身のみならず、残された人々の生き方まで確定するのだ。その意味で、「追悼文」に着目した嵐山氏の慧眼は称賛に値する。 人が死んで、その人を悪く書くことは普通はできることではない。けれど死んだのはただの人ではなく作家、画家、編集者といった著名人だ。残された人間にしてみれば「惜しい人を亡くしました」程度の通り一遍のコメントではすまされない。 ある者は自らの作家技術の粋を集めて褒め称え、またある者は全く逆に全身全霊を込めて扱き下ろす。必然、それは作家論となり、かつ残された人々のもう一つの私小説となる。 いやもう、彼を語りつつ、つい自らを曝け出してしまっている追悼の多いことったら。考えてみれば、この日記でも私は「誰それが死んだ~」とやたら喚いているが、やっぱりこれも自分語りなんだよね。太宰治萌え~のノールス女子大生を笑えんわ。
追悼文を調べていく過程での新発見も多々ある。 田山花袋の死に際に、島崎藤村が「死ぬ時の気分はどんなものかね」と聞いたというのは俗説で、実際には藤村が何も聞かないうちから花袋自らどんどん喋ったというのである。藤村は逆に「そんなに話したら疲れてしようがないだろう」と押し留めたくらいであったそうだ。 この俗説も、家族を省みず、愛欲のままに自分の姪に手をつけた藤村の汚れたイメージが作り上げたものだろう。事実、藤村は人非人であり、周囲からは蛇蝎の如く嫌われまくっていた。人間としての底の浅さが(『破戒』だって部落差別を告発した小説としてはキレイゴトで終わっている)実は藤村の人間らしさであったことが、嵐山さんの筆によって微細に分析されていく。 この過程を読み辿ることの心地よさをどう表現すればいいものか。
この本で紹介されている作家の中で、私がその著書を読んだことのない人が三人いた。 川上眉山、内田魯庵、岡本かの子である。 ……そりゃイマドキは全集をあたらないとこの人たちの作品、とても読めないものなあ。 岡本かの子はもちろんあの「芸術は爆発だ」の岡本太郎の母親であり、漫画家岡本一平の妻である。小説よりも本人がなかなか奇異な人だったことは唐沢俊一氏の『すごいけどヘンな人』にも詳しい。夫と二人の愛人と暮らす生活は、本人は無邪気なつもりでも世間からはただの不道徳、異常生活としか映らない。それをかの子の死後、一平と太郎は神秘化し美化した。そのおかげだろうか、確かに、唐沢氏や嵐山氏の著書を読む以前は岡本家についての私のイメージも「芸術一家」の域を一歩も出るものではなかった。 さて、ではかの子女史はいったいどんな小説を書いていたのかと思って、ちくま日本文学全集の『岡本かの子集』中の『鯉魚』という短編を読んでみたが、これがもう、芥川龍之介の露骨なエピゴーネンである。 平家の落武者の娘を匿った寺の侍童の恋物語なのだが、彼はその事実が寺にバレてもあくまで「私は鯉を飼っているのです」と言い張る。住職の仏法問答に対して「鯉魚」とのみ答える少年の描写は静謐でひたすら美しいが、そこにあるのは純愛に対する盲目的な賛美のみで、芥川ほどの冷徹な視点はなく、やはりセンチメンタリズムに流されている。少女マンガにしたら、すごく美しい絵になりそうだが、私のような中年のオヤジには読んでてちと面映い。 その芥川との交流を描いた『鶴は病みき』も読んでみたいものだが、今は残念ながら入手し難い。批評等を読むとやはり独善的な作品らしいのだが、客観的で冷静な小説が面白いとは限らない。かえって事実をもとにしていても、作者の思いこみと妄想が事実を捻じ曲げていた方が断然面白くなっているものなのである。モデルにされた人間にはえらい迷惑であろうが。
岡本かの子の、いや、藤村も、花袋も、そして戦後の太宰も、その作品が巷間読み継がれる原因となっているのはそのスキャンダル性にある。その意味で、日本文学の正当な後継者は山田詠美だったり柳美里だったりするのかもしれない。 さて、彼女たちが死んだ時には誰がどんな追悼を寄せるだろうか。
2001年07月24日(火) 目標達成!……って何が/『腐っても「文学」!?』(大月隆寛編)ほか
2002年07月23日(火) |
夫婦ファイト!/『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』(李元馥)/『ロングテイル オブ バロン』(柊あおい)ほか |
タイトルは『ウルトラファイト!』のもじりです。 いや、チープなケンカってことで(^_^;)。
どうもみなさま、おばんです。有久幸次郎でございます。 相変わらずしげとは埒もない喧嘩ばかりしております。 夫婦喧嘩は犬をも食わないとやら、書けば書くほど、人様からは「仲いいね」などと言われて恐縮しておりますが、かと言って、あったことを書かないわけにもいきません。これが喧嘩の果てに夫婦ベッキョ、リコンなどということに発展して行けばとても楽しいのでしょうが、何しろ一日経てば何もなかったかのように元通りになってしまいますので、スリルもサスペンスもありません。 これはもう、読者のみなさまには「またかい」と溜め息混じりではありましょうが、嗤って見逃していただくほかございません。 昨日の日記で「バカップルのルーツは何か?」とか書いちゃいましたが、読んでたアナタ、「オノレらがそのバカップルじゃ」とか心の中で突っ込んだでしょ? 隠さなくても分かってますよ。 ええええ、もう開き直ってますとも。我々は充分バカップルです。 私の知性のおかげで「ちょっとだけバカップル」レベルで踏み止まってはおりますが、所詮は五十歩百歩、バカは死んでも治りますまい。 てなワケで今日も夫婦ドツキ漫才から始まります。
朝、職場に行く途中で、しげがいきなり「食べる?」と言って差し出したのは、なんとカステラ。しかも切ってあるやつとかじゃなくて、丸のまま&しげの食いかけ(っつーか齧り残し)である。 車の中で、運転席からカステラの箱を差し出されるというのもなかなかシュールな光景である。しかし、私は食いものを差し出されて「いらねー」と答えられる世代の人間ではない。それにこれを放置しておいたら、しげはそのままカステラの存在を忘れて、車の中で腐らせかねない。……だいたいどうしてカステラなんかを車の中に持ちこんでるのだ。誰もこいつに「行儀」の二文字を教えなかったのか。教えられてもしげには脳細胞が常人の3%しかないから覚えられなかっただろうが。 朝っぱらから甘ったるいものを食わにゃならんのか、とは思ったが、仕方なく押し頂く。 予想はしていたが、手はべたつくわ口の中はざらざらするわ、エラい状態になる。しげに、「途中でミニストップ寄ってくれ、飲みもの買うから」と頼む。 すると、しげ、脇からまた飲みかけの(っつーか、底に1センチも残ってない余りの)コカコーラを差し出してくる。 甘いの飲んだところに甘いの差し出されたって、何の役にも立つものではないが、これも差し出されたら飲まないわけにはいかない。飲むというより舐めるが、口の中はかえって甘ったるくなった。なんで朝からこんな目にあわなきゃならんのか。 ミニストップが近づいてきたころ、しげが突然「ねえ、ミニストップ寄ると?」と呟いた。 起き抜けは私も冷静ではない。このセリフを私は「コンビニに寄るのなんてめんどくさい、飲み物なんか買うな」という意味だと受け取った。 声を荒げて「寄れってさっき言ったじゃないか!」と怒鳴る。 しげも怒鳴られてムッとしたのか「何しに寄るん」と言い返す。 「飲み物とか買うんだよ!」 「『とか』って何!」 「仕事に使うもんとかだよ!」 「だから『とか』って何!」 「ウェットティッシュとかだよ!」 「だから『とか』って……!」 「なんで『とか』とか気にするんだよ!」 「『とか』でごまかすとか、なんかヒミツにしてるみたいやん!」 「『とか』がいつもいつも何か具体的なものを差すとは限らんだろうが! だいたいそんなクダランことをなんでいちいち気にして聞くんだよ! そのどーでもいいことを根掘り葉掘り聞くイヤらしい性格を治せ!」 ……そのどーでもいー質問にいちいち反応して怒ってる私自身が大人気ないんだよなあ(-_-;)。既に喧嘩の中身はどんどんズレまくっているのだが、それを認識するアタマも働いてないな。まあ、寝起きはこんなものである。 そうこうしているうちにミニストップに着いたので、お茶「とか」、ウェットティッシュ「とか」を買う。職場が近いので、しげとの第1戦はこのへんで終わったが、第2戦っつーか再試合は夕方に持ちこされたのであった(おいおい)。 でも、ホントにど~でもい~ことで喧嘩してるよなあ。「とか」がどうだってんだ(^_^;)。
マンガ、李元馥(著)/松田和夫・申明浩(訳)『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』(朝日出版・1575円)。 去年出た本だけれど、人気があるらしく、今年に入っても増刷が続いているようである。日韓併合の記憶は六十年を経た今もなお暗く重い影を両国の関係に落としてしまっているので、この手の「韓国での日本紹介本」は、たいてい激しい「日本バッシング本」になっていることが多い。まあねー、気持ちは分るけどねー、でもつまり韓国は今でも日本と喧嘩がしたいのかって逆に聞きたくなるくらいで。 そういう本に比べれば、このマンガ、激しい「偏向」はない。 序章で作者の李さんが、文化相対主義的観点を標榜して、「韓国と日本、こんなに違う! けれどその違いをお互いに認めよう!」なんて書いてるのを読むと、ああ、このヒトとは話せるかなあ、という気になる。 でもやっぱり「韓国が兄で弟が日本」的発想から抜け出せてないんだよねえ。 日本人の「和」の思想が、島国という狭い世界での安寧を保つのには最適でも、国際社会では通用しない、という李さんの指摘については、誰もが首肯しているところだろう。日本人がその「和」の「輪」からなかなか抜け出せないせいで、国際社会におけるコミュニケーション不全を起こしていることは紛れもない事実だ。 しかし、韓国の儒教的倫理観だって、国際社会で通用するものでもない。 要するに「文化相対主義」ってのは、どの国の文化もスタンダードではないということを認めることであるし、だからこそ、それぞれの国の文化に優劣をつけたり、一方が一方に文化の押し付けをしたりしちゃならない、ということになるのである。 だから、日韓併合による皇民化政策は明らかに誤りであり、大東亜共栄圏構想もアジアにとっては余計なお世話でしかなかったと言えるのである。「ロシアの脅威からアジアを守るため」といかにもリクツが通ってるような言い訳を主張する日本人多いけどさ、じゃあ、日本が負けたあと、中国や朝鮮はロシアの属国になったかね。「杞憂」でもって民衆を洗脳し踊らせるのは今でもマスコミがよく使う手だ。中国・朝鮮を「三等国」と見なし「善導」しようとした戦前の日本の傲慢さは否定できるものではない。 その戦前の日本と同じ行為を、今になって日本に対してやりたがっている韓国人は多いのである。この本でも初めは緩やかだが、章を重ねるに連れて「韓国に倣え」式の発想が少しずつ、じわじわと頭をもたげてくるのだ。 豊臣秀吉の日本統一を例に挙げて、「韓国より何百年も統一が遅れた」とかいちいち書いてるのもヘンな話で、国の統一に文化の優劣を持ちこんでいるのは差別じゃないのかな? 歴史が古いことに価値を見出す発想自体、文化相対主義を否定しているんだけど、李さん、自己矛盾を起こしてることに気づいていないね。 論理の破綻は更に続き、やっぱり「日本の文化はオリジナルではない」「朝鮮文化の換骨奪胎(いいとこどり)に過ぎない」ってな感じの結論に集約されていく。それ言い出したら朝鮮だって中国のコピーなんだけど、その辺を李さん、どう考えているのかね。 だから、どこの国の歴史が古いとかどっちが先だとかいうことを言い出すこと自体、相手の国を侮蔑することになるんだってば。アメリカは歴史が200年しかないから「弟」だって言える? 儒教の「長幼の序」って、そこまで差別意識の強いものじゃなかったはずなんだけどなあ。中国から朝鮮に輸入されて「いいとこどり」されたんだろうね(^^)。 皮肉めいた書きかたをしたけれど、それぞれの国が、お互いの歴史と文化をもっと学べって李さんの主張は間違ってない。なのにねー、本当はあくまで、その基本を崩さずに書いてくれてたらよかったんだけれどねー、やっぱり「自分の国に都合の悪いことは隠そうとする」心理は、比較的バランスの取れている李さんに関しても働いちゃってるんだよねー。悲しいことに。 つまり、「元寇」についての記述は、ほかの韓国人の書いた本と同様、この本には全くないのである。そりゃ日本を侵略はしたけれども、あくまでモンゴルの尖兵として使われただけだって主張したいんだろうね。自分たちも被害者であると。 もちろん、その主張も認めますよ。モンゴルには逆らえなかったんだと。けれど、事実そのものを書かないのはやはり歴史の隠蔽だよ。戦時中の日本人の大半が軍部の命令に逆らえなかった事実をちゃんと書いてくれた李さんになら、これは理解できるリクツなはずなんだけど。 歴史はたいてい「どっちもどっち」だ。 絶対の正義なんてないし、絶対の悪もない。 だから、かつて罪を犯した歴史を認めたなら、そのときは「お互いに」反省し、許しあうしか方法はないのだ。 その姿勢が李さんにないわけではないのだが、惜しいところで認識の甘さが現れちゃったね。それとも、理性的に書いちゃうと韓国の過激な日本人嫌いの人たちに狙われるから、あえて迎合したのかな? もしそうだったら、かえってこんな中途半端な本は、出さないでくれてたほうが両国関係のためにはよかったかも、という気にもなってしまう。……単に李さんの勉強不足だったと思いたいなあ。
さて、この日記読んでる人の中にも色々なご意見をお持ちの方もありましょうが、もし、私のことを「日本人として過去の罪を反省していない」人間だと受け取るのであれば、文化の違いがどうのこうのと言う以前に、文章の理解能力自体に著しく欠けているヒトだと断定しちゃいますよ。 私ゃもういい加減、この手の問題について議論するなら、未来志向の話がしたいんですって。
さて、第2ラウンド開始(~_~;)。 すっかりふてくされたのか、しげ、仕事帰りに迎えに来ていない。 こういう子供みたいな態度を取るから私もハラを立てるのだが、朝に比べたら、私も落ちついている。 いったん、タクシーで帰って、不貞寝しているしげを叩き起こし(落ちついてるのかね)、博多駅に向かう。 食事でもしながら少し話し合おうと思ったのだが、しげがグズるので、駅前の駐車場に車を停めたまま、蒸し暑い車中で今朝の出来事を反芻する。 「だからあのとき、おまえがさあ」 「あのときって、どのとき?」 「今、言ったじゃん!」 しげ、文脈の中での指示語が何を差すのかが把握できないので、会話が堂々巡りを繰り返す。 「だから『仕事に使うものとか買う』って言ったろ? それでおまえが『とかって何?』って聞くから、『ウェットティッシュとか』って……」 「違うよ、それ逆だよ。『ウェットティッシュとか買う』って言うから『とかって何?』って聞いたら『仕事に使うもんだ』って答えたんだよ」 「逆だよ」 「逆じゃないよ」 「逆だって。だって、職場でウェットティッシュが要るなあと思ったからそう言ったんだから間違いないし」 「オレだって確実だよ。ウェットティッシュとかの『とか』が気になったから聞いたんだし」 「だからなんでそんなに『とか』を気にするんだよ!」 「『とか』って使い方がヘンだからだよ!」 「どこがヘンなんだよ! オレの言葉遣いがヘンだって言うなら、おまえは何で俺が飲み物買うと分かってて『何しに寄るん』なんて解りきったこと聞いたんだよ!」 「だって、もう飲み物飲んだのにまだ要るのかと思って」 「あれだけで足りるわけないじゃん!」 「うん、そう思ったから、『まだ何か買うと?』って聞いたら『とか』って言うから」 「だから『とか』とか気にするなあ!」 いかん。 朝の会話以上にどーでもいいことを何度も何度も何度も喋っている(-_-;)。 しげもいい加減疲れてきたのか、涙声になって愚痴を言い始める。 「オレも間違ってるかもしれないけれど、アンタは自分が間違ってるかもしれないって思わんの?」 「誰もそんなこと話してないだろうがあ! それが詭弁だってんだよ!」 結局、これ以上話しても不毛なだけなので(っつーかケンカの原因自体が不毛)、「しげは指示語が何を差すのかわからないくらいバカだから、これからは指示語をできるだけ使わずに、幼稚園の子供を相手に話すつもりで丁寧に説明するようにします」と約束して決着。 気がついたらしげは仕事の時間が迫っていて食事どころではなくなっていたのだった。とほほほほ(T∇T)。
DVD『千と千尋の神隠し』の画像が赤味がかっているという苦情がスタジオジブリに殺到しているそうである。 えええ? そんな不良品、つかまされたのか? 私が見たときには全く気がつかなかったぞ、と思って改めて再生して見たが、特に赤っぽいという気はしない。パソコン画面で見ると違うのかと思って見てみたが、やっぱりそんな印象はない。 もっとも私は色弱なので、色の濃い薄いの区別はあまりつかない(この「色弱」ってのも差別用語で、今や「色覚異常」と言わねばならないそうだ。でもそれだと「色盲」との区別がつかないし、「異常」なんて言い方のほうがよっぽど差別だと思うから、あえて従来通りの言葉を使わせてもらう。色弱の人間に断りもせず勝手に差別語にするな。わしゃ「色弱」と言われたって全く傷つかんわい)。 濃いと言われりゃそうなのかもしれないが、気にするほどのものなのかなあ。世の中の人って、そんなに色に拘ってるのかなあ。赤と青の区別さえつけば信号は渡れるぞ、それじゃいけないのかなあ。 でも「色の分らんやつは黙っとれ」とか誰かさんから言われたらヤだから、このへんで言うのやめとこ。現物がどんな感じなのか気になる「正常」な方々は、以下のURLを覗いてみなっせ。
http://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/jul/o20020723_40.htm
柊あおい『ロングテイル オブ バロン 絵本とムックで紡ぐ猫の男爵のもう一つの物語』(こだま出版・1800円)。 映画『猫の恩返し』のムック『バロンの手帖』と、柊あおい自身によるサイドストーリー『空の駅』の二冊をセットにしたもの。 映画のムックはいろんな出版社から出されているけれど、絵本をつけたことで得点は高い。ムックの方も柊さんのカラーイラストが豊富で、映画以上に猫猫した(ど~ゆ~形容じゃ)不思議なムードの猫たちに溢れている。 柊さんのインタビューを読む限り、作者としては『耳をすませば』のアニメ化について不満な点もあったようだ。「ムーンは私には黒猫ですから」なんて発言には、『耳すま』でムーンをあんなブタ猫にされてしまったウラミもあるのだろう。 でも、柊さんがオトナであるのは、アニメのイメージに重なるデブ猫を新たに「ムタ」として案出したこと。なかなかできるこっちゃないな。そして『猫の恩返し』が、『耳すま』の雫が創作した物語であると設定したことで、原作からもアニメからもリンクできるようにしたのは実にうまいアイデアだ。 そして絵本、『空の駅』の出来。 これもまた雫の描いた絵本、ということなのだろうか、孤独な少女が闇の列車に乗ろうとする、ちょっと『銀河鉄道の夜』を彷彿とさせる物語。バロンは彼女の心が「光」を取り戻すきっかけを与える役割だ。 柊さんが宮澤賢治に創作の源泉を求めていることは見当がつくが、賢治の世界にバロンのようなキャラクターはいない。人を「光」に導くものは、賢治にしてみれば自らの犠牲的精神そのものである。 しかし人は弱いものだ。自らを鼓舞してもなお、立ち上がれぬときがある。バロンは、そういう人々に「声」をかける。それが彼に与えられた役割である。 バロンは預言者か? それともただの狂言回しか? 恐らくどちらでもない。バロンは知っているのだ、少女たちが本当は自らの力で立ち上がれることを。ほんの少し、勇気を出すことをためらっているだけであることを。 「少女」とは日本においてはネオテニーの象徴である。幼形のまま成長することを拒絶された存在である。しかし、彼女たち自身はそのように扱われることを望んでいるか? 自ら歩む道を閉ざして、それで満足しているか? そんなことはない。少女はまた天使の寓意でもあるが、天使もまた性を持ち生を育む存在であるのだ。 彼女たちを導くバロンが「猫」であることはいかにも象徴的だ。 月島雫が天沢聖司と出会う前にバロンに出会っていたように、少女たちはあるものに出会って後、自らの殻を破り、現実の生を生きるのだ。 「猫」とは何か? 何の象徴なのか? 「待ちつづけるもの」「異界のもの」。 それが何かを答えられるのも、少女だけに与えられた特権なのである。 うーん、『耳すま』の原作読んだ時にはちょっと少女マンガとしてもありきたりかなあ、と思っていたけれども(失礼)、この方の才能、見直さなきゃいけないかも(^_^;)。
2001年07月23日(月) 猛暑に耐えるくらいならクーラー病の方がいい/『(週)少年アカツカ』(赤塚不二夫)ほか
2002年07月22日(月) |
角川+大映=…?/『楽勝!ハイパー▽ドール』vol.2(伊藤伸平)/『スレイヤーズすぺしゃる⑲ るなてく・へすてばる』(神坂一)ほか |
だだだだだ、大映が、かかかかか、角川に買収されちゃったぞ。 角川歴彦社長、『ガメラ』や『大魔神』をリメイクする、と嘯いてるが、マジか。 一度潰れた大映が、大映として映画製作を続けて来れたのは、何だかんだ言って徳間康快社長のあの豪放磊落と言うか、大雑把と言うか、いい加減と言うか、まるで永田ラッパを引き継いだかのような、しかし永田雅一以上に映画に対しての愛情と情熱に満ちた性格があったればこそだと思う。 もちろんその情熱は時として眼鏡違いを起こして、『敦煌』や『おろしや国酔夢譚』のようなスケールはデカイが中身はスカスカって映画を作ったり、『となりの山田くん』のような大コケ作品を作ったりもしたのだが、徳間社長の偉いところはどんな悪評も興行的惨敗も全く気にしなかったところである。フツー、『山田くん』くらい製作費かけててコケたら、『千と千尋』作らせたりしないよ。 徳間氏が亡くなった後の徳間書店じゃ、大映映画の後を引き継ぐのは荷が重くないかと思ってたんだけど、まさかカドカワとはなあ。 あまりに春彦元社長のイメージが強くって今の歴彦社長、知名度が低いように見えるけれど、この人も相当やり手である。お家騒動でいったん角川を追い出されたのに、メディアワークスを立ち上げて日本製ファンタジーを春彦氏以上のメディアミックスを駆使して定着させた。映画に関してはあの『エヴァンゲリオン』が公開に間に合わなかったにもかかわらず、製作を打ち切らなかった。そういう経緯を考えれば、確かに、徳間社長の後を継ぐ人として、歴彦氏以上の適任者はいないかもしれない。 しかし、しかしである。 「角川大映映画」はないだろう。 そりゃ、角川は角川、大映は大映でそれぞれのレーベルの映画を作ってきた歴史があるわけだから、どちらか一つに統一もできないってリクツも分りはするんだが、そこは角川が一つオトナになって、「大映映画」としてスッキリ行くわけにはいかなかったのか。角川は確かに映画を百本以上製作はしてきたけれど、撮影所までは持っていなかった。大映買収で、念願のそれが手に入るのである。名を捨てて実を取りゃよかったじゃんかよう。徳間氏だって、「徳間大映」にはしなかったんだぞ。 日本の血族の因襲を引きずってきた角川のこれが限界なんだろうなあ。昔ながらの映画ファンからはこれで随分ミソをつけたと思うんだけれど、映画オープニングの会社マークはどうなるんだろう。雲間から鳳凰が大映マーク持って飛んでくるのか。悪い冗談だ。
しげの仕事、今日は早出で7時からだというので、夕食は早めに食えるものということで「すし大臣」。 今日は控え目にして高いネタを避ける。それでも二人で三千円は掛かるんだから、ここの寿司ネタがどれだけ暴利を貪っているか分ろうというものだ。 最近知ったことであるが、ここのウェイターさん(寿司屋なのにベスト着たウェイターがいるのである)、しげのリンガーハットにも客として来ているらしい。しげ、口をとんがらせて、 「向こうもこっちのこと知ってたらイヤだな」 と言うのだが、そりゃ当然知ってるだろう。しげって妙に目立ってるから。 いや、ホントにあちこちはちきれそうなのよ、リンガーの制服着てるしげってよ。 まあ、目立つ目立たないはともかく、客商売をしていれば、好むと好まざるとに関わらず、人との繋がりは生まれてくるものである。必ずしも会話を交わさなくとも、何となく見知っている相手がいる、ということにもしげには慣れていってもらいたいもんだ。 しげから、今年の盆の予定はどうするのか聞かれたので、父に電話してみる。 「今年の盆の予定はどうなっとうと?」 「盆は13日から15日に決まっとろうもん」 ……ボケ晒すオヤジだ。 「そうじゃなくてどっかで食事するとか」 「おう、してもよかぜ」 「……じゃあ当日電話するけん」 やっぱオヤジギャグって、オヤジがやると本気で凶器になるよなあ。
マンガ、さくらももこ『COJI-COJI コジコジ 完全版』4巻(完結/幻冬舎コミックス・1575円)。 正月くんの結婚話をメインに据えての最終巻。 コジコジがブーケを読者に投げて終わるってラストは、とりあえずはスッキリした終わり方と言えようか。ちょっと偽善的な気もするけどな。もともと何かドラマがある話じゃなし、終わるときはサラリと終わらせるのが粋というものである。 もっとも、私としてはスージーの正体がみんなにバレた後、どんな騒動が起こるかとか、そういう話も読んでみたかったんだけど、描かなきゃならんことでもないし、これっきりで終わっていけないってわけでもない。 今後アニメ版の脚本をマンガ化することもさくらさんは検討してるみたいだけれど、まず、いくら待っても取りかることはなかろうな。一旦、創作したものをもう一度書き直すってのは、よっぽど本人にエネルギーがないとできるものじゃないのである。誰も彼もが手塚治虫になれるわけではない(あの人だって、『バンパイヤ』『ブッキラによろしく』とか、「後で描き直す」って言ったままほったらかしたまんまの作品は多いぞ)。 前巻あたりから見え隠れしていた宗教性は、最終巻でもオブラートに包まれた形で継続されている。半魚鳥だのヤカンくんだの、ヘンなキャラがやたら出てくるから、何となくほのぼのしたメルヘンマンガのように思われているけれど、「神」であるコジコジ以外は、みんな虚飾に塗れた人間の戯画化なんだよね。 結局は「コジコジには無駄がない」の一言で「神」が全肯定される結末。かといって完全な宗教マンガってわけでもなく、だから目くじら立てるほどではないってことも分ってるんだけれど、どうも何かノドに骨が引っかかってるような印象で、今一つ好きになりにくいマンガであった。
マンガ、伊藤伸平『楽勝!ハイパー▽ドール』vol.2/MAICA SIDE(英知出版/トラウママンガブックス・1985円)。 解説と描き下ろし4コマ(カバーを取った表紙に隠してやがんの)が読みたいためだけでまたバカ高いもの買っちゃったよう。 でもまとめて読んでみると、この人のパロディって今一つ薄っぺらだなあ。26話の表紙でミュウとマイカにアヤナミとアスカのコスプレさせてるけど、何か嬉しいのかね。読んでる方は「はあ、そうですか」としか言いようがないんだけど。ミサトは眼鏡外した祥ちゃんか? よく分らんキャラが多いよ。 ほかにもやたら『ガメラ』ネタは出てくるし、こうシツコイと、自分だけ遊んでるって感じが強過ぎて白ける。でも勢いで描いてみたくなるときってあるの分るからね~。それだけ『ガメラ』とか『エヴァ』、当時は流行ってたんだよね~。 今、このマンガの続編、『トラマガ』って雑誌で再開されてるんだけれど、ちゃんと今巻のラストでウママンにメシおごらせるところから続いてる。律儀と言えば律儀だけれど、フザケてると言えばフザケてる。編集部が怒るのも無理ないかも。 作者本人が編集部に文句言ってるうちに、マンガの中身がナゲヤリになるとこなんか、まるでたがみよしひさみたいだけれど、影響受けてるのかな。欄外の描きこみの仕方とか似てるし。 さて、まるで一般ウケしそうにないこのマンガ、作品そのものもそうだけど、雑誌自体、潰れずにいられるかねえ。
神坂一『スレイヤーズすぺしゃる⑲ るなてく・へすてばる』(富士見ファンタジア文庫・504円)。 スレイヤーズもまたアニメ化されたら「角川大映映画」か。もういいよ。 はい、原作小説の方も、頑張って買ってますよぉ。f(^^;) いつも通り、ただ笑って読んでりゃいいだけの小説だから、特に批評の必要もないようなもんなんだが、ふと気になったことがあった。 『愛は強し』の中に、マーカスとレイチェルってラブラブなバカップルが出て来て、思い切りリナとナーガを疲れさせてしまうのだけれど、このギャグのルーツっていったい何だったろう。『クレヨンしんちゃん』にもミッチーとヨシリンってキャラがいるけど、これだってルーツじゃないしなあ。 私はこれも吉本新喜劇なんじゃないかと思うんだけれどどうだろう。記憶だけで書くから細かいところは違うかもしれないけれど、こんな感じである。 さっきまでケンカしていたカップルが仲直りするシーン(誰かの持ちネタと言うわけでなくたいてい新人の男女に割り振られる)。 「○○ちゃん、ボクが悪かったわ」 「いややわ、ウチのほうが悪かってん」 「そんなことない、ボクの方が悪かったんや」 「ウチや」 「ボクや」 「ウチや」 「ボクや」 回りで聞いてる人々、もだえて胸を揉んだり肌を露わにしているうちにブチ切れて。 「ええ加減に晒せ!」 もだえてたのは桑原和男さんが多かったんじゃないかな。 けれど、これ以前にもルーツがありそうなんだよね。『エノケンの法界坊』のラストでも、若いカップルに幽霊になった法界坊が照れながら「高砂や~この浦船に帆をあげて~♪」と歌うシーンもニュアンスはそれに近いが、冷やかされる方がバカップルではないので、やっぱりこれ、感覚的には関西系のギャグではなかろうか。 ……全然『スレイヤーズ』の感想になってないな(^_^;)。 表題の『るなてく・へすてばる』と『うちのジョン知りませんか?』にラギアソーンって魔族が出てくるんだけれど(ゼロスとも関係があるみたいね)、本編でなくて『すぺしゃる』に魔族が出てくるのも珍しいことだ。けど結局、『すぺしゃる』だからね~、まともな魔族じゃないんだよね~。 魔族の住むカタート山脈はペット飼育が禁止されているそうである。ところがラギアソーン、魔王竜のジョンをこっそり隠して飼っていた。……ってカタート山脈って近所づきあいの難しいマンションかい。誰がどうして文句つけるって言うんだ。 で、うっかりはぐれてしまったジョンを探してくれと、ラギアソーンが頼んだ相手がよりによってリナとナーガ。その結末は推して知るべしであるが、この二人、よくこれだけあちこちでトラブル起こしまくってるものだと感心する。あれだね、江戸時代にテレビの時代劇並に人が殺されてたら、江戸の人口が半減するとか計算してた人がいたような気がするが、そのことをちょっと思い出した。リナとナーガの二人がいて、よくこの世界、崩壊せずに残っているものである。それくらいいい加減だからこそ、各話の飛びっぷりを楽しめるんだけどね。
2001年07月22日(日) 愚か者の舟/『ハッピーマニア』1巻(安野モヨコ)ほか
2002年07月21日(日) |
アニソンしか歌えないわけじゃないけど/DVD『千と千尋の神隠し』/『吼えろペン』5巻(島本和彦)ほか |
朝はまた寝過ごして、『ぴたテン』だけチラリと見る。もう『ハリケンジャー』も『龍騎』も『どれみ』もどんな展開になってるかわからんなあ。 買ってきたばかりのDVDをともかく見ようと鑑賞。と言っても今回買ったのは昔見たことがあるものばかり。 DVD『白蛇伝』に『少年猿飛佐助』。 東映動画の第一弾、第二弾であるが、今見返すと、ここまで画面に奥行きがないものかと驚いちゃうね。もう画面がヒキばっかし。当時のスタッフの技術じゃそれが限界だったんだろうけれど。 デジタル技術の何がアニメを革新的にしたかというと、奥から手前への動きを容易にしたってことに尽きる。逆に手描きアニメでありながら「奥行き」の動きを縦横無尽に展開して見せていた『わんぱく王子の大蛇退治』や『太陽の王子ホルスの大冒険』がどれだけ凄かったかってことなんだよなあ。ドラマ的にもこの二作は現代のアニメと比べてみても少しも遜色がない。っつーか、このあたりのアニメを見てなくてアニメファンを名乗るのはモグリというものである。 それはさておき、当時はまだ「声優」というものがほとんど専門化されていなかったから、声アテはもっぱら映画俳優に頼っている。 『白蛇伝』が森繁久彌と宮城まり子の各々十役(!)によることは有名だが、『少年猿飛佐助』も、真田幸村が中村賀津雄(現・嘉葎雄)、夜叉姫が杉山徳子、おけいに松島トモ子、おゆうに桜町弘子、三好清海に岸井明、戸沢白雲斎に薄田研二と超豪華……ってこれがどれだけ豪華なのか分る人ももうほとんどいないんだよなあ。私なんか「岸井明や薄田研二が声優やってる!」って小躍りしちゃうんだけどもね。アニメとして面白いかと言われると、資料的価値の方が高いと言わざるを得ないけれど、まあ『白蛇伝』は森繁と宮城まり子の歌がたっぷり聞けるから(^_^;)。
昼、カラオケ「シダックス」で食事。 アニメの新曲もそろそろ入ってるんじゃないかと思って覗いてみたが、それほど増えていない。 しげと二人だけのときはできるだけ今まで歌ったことがない歌を練習することにしているのだが、しげ、今日はアニメから離れて懐かしのドラマのテーマソングをチョイスしている。「懐かし」とは言っても、なんだかんだ言ってやっぱり私とは十以上もトシが離れているので、『青いうさぎ』なんて私から見ればバリバリの「新曲」を歌ったりしているのである。 私もそれに対抗してドラマ主題歌を歌ってやろうと思ったが、カタログを見ると『なんたって18歳』くらいしか歌えるのがなかった。……古い歌も載せてくれよう、私ゃ『雑居時代』(そよ風のように、生きてゆきたいの♪)とか『パパと呼ばないで』(花はなぜ咲くの、いつか散るのに♪)とか『水もれ甲介』(水もれ、こうすけぇ、水もれ、こうすけぇ♪)とか大好きだったんだよう……ってみんな石立鉄男のドラマじゃん(^_^;)。 結局やっばり特撮、アニソン縛り。それでも久しく歌ってなかった曲をできるだけ選ぶようにする。戦隊ものはあまり熱心に見てなかったのだが、それでも『デンジマン』あたりまでは何とか私もソラで歌える。やっぱり夕方から朝の放送に移ってからは丹念に見られなくなっちゃったからなあ。
久しぶりに『サイボーグ009』を見る。 ここ2、3回見逃してたから、展開がどうなってるかと思ったら、サブタイトルが付いてて「ミュータント戦士編」。原作にそんなのあったっけ? と思って見たら、これがなんと『移民編』。 ……そうかー、なるほど、アニメ化にあたって微妙に妥協点を図った結果がこういうことなのか。 原作はもう、サベツに引っかかるってんで、未来人がミュータント化してるって設定は改変されてしまっている。それをなんとか復活させようとした結果が「ミュータント=エスパー」って設定なわけだね。苦肉の策かもしれないが、締めつけのキツイ中で、これはぜひ評価したい。 ガモ=ウイスキーをここで絡めてきたのも、いいアイデアだね。原作じゃプロローグに登場したっきりだったのをメインに据えたのは、前回のアニメ化の時が最初だけれど、使い方としては今回のほうがずっといい。 ……けれど、この設定だと「時空間漂流民編」にはうまく繋がらないんじゃないかなあ。それともアレは「海底ピラミッド編」と合わせて「天使編」への繋ぎにするつもりなのかなあ。 これからの展開を予測するのも、旧作原作ファンのタノシミなんで、今度のアニメが初めてって人はご勘弁ね。
さて、今日は私にしてはちょっと珍しいテレビ番組を取り上げる。 爆笑問題が司会をしている『決定!これが日本のベスト100』という番組だ。好きなテレビアニメだの懐かしソングだのをともかく「100」集めて、わずか一時間で放送してしまおうというかなりムチャな番組である。 この手の番組は、かつてはたいていスペシャルで2時間ないし3時間の枠を取って、クリップではあってもそれなりの分数を取って紹介していたと思う。それがこの番組は毎週1時間に100本。ゲストのコメントなんかも入るから、だいたい一本あたり10秒から20秒。ほとんどこれでは紹介にすらならない。よくもこんな番組が成立するものだ……というのは我々トシヨリの感覚で、多分、今の視聴者は何分も時間をとっての紹介なんて見たくもないのだ。
今日の特集は「あの人は今」。 いやはや、ヒドイなんてレベルじゃないね(-_-;)。 例えば仮面ライダー2号・一文字隼人役の佐々木剛氏の紹介など、戦闘員との対決アクションと変身ポーズを取らせただけで、インタビューも何もなし。あとは「今も舞台で活躍しています」のナレーションがかぶって終わりである。 一応、この番組は視聴者からのアンケートに基づいて編成されているらしい。ということは「仮面ライダーの人って今どうしてるの?」と気になった人が世間にゃかなりの数、いたということだ。 しかし、引退したり転職している人ならばともかくも、佐々木氏は療養期間があったとは言え、バリバリの現役なのである。ファンならば佐々木氏が今も活躍中であることを知っているし、特にファンでなくても、ちょっとネットや図書館で調べれば、すぐに消息は分ることだ。なのにどうして佐々木氏の名前が挙げられねばならないのか。投票した連中は断じて佐々木氏のファンではない。ただの「冷やかし」である。 そんなアホの投票に追従して、佐々木氏をまるで「忘れられた人」扱いでたいした解説もつけずに紹介することがどれだけ非礼であるか、スタッフには分らなかったのだろうか。わかんなかったんだろうなあ。 「仮面ライダーの人って、今どうしてるのかなあ」 「舞台やってるみたいよ」 「ふーん、そうなんだ」 ここで得られた情報で会話できることと言ったら、せいぜいこの程度じゃないか。世間話のネタにすらならない、とても情報とは言えないものを与えることにどんな意味があるってんだ。 わざわざ会場まで連れて来られたゲストもいるが、「アラジン」は確かにブランクがあったが、どうして「伊藤つかさ」が連れてこられにゃならんのか。別に『金八』と『鞍馬天狗』のあと消えたわけでなくて、ずっと俳優続けてたぞ。そんな詳しいことを知ってるのはオマエだけだと文句つけるやつがいるかもしれないが、しょっちゅう土ワイや舞台に出てた人が「忘れられた」レベルであるわけがない。無知な連中が投票してるだけの話なのである。 こうなると、こういう番組を作ってること自体「犯罪」じゃないかという気がしてくるね。 あとさあ、桜庭あつことか横山弁護士の消息知りたがってやつがいたみたいだけどよ、そんなもん知ってどうするんだよ。それこそ世間話のネタにすらできんだろうが。 「ねえねえ、横山弁護士って、今、年金暮らしなんだって!」 「……それで?」 虚しくないのか。 鹿児島で隠棲してる野呂圭介さんが、スタッフに向かって「よく見つけたねえ」と笑っていたけど、こんなアホな芸能界に野呂さんはもういたくなかったんじゃないかね。ドッキリカメラの人としか野呂さんのことを見ることができない人間ばかりが大きなツラしてる今の芸能界じゃ、そりゃ居場所はなかろうよ。
DVD『千と千尋の神隠し』をフランス語バージョンで見る。 『もののけ姫』のDVDは英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、広東語、ポルトガル語と多彩だったが、『千と千尋』はフランス語のみ。 ディズニーと提携している以上、英語版だって作られてるはずなのに、どうして収録しなかったのかなあ、発売までに間に合わなかったってことはないと思うんだけれど(“Spirited away”=「連れ去られ」のタイトルで公開されてるはずである)。 『もののけ』のときは、外国語はどうにも純日本な作品世界と合ってないような気がしていたのだけれど、『千と千尋』とフランス語はそれほど違和感がない。 けれど、『もののけ』のときもそうだったのだが、外国語版のキャストが全く字幕に出ないので誰が声をアテているのか皆目分らないのはなんとかしてもらえないものか。外国人キャストに対してもあまりに失礼である。 それはそれとして、静謐なイメージの日本語版千尋=柊瑠美と、やや甘えん坊的な声のフランス語版千尋=「誰や」との比較をしながら見るのはなかなか面白い。柊さんは恐怖を感じながらも自分の心を見失わないでいる感じだけれど、フランス娘は(こんな書き方しなきゃならないからキャストちゃんと書いとけってんだ)ひたすら怖がって回りになんとかしてもらいたいって感じだ。あくまで感じだけど。こういう役の捉え方の違いに、「異界」に対する日本とフランスのイメージの違いが現れてると考えるのは考え過ぎかな。 フランス語タイトルは“Le Voyage de Chihiro”=「千尋の旅」。 ご承知の方も多いと思うが、フランス語では“h”を発音しない。従って「チヒロ」は「チィロ」と発音されてるんだけれど、なんかペットみたいでおかしいような可愛らしいような。「ハク」は当然「アク」になりますな。どっちかというと「ク」にアクセントがあって「アクー」って感じ。本名は「ニギハヤミコハクヌシ」じゃなくてなぜか「アクアク」になってた。なんだかポリネシアかどこかの神様みたいね。 ほとんどのキャラが日本語の名前通りだけれど、「カオナシ」だけはフランス語に翻訳してあって“Sans Visage”、英語なら“No Face”。まんまですな。フランス語版でもカオナシは原音のまま喋ってるんだけれど、この声優誰だ。テロップに表記がないからわかんないんだけど、ハク役の入野自由の二役か?
ああ、あと予約特典の「ハクのおにぎりフィギュア」は不恰好でした(-_-;)。 宮崎監督が実際にオニギリ握ってる写真がついてるんだけど、これをありがたがるやつ、いるのかね。糸井重里(こいつがこのオマケの発案者だよ)がまた「オニギリは、働くこと、食べられることの価値のシンボルです。それはひいては『生きること』の価値をたたえることにもつながっています」とかいい加減なこと書いてやがるけれど、「オニギリという食べ物は世界で一番いやらしい」といくたまきは言ってるぞ(by『パイが好き』)(^o^)。
マンガ、島本和彦『COMIC BOMBER 吼えろペン』5巻(小学館/サンデーGXコミックス・560円)。 おお、16年ぶりに日の目を見た『燃えるV』最終回! ……もう誰も知らんな、『燃えるV』。 『炎の転校生』に続いて島本和彦が昭和61年に『少年サンデー』で連載してた“作者自称”テニスマンガなんですけどねえ、いやもう、これが『ほのてん』のノリのまんまで描かれてたものだから、もう全然マトモなテニスマンガじゃなかったのよ。『エースをねらえ!』のファンが読んだら激怒するんじゃないかってくらいのもので(『エース』がマトモなテニスマンガか、という意見については、まあそれはその、アレですから)。 何しろ主人公の狭間武偉、初登場時は全くテニスを知らないただのケンカ野郎。それがなんかイキオイでテニス界に乱入して最終回では全仏全英全米全豪の4大タイトル全てに優勝するというムリヤリ展開である。テニスマンガなのになぜか必殺技とか出てくるモノ凄さ。「垂直(バーチカル)ボンバー」はともかく、「スパイダーガッデム」(ボールをたくさん投げる)なんて、実際の試合に使えねーじゃん……と思ってたら、高速スピードで手を動かして可能にしてやんの。ムチャっつーか、既にテニスじゃない(^_^;)。 人気がなくて1年で連載終了しちゃったんだけども、私は好きだった。……でも作者にとっては封印したかったマンガらしい(このあと島本さんは『とつげきウルフ』の連載もコケて『サンデー』から離れる)。 作中、島本……ああ、いやいや、炎尾燃がアシスタントたちに向かって叫ぶ。 「おれはその時、ボクシングマンガを描きたかったのだよ、実は!」 「同じ時期に同じ雑誌でほかのマンガ家がボクシングマンガを連載していたとしたら!?」 「だから、おれはテニスを通じてボクシングを描くしかなかった!! しかたがなかったんだ!!」 ……血の叫びである(^_^;)。当時サンデーのボクシングマンガって言ったら、六田登の『陽気なカモメ』あたりかなあ。作風違うから気にすることなかったと思うけど、これがオトナの事情というヤツなんでしょうね。でもテニスマンガじゃなくても、ちゃんと島本さんしてるから恥ずかしがることないと思うんだけどなあ。 恐ろしいことにこの『燃えるV』(作中では『ウインブル首領(ドン)』)を読んでテニスプレーヤーを目指した愛田風美(モデルは杉山愛か?)から電話が炎尾プロにかかってくる。「先生が私の『生みの親』なんですよ!」 そんなこと言われても……と誰しも思うであろう。それがよっぽどメジャーな作品ならね~、苦笑するくらいですむだろうけれど、なんたってもとが『燃え……ウインブル首領』じゃあねえ(^_^;)。愛田も愛田だ、それじゃまるで『GOGO!レッドソックス』読んで野球選手目指したり、『キックオフ』読んでサッカー選手を目指すようなものではないのか。 結局、なりゆきで打ち切りにあった連載の「真」の完結編を描くハメになった、炎尾、なんと「主人公が実は女だった!」と設定を変えて愛田に差し出すが……。 「なんか結末を見たら、べつにどうでもよくなっちゃった! あんなマンガ!! 今、私は大人になったんだわ! ありがとう炎尾先生!! ありがとうございました、結果的に!!」 ……ああ、痛そう(хх。)。ホント、自分の身を切りながらギャグ作ってるよなあ、島本さん。自虐ギャグってのはもう少しチクチクくるものだけれど、島本さんの場合は自爆しまくってるからなあ。ほかにもこの巻、過去のマンガの滑ったネタを全て「妖精さん」のせいにしてたり、ここまで自分を切り売りするかってネタが続出。少し煮詰まってきてないか、島本さん。 しげはこういう作者が自分自身をあえて貶めるギャグがホントに好きで、椎名高志の『GS美神』でも、「まさかもう一度アニメ化!?」「それはない、それはないんだよ……」「ああっ、血の涙!」ってギャグを見て大口あけて笑ってた。人間として最低なヤツだということがよく分るなあ。 気がついてみたら、『吼えろペン』ももう5巻。『サンデーGX』の中では一番厚く熱い連載になっているけれど、もしかしたらこれが『ほのてん』を越えた島本さんの代表作になるかもしれない。つーか、既に巻末の広告では「島本和彦21世紀の代表作!!」とアオリがついているぞ。いいのかホントに。
2001年07月21日(土) やたら長長文になっちゃいました。すみません/『裏モノ見聞録』(唐沢俊一)ほか
2002年07月20日(土) |
漫画映画復活!/映画『猫の恩返し』/『ああ探偵事務所』1巻(関崎俊三)/『美女で野獣』1巻(イダタツヒコ)ほか |
午前中はひたすら寝る。 朝のアニメがなかなか見られなくなってるけれど、ビデオに録ってても見る時間がないからなあ。やっぱり早起きしてしっかり見るしかないのである。 昼になって起き出してきたしげが、「今日はどこか出かける?」と聞くので、「今日は映画に行くんだろ? 『猫の恩返し』」と返事すると、「な~んだ」とつまんなそうな声。 「映画行くの、なんかいやかよ」 「そうじゃなくて、映画は映画で別にデートがしたいと」 結婚して10年だってのに今更「デート」もくそもねーだろと思うが、それくらいしげの交際範囲が未だに狭いということなのだ。普通に主婦やってたら、亭主ほっぽらかして休日は出歩いたりしててもおかしくない。 それを思うと、なんだかんだとケンカしながらも休日はたいてい一緒に過ごしているというのは、結婚生活を続けていく上での秘訣かも知れない。 つまりトモダチ少なくしたほうが夫婦は円満にいくということなのである。意外にこれ、真理じゃないか。
昨日の「ルンバルンバ」が忘れられないのか、昼食はまた「びっくりドンキー」。 昨日は二人でトールサイズを分けたが、今日はしげ一人でスモールサイズを頼む。けど、スモールでも結構大きいよ。しげがまた嬉しそうに飲むんだよね、これを。食欲が人生の幸福の98%ってやつは悩みがなくていいよな。 しげはいつもハンバーグディッシュを頼む。ハンバーグとご飯が分けてなくて一つの皿に盛ってあるのだが、このほうがしげには面倒臭くなくてよいのだろう。あるいは「お子様ランチ」のイメージがあるので嬉しいのかも。どっちにしろ発想が子供である。 私はオトナなので、普通に焼き皿に乗ってるのを頼む。パインバーグステーキというやつだが、昔はこの果物と肉を一緒に食べるという発想についていけず、食わず嫌いであった。ところがあるときこれを食べてみたら果汁が肉汁と程よく混じって甘酸っぱく、実に美味い。考えてみたらカレールーとかにもリンゴ汁入れたりするから、不味いはずはなかったのだ。やはり好き嫌いはよくないね。 最近知ったのだが、この「びっくりドンキー」、経営してる会社「アレフ」っていうのね。もちろんあの「オウム真理教」の「アレフ」とは何の関係もないのだけれど、ホームページ覗いてみると表紙にいきなリ「オウムとは関係ありません」と書いてある。ほかにも「狂牛病にはかかってません」とか、いろいろ言い訳しなきゃならないことがやたら多いみたいで、ここんとこ随分苦労している様子である。 多分、店でも客にそのこと聞かれることあるんじゃないかな。そのための「返事マニュアル」とかもあったりして。わざと「おたく、オウムと関係あるの?」とか聞いてみたい気もちょっとするが、さすがに意地悪すぎて聞けないなあ。誰か心臓に毛が生えてるやつ、聞いてみないか。
AMCキャナルシティ13、到着して見ると、映画の上映時間までにまだ2時間ほど間がある。とりあえずチケットだけは買ったものの、さて、その間、どうやって時間を潰すか。 「先に天神回っていい?」 「いいけどどこ回ると?」 「LIMBで予約してたDVD買うだけだよ。あとはせいぜい福家かな」 「それくらいなら……」 「2時間しか時間がないし、予めどことどこ回るって言っとかないと、必ずあとで『ああ、もう間にあわ~ん』とか文句言うやん」 「なん、それ」 そうなのである。しげはともかく「時間恐怖症」で(ともかく怖がるのが多いやつだね)、映画が始まる1時間前くらいに現場にいないと落ちつかないのである。私だってギリギリの時間までブラブラしようって気はないが、1時間映画の前でぼーっとしててどうするのか。 「3軒も4軒も店を回る気はないよ。一つの店に30分かかるとしたら、2軒で1時間、往復の時間に30分、だいたい30分前には映画館に帰ってこれるやろ」 ここまで細かく説明して、やっとしげを納得させる。
ベスト電器のLIMBでは予約しておいたDVDを数枚購入。 しげ、ダン・エイクロイドが出演しているという『ハリウッド・アドベンチャー』を注文しているのだが、これがまだ届いていない。自分ばかりDVD買いやがってと私をジト目で睨むが、そんなん私のせいではない。 福家書店を回った時点で、時間まであと40分ほど。 「ちょうどいいかな、時間まで」と呟くと、しげ、泣きそうな声で「間に合わんよ、来るとき30分かかったもん」と愚痴る。 「そんなにかかんねーって」 口ゲンカになったら、それこそ時間のムダなので、さっさと歩き出す。
天神からキャナルへは、川沿いの道を通って、まあその、お休みどころを抜けて行く道が一番の近道である。私がさっさとその道に入ったら、しげだけツイと離れて、脇の公園を通る道に行ってしまった。 女性ならそういう道を通りたがらないのは自然だと思われるかもしれないが、あいにく、しげに成人女性の心理は当てはまらない。単に怖がりなだけだね、多分。昼日中で変な客引きもいないし、気にすることはないと思うのだが、逆に静かだからこそ、何かが出てきたら怖いとかなんとかアホなことを考えているのだろう。何が出るんだよ、言ってみろ。 わざわざ戻ってしげを追いかけるのも面倒なので、先にキャナルの前でしげを待つ。遠回りと言ってもせいぜい1、2分しかタイムラグは生じないので映画に遅れる心配はない。 遠くから歩いてくるしげを見ると、全く太ったエンペラーペンギンそっくりである。誇張ではなく、しげは外またで、前に足を出すのではなくてやや垂直気味に落としながら歩くという、ややこしい歩きかたをしているので、ホントにそんな風に見えるのである。荷物を何も持たないし(持ってるのは当然私だ)、キョロキョロと視点は定まらないし、着てる服はファッションセンスのカケラもないし、なんかもー、見た目全く○○○○なんだよなー。 オイ、すれ違ってる人、怖がって避けてるよ。本人気付いてないし(-_-;)。やっぱり私が側にいてやらないと、補導されかねないよな、こいつ。 時間は3時過ぎ、上演の15分前だったが、公開初日のわりに客はそれほどでもない。しげ、「みんな天神東宝の方に行ってるのかなあ」と言う。多分そうだろうと思うが、映画館の質はキャナルの方が上である。天神とキャナルだったら、キャナルの方に行くな、私は。あまりそういう拘りは今時の映画ファンにはないのかなあ。
『ギブリーズ episode2』及び『猫の恩返し』。 スタジオジブリ、世代交代なるかの第1弾(本当は『耳をすませば』がそうなる予定だったんだけど、近藤喜文監督亡くなっちゃったから)。森田宏幸監督、相当プレッシャーがあったんじゃないかと思うけれど、まずは無難にそつなく監督をこなしましたって印象かね。百瀬義行監督のほうは、『となりの山田くん』をの徹を踏んで失敗してるところがある。まあそれは「商業アニメ」としての失敗であって、「実験アニメ」としてはこれでもいいんだけども。
最初の『ギブリーズ』、はっきり言って子供たちは退屈している。わずか十数分のアニメでそう感じさせるんだから、一般的には全くつまんないのだ。 1、「オープニング」 ジブリ作品のいつものオープニング、トトロと小トトロとがクルッと回転して、野中くんがノートパソコンを打つペン画に。ジブリの文字がギブリになる。「GHIBLI」の発音がホントは「ギブリ」であることのギャグだけれど、まあ楽屋落ちだわな。何のことか分らない観客も多かろう。 2、「お昼」 野中くんと奥ちゃんの「どこでお昼食べる?」ってだけの会話を完全3DCGアニメ化。でも『山田くん』のとき以上にCGにする必然性全く無しの、動きが気持ち悪いだけのアニメ。キャラクター自体が紙粘土をぺたぺた張り合わせた感じで、違和感ばかりが目立つ。……実験アニメだねえ。ここでやっとタイトル登場、『ギブリーズ』。 3、「カレーなる勝負」 カレーショップトシちゃん(このきゃらだけいしいひさいちの鈴木敏夫キャラ。ただし、鈴木さんとは別人という設定)での、野中くん奥ちゃんゆかりさんの辛さ勝負。これもCG作画だろうけれど、最近のでディズニーキャラをやや深くしたような微妙な立体感を持たせている。3Dではない。 煮たぎったカレーの泡立ち流れる表現はモノスゴイが、これもCGのムダ遣い(^_^;)。ゆかりさんの声をアテてる鈴木京香の声がもうすっげー色っぽい。こういう声を聞くと、声優専門の役者養成って違うよなあ、という気になる。 でも、ゆかりさんが口から火を吐いて地球を何周もするシーンは時間が長過ぎ。全体的に百瀬監督の演出、間のとりかたが頗るヘタである。 4、「ダンス」 線画によるメイン3人のダンス(まんまや)。 アングルも動きも凝ってるし上手いんだけれど、やっぱり実験アニメ。このあたりで会場の子供たちが親に「まだ終わらんと?」と言い出した。そりゃそうだよ、だっていくら衣装を変えたりしてもさあ(裸になったりバレエの恰好したって笑えるものではない)、ただ無意味に3人が踊ってるだけだから。 5、「美女と野中」 見て一発でわかる、うつのみやさとる作画。全く、技術のある人をムダ遣いさせてるよなあ。私はこの人の作画見てるだけで満足なので、話に中身がなくてもOK。電車の中で野中くんが眠りこけた美女に寄りかかられてドキドキする話。 6、「初恋」 映画として見た場合、まとまってるのはこの一本のみ。水彩画やパステル画風の絵が交錯して、見ていて心地よい。ただ、懐かしい初恋の思い出にジンとくるのはやっぱり大人で、子供はもうみんな愚図っている。……商業公開する気なら、ほかのエピソード要らないから、これだけブローアップして公開した方がいいよ。 7、「エピローグ」 一番手抜きに見える、マジックか竹ペンで描いたようなラクガキ風アニメ。でもこれも実は手がかかってるんだろうなあ(^_^;)。話は米ちゃんが退社するときにすれ違う人々と挨拶するだけ。 高橋先輩が出て来ないかと思って見てみたけれど、掲示板に「食事」と書かれてただけだった。それでも『エヴァンゲリオン』に続いての出演である。めでたいめでたい。鈴木敏夫さんの後ろにいた人は眼鏡かけてなかったから別人だな。 8、「エンディング」 スポットライトの中、蛍ちゃんが「ギブリーズ!!」と声をあげて終わり。声は篠原ともえだがハスキーなイメージがあったのにかわいい声である。するってえといつものアレは作り声か。 しかし、実験アニメを堂々と劇場公開した勇気は買うが、これで客に見せられるモノになってると思ってるあたりが問題だなあ。
さて、メインの『猫の恩返し』。 原作のキャラと、これまでの東映動画系列のキャラとの間を取ったようなキャラデザイン、さて、どう動かしてくれることかと思っていたが、これがまあ、よく動く動く。日常の微妙な動きも、後半の冒険活劇も、これまでの宮崎・高畑作品で培ってきたノウハウを、若いスタッフたちが着実に身につけていることがわかって、まずはめでたい。 いやもー、私は、冒頭、目覚まし時計を押さえるハルの手の重みの表現を見ただけで感動しちゃったよ。ハルの仕草は、少女マンガのヒロインとしての最も理想的な動きを、リアルに表現したものと言っていいのではないか。『耳をすませば』よりも線に強弱がなくなり、随分整理されているのだけれど、その分、動きに力を入れたって感じだね。実際、その滑らかな動きは、ここのところ宮崎作品に「固さ」を感じていた身にしてみれば実に心地よい。 ストーリーが日常を描く前半と、猫の国での後半とで分裂しているのが欠点とは言えるが、これは原作の罪だから仕方なかろう。アニメとしてのイメージを見せてくれていることで、その程度の瑕瑾は気にならなくなる。 何より嬉しかったのは、この物語が『長靴をはいた猫』の現代版であったことだ。ある意味狂言回し的な役割でしかなかった『長猫』のペロに比べ、本作のバロンは、ハルを救うために走り、飛び、戦う、ピエール以上に活躍するもっともヒーローらしいヒーローである。 いやあ、カッコイイよ、バロン。男爵の高貴さ、というよりもシャーロック・ホームズの凛々しさだね、彼の魅力は。バロンに抱きかかえられて塔の階段を昇っていく最中にハルが「このまま猫になってもいいかも」って思ったの、私、共感しちゃったくらいだから。猫だろうと関係ないね、宮崎版『名探偵ホームズ』のカッコよさがここにはある。 ハッキリ言うけど、「カッコよさ」という点ではジブリ作品中、これが最高傑作だ。ラストに至るまで『長猫』のリメイクっぽいことにマイナス点をつける人もいるだろうが、肩肘張った辛気臭いアニメばかり延々と見せられてきた身にしてみれば、理屈抜きの大エンタテインメントを作ってくれた森田監督に大感謝である。 宮崎さんに高畑さんよ、こういうのを見たかったんだよ! もうエコだのなんだの作品に盛り込むのやめてくれ。あんたたち程度の才能じゃ、とても映画にゃできないモチーフなんだから。 しげはハル役の池脇千鶴の声がイマイチだったみたいだけれど、少女マンガのヒロインとしてはきちんとハマってる。「これは違うだろう」ってキャストが一人二人はいた今までのジブリアニメと違って、みんな、キャラを掴んでるよ。袴田吉彦のバロンは『耳をすませば』のときの露口茂より若返ったけれど、これも妥当だろう。何より、猫王の丹波哲郎! 『クレヨンしんちゃん 爆発! 温泉わくわく大決戦』での本人役(^o^)もよかったけれど、今回のロリコンエロオヤジ猫もいいわ。ハルを息子のヨメにするのがダメなら、自分のヨメにって、こんなの少女マンガのキャラじゃないって(^_^;)。悪役が憎みきれないやつと言うのも『長猫』以来の伝統だわな。 あ~、『スターウォーズ』の20倍は面白いから、みなさんも見てね。
マンガ、関崎俊三(かんざき・しゅんみ)『ああ探偵事務所』1巻(白泉社/JETS COMICS・530円)。 だから「探偵」ってタイトルに付いてるだけでどうして衝動買いしちゃうかな(^_^;)。 あー。本格ミステリではありませんでしたね、いや、タイトル見た瞬間、ギャグだろうな、とは思ったけれども。けれど買って損した感はなし。それどころか、なかなかツボを抑えたシチュエーションコメディになってるよ。 タイトルの「ああ」って、感動詞だと思うでしょ。それがさにあらず、探偵事務所の名前なんである。電話帳の一番最初に載るから付けたって、発想が亜愛一郎だねえ。主人公の探偵妻木(名字だけで名前がないあたりがハードボイルドっぽいね)は推理オタクで、依頼人の素性を勝手に推理してはことごとく外して、胡散臭がられている。今日も「失踪した兄を探してほしい」と依頼してきた井上涼子に「あなたは音楽教師をしている。声の発声もいいし指の爪をきっちり切ってある」と断定する。でも彼女はただのOL。妻木の推理が幸運にも的中し(普通は「まぐれ当たり」というのだ)、事件が解決した後も、ビンボーであまりに哀れな妻木のために涼子は「ボランティア」でOLの傍ら、探偵事務所の助手をすることになる。 探偵の情けなさぶりと、それをサポートする助手って図式が、松田優作の『探偵物語』の路線だなあ、とは思うけれど、毎回の事件に工夫が凝らされていて、本格推理的興味には欠けるけれどもなかなか面白い。 「見合い相手の弱点を調査する」 「公園のラクガキ犯を捕まえる」 「刑事の覗き現場の証拠を掴む」 「ペットのペンギンを探し出す」 「盗まれたアニメセルを取戻す」 などなど。普通の探偵マンガと違うところは、犯人がまあなんというか、筒井康隆の言う境界の方々ばかりだというところでしょうか。だからネタ的にはギャグだけど、結構都会の陥穽っつーかリアルなとこ突いてるんだよね。たとえば公園のラクガキ犯は自称「天才アーチスト」で、自らの芸術性を世間に知らしめるためにやってたわけだ。実際には暴走族のラクガキとレベル変わんないんだけど、本人だけはそうは思ってないという。いるよね現実に(^_^;)。 お宝アニメセル盗難事件のアニメは、往年の名作『ヒマラヤの不思議少女ナマステ』(おいおい)。ネーミングはどうかと思うが、アニメスタッフがみんな人間の基準から少しばかり離れた顔をしているいうのは、意外に偏見ではないかもしれない(~_~;)。やっぱオタクって世間的には境界の人って思われてるんだよなあ。 作者、ジャンボ鶴田と同窓だったそうだけど、となると結構トシ行ってるんじゃないか。このマンガの前にもいろいろ作品発表してるみたいだけれど、気がつかなかったな。やっぱりまだまだマンガの世界は奥深い。 数少ない読者のみなさま、私が興味持ちそうなマンガがあったら、教えて下さいませな。
マンガ、イダタツヒコ『美女で野獣』1巻(小学館/サンデーGXコミックス・560円)。 え~、女子高生による「ファイトクラブ」マンガです。 いやあ、イマドキたった一言で中身を解説できるマンガも珍しいなあ。もう理屈抜きにただそれだけのマンガ、テーマもメッセージもつゆとてない完全快楽主義的エンタテインメント。……ってこれだけじゃいくら何でもあんまりかな。もう少し説明を続けよう。 飲んだくれでヤクザの用心棒で乱暴者のゴクツブシの父のせいで借金地獄に喘ぐ女子高生にして古流武術鬼首流の時期当主、一茜(いちもんじ・あかね)。またもやオヤジがこさえた借金百万の返済ができずに途方に暮れる彼女の前に現れた謎の女子高生、中島克美。「百万円は私が持つわ」。組長の娘と名乗る克美に誘われるまま、茜はとある映画館の地下秘密闘技場で「女子高生のみのキャットファイト」にエントリーされてしまう。一度だけ、一度だけの勝負と会場に降り立った茜に、格闘技の天才美少女・チャンピオン毒島リリカの猛攻が……。 ……うーん、あらすじ書いたら、これ以上、もう書くことない。もちろん面白いんだけれど、批評を拒絶するマンガってのもあるのだよ。
2001年07月20日(金) 一人で見る映画/映画『千と千尋の神隠し』
2002年07月19日(金) |
踊る大脂肪/映画『MIBⅡ』/『ワイド版 風雲児たち』3・4・5巻(みなもと太郎)ほか |
残業で帰りが7時を過ぎる。 これはいきなりでなく、以前からわかっていたことなので文句はない。私がいつも文句をつけてるのは、いきなりの変更がやたら多すぎるからである。必要がある残業ならちゃんとしますって。手当てでないけど。 しげにもそのことは言っておいたので、しげもいつものように愚痴は言わない。
雨の中、夕食は久しぶりのハンバーグレストラン「びっくりドンキー」。ここしばらく、しげが「行きたい行きたい」とうるさかったので、やや遠方ではあるが足を伸ばす。 注文はシチューハンバーグにびっくりコーラ。ここまではいつもと変わらないが、新メニューで「ルンバルンバ!」という飲み物がある。 なんで「!」が付いているのかよく分らないが、メニューには「アイスキャラメルマキアート」とある。なんだよマキアートって、牧伸二が描いた絵か。 見た感じ、コーヒーの底にキャラメルミルクが沈んでいる感じ。 こういう見たこともないものには興味を惹かれてしまうので、二人で頼んでみる。で味わいはどうかと言うと、まあ美味しいと言えば美味しいか。ストローで、底に沈んでるキャラメルミルクを飲んでるうちは甘くて、それがコーヒーのところに来ると苦く変化する。一粒で、ああいや、ひと飲みで二度美味しいってコンセプトなわけかね、この飲み物は。もっとも混ぜて飲む人もいるだろうから真偽のほどは定かでないが。甘ったるいのが嫌いな人は混ぜて飲むのがいいだろうね。 でもやっぱり疑問なんだけど、どうして名前が「ルンバルンバ」? 何かコーヒーの中で踊ってるのか。でそれが腹の中で孵化し、ハラを食い破って……。 しげ、これが気に入ったのか、「また今度飲もうね」という。まあしげの厚さ30cmの腹肉なら食い破られることはあるまい。……そうか! 揺れて踊るのはハラ肉だな!? 確かにこの店、肉は豊富にあるし甘いデザートもあるし、しげにとっては至福のレストランだろう。ハンバーグ以外のサイドメニューもいろいろあるし、いい加減「王将」と「めしや丼」に飽きてきたので、もう何度か通うくらいなら私も反対ではない。 また毎日「びっくりドンキー」通いになったらいやだけど。
AMCキャナルシテイ13にて、映画『MIBⅡ(メン・イン・ブラック2)』。 バリー・ソネンフェルド監督は『ワイルド・ワイルド・ウェスト』の汚名を返上できるか? ってあたりを期待して見に行ったけど、そこまでは行かなかった感じね。悪くはないけど面白いというほどではない。意外性、まるでないんだもの。 冒頭、いかにもパチモンなSF番組の司会者(『スパイ大作戦』のピーター・グレイブス!)が現れ、「宇宙人は地球に飛来しているのです」、と矢追純一よろしく視聴者に語り掛けるシーン、これがよくできている。60年代に放映されたって設定なんだろうけれど、飛んでる宇宙船はチャチィわ、宇宙人のコスチュームはゲテゲテだわ、60年代テイストが横溢。けど、この映画で一番面白いシーンがここだけなんだよね。 前作で相棒K(トミー・リー・ジョーンズ)と別れたJ(ウィル・スミス)、仕方なく別の相棒と組むけれど、それがブルドッグ型宇宙人(パグ犬って言ってるけど、ブルドッグとどう違うのさ)のフランクってアイデアがイマイチ頂けない。要するにジャー・ジャー・ビンクスでうるさいだけの邪魔者、コメディリリーフになりきれてないのだ。私にはギャグがすべりまくってるように思えたんだが、来場してた外人の客はやたら笑ってたなあ。私が英語のギャグが分らない点を割り引いても、アチラさんのギャグセンスも昔に比べて低下してきてないか。 ストーリーはいたって単純。 強大なパワーを持つ宝、「ザルタの光」を求めて地球にやってきた狂暴な宇宙人サリーナ(ララ・フリン・ボイル)。その宝の行方を知っているのは前作で記憶を消されたK。彼の記憶を取り戻しすために、Jとサリーナの追っかけが始まる……って話。 基本ラインはそれでいいんだけど、無駄なエピソードが多すぎてKの記憶が戻るのに時間がかかりすぎ。それがサスペンスに繋がってるんなら悪い展開でもないんだけれど、それがイマイチ希薄で効果をあげていない。襲われる対象を、Kと、サリーナを目撃したヒロインのローラ(ロザリオ・ドーソン)とに分割させちゃったのが脚本の求心力を弱めているんだね。 で、オチが実は「ザルタの光」はローラ自身だったってのはハッキリ言って意味不明。ローラの何がどうなってて「惑星を破壊するほどのパワーを持ってる」って言うの? それにサリーナ、そんなもん手に入れなくても、オープニングで惑星破壊しまくってるんですけど(^_^;)。 更にわからんのが、ローラが実は、Kとかつて恋に落ちた宇宙人ロラーナとの間に生まれた娘だってこと。……あのー、ローラを演じてるロザリオ・ドーソン、黒人なんですけど、白人と宇宙人が子供作ったら黒人になるんですか? しげにこれ話したら、「どっかが黒いんだよ、あの宇宙人」って言われた。どこが黒いのか教えてくれ。 結局「ザルタの光」がどういうものなのか分らないままローラは宇宙に旅立って終わり。なんだか『MIBⅢ』のプロローグだけ見せられて終わっちゃったって感じ? でもこれで『Ⅲ』が今回の話となんの関係もなかったら怒るよ、私ゃ。吾妻ひでおじゃないんだから。 サリーナ役のララ・フリン・ボイル、どこかで見た顔だと思ったら『ツイン・ピークス』に出てたんだね。随分老けたよなあ。 帰宅して、ふとパソコンの前を見ると、並べておいたフィギュアが全部裏返しされている。特に『あずまんが大王』のキャラは全部奥地に行ってて姿も見えない。 もちろん、これは全部しげの仕業であって、小人さんのイタズラではない。 思うに私がおーさかや榊さんを見ながらデヘデヘしてたのでヤキモチを焼いたものであろう。まるで本屋に並んでた高千穂遙の本を全て逆に入れ直した相原コージのようなマネを(『かってにシロクマ』を酷評されて怒ったとか)。 別にこの程度でしげを怒ったりはしないが、なんかやることがいじましいよなあ。いちいち元に戻すのもめんどくさいのでそのままにしているが、キングギドラや鉄人28号やブラック・オックスやアントラーやメガギラスや死神博士やイカデビルや砂かけ婆や釣瓶落としやサキエルや惣流・アスカ・ラングレーがみんな背中向けてるってのはなんか不気味な風景である。
マンガ、みなもと太郎『ワイド版 風雲児たち』3・4・5巻(リイド社・各680円)。 番外編(つーか書き残し編)『宝暦治水伝』を3巻と4巻に分けて途中収録。 薩摩藩家老・平田靱負と傳馬屋十兵衛との「腹芸」のシーンは何度読み返しても泣ける。こういうのが「日本人の美しい姿」ってやつなんだよ。直情径行な特攻隊物語やら、ワールドカップの応援程度で「日本人」を感じる精神の貧弱さと比べてみりゃいい。今、「二十万両の香典」を出せる人間がどこの世界にいるかね。武士の誇りを捨てて、命を賭して仕事にかかれる人間がどこにいるかね。 再読だからあまり細かい感想は書かないけれど、4巻から始まる「蘭学者編」は、この『風雲児たち』の(今のところ)白眉である。歴史を紡ぐものが人の思いであることを知っている人には、必読の書だ。さあ読め。
雑誌『せりふの時代』24号、特集が「アチャラカ復活!」。 アチャラカがいつ復活したんだと突っ込みたくなるようなタイトルだけれど、まず、「アチャラカって何?」って若い読者もいそうだなあ。けれど、これ説明し出すと、もうこの日記の規定字数使い切っても終わらないよ(^_^;)。 まあ戦前の浅草発祥の理屈抜きのドタバタ喜劇、と思ってください。これでも識者の方からは猛反駁がありそうだけどさ。
矢野誠一の寄稿『おかしくて、哀しくて』、最近見た舞台、『ダブリンの鐘つきカビ人間』を酷評して、「中途半端な才気に頼った勝手気ままなお遊びとしか思えない貧弱な舞台」とまで断定している。 さて、この『カビ人間』であるが、後藤ひろひと演出によるG2プロデュース公演、第3弾である。前作『こどもの一生』『人間風車』が面白かったし、今回は友人も出演しているので(多分そいつのせいでつまらなくなってるとは思うが)、ぜひ見に行きたかったのだが、九州公演は北九州は小倉、しかも平日にしか公演がなく、断念せざるを得なかった。それがここまでの酷評を受けたとなると、果たして「笑いとは何か」という、これも語りだしたらキリがない問題について考えざるを得なくなる。 矢野さんが「舞台を創っている側も、享受する側も、本当に面白いものを知らないで過ごして来たことに対する、ごくごく素直な同情心が湧いてきた」と仰る感覚はわかる。自分の文章が「菊・吉爺い的な自慢話に堕ち」るんじゃないかと心配しつつも語らないではいられないその心情も。 ただ、その「面白いもの」の例として挙げられているのが、1963年に自動車事故で物故した八波むと志の“舞台”なんだから、40代以下の人間は、困ってしまうのだ。だって「見てねーよ」としか答えられないんだから。私も「脱線トリオ」の記憶はほとんどない。これが映画なら、見てないのは若手の怠慢、「すみません」と謝らなきゃいけないんだけどね。 それでも私は、戦前の軽演劇の残留をエノケン、ロッパや森繁久彌、三木のり平、渥美清といった人々の映画に触れていることで、矢野さんの言もさもありなん、と類推することができる。けれど、それすらもない若い人々にとっては、反感しか抱けないのではないか。どうかすると私の同世代の人々でさえ、彼らの芸に対してあまりに無頓着な暴言を吐くことが少なくないのだ。 ナンシー関さんですら、森繁を「現在の視点」でしか論ずることができなかった。そりゃ確かに今あの人は老害を晒しているが、ナンシーさんの文章を読むと、昔からあの人がつまらなかったように錯覚する。橋田壽賀子は確かに昔からつまらなかったが、森繁さんは違うのだ。映画を見ない、舞台を見ないナンシーさんの批評の欠陥がそこに露呈している。 同じように三木のり平を桃屋の江戸むらさきのCMでしか知らず、渥美清を寅さんでしか知らない人間に向かって何を言っても無駄だろう。知識の多寡ではない、芸に対する見方、笑いに対する感覚があまりに貧弱過ぎるのだ。「本当に面白いものに触れたことがない」と矢野さんは仰るが、果たして「本当に面白いもの」に触れてもその価値を見出せることができるかどうか。 八波むと志さんは、私が子供のころに体験しなかった喜劇人の代表のような人である(ほかにもシミキンとか市村ブーちゃんとかいるけど)。その至芸は、同じ脱線トリオの由利徹に嫉妬を抱かせるほどで、ために脱線トリオは解散したとの説もある。映画にも出演しているが、主演は少ない。こないだ録画した『雲の上団子郎一座』に出演しているが、いつものことでビデオの山のどこに行ったかわからない。こんな日記書いてるヒマがあったら、探し出して見なきゃなあ(^_^;)。
今号では、若手の役者、喜劇関係者たちに、「この人こそ喜劇王」という人の名を挙げてもらってるのだが、これが特集に迎合したかのような答弁ぶり。これが本当なら、喜劇界の将来も明るいのだが。
いのうえひでのり→先代博多淡海 市川染五郎→花菱アチャコ 上杉祥三→花紀 京 小松和重→周星馳(チャウ・シンチー) 近藤良平→マイケル・ホイ 春風亭昇太→渥美清 鈴木聡→萩本欽一 喰始→三木のり平 原田宗典→ローワン・アトキンソン ブルースカイ→手塚とおる マギー(ジョビジョバ)→三木のり平 松尾スズキ→ジム・キャリー 松村武→ビンス・マクマホンJr. 村上大樹→松尾スズキ 八嶋智人→花紀 京
マジメな回答を避けて(心情的には分る)、WWEのオーナーを挙げた松村武を除けば、「本当に面白い喜劇を見たことない」のは小松和重、近藤良平、原田宗典、ブルースカイ、村上大樹の五人だけと思うがいかがか。鈴木聡の萩本欽一ってのも今の人にはわかんないだろうねえ。これはもちろん『欽ドン』のころではなく、「コント55号」時代の『帽子屋』などのコントを挙げての意見なので、納得なのである。個人的な意見の差はあるにしてもよ、チャウ・シンチーに「喜劇王」の称号を与えるのはいくらなんでも早すぎるだろうって。
筒井康隆と別役実の「アチャラカ対談」、昔、東京の三百人劇場で見た筒井さん作の『三月うさぎ』、あれ、最初は筒井さんが主演の予定だったそうな(実際に演じたのは『踊る大走査線』の北村総一朗)。自信がなくて断ったそうだけれど、じゃあ、今、役者をやってるのは自信があるのか(~_~;)。まあ、あの時演じててくれてたら、相当な珍品になってたと思うけれど。 筒井さんの戯曲の最高傑作は、活字でしか読んだことないけど、『十二人の浮かれる男』、これに尽きます。三谷幸喜の『12人の優しい日本人』と比べてみると、どちらがより「喜劇」の本質に迫ってるか、一発でわかりますよ。
2001年07月19日(木) 天ブラサンライズ/『吼えろペン』1巻(島本和彦)/DVD『サウスパーク無修正映画版』ほか
2002年07月18日(木) |
芸能界の宿便/『名探偵コナン』38巻(青山剛昌)ほか |
野村沙知代が浅香光代と渡部絵美を相手取って、名誉毀損の民事訴訟を起こしたとか。 ハズしてねえよなあ、と感心しながら笑っちゃったのだけれど、これは野村沙知代が自分のキャラをハズしてないということであって、世間的には今更またサッチーミッチーかと、どうにも困ってるんじゃないかと思う。 何しろ、これを報道しているスポニチの記事からして、サッチーの肩書きは「元タレント」である。アレがタレントだったかどうかも疑問だけど、「元」だぜオイ。そうまでして肩書きをつけなきゃならんのかと思うが、ニュースの送り手としても困ってるんだろうな。 はっきり言っちゃえば野村沙知代なんて、もう終わっちゃってるのだ。というか、終わらせたいのよね、世間はもう。なのにまた出てくる。しかも以前と全く変わらないキャラで。これはもう、「困ったねえ」としか言えないのではないか。さっきからほかの表現がないかと考えてるんだがあとは「参った」くらいしかない。いや、降参したわけじゃないからやっぱり「困った」だね。うーん、困った(~ー~;)。 昔はみんな、サッチーに対して本気で怒ってたんだろうと思うのだ。彼女が嫌われ始めた始まりが何だったかはもう忘れたが、経歴詐称疑惑だのなんだのあったよね。個人的には豊島園かどこかのCMで水着になったとき、あの人絶対誰かに刺されるぞと思ったが、意外に世間は寛容であった。もっとも、あんなのと刺し違えて人生棒に振るバカもそうそういまいが。 問題はそこなのである。 誰もがサッチーを悪役の象徴として見てはいたが、さて、ではアレが悪人として大物であったかというとそこまでは言えない。RPGでアレがラスボスだったら、倒す前にそのゲーム買わないと思う。倒してカタルシス覚えるかって言ったら、覚えないね。まず、ゲームに費やした数時間が人生の無駄であったと実感するだけだろう。 要するに、アレって「クソババア」の粋を一歩も踏み出ちゃいないのだ。あんなのの講演会になぜかオバサン連中が集まってたってのも、ババアんとこにババアが群れてたってことなんで、不思議でも何でもない。傍若無人で自分が正義、他人を蹴り倒してトンズラこくババアはそのへんにだってゴマンといるし、多分、今、コギャルとか呼ばれてるバカオンナどもも数年後にはそうなる。で、残念ながらこいつらは法律では取り締まれない(-_-;)。手を出せば傷つくのは自分のほうだということもよーく解ってる。 だから、サッチー、ミッチーの争いは、視聴者にとっては渡りに船だったわけだ。毒をもって毒を制す(^o^)。スポニチの記事、浅香光代の肩書きも「タレント」だったぞ。無知ではあるが、サッチーと同列にしか見られてないってのも事実だ。ネコの首に鈴をつけるのを別のネコにしてもらった感じか。 最終的に脱税というコツブな罪で起訴。っつーか、元々たいした悪人じゃないんだから、これが限度だろう。それでも世間はホッとした。溜飲が下がるというより、「やっと終われる」感が強かったのではないか。 マスコミもつい悪ノリしすぎていたのだ。 時代は常に悪役を必要とする。現実に巨悪というか、ほんまもんの悪役はホレ、おソトを見回せばいくらでもいるのだが、ホンモノに噛みつくのは怖いからできない。だからサッチーだのムネオだの、コツブで叩きやすいキャラを用意して妥協する。ビフテキが食えないから吉野家の牛丼でガマンするようなもんか。 でもそんなのって、言ってみればただの虫抑えだしね~、長持ちゃしないしさせるわけにもいかないのよ。なのに腸のどこかに宿便みたいに残ってたものだから、早いとこ流したかったんだよねえ、マスコミは特に。 けど、流しきれなかった(^_^;)。おかげで屁が臭い臭い。祭り上げたマスコミもすっかり持て余して、その臭い屁にやられているのだ。で、私ゃそのマスコミの「困った」ぶりを見て「いい気味だ」と思ってるのである。どーでもいー悪人を仕立て上げて、もっと責めなきゃならない悪人を見逃してきたツケがちょっとだけ回ってきてるのだ。少しは困って屁を嗅いでろや。
昼、同僚たちと季節外れの慰労会。 近所の寿司屋から出前を頼むが、久しぶりに食う回転でない寿司はやっぱり美味い。 2500円のワリにネタが小さい気はしたが、まあ、それは言いっこなしか。
今日もしげ、ハラを壊して迎えに来ない。 どうしてこうもしげがハラを壊すかと言うと、太っているからである。 近年、しげの体型は著しく紡錘形をなしつつあり(ディバインですな)、当然のことながら、ハラの部分が最も外気の影響を受けやすくなっている。 シャツはハラとの摩擦によって徐々に薄くなり、そこへ風が当たるものだから、しげのカラダの中で最も体温が低くなるのがハラなのである。 寝ているときは更に顕著で、布団との摩擦でシャツは容易に捲れあがり、鏡モチ三段がさねのハラが毎晩お供えされることになる。 これでハラを壊さなかったらウソだ(^_^;)。ハラ巻き買えや。 そんなアホしげであるが、ほっとくわけにもいかないので、コンビニでファイブミニほかハラ薬を買って帰る。なんか親切しすぎって感じ?
なんだかもー、書きたくもないニュースがまた一つ。 女優の戸川京子さんが亡くなった。しかも自殺。 夕刊見たときにはお姉さんの戸川純の間違いじゃないかと思ったが、間違いなく妹さんの方だ。理由は分らないけれど、発作的なものじゃないのかなあ。あの姉さんをほっといて先に逝くってのがとても信じられない。 特別、ファンだったってわけでもない。何のドラマに出てたかと思い出そうとしても、こないだ見た『ケンちゃん』シリーズ再放送に子役で出てたなあ、ってくらいのもので。ああ、最近では『ガラスの仮面』の紫のバラの人の秘書さん。原作じゃ超美人なんだけど、戸川さんだと少しキャラが弱くなってないかとかシツレイなこと思ってたなあ。お姉さんと違って、個性的な役は似合わない人だったような印象なのである。 なのに、やっぱりショックを禁じえないのは、伊藤俊人さん、ナンシー関さんに次いで、戸川京子さんまでって印象があるからだろう。30代後半、40歳になったばかりでの死なのに、あまり夭折って感じがしない。みんな、どちらかというと、人生にくたびれて、何かふっと心に穴が空いた瞬間に死が襲って来たって感じなんだよ。 私も自殺を考えない日はない。これは本当で、子供のときからの習慣みたいなものである。いろいろカラダにケガだの病気だの持ってると、これは自然なことなんで、あまり深刻に取られても困るのだが、それでもこうして生きているのは、生きてる人との絆がどうかってことより、「生きてる理由もないけど死ぬ理由もないしなあ」といういささか消極的な理由だったりする。交差点なんかで、「ここで一歩踏み出したら車にはねられて死ぬなあ」とは思うけれど、それを思いとどまっているのは、死ぬのが怖いってことより、周囲やあとに残ったものたちに「事件」を提供してやるのがばかばかしかったりするからだ。私ゃ自分の人生の意味をいちいち他人に云々されたかないからね。私の人生のモットーは「できるだけ意味のない人生」だから、人知れず死んでくのがいいです。「あれ、あの人って生きてるっけ死んでるっけ」。そう思われるのが理想なんだよね。 こういういい加減な生き方してるほうがかえって死なないものなんであるよ(^_^;)。 戸川さん、もしかしたら一生懸命生きてきて、なんかふと「人生の意味」なんてこと考えちゃったのではないか。もしそう考えさせるきっかけが、お姉さんの存在だったりしたら悲しすぎるんだけれど。今は戸川純さんがあと追いなんかしないことを祈るばかりだ。
テレビで『サトラレ』を初めて見るが、展開はほとんどオリジナルみたいね。 設定さえあれば原作どんな風に改変してもいいっていう傲慢さが表れてるみたいで幻滅。神田うの、何の役なんだ。 これ見てるのって、本当に原作ファン? オダギリジョーファンは見てんだろうけど。
マンガ、青山剛昌『名探偵コナン』38巻(小学館/少年サンデーコミックス・410円)。 なぜか表紙のコナンのコスプレはスタン・ハンセン。本編でプロレスが題材になってるからだろうけど、ハンセン知らない人にはイカレたカウボーイにしか見えないんじゃないかね。 さて、もう毎回ツッコミしてくれと言わんばかりの『コナン』なんだけれど、今巻もどこから突っ込んだらいいものか(^^)。 でもねー、最近はもう、『コナン』に関しては読んでも感想書かないですましちゃおうか、という気もしてきているんである。いやね、この日記読んでる人で、本気で立腹してるコナンファンがいて、クレームが凄くって……というのはウソで、もう毎回書くことが同じになっちゃってるからなんだよね。一応、ミステリのマナーに則ってトリックを具体的に書かないようにして批評してるんだけど、それだとおおざっぱな感想しか書けないから、変化のつけようがないんだよ。 概ね「動機が弱い」とか「トリックがちゃっちい」とか「トリックが物理的に不可能」とかで、要するに「幼稚」ってこと。 そんなに貶すんなら、読まなきゃいいじゃないかと言われそうなんだけれども、「幼稚」ではあっても、「卑怯」じゃないから読むわけですよ。青山さんが新本格などに毒されていない、昔ながらのミステリファンだってのは、巻末の「名探偵図鑑」に取り上げられている探偵たちのほとんどが、1950年代までのミステリ黄金期に発表された作品に登場しているものからチョイスされていることからもわかる。「犯人はあの人だ!」でヒキを行うのも、エラリー・クイーンの「読者への挑戦状」の故智に倣ったものと受け取れる。青山さんのミステリ作家としての創作態度がフェアであることは間違いないのだ。
問題はねえ、挑戦状を送られたってさあ、「どうせ適当な動機で適当なトリックで適当な犯人なんだろ?」って結末が予測されちゃってマジメに受け取る気になれないってことなんだよねえ。 えーっと、まんしょんのいっしつから、だいじなだいじなかけじくがなくなりました。それまでそのへやのおばあさんが、おひなさまのひなだんにさわっていました。さて、かけじくはどこにかくされていたでしょう? ……このトリックを見抜けない読者がいると思いますか? 私ゃもう、見抜きたくもないです。青山さんが読者を小学生のみに限定しているのならともかく、いくら何でも幼稚過ぎる、という批判が出てもしかたがないよ、これじゃ。だいたい、こんなの、警察がすぐに見つけちゃうからコナンの出番なんてないって。 周囲の人間をみんなバカにして、一人だけ名探偵に仕立てるなんて、一番安易な方法だ。いっぺん純正なコナンファンに聞いてみたいんだけれども(私の周囲にいるコナンファンはたいていただのアホなんで参考にならん)、ミステリとしてあれを評価してるのかね? まあ『探偵学園Q』よりマシだってことは認めるけどね。
黒の組織とはまた接点が切れちゃいましたねー、これでもう50巻だって60巻だって行っちゃいそうな気配ですね~。サンデーの連載の中では最長不等距離を達成しそうですかね。まだ『おそ松くん』は抜いてないと思うよね?(誰に聞いてるんだ) ちょっと笑ったのは、雛壇の事件のときに、少年探偵団の連中にコナンが、「どうして大人相手に喋るときだけ声のトーンや口調が幼くなっちゃうんですか?」「不気味だぞおまえ」と突っ込まれているところ。 作者が意識してるかどうかは知らないが、これ、アニメ版の高山みなみ批判になってるぞ(^_^;)。本人がこのエピソードのアニメ化のときにどう感じるか、聞いてみたいもんだ。
裏表紙折り返しの名探偵図鑑、もうネタが尽きてきたのか、「黒門町の伝七」。 いきなり「『よよよい、よよよい、よよよいよい、めでてえな!』と二本締めで事件解決を祝う」とか書いてるけど、それ、テレビだけの設定で原作にはないんだってば。イラストも中村梅之助の似顔絵だし。 こういういい加減なこと書かれると、青山さんのミステリファンぶりも底が浅いよなあって感じしちゃうよね。まあ、「原作は陣出達朗でなくて捕物作家クラブ」って書いてるところはよく知ってたなあって思ったけど。
マンガ、青山剛昌原案・平良隆久プロット・阿部ゆたか・丸伝次郎まんが『名探偵コナン特別編』15巻(小学館/てんとう虫コミックス・410円)。 一応こちらは完全に子供向けだろうから、トリックがチャチでも文句はつけないよ。モノによっては本編より出来いいのもあるし。 ただ、子供向けなら子供向けとして、殺人の表現と動機などの扱い方にはもちっと気をつけてほしいようにも思うけれど、あまりそのことを強調すると、モラルでがんじがらめにしちゃうことにもなりかねないから、あまり言わないでおこう。 あとは特別編らしく、もう少しゲストをうまく使ってほしいってとこかな。新一の父ちゃんや小五郎の奥さん、せっかく出したのにあまり目立ってなかったぞ。
2001年07月18日(水) 夏到来! ……って暑いだけだって/『夢の温度』(南Q太)ほか
2002年07月17日(水) |
それさえも平穏な日々/『脱ゴーマニズム宣言』(上杉聰)/『潜水艦スーパー99』(松本零士)ほか |
朝、目覚めたときには、空はカラリと晴れていたのである。 いつものように、冷蔵庫を開けて牛乳を飲む。 いつものように、便所で血便を搾り出す。 いつものように、しげのロドリゲスに乗りこんで、職場まで運んでもらう。 ここまではなんの変哲もない一日の始まりであった。
車から降りて、職場の玄関の階段を上ろうとした途端、それは起こった。 そのとき、私は窓を背にしていたのだが、それでも一瞬、世界がまっ白になったのを感じた。 閃光。 間髪を置かず轟音が空気をつんざく。 まさに青天の霹靂だった。 思わず階段からコケ落ちそうになったが、なんとか踏み止まった。振り帰ると窓の外は突然の豪雨、それこそ「雨が降る」なんてレベルじゃない、水滴どころか濁流が天から降り注いでいる。 職場のあちこちから悲鳴が聞こえる。突然の雷鳴は、大地震に見舞われたかと錯覚するほどのショックを我々に与えた。 向後10分ほどは仕事にならなかったね。
とはいえ、これも典型的な夏の通り雨で、午後になるころにはウソのようにカラッと晴れあがっちゃったのだが、ふと気づいたのは、なぜこんな突然の気象の変化が起きるのか、その物理法則を全く知らないってことである。 いやね、雨が空気中の水蒸気が重くなって降ってくるって理屈はわかるよ、けど、なんでこう、いきなりドバッと降ってくるのか。まるでホントに空にカミナリ様がいてだよ、雲をギュウッと雑巾搾ったみたいなんだよね、これだけ一気に、しかも大量に落ちて来るんだから。正しいリクツよりなにより、そういう「手作業」が空で行われたと言われたほうが、感覚的には納得できてしまうのだ。
京極夏彦みたいなことを言ってしまいそうになるが、つまりは「妖怪」の類は文化的には「実在」しているのだ。科学的な知識がどんなに増え、それが常識になろうと、我々は目の前にあるもの、実際に耳にしたもの、触れたものを実態と感じるようにできている。そしてその感覚に従ったほうが、実は我々は幸せなのではないか、という気持ちにもなってくる。 地球が太陽の周りを回ってるんじゃないよ、太陽が地球を回ってるんだよ。 人間は神様が作ったんだよ、類人猿から進化したんじゃないんだよ。 生半可に科学の知識があると、かえって、西原理恵子が電車やバスの中で飛び上がっても置いてかれないのはなぜ? なんてことで一生悩むハメになるのである。 「愚か」であることが「徳」であるとは、そういうことなのだろう。 それにしても、この豪雨の中、ロドリゲスで帰るしげは大変だろうな、と思っていたのだが、実際、前もほとんど見えない状態だったらしい。それでもなんとかウチに帰りつきはしたものの、途中、山と山の谷間の坂道が水没して、車が動けずに困ってたそうな。 ……って、職場からその坂道に差し掛かるまで、掛かっても7、8分のはずだ。そんな短時間で水没。どれほどの豪雨だったか、分ろうというものだ。 しげ、迎えに来た車の中で、「あんたのせいでひどい目にあった」と悪態をつく。 「なんでオレのせいになるんだよ、天災だろ? 当たるなよ」 「アンタに当たらんで誰に当たるん」 「誰にも当たらなきゃいいだろ!」 ……やっぱりいつもの会話である。
晩飯はどうしようか、の問いに、しげ、またしても「王将かめしや丼」と答える。私はもうナゲヤリである。 「いいよ、もう、めしや丼で」 「なん、好かんとやなかったと?」 「好かんでも行くとやろ? だったらもうオレ、メニューの右端から順番に食ってくからいいよ、それで」 「なん、それ」 しげ、声を出さずにぐふふと笑っているが、バリエーションのない外食ほどつまらないものはない。せめてしげが買い物や後片付けしてくれる程度の手伝いをしてくれるんなら、毎日違ったメニューの食事を作ってやるくらいのことはするんだが。……って、既にしげに料理を作らせようという発想がなくなってるなあ(-_-;)。 で、めしや丼でこないだ食ったメシの隣にあったのは「ウナギ定食」なのであった。しげはチキン南蛮定食。しょっちゅうこればっかり食ってるが、よく飽きねえよなあ。美味しいと感じる味覚が多分、通常の人間の十分の一程度しかないのだろう。
しげ、またもや私が作ったブレンド茶に文句をつけ始める。 苦くて飲めないというのだが、苦いのがお茶だ。こいつはカレーライスの甘口ですら「辛い」と文句つけるやつだから、お茶の微妙な味わいなど分るはずもない。 「美味いじゃん、グァバ茶」 と言っても、いっかな受け付けようとしない。 「グァバ茶以外のお茶を作ったら教えて」と言う。 「ワガママだよ、オマエの」と言い返すと、 「オレだってアンタに煮え湯を飲まされてるんだからね」と反駁。 「……ちょっと待て、なんだよその『煮え湯を飲まされる』っての。言葉の使い方が変だろ?」 「違ってないよ、ホントに『煮え湯』飲まされとうっちゃけんね」 「いつだよ、言ってみろよ!」 子供の喧嘩である。
しげから今朝見た夢の話を聞く。 私も最近よく変な夢を見てはいるのだが、起きるとたいてい忘れている。私以上に記憶力のないしげはそれこそすぐに忘れてしまうのだが、今日はたまたま覚えていたそうな。 「あのね、ビールを注いでいたら、足りなくなって、樽買いすることにしたと」 それだけ言って、しげ、にこにこ笑っている。いつまで経っても続きがしげの口から出て来ないので、シビレを切らして問い返す。 「……で?」 「それだけ」 「……そんなん聞いてどうしろってんだよ!」 誰か、しげとどうやったら会話できるか、教えてください(T∇T)。
今年の新作ゴジラが『ゴジラ×メカゴジラ』になることは聞いていたが、その正式な製作発表が16日に行われた。 ヒロインはなんと釈由美子である。こりゃ、『修羅雪姫』の熱演が買われたのかもな。驚いたのは、そのコメント。 「この役が来るまでゴジラを見たことがなくて最初は実感がわきませんでしたが、過去の25作全部を見て、なんてすごい大作なんだろうと思いました」 いや、驚いたのはゴジラ映画を今まで一本も見たことがない、ということではない。若い世代の女の子ならそれも仕方がないことだ。それより役作りのためかもしれないが、過去の全作を見たってことだ。当たり前と言えば当たり前なんだけれど、実際にはそこまでするアイドルはあまりいないぞ。しょっちゅう天然みたいに言われてる釈由美子だけれど、意外に根性あるんじゃないか。 ゴジラシリーズのヒロインって、昔の「右往左往タイプ」からだんだん「戦うヒロイン」に移行してきているけど、前作がイマイチだっただけに、もしかしたら今回゛一つの頂点を極めることになるかもしれない。 いや、ヒロインだけ期待しても仕方ないって文句ある人も多いと思うけどね、じゃあ、他にナニに期待して見に行くっていうのよ(^_^;)。
アニメ『ヒカルの碁』第四十局『白星の行方』。 ヒカル対伊角の対局、決着編だけれど、どうも伊角の作画が冴えない。 今回も主要スタッフは外注っぽいな。原作の人気を越える作画や演出をしていくのが大変なのは分るけれど、プロ試験中の作画なんだから、もう少し気を入れてほしいものである。
CSチャンネルNECOで映画『どら平太』を再見。 全く、何度見てもイマイチだなあ。いい役者といい演出だったら、ずっと面白くなるのに、この脚本。市川崑監督、撮り方がとことん暗いよ。これはもっと明るくさっぱり撮らないと。
上杉聰『脱ゴーマニズム宣言 新装改訂版 小林よしのりの「慰安婦」問題』(東方出版・1260円)。 「出版差し止めにはなったんだから勝訴だ」と小林さんが言いはっていた例の批判本だけれど、改変していた部分をもとに戻して再出版したのだから、もう小林さんのほうはもう一度この本を訴えても勝ち目はない。さて、今度は小林さんはどう言い訳をするつもりだろうか(多分しないだろうけれど)。 著作権法におけるマンガの引用権が明確に認められた点については、この判決はもう諸手をあげて賛同を示したいことだ。小林さんの『新ゴーマニズム宣言』での反論はもう支離滅裂、常軌を逸していると言われてもしかたがない慌てぶりだったものね。それもしかたがないところで、この本、小林さんの慰安婦についての論がことごとくいい加減で、資料の誤読、牽強付会ぶりをいちいち指摘していてそれが実に的を射ているからだ。これに再反論するのはなかなか難しいわなあ。
では、本論である「慰安婦」問題についてはどうか。 小林さんの(他にも同じこと言ってる人いるけど)「慰安婦は商行為」という論理は、たとえそれを認めたとしても補償の対象にならないとは言えないだろう。商売してても、使用人がヒドイ待遇受けてたら補償せにゃならんでしょうに(^_^;)。 それに「軍の関与はなかった」というのは当時を知ってる人が聞けば一笑に伏すしかない暴論。もとからそこに娼館があったのならともかく、軍部が来ることになって建設し、軍人しかそこを利用してなくて、行軍にも付いて行かせたんだから、軍の関与がないわけないじゃんか。まだ生きてる人がいるんだから、こういうすぐバレるウソをついちゃいかんよねえ。 と言うことで、同じ博多出身で身贔屓したい小林さんではあるけれど、慰安婦問題に関しては小林さんの意見に賛同はしがたいのである。
けれどじゃあ、上野さんの意見に全面賛成、というかというと、そうでもないのだ。論理が破綻している点では、実は上野さんの文章も相当ヒドイ。 例えば、肖像権の問題について、「公的場にいる安倍(英)氏のような者が表現の対象となることは許されるべきだ。しかし、私的な一個人を描く場合には、おのずと限度というものがある」と主張するのはそりゃそうだと思う。けれど、その「私的な一個人」の例として、川田龍平、佐川一政、麻原彰晃、梶村太一郎、佐高信、糸圭(すが)秀実、西部邁、鳩山由紀夫を挙げてるのはどういうわけなのか? この中に一人でも「私的な一個人」がいるのか? もともと、この上野さんは小林さんを自分たちの陣営に取り込もうとして失敗した左翼の人だから、イデオロギー先行の思考をするところが多々あって、このあたりの論理の破綻も、まずは「小林批判」をしなければならないってアタマがあって、よく言葉を吟味しないで論を組みたてたための齟齬だろうと思われる。私ゃ左翼の人達が本気で慰安婦問題を考えてるとは到底思えない状況を知ってるので、こういう我田引水な文章にぶち当たると、またかい、と思っちゃうのだな。
細かい批判をしていったらこれもキリがないから、総論的に言っちゃうけど、「従軍慰安婦」と言うのは当然いたのである。否定のしようもない事実であり、日本の罪だ。それは間違いない。 では、カミングアウトした朝鮮人慰安婦への国家補償がなぜできないかと言うと、これもちゃんと歴史を知っている人間なら自明のことなのだ。それは別に「補償はもう終わった」ってことじゃなくて、それをやりだすと「日本人慰安婦の補償はどうなるか」って問題が浮上しちゃうからなんだよねえ。 日本のおばあちゃんたちの中には、今もなお、あのころの慰安婦たちが生きていて、それをカミングアウトしないまま暮らしているのである。もう過去の傷に触れてほしくないと思っている彼女たちに、周囲に悟られないように補償だけをするというのは不可能なことだ。日本人慰安婦への補償が始まれば、当然、好奇と偏見の目に晒されることになる。そんな目に会うくらいなら、黙って死んでいったほうがいい、そう考えるのが日本人の精神性なのである。白黒ハッキリさせないと気がすまない朝鮮人の精神性とは天と地ほども違う。 日本、朝鮮双方の意志を満足させられる方法は存在しない。だから、よくないことは分っていても、日本人への補償ができないように、朝鮮人への補償もできないのだ。どんなに非道であっても、国としての立場はそんなものだ。 朝鮮人に憎まれることを覚悟の上で補償を拒絶せざるをえないのは、日本という国が未来永劫贖罪できないまま背負って行くしかない業なのである。 「なら、朝鮮人にだけ補償して、日本人はほっとけ」と言いだすヤツもたまにいるけど、そうなるとこれがもう戦後補償や差別や迫害云々の問題ではなくて、単に日本に「復讐」したいって低劣なレベルの主張でしかないことが顕在化しちゃうよね。それはやっぱりしちゃいけないことなんだよ。 誤解を招きそうだから、これもハッキリ書いておくけど、私は「朝鮮人慰安婦に補償をするな」と言いたいのではないのだ。補償はしようよ、やったことはやったことなんだから。国にできないことなら、「民間補償」しか手はない、そう考えてるんである。日本人なら、そのことはすぐに見当がつきそうなものなのだが、それでもあくまで「国家補償でなきゃダメ」って主張する人たちがいるんだよねえ。それは、やっぱり「左」の方々なんであって、イデオロギーや政治的な立場で発言してるだけなのである。そのことを隠して、「善意」を振りかざしている上野さんの偽善性が、私はどうにも好きになれない。 やっぱり「小林よしのりに賛成する人間も反対する人間もトンデモ」って法則は成り立っちゃうんだねえ。
マンガ、松本零士『潜水艦スーパー99』(秋田文庫・760円)。 どっひゃあああ! まさかこんな「古典」まで文庫で復活とは、長生きはするもんである。なんたって初出が1964年の『冒険王』だよ。この日記読んでる人で、連載読んでた人間、どれだけいるって言うんだ。私だって連載時には読んでない。子供のころ“貸本屋”で当時の単行本、サンデーコミックス全二冊を10円で借りて読んだ。ははは、ざっと30年前ですな。 松本零士と言えば『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』と思いこんでる若いファン(と言ってもそれすらオタクん中じゃ旧世代になっちゃってるけどよ)には「松本零士って海洋モノも描いてたの?」とびっくりした方もおられるでしょうが、私たちの世代には、『ヤマト』以前にはこっちのほうが松本さんの代表作だったんですよ。しかも当時、海洋モノでは小沢さとるという大御所がいらっしゃって、『青の6号』『サブマリン707』と傑作を連発してたんで、松本さんの『スーパー99』はどうしても二番煎じの印象が強かった。 松本さんがブレイクしたのはむしろ『男おいどん』のような四畳半モノで、初期のSFものはことごとくコケてたんですよ。そのころの印象が強いもので、私などはどうしても松本さんはSF作家としては二線級、と思いこんじゃってたんですね(ホントは『ヤマビコ13号』のような傑作を描いてたんですけれど子供のころは知らなかった)。 『ヤマト』の本放送だって、第1話見て、「なんだ、『スーパー99』のリメイクじゃん」と思って、最終回まで見なかった(今でも『ヤマト』はたいした作品とは思っていない)。松本さんって凄いなあ、と考えを改めるようになったのは、その代表作たる『男おいどん』をSF化した『銀河鉄道999』を読んでからなのだね。イヤハヤ、松本さん以外の誰に、「大宇宙の大四畳半」なんて呆れたイメージを思い付けるものか。
『スーパー99』に話を戻せば、実際、ストーリー展開や細かい設定、ネーミングなどに、後の『ヤマト』のモチーフとなったものが随所に見られる。西崎義展との原作者争いで負けちゃったのが不思議なくらいである(まあ、『ヤマト』を宇宙に飛ばすってアイデアは西崎さんのだから、しかたないけどね)。 ナチス・ドイツの流れを汲み世界征服を企む秘密組織・ヘルメット党の侵略から地上を守るために、科学者である父の開発した新造潜水艦スーパー99に乗り込む少年、沖ススム。誰かと誰かを合体させたような名前だけど、こっちのほうが当然元祖(^o^)。「侵略者を撃て」ってのは定番だとしても、敵はやっぱりドイツ系になるんですねえ。昔から思ってたことだけど、ドイツ人が『ヤマト』や『銀英伝』見たら本気で怒りゃしないか(『銀河英雄伝説』のドイツ語タイトルのスペルが間違ってて、ドイツ人から『銀河狼伝説』になってたという指摘があったことはなにかで読んだことがあったが)。 総統の名前がルドルフ・ヘチだなんてのも、もう少し工夫のしようはなかったのかって文句つけられそうだけれど、60年代のマンガ家のネーミングセンスは概してこんなもんなんだよね。 けれど冒険モノとしては定番なだけに、古い作品であるにもかかわらず前半は読んでて実に面白い。分割潜水艦なんてアイデア、今でも使えるよ。けれど、後半ラスト近く、「真の敵は海底人ゼスだった」なんてムリヤリな展開にしたのはいただけない。必然性もないし、しかももともと地上侵略の意志はなく、人類とは共存したかったというのだから、敵に設定する意味もない。物語を完結させようとするとボロが出る松本さんの悪いクセもこのころから現れていたのである(^o^)。
2001年07月17日(火) 何年ぶりかの酒の味/『水木しげる貸本漫画傑作選 悪魔くん』上下巻
2002年07月16日(火) |
乱れる話いろいろ/『ぴたテン』1・2巻(コゲどんぼ)/『桃色サバス』1巻(中津賢也) |
島根でのSF大会、どうやら無事に終わったようである。 DAICONFILMが話題になっていたころからSF大会には興味があったし、これまでにも何度となく参加する機会はなくもなかったのだが、学生時代はともかくカネがなくて、参加は夢のまた夢であった。 当時、学生で参加してた人も多かったようだが、みんなそんなに金持ちなのか? と不可解に感じていたものだったが、あとになって判明したところによると、ホントにみんな金持ちなのであった。いいなあ、いいとこのボンボンは。 じゃあ、オトナになって就職して、いよいよ行けるようになったかと言うと、今度はヒマがない。病気でしょっちゅう仕事を休んでるくせに、と言われそうだが、趣味を優先させてまで仕事を休むってのはそんなに簡単にできることではないのよ。あ、意外と私も常識人か?(^.^) しげも行きたがってはいたのだが、ともかく完全宿泊というのがイタイ。 ともかく回りは見知らぬ人ばかりである。人見知りの激しいしげにとってみれば牢獄にぶち込まれるようなものであろう。私やAIQのみなさんが一緒にいられるのは昼間だけで、夜は別々である。どんなに外見上女っぽく見えなくても(こう書くとしげが男のように見えるのかと誤解されそうだが、しげの名誉のために補足しておくと、しげはオトナには見えないのである。……誉めてないか)、生物学的に女である以上、しげはたった一人、女部屋に宿泊せざるを得ないのだ。いっそのこと、こっそりしげを男ということにして、一緒に泊まろうかとも画策したのだが、私やしげは平気でも、さすがに周りのみなさまがどうにも困ってしまうであろう。 それやこれやで、結局毎年、参加を断念している。 「SF大会、経営ジリ貧!」なんてウワサを聞くに連れ、まがりなりにもSFファンの端っこにはいるんじゃないかと思ってる身にしてみれば、多少ボラれてもいいから協力してさしあげたいなあ、と思っていたのだが、結局未だに参加を果たしていない。 こうなるとなんかもー、一生参加できないかもなあ。 唐沢俊一さんご夫妻やエロの冒険者さんの日記等を拝見すると、今回の大会、旅館の待遇にいろいろと問題があったらしい。田舎の旅館なんてのは、ご当地が一番と思いこんでるから、料理も接待も実はいい加減というところが多い。そういうのにはしげは敏感に反応してしまうから、参加しなくて正解だったのかもしれない。
今日もしげは迎えに来ない。 電話を入れても全く応答がないからやっぱり爆睡しているのであろう。 仕方なくタクシーを拾って帰る。 コンビニに寄って、少年ジャンプを立ち読み。と言っても『ヒカルの碁』しか読んでない。 何と巻頭カラー、ということは佐為がいなくなってもまだ人気は落ちてないってことなのかな。伊角さんが桑原本因坊とタメ張れるところまで来ているけれども、これも人気故の措置か。初登場の目立たなさを思うと、これも意外な展開だ。 再連載が始まって、そろそろ山になるような出来事を起こさないといけないんじゃないかと思う反面、あまりムリヤリな展開にはしてほしくないとの思いもある。あと10巻くらいは続けてほしいと思ってるんだが、ヒカルたちがちゃんと一年一年トシを取ってることを考えると、少年マンガとしてはそのあたりが限界だろう。あるいは、その後はヤングジャンプに移籍して『ヒカルの碁 青春編』みたいにしちゃうというアクロバットな手もありはするが。 でも、そこまでしちゃうと、さすがについてくるファンも激減すると思うが、どうか。
しげに突然、 「アンタ、今朝、腕が痛くなかった?」 と聞かれる。 「別に? なんで?」 と答えると、 「なら、いい」 といかにも隠しごとをしているような返事。 「なんか隠してるな、言えよ、なにしたんだよ」 と問い詰めると、困ったような顔をして、白状する。 「昨日、仕事から帰ってきたとき、寝てるアンタの腕踏んだんだよ」 「あ、ひでえ」 「覚えとらんと? 返事したよ、アンタ」 「……覚えてないなあ、なんて言った?」 「覚えてないけど、なんか返事した『痛い』とかなんとか」 どうやらマトモな受け答えではあったようだ。 しげは寝言ではたいてい意味不明な「しげ語」を喋る。多分どこかから電波が飛んで来てるのではないかと思うが、その悪影響を受けていないかと、心配していたのだ。 まあねー、いくら意識がなくてもね~、私って理性的だから、間違っててててても、常軌を逸したようなイカレたような気が触れたような脳が腐れたようなことは言ったり言ったりイッたりしないと思ってた信じてたんだけどもちょっとだけ心配してたって言うか大丈夫だったんで安心したって言うかキモイって感じーなわんだほー。b;f-ysiet;qtqx^@zr.eskmkw@f3ljpy<tZwi6mebyw@g(4q@ydue94i,>
『言語』8月号の特集、「日本語は乱れているか!?」。 一応この雑誌、マジメな言語学の雑誌なんだけれど、エクスクラメーションマークにクエスチョンマークを重ねるあたり、なかなかサバケているのである。 けれど「乱れているか?」って疑問形で問題提起されたら、これは「乱れてる」と答えるしかないよなあ(^_^;)。で、そりゃ今に始まった話じゃないし、もともと言葉は時代の変化に従って乱れ、変化していくものである。「乱れ」と「変化」の厳密な区別は言語学者にだって簡単にできるこっちゃない(だから専門誌でこんな疑問形の特集が組まれるわけである)。 問題にすべきなのは、世代間のコミュニケーションが取れなくなっているという事実だ。若い世代の使っている言葉がオトナ世代には分らない、いや、意味は通じるのだけれど、ニュアンスにどうにも違和感を感じてしまう。大人は若者の言葉を「乱れ」と糾弾するが、若者はそれが自分たちの自然な喋りかたなのだから、と反発する。これでは会話が成り立たないのも無理はない。 そしてこの勝負、常に敗れるのはオトナ世代なのである。だって先に死ぬのはオトナの方だからそりゃ負けるってば(-_-;)。若者言葉が敗れるときは、更に若い世代が新たなる言葉を台頭させてきたときである。要するにトコロテンだわな。 しかし、負けが分っているからと言って、敗北宣言したまま諦めるのは、それこそオトナが若者とのコミュニケーションを放棄することになる。若者に反発されようと嫌がられようと、「日本語使え、バカヤロー」と怒鳴りつけてやるくらいのことをしないと、貧弱な言語で満足している若者のメンタリティーは、どんどん鈍化していく。だってよう、いい40代のオトナの男が「~だしィ、~だしィ」なんて接続詞使えない状況(会議の席での発言だぜ)が生まれてるんだぞ。こりゃなんとかせねば、と思うのも私一人の独善ではなかろうと思うがいかがか。
もちろん、私とて、決して「正しい日本語」などは話せていない。 この日記においても、堅苦しい言いまわしを避けて、若者言葉に迎合している面もある。「~とか」「~ヤツ」「~のほう」など、ある一定の世代以上のオトナには耳障りな言葉遣いも、あえて使っているところがある。これらはギリギリ昔からある言葉の応用だと自分で納得できるからだ。 けれど、「オレ的には」「ワタシ的には」みたいな「的」の使い方は、私にはできない。 「個人的には」という言葉があるのに、なぜわざわざ「自分」を前面に出して主張するのか、これってただの独善ではないか(「個人的には」という言い方自体、あまり使いたくはない)。 同様に、「オレって○○な人だから」という言いまわしもしない。……これ、我々の世代の、しかもオタクがやたら流行らせたんだよね~、本人は自己アピールのつもりで使ってるんだろうけれど、実際には相手との間に「オレとキミとは違う」って壁を作ってるだけなんだよなあ。そのことに気づいてなかったバカな男って多かったよなあ。昔、この言葉遣いのせいでフラレた男、何人も知ってるぞ。 80年代、オタクな男がもてなくてもてなくて苦しんだ背景には、こういう言葉遣いのヘタさにも原因があったと思う(女性でこの「~な人」を使うのは、初めから相手の男を拒絶してる場合が圧倒的に多いのがまた悲しい)。
今号の寄稿には、もう今更それを言ってもなあ、と感じる「乱れ」の例も少なくない。「生きざま」「温度差」「視野に入れる」などの誤用は、もう止められないのではないか。なぜなら、これらは「若者言葉の乱れ」ではなく、「オトナ」が政治的な都合で自ら作り出した「乱れ」であるからだ(40代以上でも、これらの言葉のどこがどうおかしいのか、説明できない人、多いのではないかな)。 ファミレスのウェイトレスさんの「よろしかったですか?」も、北海道、東北、九州を支配し、今や東京を席捲しつつあるようだ(ネットで検索したら千件以上ヒットしたぞ。やっぱり不快に感じてるオトナは多いのだ)。全く、使い始めたのはどこのどいつだ。 この根の深い「乱れ」に対して異議を唱えるのはまさしく蟷螂の斧だなあ、とは思う。けれど私ももう老い先短いカラダだし、「小言幸兵衛」になろうと決心したので(^o^)、イタチの最後っ屁よろしく、無責任に妄言を吐いて行こうと思う。 ここで再確認しておくが、私は言葉に「正しさ」を求めているのではない。 工夫のない、心を感じられない言葉に満足している連中を、大人であろうと若者であろうと「タコ」呼ばわりしたいのである。 最もタコなのは自分の使う言葉が絶対だと思いこんでいる連中だ。意志の疎通に支障を来たした場合、その原因はどちらか一方にあるのではなく、常に双方にある。それくらい常識として知っておけよなあ。
マンガ、コゲどんぼ『ぴたテン』1・2巻(メディアワークス/DENGEKI COMICS・各578円)。 アニメは未だにオープニング以外全然面白くないんで、さて、原作マンガは読んでみようかどうしようかずっと悩んでた。……悩むほどのことかとは言われそうだけれど、ともかくちょっとでも興味を引いたものには手を伸ばしてみようと思ってるのだよ。 ああ、でも原作はアニメほどひどくないね。 いかにも同人誌上がりの絵柄を嫌う人はいるだろうが、表情のバリエーションが意外にも豊富でいい。湖太郎の困ったり苦しんだり照れたりホッとしたりを微妙な線で描き分けてるよ。作者、きっと女の人だろうと思ってネットで調べてみたらやっぱりそうだった。一般的にキャッチーなのは美紗や紫亜なんだろうけれど、やはり湖太郎や御手洗大のほうがキャラとしては立っている。 『デ・ジ・キャラット』のキャラデザインもこの人だそうだけれど、概してアニメは原作の描線を生かしきれてないねえ。原作の線は、一見、均質に見えるけれど微妙な強弱があるし、コマ割りやレイアウトもアニメみたいに単調じゃない。……アニメのスタッフ、アニメ化に際して露骨に手を抜いてないか? もしかしたらこの原作を、あまり好きじゃないんじゃないのかも。 確かに、ドラマとして考えると設定も人物配置もありきたり過ぎる。今どき『二級天使』をやるかってのはアニメを最初に見たときにも思いはした。けれどこの人がマンガ家としてバケるのはもうちょっと後ではなかろうか。なんか「習作」ってイメージがすごくするのよ、これ。とりあえずは「先物買い」ってことで。 それはそれとして、この人の「コゲどんぼ」ってペンネームの由来ってなに?(@_@)
マンガ、中津賢也『桃色サバス』1巻(少年画報社文庫・620円)。 80年代の『少年サンデー』はともかく面白かった。 高橋留美子の『うる星やつら』とあだち充の『タッチ』を2枚看板に、島本和彦の『炎の転校生』、細野不二彦の『どっきりドクター』『GU-GUガンモ』、六田登の『ダッシュ勝平』、上條淳士の『ZINGY』ほか、よくもまあ、これだけオタク好みの濃いマンガを載せてて、しかも部数を伸ばしてられた(一時期『ジャンプ』を抜いていた)ものだ、と感心するラインナップが揃っていたのだ。 中津賢也(「なかつ・けんじ」と読む)さんも、その一角を担ってたのは間違いないのだが、私は面白いと思っていた『ふぁいてぃんぐスイーパー』、これだけ濃い作家に囲まれてると不利だったのか、2巻で打ちきり(後、未収録の短編を寄せ集めて3巻を出す)、『増刊サンデー』に連載した『黄門じごく変』『徳川生徒会』(結婚した後で知ったが、しげもファンだったそうだ)も2巻で打ちきり、作者本人が自嘲気味に「2巻作家」などと自称していたくらいだった。 確かに中津さんのマンガは、ページ数の関係もあるのか、面白くなる寸前で尻切れトンボで終わるものが多かったんで、作り手も読み手もドラマ嗜好の強い『サンデー』ではイマイチ人気が取れなかったのも分るのである。残念なことだが、『サンデー』ではシチュエーションコメディは受けても、スラップスティックは受けない。 実のところ、中津さんのギャグの本質はスラップスティックであって、シチュエーションコメディにはない。高橋留美子とは違うのだ(『うる星』ではスラップスティック的要素が強かったのが、『めぞん一刻』以降、どんどんシチュエーションコメディに偏っていった)。サンデーの編集者、中津さんを無理やりシチュエーションコメディの枠に嵌めこんだせいで違和感が生じちゃってたのではないか。
角川での今はなき『コミックコンプティーク』での数本の連載を経て、『YANG KING』に移って、ようやく中津さんは本領を発揮したように思う。 『虹色サバス』では、魔神ベルゼビュート(「蝿の王」ですな)の魂を宿した高校生、魔道玉吉を守るために魔女カゴメがやってくるって基本設定はあるものの、エピソードを重ねるにつれ、ほとんどそんなのはどーでもよくなっている。 要するに「追っかけ」と「エッチ」が描けりゃいい、というように開き直っているのだ。だから、出てくるキャラが「カゴメのヌードが撮りたくて追っかける」玉吉のオヤジとか、「玉吉の精液がほしくて追っかける」魔女マユとか、そんなんばっか(^o^)。しまいにゃ「発情期になったカゴメを玉吉が追っかける」なんてパターンまで出て来たぞ。ホントにナニしかないのな、このマンガ(^_^;)。 でも、その開き直りが、この作品でついに2巻作家(ほんとはもうちょっと描いてるけど)を脱出できた一番の理由。角川まではずっと中津さん追いかけて買ってたんだけど、まさか『サバス』でバケるとは思ってなかったから、単行本買ってなかったんだよね。 いやはや、不明の至りであります。
2001年07月16日(月) 私のマスコミ嫌いも根が深い/『雪が降る』(藤原伊織)/『新ゴーマニズム宣言』(小林よしのり)ほか
2002年07月15日(月) |
開高健よりは痩せてると思う/『新ゴーマニズム宣言 テロリアンナイト』11巻(小林よしのり) |
台風が近づいてきているようである。 昨日までの涼しさがウソであったかのように、今日はムシムシと暑苦しい。 こういう暑い日にはちょっと女を殺したくなりませんか(c.斉木しげる)。でもそんな理由で女を殺していったら、世の中、ただでさえ女に相手にされずに寂しく自宅で美紗だの紫亜だののフィギュア片手に○○○○しているオタクは多いというのに、彼らのささやかな明日への希望の芽すら摘んでしまうことになるではないか。そんな残酷なこと、ようできまへんわ。 というわけで、今のところ女を殺してはいない。全国のモテない汚い愛想もないオタクの諸君、私に感謝したまえ。君たちのまだ見ぬ未来を支えているのは実は私の愛なのだ。
職場の女の子からいきなり「有久さんって、安部公房に似てますね」などと言われる。あまり嬉しい例えではないが、似ていると言われれば似ていなくもないかな、とは思う。それよりも今時の若い子が安部公房を知っているだけでもオドロキである。読んでるのかホントに。 「顔立ちだけじゃなくて、喋ってることとかも」などと言われたから、実際に読んではいるのだろう。それにしても若い癖に侮れないことを言うやつだ。確かに私には安部公房との共通項がある……というか私の書く戯曲が安部公房の影響を受けてるってことなんだが。 『壁』と『人間そっくり』、あるいは戯曲『ウェー 人間狩り』などは私の書く戯曲の隠しモチーフになっている。 日頃から私は、世間話的に「現実なんてあやふやなもんだ」とかナマイキなこと言ってたから、その子はたまたま安部公房の本を読んで「有久さんと同じこと言ってる!」と驚いたのだろう。ああ、でも若い子と安部公房の話ができるなんて嬉しいなあ。 で、つい悪ノリしてしまいました。 「似てるかな? でも実はもっと似てる人いるんですよ」 「え? 誰ですか?」 「この人」 偶然とは恐ろしいものである。こういう西手新九郎が現実にあるのだから。 たまたまそのとき私が持っていた本が、『裸の王様』。そこの著者の写真を見せた途端、女の子が飛びあがって驚く。 「そっくり!」 そんなに私、似てますか? 開高健に。 オーパ!
台風、鹿児島を掠るそうだとかで、福岡の方も小雨がぱらついている。 てっきり駐車場に迎えに来ていると思ってたしげの姿が見えない。昨夜も仕事から帰ってきてから寝つけなかったみたいだから、また寝過ごしているのだろう。それにしても、携帯に連絡入れても全く応答がないというのはどういうわけだ。 仕方なくタクシーで帰宅。 何度か乗せてもらった運ちゃんだったので、裏道を通ってくれて、早めに帰ることができた。私の商売は先刻ご承知の方なので、「大変ですねえ」と労ってくださる。そう、大変なんスから、これでも。 帰宅してみると、やっぱりしげは寝ている。病院の検査では、悪いところ全然なかったんだから、ホントにただのグータラだ。劇団のメンバーに向かっても威張って「全然悪いとこないって~」と笑って言ってたしなあ。「病院行きたくない~」って泣いてたのはどこのどいつだ。
しげが仕事に出かけた後、夜食にスパゲティを作る。 焼き肉のタレで下味をつけて、トマトソースにウィンナーを細切りにして混ぜる。本当はタマネギも混ぜたかったのだが、買ってくるのを忘れた。仕方なく長ネギのみじん切りを混ぜるが、別にヘンな味にはならなかった。ちょっと冒険だったかも。 飲みものも尽きていたので、スーパーで買ってきたパックのお茶をいろいろブレンドして、オリジナルティーを作る。麦茶に減肥茶(成分見るとハト麦茶ベース)に玄米茶にグァバ茶。 私はこのお茶を気に入っているのだが、グァバ茶を混ぜるとしげの評判が頗る悪い。 「飲んだらね、喉に奥のほうからウェーって来ると」 というのだが、わしゃ別に毒薬を調合したわけじゃないんだがな。 しげはともかく麦茶派である。私には麦茶オンリーってのはあっさりし過ぎてて喉にまるで引っかからないので、少しは苦味があった方が、と思うのだが、しげは舌がコドモなので、オトナの味がわからないのであろう。 仕方なく、グァバ茶を混ぜたものと混ぜてないものとを作る。玄米茶ベースのあっさり味とグァバ茶メインのオトナ味。 でも、なんでこんなにしげに親切にしてやらなきゃならないのかなあ。料理も作ってくれないし家事もしないし、私が奉仕するばかりだ。 このしげの甘ったれのツケは、そのうちしげ自身にしっぺ返しみたいな形で振りかかって来ると思うけれど、果たしてそのときまで私の方が生きてるかどうか疑問だ。 ┐(~ー~;)┌ マイッタネ。
マンガ、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 テロリアンナイト』11巻(小学館・1260円)。 タイトル、英語としてはヘンじゃないのか。まあ、ワザとなんだろうけれど。 本文は本文で、ますます活字が多くなってて、マンガにする意味あまりないんじゃないのか、とツッコミ入れたくなってくる。ヘタすりゃ1ページ、ほぼ活字で、フキダシのスキマにちょっと絵があるだけ。ホントに読みにくいったらありゃしないね。 小林さんは「『ゴー宣』は読者に読解力がないと読めない」みたいなことを以前書いてたような気がするが、そりゃどんな本だってそういうもんだよ。『ゴー宣』が読みにくいのは、単にコマ割りとレイアウトがヘタなせいなんだから、掲載誌の『SAPIO』に頼んでページ数増やしてもらってコマに余裕を持たせたらどうかね。でも、小林さんのことだからページが増えたら増えたで余計なこと書きこむんだよ、きっと。 実際、重くて厚くて、なのにやっぱり活字でいっぱいの『戦争論2』も、随分前に買ったまま、途中で放り出して読み終えてない。この11巻も内容的にリンクしてるから、平行して読んどいた方がよさそうなんだけど。
昨年の同時多発テロについて、小林さんの意見と私の意見とは重なるところが多い。……困ったなあ、小林信者と思われちゃうかな。南京事件や従軍慰安婦については意見が違うところの方が多いんだけどな。 でも、あのテロ事件が起きた時点で、「アメリカもついにやられたか、ざまを見ろ」と思った連中は、巷には結構いるんじゃないか。広島・長崎に原爆を落とし、朝鮮で代理戦争を行い、ベトナムで枯葉剤を撒き、今もなおアラブに介入し続けているアメリカを見てなお、アレが絶対的な正義の具現者だと信じてる人間がいたとしたら、そいつは救いようがないアホだと思うが、どうかね。 アメリカが実質的な専制国家だとわかっていながら、日本が摺り寄っていかざるを得ないのは、単純に国家間の勢力バランスを考えればほかに選択肢がないからだってこと、みんなわかってると思ってたんだけどなあ。 なのに、あのテロが起こった当時、ネットの日記なんか見てたら「こんなひどいテロは許せません」とか、「人道的な判断」をしてるつもりでアメリカの味方してた意見もやたらあったもんね。ちょっとでも歴史かじってたり国際情勢を知ってる人間だったら、諸手をあげてアメリカに賛成してもいられないってこと、判りそうなもんだが。 政治家がアメリカの御機嫌伺わなきゃならないのは仕方がないが、民間人がどうして「アメリカがんばれ」を簡単に言えるのかねえ、何も考えてないんじゃないの? 案の定、アメリカのアラブでの無差別空爆が知られるようになると、日本の中での「アメリカ万歳」の声も低くなっていったけどね。……もっと早く気づけって(-_-;)。 人種的な偏見はないけど、未だに「戦争を終わらせるためだったんだから、原爆を落としたのは正しい」(「仕方がない」じゃなくて「正しい」と言ってるアメリカ人のほうが圧倒的に多いぞ)なんて主張してる奴らを信用できるかい。 小林さんのモノイイがナマイキだからって、なんでもかんでも「反対」を唱えていいってもんでもないだろう。アメリカ批判だったら、黒澤明だって『八月の狂詩曲』で「アメリカは被爆者の慰霊をしていない」と批判してたし、宮崎駿だってあのテロに関しては反米的な発言をしているぜ。みんなクロサワさんやミヤザキさんは好きなんでしょ? だったら堂々と「反米」を唱えてみたら?
時間はかかったけれど、みんなの予想通り(^o^)、小林さんは『新しい教科書を作る会』を今巻で脱会。もともと右とか左とかのイデオロギーがある人でなし(靖国や特攻隊賛美だけで右翼と決めつける風潮が戦後すぐの時期にはなかったことも今巻で示されてるが、これは本当だ)、その場その場の義憤で動いてる人なんだから、小林さんを広告塔に利用しようって考えてた西尾幹二がアホなんだよなあ。小林さんは「友達」にすると面白い人だけど、「同志」や「仲間」にしちゃいかんのよ。 これで小林さんが柳美里と仲良くなったりしたら面白いんだけれど、さすがにそれはないだろうな。
2001年07月15日(日) 演劇は愛だ! ……ってホント?/『バトルホーク』(永井豪・石川賢)ほか
2002年07月14日(日) |
劇団始動……か?/『電人ザボーガー』1・2巻(一峰大二)/『カムナガラ』4巻(やまむらはじめ)ほか |
あ、気がついたら明日で山笠も終わりじゃん。 先祖代々ど博多民でありながら、ここまで山笠に冷淡な人間というのも珍しいんじゃないかと思うが、四十年見続けてりゃたいがい飽きるよ。進歩ないし(伝統芸は進歩しちゃイカン面はあるけどね)。 でもなあ、あっちこっちに飾り山立てて、追い山であっちこっち山笠かついで走り回ってって、それだけの祭だよ? どんたくにしろ山笠にしろ、どうして全国各地からこうも博多に人間が集まってくるのか、地元民にはさっぱり分らないのである。 あの、他地方のみなさん、そちらには地元の「祭」ってないんですか? 今年も、偶然博多駅を通りかかった時に、一つだけ山笠を見たのだけれど、見返しがなんと『ONE PIECE』だよ。 ……似てね~(~_~;)。 似てないだけじゃなくて、作り手、マンガ読んでないよな。ゾロ、二刀しか持ってないし。しかも歌舞伎みたいに見得切って、目の回りには隈取りまであるぞ。こんなゾロ見たら、熱狂的なワンピファンは激怒するんじゃないか。
「ねえねえ、聞きました? 黒子さん。『スター・ウォーズ エピソード2 クローンの攻撃』が先々行公開、先行公開、そして昨日の公開初日の動員の合計が約40万人、興収5億7000万円を記録したんですって」 「まあ、それってスゴイことなの? 白子さん」 「もちろんよ、なんたって、あの『ハリー・ポッターと賢者の石』を抜いちゃったんだから。このまま行けば、最終的に1200万人の動員、興収170億円、『千と千尋の神隠し』『タイタニック』に次いで、歴代3位の記録を達成するんじゃないかって、配給元の20世紀フォックスは考えてるみたいよ、黒子さん」 「まあ、でもそんなに都合よく行くかしら、白子さん」 「そうねえ、雑誌なんか見てても、見た人が誉めてるのはラストのヨーダとドゥークー伯爵の決闘シーンばかりだから、2時間近くもアナキンがヒネクレてくだけの退屈なシーンを見せられ続けるのはつらいかもね、黒子さん」 「雑誌って言ってもアナタが読んでるのは『アニメージュ』とか『Newtype』とか、オタク雑誌ばかりじゃないの。フツーの人はアナキンとパドメの恋のやりとりが楽しかったりするのよ、白子さん」 「ええ~? 身分違いの恋とか言いながら、あの二人の恋に反対する姑とか家来がいるわけじゃなし、二人の恋が歴史に大きな危難を呼んだりしてるわけでもなし、のんびり草原で抱きあってゴロゴロしたりしてて緊張感のカケラもないじゃない、あんなドラマの基本も知らないようなおバカで演出不在のストーリーのどこに感動するって言うのよ、黒子さん」 「まあ、いろんな人をテキに回したがってるような発言ね、白子さん」 「だってホントなんだから仕方ないじゃない、黒子さん」 「でも、『タイタニック』に感動しちゃう程度の単純で呆けたメンタリティしか持ってないのが今の若い人たちじゃないの。それにあの二人の恋が大変な事態を呼ぶのは次のエピソード3だから、今はあれでいいのよ、白子さん」 「納得いかないわね、けれど、じゃあ、あなたは『クローン』が『タイタニック』並にヒットするって言いたいの? 黒子さん」 「そこまではムリだと思うけれど、イイ線までは行くんじゃないかしら。だってSF映画って、それだけじゃ絶対ヒットしないけど、付加価値があるとバケることがあるじゃない。『E.T.』がヒットしたんだって、「感動の名作」ってことでウケたんだし。『クローン』の目玉はやっぱりアナキンとパドメの恋よ、前半なのよ、白子さん」 「ああ、あんな幼稚な恋物語で感動できるくらいなら、オママゴトしてた方がマシだわ、どうせなら、『猫の恩返し』の方を見に行ってほしいわね、黒子さん」 「なんだ、結局それが言いたかったのね、もう、ホントにオタクなんだから白子さんったら」
けど、映画がヒットするのは不況の証拠(遠出できるカネがないから)って言われると根っからの映画ファンとしては悲しいなあ。日頃からもっと映画を見とこうよ。
しげは朝から劇団の練習。 私は脚本だけの参加なので、肉体訓練には参加せず、午後を回ってから顔を出す。 参加者は相変わらず少ない。よしひと嬢、穂稀嬢、つぶらや君のみ。ホームページに載ってるメンバーは10名以上いるのにどうなってんだか。パソコン持ってる連中も更新させようって気があるやつ少ないしなあ。 キャストに使えるのは結局女性三人だけ。全く、毎回これだけの小人数で脚本を書けってのは酷ってもんだよ。私だってスタッフでもキャストでも協力したいのは山々なんだが、しげがヒステリー起こすのも毎回なものだから、今回はきっぱり断る。いい加減、私もしげのワガママに付き合うのは疲れた。 脚本は、みんなの考えたものを寄せ集めて、九月、十月ごろまでに完成してほしいとのこと。それだけの期間があればできなくはないが、日記の更新と重なるんだよね、これが(^_^;)。 とりあえず、シノプシスを再来週までにあげよ、との指令。へいへい。
練習は今、エチュードを中心に練習しているそうだ。テーマを決めて、一対一でディベートを行う。つぶらや君はしょっちゅう負けてるそうだが、弁の立たない男って多いよな。これって、やっぱり男系社会の中で男が甘やかされて育ってるって証拠じゃなかろうか。男が男であるってことだけで自分の主張を押し通せることが多いものだから、日頃は何も考えなくてもやり過ごせるのである。ところがいざ、自分の発言に根拠を持たせようとすると、たいていうまく言えなくてシドロモドロになってしまう。 よりによって、穂稀嬢とつぶらやくんのディベートのテーマは「私としげの結婚は正しかったか否か」。で、「正しい」派に回ったつぶらや君、負けてやんの(~_~;)。現実になんとか10年持ってる夫婦だというのに、なんで負けるかね、つぶらや。
ブックセンターホンダで本を買ったあと、夕食は浜勝。 実はヒレカツとロースカツの区別があまりついてないので、ミックスカツを頼む。ジューシーなほうがロースなのかな。 いつもは一緒にトロロを頼むのだが頼み忘れる。こうなると、トロロが無性に食いたくなるので、帰りにスーパーに寄ってトロロイモを買う。けれど米を炊き忘れていたので、トロロ食いは明日以降に持ちこされるのであった。 トロロだけすすって食えばいいじゃないかと言われそうだが、博多にトロロだけを食う習慣はない(あるかもしれんが私はしない)。 熱々のメシの上にトロロをぶっ掛けて、醤油をちょっとだけ垂らして、余りメシとかき混ぜずに食うのが一番美味い。昔は生卵を混ぜたり豆腐を混ぜたりオクラを混ぜたり、いろいろ工夫していたものだったが(悪食とも言う)、最近はトロロだけで食うのが好きになった。 単純な味が一番美味いって気持ちだけれど、単に味覚が淡白になっただけかもな(^_^;)。
マンガ、うしおそうじ作・一峰大二画『電人ザボーガー』1・2巻(完結/角川書店・各1470円)。 今はなき『冒険王』に連載されていた、ピープロ特撮ヒーロードラマの一峰大二による最後のコミカライズ作品。これがなんと28年ぶり、初の単行本化である(毎回思うが、いくら復刻とは言え、この高価は何とかならんか)。 当時はもちろん、番組の方も見ていたのだけれど、『スペクトルマン』や『快傑ライオン丸』は好きで夢中になって見ていたから、細部もまあまあ覚えちゃいるのだが、『ザボーガー』あたりになると、どうも二番煎じ三番煎じ、ドラマに迫力不足を感じていたせいか、細かい設定はすっかり忘れてしまっているのである。 もともと私は、ヒーローものは悪役が好きかどうかで判断してるところがあるのだが、『ザボーガー』の場合、「悪之宮博士」ってネーミングでもうダメだった記憶がある。そんな名前のやつがおるか、ガキだからって舐めんなよって印象を受けていたのだった。 番組自体、視聴率的に苦戦してたんだと思う。ザボーガーがストロングザボーガーに改造されたかと思ったら、あっという間に終わってしまった。……テコ入れに失敗したことが露骨にわかる終わり方だった。
マンガ版はもう、あの一峰大二のアクの強い絵柄でも平気、という人でないと楽しめないんじゃないかなあ。私などはあの腰を妙にツイストさせた絵柄見ると、「おお、一峰!」とか思って嬉しくなっちゃうんだけど。 悪之宮博士が、アリを飼っていて、その手足を潰して楽しんでる描写などは、『スペクトルマン』にも同様のシーンがある、一峰さんお得意のモチーフ。要するに弱い者イジメなんだけれど、これはピープロの、というより一峰さん自身の正義感が生み出した描写だろう。 「悪」とは何か、「正義」とは何か。悪とはつまり、弱者を虐げるものであり、正義とは弱者を守るものである。それだけを聞くと、随分単純な絶対悪、絶対善の価値基準の世界のように思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。それは、正義が悪に破れるパターンを描く時、一峰さんの絵に特に力が入るところでもわかる。 『スペクトルマン』で、蒲生譲二はしょっちゅう宇宙猿人ゴリに破れている。ムーンサンダーの回では、一度、完全に死んだ。その回のラストのコマは1ページを使ったゴリの高笑いである。絶対的な悪の前では正義は往々にして無力であること、正義はただ汗を流し、うなだれ、歯噛みして悪の哄笑をなすすべもなく聞いているしかないこと、それは当時は実にリアルな描写であった。 また、善もまた悪をなすことがあることを、「ダストマン」や「クルマニクラス」の回では、テレビ版以上に一峰さんのオリジナルな解釈を加えて描いていた。実を言うと、私は『スペクトルマン』に関する限り、オリジナルであるテレビ版よりもマンガ版の方を圧倒的に評価している。 『ザボーガー』でもそういった描写がないわけではないのだが、残念なことにページ数の関係もあったのだろう、安易な結末、ダイジェスト的な展開で終わる場合が多く、マンガとしての完成度は『スペクトルマン』『ライオン丸』に一歩も二歩も差をつけられている。物語が単純に見えるのは、『スペクトルマン』に比べて、主人公が幼く描かれているせいもあるのではないか(大門豊がストロングザボーガーを作るために、松江健に向かって「きみのマシーンとザボーガーを合体させれば鬼に金棒」なんて頼みこむのもちょっと発想が幼稚なんじゃないか)。 それでも『ザボーガー』には、見捨てるに躊躇する魅力が多々残っている。悪之宮博士に利用され、主人公の大門豊をおびき出す囮にされてもなお、悪之宮を慕うミスボーグの健気さとかね(やっぱさあ、歯を食い縛って流す汗の描写がイイんだよ)。 一峰大二なんて知らない、という若い人も多いと思うけど、食わず嫌いしないでちょっと手に取って見てみてほしいのである。マンガ喫茶やネットカフェででもいいからさ。
マンガ、やまむらはじめ『カムナガラ』4巻(少年画報社/YKコミックス・520円)。 「侵略者」の正体、「さとがえり」の真の意味が今巻で明かされるが、侵略者と被侵略者の関係が実は逆であった、というパターンはもう、枚挙に暇がないくらい見て来ているので、ちょっと拍子抜け。 斎野が語っていることが真実なら、今は記憶をなくしている九谷、剣の一族としての記憶を取り戻したら、現代人としての倫理観との間で葛藤が起こると思うんだが、そこを今後どう処理するかな。 面白くなるかどうかはそこをうまく描けるかどうかにかかってると思う。
東京のこうたろうくんからお中元が贈られて来たので、お礼の電話をかける。お中元と言っても、中身は野菜ジュースの詰め合わせ。「栄養偏らせてんじゃねーぞ」という意味で、贈答品というより見舞い品である。しげ、ちゃんと飲めよ。 久しぶりに声を聞くので、期分が高揚したのか、気がついたら発言がいささか暴走する。オタク話だの、ここには書けないヤバい話など(^o^)。 『クローンの攻撃』を「スゲエぜヨーダ、クリストファー・リー!」と、思いきり誉めて話しておいたので、こうたろうくんもきっと見に行ってくれるであろう。私一人が前半の「アナキンいじいじ物語」に付き合う苦痛を味わうというのは不公平というものである。
2001年07月14日(土) シナリオ完成!/『クレヨンしんちゃん』30巻(臼井儀人)ほか
2002年07月13日(土) |
病院への長い道/『エンジェル・ハート』4巻(北条司)ほか |
ここのところ、通院が途絶えている。 体重の変化はなく、太っても痩せてもいないが、病状もつまりは変化がないということである。つまり決してよかあないってことなんだけど。 このまま全く検査をしない、というわけにもいかないので、今日こそは病院に行こうと思っていた。 しげも最近体調を崩すことが多くて、朝夕の送り迎えもままならなくなっている。誰しも一年にいっぺんくらいは悪いところがないか診察してもらったほうがいいのだけれど、しげのように会社に属していない者は、たいていこれをサボる。で、ガンだのなんだのに冒されて手遅れってことになってしまうのである。というわけで、昨日からしげには「お前もついでに健康診断してもらえ」と命令しておいた。 ……おっと、こんな「妻の身を案じる夫」のフリをしていると、またしげから「偽善者」と呼ばれてしまうな。もちろん、私の思惑は、しげのどこにも異状がなければ、文句を言わせずこき使おうというハラである。
9時を過ぎてもフトンの中で丸まっているしげに、声をかける。 「オイ、病院行くぞ」 しげ、顔も出さずに、恨めしげな声で、「……行かん」。 「なんでだよ、昨日、行くって約束したじゃないかよ」 「だって、何て言えばいいのかわからん」 「健康診断してくれって言えばいいじゃん」 「それでどこも悪くなかったら、『コイツ、健康なくせに病院に来やがって』とか思われるもん」 そんな医者がどこの世界におるか。 要するにしげは病院が怖いのである。 「注射が怖いんか? 四の五の言わずに行くぞ」 「アンタ一人で行ってきい」 またいつもの対人恐怖症である。 いつもなら、しげなんかほったらかして自分だけ出かけるところだが、いい加減、譲歩してやるのにも飽きた。バカにはバカと、ハッキリ言ってやらねばかえって酷だ。 しげを少しばかり「優しく」説得する。
どてぽきぐしゃ。
予定より2時間ほど遅れたが、「説得」が功を奏して、しげ、出かけることをしぶしぶ承知する。……全く、病院に行くまでに体力気力消耗させやがって、グスグス泣くんじゃねえ、どうせ行ったら行ったで、開き直って受診するに決まってるくせに。 案の定、行き付けの病院に出発したときにはしげの涙もすっかり乾いていた。 病院に着いた時には、もう11時を回っていたので、待合は結構混雑。 散々待たされて、尿検査と採血。採血の結果はすぐには出ないが、尿の結果はいつもと変わらず悪い。ここんとこまるで運動してないしなあ。診察してくれたのは、かかりつけの先生ではなくて院長先生。時間帯がズレたので交代したのか。 「あの、最近、腕がよく痺れてるんですけど」 「両方ですか?」 「いえ、片方だけです」 「じゃあ糖尿のせいではないですね」 「……寝違えただけですかね」 「そうでしょう」 ちょっと疑心暗鬼になりすぎた感じだったが、かと言って油断して食べすぎないように注意はしなければなるまい。前回の検査結果も相当悪いのである。 しげは心電図まで取られたそうだが、どこといって故障はなかったとのこと。 と言うことは、具合が悪いとしょっちゅう言ってるのは、仮病かダラクサ(=ナマケモノ)なのかどっちかだな。 このやろう、思いっきりこき使ってやるから覚悟しろ。~凸(-~~- )
しげ、「ねえ、オレがどこも悪くなくてガッカリ?」と出かける時の泣き顔はどこへやら、ケロッとして聞いてくる。 呆れて「バカ」とだけ返事。それ以外に答えようがないわい。
コンビニで『週間文春』を立ち読みしたら、小林信彦さんが『人生は五十一から』でヘンリィ・スレッサーが今年の4月2日に亡くなっていたことを書いていた。ああ、その死亡記事は見逃してたな。 スレッサーと言えば、『怪盗ルビィ・マーチンスン』。小林さんはこれを「ぬるい作品」と評し、「こんなのを載せてたから、『ヒッチコックマガジン』は潰れた、と人から言われた」ことを書いているが、代表作と言われる『ママに捧げる犯罪』よりも日本で一番人気があったのが、この『怪盗ルビィ』であったのだ。だって私ですら読んでるし(つーか、これしか読んでませ~ん)。 しげは読んで「つまんない」って言ってたけど、自分では大泥棒のつもりなのに、何をやっても“善意”の行動になってしまうってところが洒落ててよかったんだけど。和田誠が映画化したときには、ルビィは女(小泉今日子)に変えられたけれど、これが『ヒズ・ガール・フライデー』の故智に倣ったことは一目瞭然だし、ルビィというキャラクターがより可愛らしくなっていて、これは成功だったと思う。 映画化に合わせて、文庫カバーが私の好きな画家さんである楢喜八さんから小泉今日子の写真に変えられちゃったのは残念だけど。映画の宣伝をしたいときは、オビを付けるだけにしてほしいものである。
DVD『必殺必中仕事屋稼業』、一気に6話から12話まで見る。 『必殺』シリーズを余り熱心に見てなかったのは『時代劇は必殺』とか言っときながら、全然時代劇じゃなかったからだけれど、こうして通しで見ると、時代劇になってるのとなってないのとの振幅の差が激しいね。 第八話の『寝取られ勝負』は、下飯坂菊馬脚本、三隅研次監督で、セリフなんかもしっかり江戸江戸してるんだけれど、第十二話の『いろはで勝負』は、もう笑うしかない。半兵衛と政吉が、乱れた遊郭を潰すために中に潜入するのだけれど、味方のフリをするためにでっち上げたソープランドのアイデアが評判取って大繁盛する。でも、当時から江戸にソープはあったんだけど。湯女ってそんな役割だし。奇を衒いすぎると、かえってつまんなくなるものだ。 江戸の雰囲気出せてないと言えば、おまき役の芹明香、どう見ても現代人。好きな女優さんだから文句言いたかないけど、三隅監督には嫌われてたみたいだなあ。第八話では付け足し的に最後にワンシーン出てるだけだし、第十話では全く出番がない。池波正太郎から始まったシリーズだから、時代劇としてきっちり作りたい人と、おもしろけりゃ何でもアリの人と、スタッフ間でも考え方の違いがあったんじゃないかなあ。 まあ、バカ時代劇は誰でも作れるんで、時代考証ちゃんとやってくれてる作品の方が私は好きだな。もちろん、「仕事屋」なんて職業が当時なかったことはわかってるけど、その、ドラマ造りのための虚構と、ただのいい加減とはワケが違うからね。だからホントはご新造さんには歯に鉄漿しといてほしいんである。婆ちゃんの世代まではやってたんだから、私には違和感ないしなあ。 ああ、でも三十年近く前のドラマだから、ゲスト出演者も、相当数の人が死んでるなあ。 菅貫太郎、和田浩二、菊容子、天津敏、神田隆、真木洋子、東野英心、藤岡重慶、岡田英次、みんな故人だ。しかも、お年だし仕方ないって人がほとんどいないぞ。若死にが多すぎる。ドラマ見てても、なんか切なくなってくるね。
マンガ、北条司『エンジェル・ハート』4巻(新潮社/バンチ・コミックス・530円)。 あ、なんだかいきなり日常編に入っちゃったな。 それも、香と阿香との組織適合性がほぼ同一、という「奇跡」があってこそのことだけど、奇跡の大安売りはどうもねえ。ジャンプ系のマンガ家さんはやっぱりどうしてもハッピーエンドを望むのかね。……だったら最初から香を殺すなよ。ドラマ造りのためにキャラを勝手に使い捨てしといて、後で適当に辻褄合わせするいい加減さ、腹立たないのかね、かつての『シティー・ハンター』ファンは。 けれど、アクションシーンより日常描写の方がずっとうまいな、北条さんは。細かく書きこんでるし、デッサンはしっかりしてるから、「うまい」と錯覚されてるけど、北条さん、マンガとしては下手なほうだ。細かく描きすぎてるせいでアクションなのに絵が「止まる」こと多いんだよね。まだ『キャッツ・アイ』のころの方が線に伸びがあったぞ。 こういうほのぼのした展開にしといて、また最終回で阿香が死ぬようなことになったら、本気で北条さんをマンガ家として最低のレッテルを這ったがいいと思うぞ。……怒ってるなあ、オレ。そんなに香が好きだったのか。
2001年07月13日(金) ふ、ふ、ふ、ふ○こせんせぇぇぇぇぇ!/『悪魔が来りて笛を吹く』(横溝正史・野上龍雄・影丸穣也)ほか
2002年07月12日(金) |
ある事件の記憶/DVD『アベノ橋魔法☆商店街』vol.1/『奇妙な論理Ⅰ・Ⅱ』(M・ガードナー)ほか |
さあ、この事件も若い人にとってはとっくに風化してしまった事件だろうか。 いや、この事件だけは多分されないね。本当はしてしまったほうがいのかもしれないけれど。
神戸市で1997年(もう5年も前かよ)に起きた連続児童殺傷事件の犯人、自称酒鬼薔薇聖斗の中等少年院の収容期間が2004年まで継続されることが決められたとのニュース。 中等少年院は原則20歳未満を対象としているため、本当なら酒鬼薔薇は来年4月に20歳9か月で出所する予定だったが、さらに1年半以上も大幅に延長されたことになる。 「異常性の際立った少年犯罪に対し、司法の判断も極めて異例となった」と記事にあるけれど、そこまで「異例」を通すならいっそのこと、実質終身刑にしてしまえばいいのにと思うんだけど、そこまではできないんだろうね、加害者の「人権」に配慮するとかの理由で。 でもなあ、本当にそれでいいのかねえ。どうせマスコミは酒鬼薔薇が出所したら、そのこと報道するんでしょ? そりゃ名前や顔写真、どこに住むことになるかとか、個人情報は出さないかもしれない。でも「出所した」って事実だけは報道するつもりでしょ? だって、今回も「何年後に出所する予定」ってこと、事件が「風化しないように」わざわざ知らせてくれてるんだから。 あのさ、マスコミさんや、あんたら、国民が怯えるの面白がってるだろ?
私は「出所しても酒鬼薔薇がまた犯罪を起こすのではないか」という心配はあまりしていない。通り魔なんていつでもどこでも出るもんだよ。明日、我々は別の通り魔に襲われるかもしれないわけだよ? 酒鬼薔薇一人を恐怖したってしかたないじゃん。道端でウンコ座りしてるヤンキーの兄ちゃんたちの側通る方がよっぽど怖いわ。 なのにマスコミさんはいちいち知らせてくれるよねえ。彼だけがあたかも危険であるかのように、不安を煽ってくれるよねえ。後始末もようせんくせに。 で、あとを引き継ぐのはネットの仕事だ。酒鬼薔薇が出所した途端、ウソもマコトもいっしょくたで彼の個人情報が出回ることは目に見えている。名前をどう変えたか、何の仕事についたか、今どこに住んでいるか。人の口に戸は立てられないのだ。
ネットにそこまでの力があるか、という疑問を持つ人は、2ちゃんねるが堂々と存在している現在、もうあまりいないと思う。 はっきり言って、酒鬼薔薇の本名も顔写真も、既に相当ネットで出回っちゃってる。この期に及んで酒鬼薔薇に社会復帰が可能だと考えるのは甘すぎるのではないか。 しかももう一つヤバいなあ、と思うのは、巷に溢れる情報には相当数、ガセも混じってるだろうってことだ。私もかつて、酒鬼薔薇の写真を見たことがあるけれども、ホントにどこにでもいそうな顔なんだよ、これが。こいつに間違われそうなやつ、知り合いで少なくとも5人はいるよ。 数年経って、出所した時の彼の顔は当然成長して変わっているだろう。となると、もと「酒鬼薔薇」に擬せられてしまう人間は、恐らく今以上に続出するのではないか。
新聞やテレビがさ、情報を伝えるのが使命だって考えてるのは分るよ。けど、いつもいつもニュースは垂れ流しで、その後のことなんてなにも考えてないじゃんか。 酒鬼薔薇の更正を誰もが信じられるほどにこの社会が成熟しているならばともかくも、それは期待薄だろう。だとすれば、マスコミがやってることは、「情報による恐怖政治」、ヒトラーのユダヤ謀略論と何ら変わるところがない。 こうなると私ゃ、酒鬼薔薇が出所してきてまた犯罪を起こすんじゃないかって心配より、誰かが疑心暗鬼になって、酒鬼薔薇自身を殺しゃしないか、あるいは全く関係のない人間が酒鬼薔薇と疑われて誰かに殺されやしないかなんてことまで心配しちゃうよ。 と、これでも誤解を招きそうなので補足すれば、私は酒鬼薔薇の身を心配してるんじゃなくて、どんな形であれ、あの事件がきっかけとなって、再び「殺人」なんて事件が起こること自体を避けてほしいと願ってるのよ。 そこまで考えてるか? 司法。 法律改正が間に合わなくて、どうしても出所させなきゃならないとすれば、社会不安を解消するための手段、今から考えておかなきゃならんのじゃないか? 前から思ってんだけどさあ、人権派の方たちを1ヶ所町に集めてさあ、コミューン作ればいいんじゃないかと思うんだけど、どうかね。出所した犯罪者はその町で働くんだよ。体のいい「佐渡島」じゃないかって思うかもしれないけれど、人権派って、やたら多そうだから二県か三県くらいは集まるんじゃないの? それだけ広けりゃ、出所して来た人たちも「島流し」されたって印象を持たなくてすむでしょ。回りの人も絶対優しいはずだし偏見持ってないだろうし。
でもまあ、現実には酒鬼薔薇の弁護士だって、「できるだけひっそり住め」くらいの処置しか取らないだろうね。で、ほかにどんな凶悪な事件が起ころうとも、その対処としては常に対症療法のみしか行われないのである。 司法や人権派とやらが何もしないのであれば、我々は「気にしない」ことで対抗するしかないのである。だってそれじゃ気がつかないうちに殺されちゃうかも、と疑心暗鬼になるのが一番マズイ。民衆が躍らされ慌てふためいてる様子を見て、内心喜んでる連中がマスコミなんだから、やつらをわざわざ喜ばしてやるこたねえやな。本当に恐怖を撒き散らしてるのは酒鬼薔薇ではないよ。 人生なるようにしかならん。死ぬときゃ死ぬんである。それくらいの覚悟がないと生きてけないんだろうね、実際の話。
またしげを待たしちゃいかんと思って、勤務が終わるやいなや、玄関先に出るが、しげの車が見えない。携帯に連絡するが繋がらない。また寝坊しているのだ。ちょっと最近頻繁だなあ。 外は結構な雨。空気も湿っぽくて暑苦しい。 てっきりしげが来てくれるものと思い込んでいたので、傘は用意していない。 全く、来なくていいときにはやたらひっついてくるくせに、人が困ってるときには来やしねえ。マーフィの親戚か、おまえは。 同僚が「失礼します」と言って、横を通りすぎていくが、「あ、どうも」と答えて突っ立ったままのこちらはアホみたいである。 バス停まで歩いていけばぐしょ濡れになることは解りきっているので、もうタクシーで帰ろうと思って、職場から玄関先まで来てもらう。 職場は山の上にあるのだが、以前は運動もかねて山の下まで降りて行き、そこからタクシーを拾っていた。職場の前からだと、いくら金額が違うかというと、これが結構な額で、2、3百円は余計にかかるのだ。 何となくその、2、3百円かかっちゃうってのが業腹なので、どうせカネがかかるのならちょっと遊んじゃえ、と思って、博多駅を回ることにする。 ……いや、遊ぶったって、ホント、本屋とか回る程度なんですって。 博多駅まで直接タクシーを乗りつけるのも軽く2千円を越すので、福岡空港の地下鉄駅まで行ってもらい、そこから地下鉄で博多駅まで。紀伊國屋で本やDVDを物色したあと、マクドナルドで食事。 なんかもー、しげと顔を合わせたくもなかったので、そこで8時過ぎまで本だのなんだの読みながら時間をつぶす。
マンガ、北崎拓『なんてっ探偵▽アイドル』9巻(小学館/ヤングサンデーコミックス・530円)。 原案協力に井上敏樹がいるせいか、展開がますますアニメシリーズっぽくなってきたなあ。怪盗リストが登場した時点で頭を抱えてたけど、今度は「ナイスバディ、キュートな笑顔、そして鋭い勘……。トリコロールの魅力をひとりに凝縮したアイドル、藤巻ゆかり」の登場と来たもんだ。 でもなあ、アキラが結果的に真相にたどりつくわけだから、こいつもただのバカキャラとして登場させたってことは分るんだけど、そんなありきたりの設定、もういい加減でやめにしないか? 『金田一少年』と『コナン』を私は散々貶してるけれど、それはかつてのミステリ(主に小説や映画)が持っていた「謎と論理」や「冒険」、「怪奇」といった面白さのエッセンスを、薄めて薄めて拡大再生産してるだけで何一つ新しい魅力を付け加えていない点に尽きる(ともかく、全ての事件において「犯人の動機の弱さ」が指摘できる)。 それでも、それまでミステリに触れたこともないような読者にまで間口を広げたってことで、この二作は一応エポックメーキングとして評価できなくはないのだ。でも、後続がアタマ悪い作品作っててどうするかね。 どうも「どうせ漫画」「たかが漫画」ってとこに安住してる気がしてならないんだよなあ。
マーティン・ガードナー著・市場泰男訳『奇妙な論理Ⅰ ―だまされやすさの研究―(In the name of science)』『奇妙な論理Ⅱ ―空飛ぶ円盤からユリ・ゲラーまで―』(社会思想社/現代教養文庫・各630円)。 社会思想社がぶっ潰れたんで慌てて買った二冊。 いわゆる「擬似科学」の解説本で、載ってる話はたいてい『トンデモ本の世界』シリーズの中で紹介されてるものだけれど、驚くべきことはこれがアメリカじゃ1952年に出版されてるってことだね。日本でトンデモ本ブームが起こったのはせいぜいこの10年。それまではそれこそインチキがはっきりバレてる清田某なんかをマスコミはずっと持ち上げてたんだからね、無知なる大衆を騙し続けてきたその罪は相当深い。 まあ、私も70年代のユリ・ゲラーブームのときには一所懸命スプーン擦ったけどよ、当然一本も曲がらん(^_^;)。そう言えば大学時代に「俺はスプーンを曲げた!」と主張していた長野のNくん、お元気ですか(見てないって)。 ユリ・ゲラーを完全にインチキって思ったのは、ルーム・ランナーのCMに出たときだったね。だって、全然ルームランナー買う気にならなかったから。 この世に超能力が全くないとは言わんが(火事場のバカ力とかはありそうだしな)、少なくとも、たかがスプーン曲げてるだけで「超能力だ」と主張しているうちは、信頼しちゃいかんよ。あの人たちも「この力を平和のために使いたい」とか偽善的なハッタリをかまさなかったら笑って見てやっていいんだけどね。だからスプーン曲げと人類の平和との何がどう関係してるってんだよ。どうしてあの人たちはただの「超能力ショー」を披露するだけでがまん出来ないのか。やっぱり無能力者ほど、「実は自分にはスゴイ力がある」って幻想にすがりついていたいのかもね。 考えてみれば、ユリ・ゲラーなんかは詐欺師としてはかわいいものである。彼ら超能力者、霊能力者、宗教家が本物かどうか判別するのは簡単で、カネを集めたがってるかどうか見りゃいいんだからね。 けれど、科学者の場合はホントに資金が必要な場合があるから判別しにくいんだよね。少なくとも「大学では私の新理論を理解できないから、民間施設の委嘱を得て活動してる」なんて言ってるやつは大ウソつきだろうけど。
この本は別に超能力のインチキを暴露してるだけじゃなくて、例のヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』のインチキ(彗星の接近がモーゼの紅海分断を起こしたってやつね)や、地球空洞説やらオルゴン理論(オルゴンエネルギーで病気は全部治せるとか)、ダイアネティックス(サイエントロジーですね)なんかも取り上げている。 いつの時代どの国でも、何か超自然的なものに惹かれる心理というのは分らなくもないが、問題は、そういうのの大半が詐欺だってことに気づかない人間がなかなか出てこない、あるいは少ない、といったことの方に問題があると思う。 だってなあ、やっぱりノストラダムスの予言が外れたあとでも「あれはノストラダムスが予言したから滅亡が来なかったんだ」とか「実はあれは1999年ではなかった」って言い張ってたやつ、知り合いに結構いたし。否定したらヒステリー起こすしよ。全く、何をどうしたらこんなバカが生まれてくるんだ。 人を騙す方も騙される方も、現実世界の中で自分の価値を見出せなくて、虚構の中に生きようとしてるんだろうけれど、だったら自分たちだけで生きてってほしいものである。
徳間書店『アニメージュ』8月号。 あー、『魔王ダンテ』、テレビアニメ化っすか。脚本が上原正三。今更だよねえ。それにあの原作、ドラマとしては相当破綻してんだけど、今の視聴者の眼から見たら物足りないんじゃないかね。もちろん、映像としてスゴイもの見せてくれたら面白いんだけど、テレビの小さなフレームで、それが伝わるものかどうか。やるなら劇場で一本、中身を凝縮してやってほしいんだけど。誰も見に行かんか。 まあアニメにするなとは言わないけれど、先に『デビルマン』の続き、飯田馬之介さんに作らせてほしいけどなあ。
アニメーターの石田敦子さんがエッセイ『愛を追いつめろ!』の中で、伊藤俊人さんとナンシー関さんを追悼している。ひとことだけ、「たださみしい」。 何万言を費やすより、ジンと来る。石田さんも多分、同世代。
角川書店『Newtype』8月号。 林原めぐみの『愛たくて逢いたくて』(実は読んでます。わはは)、ゲストがなんと内田春菊。この組み合わせはなかなかビックリだなあ。 2ちゃんねるなんかでも、内田春菊バッシングは相当スゴイものがあって、もうリクツもクソもなくなって感情の垂れ流しになってるけど、まあ、それだけ人の琴線に触れるものを描いてるってことだ。作品がいかに内田春菊の実生活をモデルにしていようと、エッセイや後がきで元夫の悪口言いまくってようと、それが内田さんの「作風」なんだからねえ。文句つけるんなら読まなきゃいいのに。全く何様のつもりなんだか。 離婚に関してはいろいろあったはずなのに、黙して語らぬさくらももこや倉田真由美に比べりゃ、内田さんのほうがよっぽど潔いわ。黙ってるほうが潔いってのは大間違いだよ、だって、「自分のほうが悪者」と受け取られること覚悟の上で書いてんだからさ。
対談自体は、何しろ載ってるのが『Newtype』だからね、余り過激なことは載せられまい。 内田さんのプライバシーにも入りすぎちゃいないけど、林原さんが性的なことを高校のときに読んだ内田さんのマンガで開発されたってのは面白いな。私ゃ、内田さんのマンガは今に至るまでずっと性的にストイックなマンガだと思ってたんだけど。『幻想の普通少女』なんて特にね。 男に簡単にマタ開こうが、それが性的に開放されてるとは限らない。だから、内田さんのマンガのキャラクターは男に抱かれて気持ちよくても、すぐに別れる。性の開放ってのがホントは心の開放だということならば、そこに辿り付くには一朝一夕にはいかないんじゃないか。だから内田さんは今のダンナで3人目か? 未だにストイックな心を持ちつづけてると思うんだけどね。
DVD『アベノ橋魔法☆商店街』vol.1(スターチャイルド/KIBA779・1890円)。 うーむ、悩んだ末に結局買った『アベノ橋』DVD。 オタクがこうも細分化してしまった今、たとえガイナックスの新作と言えど、ヒットするとは限らない。だいたい、キッズステーションでの放送ってのがとても人口に膾炙するとはとても言いがたいしね。よほど「面白いぜ!」という要素がない限り、口コミも効果がなかろう。 で、5年後には「幻のアニメ」になるであろうことを見越してDVDを購入(^_^;)。実はウチの本棚にはそーゆーアニメが多いのよ。『宇宙海賊ミトの大冒険』とか『デュアル!』とか、もうみんな忘れちゃってるだろうなあ。好きだったんだけど。 本放送時は見逃していたので第1話は初見なんだけど、なんだこれ、大阪を舞台にした『オトナ帝国』じゃん。脚本のあかほりさとる&山賀博之がそのことをどの程度意識してたかどうかは分らないけれど、実際そうなっている。消えて行こうとする「アベノ橋商店街」をなんとかして残したいという思いが主人公のアルミとサッシを別世界に飛ばしてるって設定だし、エンディングには「太陽の塔」も出てくるし。藤原啓治さんがパパン役で出演してるのは偶然だろうけれど。大阪のことはよく知らんけど、阿部野橋って実在してるのか? もしかしてガイナックスがこんなの作ったのは、東京者に『オトナ帝国』を作られた大阪者としての腹いせだったりして。主人公のサッシがオタク少年ってのもなんとなく『ハレのちグゥ』のハレみたいだよねえ。打倒「シンエイ動画」ってか? 思い返すに、オタクマインドに溢れてたアニメって、10年ほど前まではガイナックスの専売特許的なとこがあった。それは、かつては思い切り卑俗な形でのパロディ(モブシーンにどこかで見たようなキャラがいるとかね)として現れてたんだけれど、しばらくナリを潜めていたところに、実に効果的な「演出」として洗練された形で『オトナ帝国』にやられてしまった。 ガイナックスの人たち、内心では悔しく思ってたんじゃないかな。本来、『オトナ帝国』のような作品はガイナックスが作るべき作品ではなかったかって。 『彼氏彼女の事情』が途中から失速して以来、『フリクリ』にしろ『まほろまてぃっく』にしろ、ちょっとガイナの方向を模索してるって感じがある。っつーか、アニメの制作者たちって、昔はアニメファンでもいざ自分が作り手の立場になると、他人の作品を見なくなるんだよね。で、だんだんと作るものが時代からズレていくことになる。手塚治虫も黒澤明も死ぬまで他人の映画をやたら見てたことはスゴイことなんだけど、そのことの意味、ガイナックスは考えているのかどうか。 この『アベノ橋』はもしかしたらガイナックスの「焦り」なのかもしれない。
2001年07月12日(木) 怨念がおんねん(古)/『平成十三年度版 九州怨念地図』ほか
2002年07月11日(木) |
灰色の巨人/『サトラレ』3巻(佐藤マコト)ほか |
杉浦太陽の無実が判明したとかで、『ウルトラマンコスモス』の再開が決まったそうな。番組自体は見たり見なかったり、見たときもそんなに面白くはなかったんで、これが『ウルトラ』シリーズじゃなかったらそれほど気にもしなかったと思う。 とにかく『ウルトラ』世代には「『ウルトラセブン』幻の12話事件」が未だに尾を引いている。私も本放送時に見たっきりだから、今や記憶は茫漠としているのだが、裏で出回ってるビデオを見た人はみな一様に「何でこれが問題にされたのか全く分らない」と語る。 「臭いものにフタはよくない」と主張しているいわゆる「人権団体」とやらが、こと小説や映画などの表現メディアに対してだけはただひたすら「絶版」「放送禁止」を要求してくる矛盾がなんとも理解しがたいと感じている方は多いと思うが、これって結局は自分たちへの差別を助長する結果にしかなっていないんだよね。 今回の事件は直接的には差別の問題とは関係ない。 しかし、「何だかよく分らないやつの訴えで理不尽な理由で放送中止に追いこまれた」という印象がしてしまう点は共通している。 厳密かつ正論に従って言うならば、「放送中止」って処断はいささか即断過ぎてはいた。恐喝容疑で逮捕、と言っても容疑段階ではまだ推定無罪なんだしね。もっともこんな原則が日々のマスコミ報道の中で守られたためしなんて全くない(芸能人が逮捕されてその名前が伏された例ってないでしょ。今回の事件だって、杉浦太陽が事件当時「19歳」だったから名が伏せられただけで本気で人権擁護なんて考えちゃいないよ)。おかげで我々もすっかり「逮捕=犯罪者」と洗脳されている。いや、私が「マジメそうな顔してエライことやってるなあ、杉浦太陽」、と思っちゃったのもそうだけど、今回はホントにマスコミに踊らされちゃったよね、みんな。 ここが微妙なところだけれども、たとえ推定無罪の段階でも、犯罪の立件が確実であれば、私は実名報道も構わないと思っている。けれどそれは警察だってバカじゃねーからあやふやな証拠で逮捕まではしないだろう、と一応の信頼はしているからだ。結果的に今回は警察がバカだったってことじゃん。 処分保留ってことは要するに恐喝があったのかなかったのか、結局は藪の中だ。ホントに太陽君が無実だったのかどうかも実はまだはっきりしていない。 こうごちゃごちゃとしてくるともう、これで生じた損害(この場合円谷プロも杉浦太陽もどっちも被害者になるんだろうなあ、加害者は訴えたやつ?)は誰がどんな形で埋め合わせるのかとか、映画は話題が出来てヒットするのかなあとか、DVDは完全版で出すのか、映像特典で編集版を収録するのかとか、どうでもいいことしか話題に上らなくなる。 でも、もともとこの事件がいったいなんだったのかってことは、もう誰も語れなくなっちゃったのではないか。本当は「放送中止にしなきゃならないような原因っていったいどんな基準があるの?」ってこと、もっといろんなとこで話題に出ててもよかったんじゃないかねえ。 役者が事件起こしたら即放映中止って、それってアリなのか? 主役はダメだけど脇役だといいとか、そういうことなのか? スタッフが罪を犯したら? 監督やプロデューサーだとやっぱり中止で、助監督や撮影技師だとOKか? そもそも作り手の罪と作品の質は別で、たとえ誰が事件起こそうと、関係ないんじゃないのか? 「罪を憎んで人を憎まず」って、そういうことじゃないのか? 作品自体を消し去られかけることに対する反駁がもちっとあってもよかったんじゃないのかなあ。今回の件、みんな、内心では面白がって見てたかもしれないけれど、ある存在自体がまるまる否定されるってとんでもないことなんだけど。
もういい加減、「王将」と「めしや丼」には飽きているのである。 別んとこ行こうよ、としげを説得して、「ザ・メシや」。 しげも喉が乾いてたいたので、「ドリンクバーがあるからなあ」と渋々承諾。オカズがセルフのバイキング方式なので、冷えてるのがしげの嫌うところだけれど、温めなおしもしてもらえるんだし、文句つけるほどじゃない。私は冷えてても平気だし。だいたいしげはネコ舌で冷えるの待って食ってんだから、どうして「冷えててイヤ」と文句をつけるのか理解に苦しむ。 ウナギに刺身。いつもはイカ天を取ってくるのだが、一つ150円というのが意外と割高になるんで、このへんで抑える。一皿自体はどれも300円前後で安く感じるんだけど、結局三皿くらい取ってくるからメシと合わせて千円くらいにはなるんだよね。そこもしげが嫌うところだけれど、だったら三更も四皿も取ってこなきゃいいだけの話で。 「だってあったら取りたくなるし」 結局、己の欲に勝てないってことじゃん(-_-;)。
食後、姉の店に寄って父に中元を渡す。 中元と言っても、しげの働いてるリンガーハットのノルマである。必ず知り合いのところに送らないといけないらしいが、それって、結局給料が目減りしてるってことじゃないのか。 父も「いきなりどうして中元」みたいに怪訝な顔をしている。 「中身はなんや?」 「さあ? 麺じゃない?」 贈り物の中身を知らないで渡すってのもシツレイ極まりないが、ノルマだしご勘弁。
そのあと、博多駅で紀伊國屋・メトロ書店を回って、帰宅。 仕事仕事の連日の強行軍に加えて、あちこち振り回したせいか、しげ、帰るなり倒れこむようにして爆睡。でも、また2、3時間したらまた仕事に出ねばならないのだ。 ……やっぱり毎日の送り迎え、相当負担になってるよなあ。できるなら、もうちょっと環境のいいとこに転職した方がいいかな、と本気で考え始めている今日この頃である。
マンガ、佐藤マコト『サトラレ』3巻(講談社/イブニングKC・540円)。 オビにあるけど、ついにドラマ化だそうで、でも主演がオダギリジョーに鶴田真由って、映画版のキャストをいかにも程よくテレビサイズに合わせましたって感じだねえ。特に見る気ないから文句つけてもしょうがないんだけど。 ただなあ、テレビの企画として考えた場合だよ、『サトラレ』ってどんなもんだか、って思ったやつ、テレビ局には誰もいなかったのか? マンガのドラマ化について云々したいわけではない。やっぱり見る気は全く起こらなかったが、『アンティーク 西洋骨董洋菓子店』などは、よくぞこんな原作を引っ張り出してきたものだ、と企画自体には感心したものである。 けれどねえ、『サトラレ』の場合はだよ、テレビスタッフがモノを考えて番組作ってるようにはとても思えないのだよ。というのが、原作の方はまだまだ物語の端緒を示しただけで、全く本筋に入って来ていない、と言える段階なんだから(映画の方も今思えばちと時期尚早だったね)。 自らの思念を周囲に「悟られ」てしまうと言う「サトラレ」の設定は実に魅力的だ。もしも「サトラレ」が本当にいたらどうなるか。自らがサトラレであったら、その事実とどう対するか。読者はもっぱらそういった具体的なケースを様々に想像するだろう。 即ち、作者は、あるいはドラマの作り手は、その読者の「想像力」をはるかに越えるようなドラマ展開を作り出すことを強いられるのである。『水戸黄門』のような予定調和のドラマを作るのとはまるで作り手の心構えが違ってくるのだ。 でも、果たして、そこまでドラマのスタッフが考えてるかね? 考えてなきゃ、初めから「駄作」になることが決まっちゃうと思うんだが、この私の想像、十中八九当たってると思うな。
マンガの3巻は、作者の佐藤さんの「がんばり」が随所に見られる。 ただ、その「がんばり」がウソの上にウソを重ねるだけの無理なモノになってるところもあるような。 サトラレの息子が同じくサトラレであったら、この二人に自分がサトラレであることを気づかせずに生活させることができるのかどうか。この課題を解決するのに、「父親と息子のそれぞれに代役を立てる」ってのはいくら何でも不可能じゃないか。父親が単身赴任している時ならともかく、「親子で一緒に暮らしたい」と双方が思ったらいったいどうするのだろう。それはそのときになって考えれば、というご意見もあろうが、もう一つ、結局、父親も息子も全くの他人を自分の肉親と信じて一生を過ごさせることに対して、「そこまでしてサトラレに自分がサトラレであることを知らせないこと」の是非は問われないのだろうか、という疑問が湧く。自らの思念が他人に筒抜けであることにサトラレは耐えきれないだろうという判断は妥当だが、彼らを救う方法が真実を遮蔽することに限定されているのはなぜか。そこに設定の無理が生じているのだ。 それでも佐藤さんはサトラレが直面するであろう様々なケースを作り出していく。 サトラレを憎むサトラレ研究家、山田教授。 彼の登場こそが次巻以降の展開への最大の事件だろう。 彼が企んだ木村浩と白木重文の接触が、山田教授の思惑通り、サトラレ同士傷つけあうことになるのかどうか、もちろんそれを乗り越えていくことを読者は期待しているのだけれど、常識的に考えてもそれは簡単にできることではない。 佐藤さんがどこまで「がんばれる」か。途中でリタイアしないで描ききってほしいんだけど、こちらも安易なところで妥協されそうなんだよなあ。
2001年07月11日(水) 変と変を集めてもっと変にしましょ/『コミックマスターJ』7巻(田畑由秋・余湖裕輝)
2002年07月10日(水) |
憑かれた女/『新宿少年探偵団』(太田忠司・こやま基夫)ほか |
あなたは霊の存在を信じますか? 私は信じません。 これまでに、霊現象と言えるような経験をしたこともないではないのですが、全て気の迷いだと思っています。 祖母の死も母の死も私はその日の朝に予知しましたが、ただの偶然だと思っています。 そうです。時折、寝室で蠢いている黒い、得体の知れないものも、目の錯覚です。その黒い闇の中に、青白く光る瞳のような物がはっきりと見えていようと。
今朝、というか、夜中の3時すぎのことです。 私はぐっすり眠っていました。 玄関でドアが軋むような音を聞いたような気もしますが、多分、耳の錯覚でしょう。私はそのまま眠り続けていました。 いきなり、どさりという音がしたかと思うと、急に私の胸が苦しくなりました。なにかが寝ている私の上に乗っています。 「うげえ、うげえ」 それは何か人語を喋っているようにも聞こえましたが、私の耳にはそんな呻き声のようにしか聞こえませんでした。もそもそと動くそれは、だんだんと力が抜けてきたのか、少しずつ、少しずつ重くなってきました。 ああ、これはいつもの黒いあれだ。 そう直観した私は、思いきりそれを跳ね飛ばしました。 先ほども書きました通り、私は一切の霊現象を認めません。 金縛りは半覚醒状態の筋肉疲労にすぎません。そこに何かがいるように思うのは錯覚です。絶対にそうです。 私の上の黒いものはまた、どさりという音を立てて私の脇に落ちました。 「きゃー!」 なんだか悲鳴のようなものが聞こえたような気がしますが、無視します。これはただの夢なのですから。
元ディズニーのアニメーターのウォード・キンボール氏が、8日に死去、享年88。死因は明らかにされていないとか。 キンボール氏は広島国際アニメーションフェスティバルの審査委員長として来日されたことがあるが、あれは第何回のことだったか。私もそのとき、キンボール氏を見かけていたはずだが、英語が堪能であれば図々しい私のことだから、何か迷惑なことを喋りかけていただろう。実際には客席から審査員席を仰ぎ見るばかりで、「はあ、あれがミッキー・マウスに白目を入れたキンさんか」とか思ってるだけだった。日米友好を思えばつくづく英語が喋れなくてよかった。 御伽話しか作れないディズニーの中でキンボール氏は異端で、その本領が最も発揮されたのはあの怪作『ふしぎの国のアリス』であったと聞く。ことあるごとにディズニー批判してる私だが、誉めたい作品もないわけではない。キンボール氏のイカレた作風は、『アリス』のようなイカレた原作(『ふしぎ』だけでなく『鏡』も中に取り込むイカレ具合である)を料理するにはうってつけだったろう。キンボール氏ほか、創世記のアニメーターが大挙してディズニーを出た後、ディズニーは明らかに失速した。再びディズニーが脚光を浴びるには、宮崎駿に影響を受けた新世代の台頭、『リトル・マーメイド』や『ビアンカの大冒険 ゴールデン・イーグルを救え!』などの作品を待たねばならなかったのである。 ……しかし、死亡記事の小さいことったらない。 日頃ディズニーにあらずばアニメにあらずみたいなこと言ってる連中は日本にも多いけれど、所詮あいつらが興味持ってるのはキャラクターにであってアニメ自体にじゃないんだよな。鬱鬱。
晩飯はもういい加減飽きてきた「めしや丼」にお出かけ。 車の運転中、しげが盛んに「疲れた疲れた」と連発する。 なんだかシフトが変わったせいか、やたら仕事が忙しくなったらしい。 どれだけ疲れているかというと、仕事中、しげの頭の中を杉良太郎の『君は人のために死ねるか』がエンドレスで流れているのだそうな。しかもしげは原曲を聞いたことがなく、カラオケでぴんでんさんが歌っているときのバージョンでしか知らない。 ぴんでんさんの声は渋い。歌唱力ももちろん立派なものなのであるが、やはりAIQの一員だけあって、巧まざるユーモアがコブシを利かせるあたりに自然と漂う。杉良なら延々と聞いたりしてられるもんじゃなかろうが、ぴんでんさんの声なら、なんとなく耳を傾けたくなる、そんな雰囲気がある。 けどね~、いくら聞きなれてるからってね~、勤務中、夜7時から朝3時まで8時間、ぴんでんさんを聞きっぱなしって、それはさすがに拷問ではないのか(ぴんでんさんゴメン)。 それは「疲れている」のではなくて「憑かれている」のだ(^_^;)。 仕事から帰って、昼間はゆっくり寝ているはずなのだが、いくら寝ても疲れが取れないって、そりゃエンドレスで聞いてりゃ神経はボロボロになるって。自分で止めろよ、しげ。 ハンドルを握りながら、「ホラ、これ以上腕が上がらない」とボヤいている。ちゃんと運転できるのかよ、と心配になる。 「何か重いものでも持ったのか?」 「そうじゃなくて、ともかくキツイと!」 そりゃ、運動不足でカラダが鈍ってるからなんじゃないのか、と思いながら、ふと、今朝の「黒いもの」のことを思い出す。 「お前さあ、今朝何時に帰ってきた?」 「3時くらいかな?」 「そのとき、俺の上に乗った?」 「うん」 「なんで乗るんだよ!」 「疲れてたから」 「オレが重いだろ!」 「あんたをまたいで行こうと思ったんだよ。けれど疲れててまたいで行けなくて乗っちゃったんだよ」 言っちゃあなんだが、私はマジで呼吸が止まりそうになったのである。 もちっと年寄りだったら血管がぶち切れてたかもしれないのである。 それほどにしげの体重は重い。とことん重い。言い訳が利く状況ではないのだ。 これは何らかの形でし返しをしてやらねばなるまい。 とりあえずは「怖い話」をいろいろし込んでおくことにしよう。しげが油断したときに何の気なしに止める間もなくサラッと言ってやるのである。 「あ、そこの曲がり角だけどね……」
「めしや丼」ではチキン南蛮と焼肉定食、それに期間限定のそうめん。二人揃って全く同じメニュー。 庶民はとかくこの「期間限定」というやつに弱い。考えてみればたかがそうめんである。スーパーで買って自分ちで作ったほうが安上がりだし、味も調整できるし、量も自由自在ということは解りきってるのだが、「今ここでしか食べられない」となると、なぜか引っかかってしまうのである。 もっとも、実は引っかかってるのはしげだけで、私ではない。 私は別にそうめんなんか食わなくてもよかったのだが、しげ一人が宣伝文句に踊らされてバカになってるのは余りにかわいそうなので、私も付き合って同じものを注文してあげているのである。 実を言うと、私が糖尿にもかかわらずしげと同じ量か、少し多めに食事を取ってしまうのも実はしげに対する心遣いである。しげが私より余計に食べると、自分が大食いだということを自覚しなければならなくなる。しかし食べたい、でも食べたら太る、どうしたらいいのか、そんなしげの心の葛藤を軽減してあげるために私はひと品ふた品余計に食べてあげているのだ。 これこそまさしくしげへの「愛」にほかならないと思うのだが、しげはなかなか気づかないし、気づいてもなぜか喜ばない。なんでかなあ。 実際、しげって贅沢っつーか愛に貪欲っつーか、なんだか夢物語みたいな愛を求めてるらしいんだが、そんなもん、成就するわけないじゃん。 まず、目の前の現実を見て、部屋片付けろよな。
DVD『必殺必中仕事屋稼業』4・5話。 第4話「逆転勝負」のゲストは故・菊容子。これだけでもこのDVDを買っただけの価値はあろうってもんだ。清楚にして妖艶。この人くらい、女性の陰と陽を同時に表現しえた女優さんというのもそう滅多にはいない。ほかに思いつくのは後の故・夏目雅子くらい……ってどうして私はこう早世した女優にばかり入れこんじゃうかな。 思えば『好き! 好き!! 魔女先生』で星ヒカル先生に憧れていた小学生の私は、多分そこまで敏感に感じ取ってファンになっていたと思う(ホントかよ)。 昼は処女の如く夜は娼婦の如くというのが男の理想らしいが(相当勝手だけどな)、菊さんはそれを見事に演じていた人だった。菊さんの不幸はそこにあったようにも思う。バカバカしい話だが、演技上の姿を現実の人となりと錯覚するのーたりんは時代を経てもなお一定の割合で存在しているのである。 本当の菊さんはそんな人ではなかったんだろう(どんな人だったかは知らないが)。今ある映像作品に残された菊さんの姿に我々がどんな妄想を抱こうとも、菊さんはどこかで静かに笑っているだけだと思う。
マンガ、太田忠司原作・こやま基夫作画『新宿少年探偵団』(秋田書店/少年チャンピオン・コミックス・410円)。 まあ、これも『金田一少年の事件簿』同様、噴飯ものの設定と言えば言えるんだけれど、あまりそこまでの印象がないのは、明智小五郎四世とか小林芳雄三世とかを出してこなかったおかげだろう。羽柴壮一三世って、誰それってな感じだものな。 もちろん、ちゃんと江戸川乱歩の『少年探偵団』シリーズをちゃんと読んでいれば、羽柴壮一が誰かなんてことは初歩の初歩。ほかでもない、彼こそが怪人二十面相最初の事件の被害者であり、少年探偵団の創立者であるのだ。小林くんはね、羽柴くんが作った探偵団の団長として後から招かれたんだよ。その彼を「鎌倉の老人」として、新・少年探偵団の後ろ盾に置いたアイデアは悪くはない。少なくとも原作に対して敬意のカケラもない『金田一少年』より遥かにマシだ。 かつての二十面相の存在とは、関東大震災後、復興し変貌していく街並みのその表面的な静謐さの陰に隠されてはいるが、時おりチラリとその正体を垣間見せることのある、いわゆる「時代の怨念」のようなもの――魔都・東京の二重性の象徴であった。 現代、少年探偵団シリーズを復活させるとすれば、まさしく、「現代の怨念」、これを描き出さなければなるまい。「髑髏王」という今回の敵キャラクター、美しい人間の骸骨の収集家、なんてところは確かにそれらしくはあるのだが、ここまでドギツイキャラにしてしまうと二十面相より人間豹みたいだ。もっともそれほど陰惨な闇を現代の新宿が潜ませているとすれば、こういうキャラクター化はかえって一つの禊となっているとも言える。 原作の小説の方は未読なんで、こやまさんによる続編のマンガ化も期待したいところだ(ラストに出て来てるのは大鴉博士か?)。
2001年07月10日(火) 踊れば痩せるか/『ちょびっツ』2巻(CLAMP)ほか
2002年07月09日(火) |
何がこの悪いガイで上がっていますか/『たま先生に訊け!』(倉田真由美)/『ワンピース』24巻(尾田栄一郎)ほか |
山本弘さんのHP『SF秘密基地』の掲示板で、海外のウルトラマンのサイトが紹介されているので覗いてみる。 特に、ウルトラソングを英訳してあるのが面白い、というので見てみたが、なるほどなるほど、こりゃなかなか侮れないオタクだ。『怪獣音頭』は“Monster Ondo”。「音頭」だけ日本語のままってのがいいやね。 試しに、この英訳文をニフティの翻訳サービスに掛けて再日本語化させてみたが、これがもう、あほとゆーかしょーもないとゆーか。 全部はとても紹介しきれないけれど、まあ、ちょっと、いくつかその比較を見てみてちょ。
<原詞>怪獣音頭 <英訳>Monster Ondo <再訳>怪物Ondo
1.
ガバッとでてきた怪獣は The monster who came out like "gabbah" 「gabbah」のように現われた怪物 手にも負えない暴れもの An uncontrollably rowdy one, 抑制できずに乱暴なもの、
アーストロンでございます It's Arstron. それはArstronです。
それでどうした暴れもの So what's up with this rowdy one? そうすると、何がこの乱暴なもので上がっていますか。
コブラのように恐ろしい As dreadful as a cobra, コブラと同じくらい恐ろしい、
何でも引き裂くバカぢから A brute strength that rips apart anything. 何でも別々に裂く獣的な強さ。
2.
ズルッとでてきた怪獣は The monster who came out like "zuru" 「zuru」のように現われた怪物
知恵の優れた悪いやつ A bad guy who excels at intelligence, 知能において優れている悪い奴、
キングザウルス三世だ It's King Sasurus III. それはキングSasurus IIIです。
それでどうした悪いやつ So what's up with this bad guy? そうすると、何がこの悪いガイで上がっていますか。
ウランを食べて大暴れ Eating uranium and going on a big rampage, 食べるウラニウムおよび大きな暴れ回りの上で行くこと、
ついでにバリアで身を守る In addition, he protects himself with a barrier. さらに、彼は障壁で彼自身を保護します。
三番以降は省略。英訳でも「ガバッ」や「ズルッ」は訳せんのか、ってところも面白いが、情けないの翻訳ツールね。悪いガイってなんなんだよ(^_^;)。中学生レベルの連語もわかんないし分詞構文も全然ダメって、それってそもそも翻訳ツールとしてまるで役に立ってないってことじゃないの? 面白いからもう一曲(^o^)。
ウルトラマンレオ Ultraman Leo Ultramanレオ 1.
宇宙にきらめくエメラルド [エメラルド] Twinkling in space, the emerald, [emerald] スペース、エメラルド、[エメラルド]で光ること
地球の最後が来るという [来るという] Earth's end is coming, it is said. [coming, it is said] 地球の終了は来ます。それが言われています。来て、[それは言われている]
誰かが立たねばならぬとき When someone must taketh a stand, 誰かがしなければならない場合、takethする、1つの、立っている、
誰かが行かねばならぬとき When goeth someone must. いつ、goeth、誰かがしなければなりません。
今この平和を壊しちゃいけない Now, this peace must not be broken. さて、この平和は壊されてはなりません。
みんなの未来を壊しちゃいけない Everyone's future must not be broken. 皆の将来は壊されてはなりません。
獅子の瞳が輝いて ウルトラマンレオ [レオ] The eye of the lion shines, Ultraman Leo [Leo] ライオン光、Ultramanレオ[レオ]の目
レオ レオ レオ レオ レオ Leo, Leo, Leo, Leo, Leo レオ、レオ、レオ、レオ、レオ
燃えろレオ 燃えろよ Burn on, Leo, oh burn. 燃え続ける、レオ、おお、燃えます。 ウルトラマンが訳せないというのは不可解だけれど、これは“ultra”が接頭語で単独では訳せないかららしい。間にハイフンをつけて“ultra-man”にして翻訳させると「超人」になることも判明……ってヒマだよな、私も。 しかし、再訳してみると妙に丁寧で落ち着き払った言葉遣いになっちゃって、なんだかゾロアスター教の主題歌(^o^)。“Now”は「さて」かい。そうですね、皆の将来は壊されてはなりませぬぞ。これだと大奥か。 でもtakethとかgoethが訳せないのは俗語だから? 覗いてみたい方はこちらをどうぞ。
http://www.waynebrain.com/ultra/index.html
外は小雨。 しげが「喉が乾いた」と言うので、今日の晩飯はドリンクバーのあるガスト。 何か月か前から、ガストにはディスプレイが置いてあって、ネット配信でいろんな情報を提供してくれてるのだが、いちいち50円から100円が掛かるのがなんとなくもったいない。いや、金を全く払わんでいいとまでは言わないが、100円は高いよ。いい加減、見古した『トムとジェリー』の短編アニメ一本見るのに100円か?10円でいいじゃん、これくらいなら。 「唐沢俊一の一行知識」ってのも50円で配信だけれど、コンテンツ一つ一つが別料金ってのがやっぱりボッてるよ。全部見てたら何百円もかかるじゃないか。それなら文庫本一冊買った方が安上がりじゃないか。 それでも好奇心に惹かれて、一応覗いてみたけれど、まあ、ソルボンヌK子さんのツッコミが加わってる分だけがおトクな感じかな。 前回も食べて気に入ってた激辛ダッカルビを注文。私の食べるものは全てピンハネするしげが、さすがにこればかりはツマミ食いしてこない。いや、別にしげに分けたくなくてこれを頼んだわけじゃないけどね。
アニメ『最終兵器彼女』2話「私、成長してる……」。 第1話はいきなリ本編から始まってタイトルがラストに出るという斬新な構成(って原作もそうだったんだか)だったけれど、今回からはオープニングつき。 うーん、凝ってることは凝ってるけれど、イメージ映像に走りすぎちゃうかな。 これじゃまるでトレンディドラマ。……って、SF性がなけりゃ高橋しんのマンガは簡単にトレンディドラマに置き帰られちゃうけどね。でももう少しキャラクターを見せてくれる構成にしてくれてた方が、初めて見る人も入りやすいと思うんだけどなあ。 うーん、演出ががんばってるのはわかるけれど、第1話より「ふつー」になっちゃったね。シュウジがちせを押し倒すラストシーン、原作はその瞬間、画面がふわ~っと広がる印象があって、シュウジとちせのそれそれの悲しみが伝わって来るように感じたものだったけど、アニメは意外とあっさり流されちゃったって感じ。原作を大事にする気持ちはわかるけれど、マンガのコマ割りとアニメは流れが違うんだから、アングルやカメラ位置を変えたり、工夫する必要はあったんじゃないか。パンするだけじゃありきたりで、まだまだちせの押しつぶされそうな孤独感ってものが伝わってこない。13話しかやらないんだったら、2話でもう息切れしてるんじゃないぞ。
マンガ、田巻久雄『獣世紀ギルステイン』3巻(小学館/サンデーGXコミックス・560円)。 ……あー、劇場アニメのほうはやっぱり2週間で打ちきりでしたね。 『デビルマン』プラス『エヴァンゲリオン』で行こうってのがバレバレだしねー、ウリが韮沢靖のクリーチャーデザインのみってのも弱過ぎるしねー。しかもそのデザインがイケてないし。韮沢ファンの鴉丸嬢ですら「ちん○頭」と言ってたし(言いえて妙だが、言葉遣いには気をつけよう、鴉丸さん)。 マンガの方はそれなりに面白かったんだけれど、メディアミックスの不協和音に田巻さん、やる気なくしちゃったんじゃないか。やっちゃいけないことをやっちゃいましたねー。 ギルステイン四人衆を出したとこまではいいですよ。でも、そいつらの作戦ってのが、自分たち人間の中にギルステインが紛れこんでるんじゃないかと疑心暗鬼にさせてだよ、踊らされた人間たちに「ギルステイン狩り」を始めさせて、ヒロインの久美がその「狩り」にあって死んでさ、その怒りで暴走した主人公の伊織が人類を破滅に追い込もうとするって……。 まんま『デビルマン』じゃん。ここまで似てると「模倣」とか「オマージュ」なんて便利な言葉じゃ誤魔化せないね。盗作だろ? これ。 マジで永井豪がこれ読んだら訴えるんじゃないか。いや、読んでる可能性はあるよな。韮沢さん、「デビルマン」をフィギュア化してるし。それとも永井さん公認のマンガなのか? だとしたら「これは『デビルマン』の現代的リメイクです」って、明言しとかないと、在らぬ疑いかけられるぞ。
マンガ、倉田真由美『たま先生に訊け!』(双葉社・900円)。 読みました。 ……いや、それ以外に感想のしようがないんだよ、これ。だって読者が倉田真由美に人生相談するってだけのマンガだし。だめんずうぉ~か~のくらたまさんに相談する時点で読者が何も考えてない(かくらたまさんをからかってる)ってことがわかるしね。 「巨乳の女に飽きたけど」なんて相談、本気のはずがないし、ネタとしてもつまらない。そんな芸にもなってないくだらん質問、無視すりゃいいのに、くらたまさんは何をマジメに相手してマンガ化までしてやるのか(そんなバカ質問しか来ないんだろうけど)。……そうなんだよ、このマンガが「イタイ」のは、くらたまさんがこれをギャグとしてではなく、半ば本気で書いてるらしいところなんだよ。 相談者と被相談者との間で、暗黙のうちに「これはギャグだ」という協定を結んで芸にしたものと言えば真っ先に『中島らもの明るい人生相談』が思い浮かぶが、くらたまさん、最初はこのセンを狙ったんじゃないか。でもね、これって回答者がよっぽど冷静でないと、相談者の手にかかって踊らされ振り回されることになっちゃうんだよ。いかんせん、くらたまさん、とても冷静になれるタイプじゃないからねえ、完全に踊らされてるんだよねえ。……つまり、相談しているように見えて、しっかりくらたまさんの自己告白マンガになってる。でもって、未だに「だめんずうぉ~か~」であることを露呈させられちゃってるのである。 「だめんずうぉ~か~」ってね、わかりやすく言うと、だめんずから見て、「弄んだ末に捨てても全然痛痒を感じない女」なのよ。ああ、くらたまさん、こんな連載続けてたら、まただめんずに引っかかったりしないか……って、心配したってどーなるものでもないが。
そう言えば、私も、人から「恋愛相談」を受けることがたまにあるが、私の悪いクセで、相手が望むような答え方をしない。というのも、「本気で」相談を受けてしまうので、たいていは嫌われてしまうのだ。 「あの、彼が余り乱暴をふるうんで別れようかと思ってるんですけど」 「でもこうやって相談して来るってことはホントは別れたくないんだよ。どんなに乱暴されても彼がいいんだよ。ホントは心のどこかに苛められて嬉しい気持ちもあるんだよ。マゾなんだよキミ。男もそれが判ってるから苛めるんだよ。君もホンネじゃ楽しんでるんだから、そのまま殴られてなさい」 ……くらたまさんなら「さっさと別れろ」と言うところだろうな。だから私に人生相談なんて持ちかけるんじゃありませんよ。
マンガ、尾田栄一郎『ONE PIECE ワンピース』24巻(集英社/ジャンプ・コミックス・410円)。 オビに「日本出版史上最高・初版252万部達成!!」の文字が燦然と。一時期のジャンプ黄金時代を彷彿とさせるねえ。毎年のように、○○○部達成って本誌の表紙に踊ってたけど、確か600万部越したあたりで頭打ちになったんだったかな。『マガジン』に抜かれたことが結構大きなニュースになってたものな。 けれど単行本でこれだけの部数が出せるってことは、往時の記録ほどではないにしても、ジャンプの第2期黄金時代は始まってると見ていいのかも。
本編のほうは新章突入で、またまた連載が長引きそうな気配。 なんか巨神兵みたいなのも出て来てるし、「どこかで見たような」イメージは未だに続いているものの、今巻はここしばらくの予定調和的な展開の中ではワリに面白かった。これはひとえにミス・オールサンデー(ニコ・ロビン)の参入によるところが大きいだろう。いやはや、さすがにこの展開は予想してなかったな。まあ、仲間がクラリスから峰不二子に代わったって印象ではあるけれど、ビビとナミのキャラが部分的にかぶってたことを考えれば、この対照的なヒロイン配置のほうがずっと自然でいい。サンジのやつ、いきなりロビンにコナかけてもう二股かけてるけど、こいつ、ナミさん一筋のヤツじゃなかったのか(^_^;)。これでナミがロビンに嫉妬しないってことは、ハナからサンジの性格見ぬいてたんだなナミ。ううむ、侮れないやつ(・・;)。 これはもう、ロビンをこのままホントにレギュラーにしちゃわなきゃウソだぞ。これでまたビビみたいに最後はそれぞれの道を歩くとか、安易に死なせたりしたら、それこそ二番煎じ、三番煎じの謗りを受けても仕方がない。 何号か前の『ダ・ヴィンチ』では「感動できるか否か」で意見が両極端に分かれていたけれど、ワンシーンワンシーンごとの演出自体は確かに上手いからそこで感動しちゃうのもわかるんだよね。大ゴマとか見開きの使い方とか、まるでみなもと太郎だし。けれど、通しのドラマで見ていくと、前後の脈絡が繋がらなかったり設定に矛盾があったりで、相当破綻しているから、白ける人はそこで白けるんだろう。 今巻のミソは「人の夢は終わらねえ」ってとこだろうけれど、確かにここだけ見ると感動的なんだけれど、実は「出す拳の見つからねぇケンカもあるもんだ」ってセリフに説得力がないんだよね。ルフィの今までの性格からすれば、「夢」をバカにする相手とは真っ先にケンカして来たんじゃないのかね。 もちろん「負けるが勝ち」ってことをルフィが学んだってことなら納得できなくもないけど、既に「成長しない」キャラとして固まっちゃってたから、「何を今更気取ってやがる」って印象の方が強い。 長期連載の中で、作者のほうは成長したんだろうけれど、かつての設定が足を引っ張ってるんだよなあ。ドラマがこれだけ複雑化してるのにキャラがいつまでも単純なままだといろいろと不自然なところが出てくる。こうなったらルフィも「悩める」キャラにしないと収まりがつかなくなるんじゃないか。第1話以上の「涙」を流させないと、次へ進めなくなるのではないか。 ……だからって、絶対キャラ殺すなよ。それやったら、『ドラゴンボール』の二の舞だぞ(ラスト近くはいい加減でホントに死ねよ悟空と本気で思ってたもんな)。
2001年07月09日(月) アンケート募集/『押井守 in ポーランド』ほか
2002年07月08日(月) |
えすぽわ~る、とれびや~ん/『ブラックジャックによろしく』1・2巻(佐藤秀峰)/『アグネス仮面』2巻(ヒラマツ・ミノル)ほか |
自宅の近所に、「エスポワール」という名前の「パスタとコース料理」のレストランがある。 近所と言ってもこれが大通りに面してるとか、そんなんじゃなくて、路地裏の、しかも小さな町工場とか民家の間にポツンとあるのね。ある意味、目立ってるんだが、いや、これを目立ってると言っていいのかどうか。「浮いてる」と言ったほうが正しいかも。 ともかく、一度行ってみたいと前々から思ってたんだけど、何しろ違和感がすごくってさあ、夜なんか電飾キラキラしてるし。ショーウィンドーのマネキンって、たいてい西洋人じゃん、その中に一人だけ侍が混じってる感じ? 違うか。 でもまあ、何となく入るのが怖い感じはあったと思し召しくだされい(口調まで侍になるなよ)。 だけど、ついに今日! その店にぃっ! 「でいなあ」を食べるためにぃぃっ! 入ることにぃぃぃぃっ! したのだああああああ~んあんあんあんっ!(コブシつき) ……アホか。
ところがしげが浮かぬ顔をしている。 しげも前々から、この店には興味があって(通りがかった人間は多分みんな「なんでこんなところに?」と興味を覚えるだろうが)、行きたがってたくせに、いったいどうしたというのか。 「あのね、おなかいっぱいと」 「なんで腹いっぱいなんだよ。なんか食ったんか」 「うん」 「なに食った」 「たこやき」 タコ焼きと言うのは、先日、スーパーでお徳用冷凍パックを買いおきしてたやつだろう。しかし、タコ焼きをつまみ食いしただけで腹いっぱいとは、いったい? 「で、いくつ食ったんだよ」 「全部」 「ふーん、全部。……って全部ぅ?!(←ダブルテイク)」 「うん」 「全部って、あれ、25個入りだったろ!? あれ、全部食ったんか!」 「あ、でも間を置いて食べたよ」 「でも今日のうちに食ったんだろ?!」 「うん」 「オレの分は?!」 「え?! あれ、アンタの分もあったん?!」 「当たり前じゃあああああ!」 味見一つできないまま全部タコヤキを食われたことは別に惜しくはないが(ちょっとはあるが)、この「好きな食いモノは必然的に全て自分のもの」って感覚はなんなんだ。子供のころの貧乏はここまで人間の心を蝕むのか。一度荒んだ根性は一生変わらないのか。飽くなき貪欲。まるでアシュラか銭ゲバか。 つつしんで「肉ゲバ」の称号をあなたに送ってさしあげるわ、おほほほほξ^▽〆。(c.江戸川乱歩) それにしてもよく25個も食えたな。どこが「最近少食になった」だ。 「じゃあ、食べるのやめる?」 「食べる」 底無しだよ、こいつ。
で、その「エスポワール」。 中に入ると、照明をやや落としてシックな雰囲気を演出した、本格的レストランという印象。ますますこんな人通りのない路地荒になは似合わない。客も我々だけだ。 テーブルや窓のところにはロウソクのランタンが置いてあって、アレですな、恋人どうしが向かい合って話してると薄暗いんで思わず身を乗り出してしまい、顔と顔が近づいて……って、そういうムードを演出してるわけね。 メニューもアレだね、ファミレスみたいに写真つきのわっかりやすいのじゃなくて、文字だけ横書きの、でもって下にいちいちフランス語だかイタリア語だかが書いてあるやつ。仕事帰りに気安く立ち寄ってんじゃねーよ、この小市民がって威圧感をヒシヒシと感じる。 ボーイさんももう、腰捻りながら歩いてきて、もういかにも「ギャルソン」って姿勢ね。路地裏のギャルソン。それってギャグだよ(^_^;)。 肝心の料理だけれど、パスタと肉のコース料理、2300円なりを注文。 これが実に美味い。 隠れた名店、というのはウワサにゃ聞くが、ここホントに隠れたところにあるよ。なんで博多もハズレのこんなところに店出してんだ。もったいね~っつーか、いつか潰れるぞ、絶対。 鴨肉はまんべんなく火が通っていてしかも柔らかく舌の上でとろけるようで実にジューシィ。パスタの種類も豊富で、イタリアっぽい(名前忘れた)の頼んだけど、スパゲティをピザにしたみたいなんだが、チーズの質がいいのかシツコイ感じがしない。 ううむ、あまりに美味くて思わず会員カード作っちまったぞ。カードが溜まると一色分タダになるそうだから、あまり早いうちに潰れんでくれ。
しばらくして、四人連れの女性がワラワラと入って来る。 しげが「あれ、この店のウワサ聞いてやって来たってよ」と言う。 「なんでわかるんだよ」 「だって、『こういう店』とか一人が紹介してたもん」 その四人連れが入って来てすぐ、店の奥にあった大きな液晶テレビに、突然映画が映し出され始めた。青い海の映像、なんか見たことある絵だな、環境ビデオか? と思っていたら、これが何と『グランブルー』。うーむ、合ってるんだかいないんだか。まあ『アルマゲドン』とか流されても困るが。 「窓の外に送迎バスがあるよ!」 しげが驚くやら喜ぶやら(なして?)。 私の席からは角度的に見えなかったが、交通の弁の悪いところにあるから、電話一本で送り迎えして差し上げる、ということだろう。確かにそれくらいのサービスしないと、客があるとはとても思えないものね。 天神あたりにあるのであれば別に不思議でも何でもないけれど、こんな場末にあるとまさしく掃き溜めにツルの印象。ホントにツルかどうかはわからんが。
岡田斗司夫さんのオタク日記、5月17日(金)の記述に、宮崎駿についての辛辣な意見が。 そもそもは、DVD『千と千尋の神隠し』に予約特典として付く「お握りフィギュア」に対する憤りから始まっている。確かにアレは怒る人が出てもおかしくないよなあ。もっとも、私ゃアレは宮崎さんの悪ふざけだと思ってたんだが。 宮崎さんの性格考えてみりゃあね、そもそもが「アニメは作品(だけ)が勝負だ」って思ってる人だからね、「予約特典」みたいな「売らんかな」根性丸出しなモノを付けること自体、大嫌いなのに決まっている。 それをムリヤリ「なんとか特典を」と言われて、「オニギリでも付けとけ」とか言い放ったんじゃないか。多分、あんなど~しょ~もないモノでも押しいただいてありがたがるバカファンはいるんだよ。だから宮崎さんも「これでハクと千尋の手の温もりを感じてください」とか表面では言っときながらハラん中じゃ「勝手にありがたがってろバカどもが」とか思ってんだよ、腹黒ジジイだから。 昔から私は宮崎さんの作品は好きでも本人は嫌いだから(このへん、手塚治虫と似てるなあ)、今更オマケに何が付こうがどうだっていいのだが、岡田さんは多分、宮崎さん本人のことも好きなんである。庵野秀明さんが『ナウシカ』で宮崎さんの下で働いてたりしたのがとても羨ましかったりしてたと思うんである。 だからこんなファンをバカにした行為が許せない。「言行不一致」とまで言いきる。ただねえ、岡田さんの怒りはもっともなんだけれど、これって、亭主に浮気された女房の愚痴みたいなもんじゃない? 「あのヒト、優しいひとだと思ってたのに、ホントは私を裏切ってたのよ!」って感じ。そりゃ、ある意味、宮崎さんの資質を見抜けなかった岡田さんの一人相撲じゃないかとも思うんである。
声優の起用についても、岡田さんは、「でも、『となりのトトロ』あたりから、このアニメの神様はちょっとヘンだ。声優に糸井重里や立花隆を使い出した。シロートだろ、彼らは? アニメーターにはあそこまで職人技を求めるくせに、なんで声優は素人芸でも平気なのか」と書くが、さて、岡田さんはホントに宮崎さんのアニメをちゃんと見てきたのか。あの人選は、昔からの宮崎ファンなら「必然」であったのだが。 つまり、宮崎さんは(だけでなく高畑勲さんや大塚康生さんほか、東映動画系の人の多くがそうだが)、声優の声優声優した演技が大嫌いなのである。誇張された現実にはありえない演技の声を聞くくらいなら、シロートの方がよっぽどマシ、そう考えてるのはほぼ確実だろう。 実際、『トトロ』どころか、『カリオストロの城』のころから、テレビシリーズと声優を全部入れ替えたい、と大塚さんと宮崎さんが相談してたことは有名だ。石田太郎と島本須美だって、あの当時は声優としての認知度より、舞台俳優としてのキャリアを買われての起用だったろう。「声優離れ」は、宮崎さんの本質だとも言える。「なぜ声優は素人芸でも平気なのか」ではない。「声優の芸そのものが素人だ」と思ってるんである。
ただし、こう書いているからと言って、私が宮崎駿を弁護していると思ってもらっちゃ困る。私はただ、岡田さんが「宮崎駿は言行不一致」と言っている点は違う、と指摘してるだけで、声優起用の仕方がデタラメじゃん、ということについては、その通りだと思っている。 声優が決まりきった喋り方、固定されたイメージでしか喋れない、という批判は、当たっている面があるだろう。上手い声優は、役柄を変えれば全く別人の声のように聞こえる。例えば山寺宏一の演技には実際、私は舌を巻くことが多かったりする。しかし、ヘタな声優は何を演じても誰の声だか一発でわかってしまう。声質で聞き分けられるのではなく、演技の仕方が全く同じなのでそうなってしまうのだ。しかも、そんなド素人演技が、有名なベテランの声優にも結構多く見受けられる。 だからと言って、全て声優を排除したキャスティングを行うというのはやりすぎではないか。黒澤明が『影武者』のキャストをオーディションで決めたときのように「プロアマを問わず」としたのならまだわかる。けれど、「声優は入れず、俳優と素人だけ」というのは、ただの差別にしかなってないのではないか。 実は私は、糸井や立花がそんなに悪いとは思っていない。キャラクター自体がケレン味を必要としない、というより排除した設定になっているから、声優声優した演技は確かに向かないのである。逆に、一応はプロの役者、例えば『もののけ姫』の石田ゆり子、田中裕子、森繁久彌はいただけなかった。前の二人はキャラクターの持つ深みを表現するには演技が未熟過ぎていたし、森繁には申し訳ないが、さすがにトシを取り過ぎている。こんな素人役者に演技させるくらいなら、どうして声優を起用しなかったか、高山みなみじゃダメだったのか、榊原良子じゃダメだったのか、羽佐間道夫じゃダメだったのか、とどうしても思ってしまう。 その点で言えば岡田さんの「どんなに『プロの声優』を侮辱し傷つけているのか。その結果、アニメ文化を自分自身で貶めていることが、宮崎さんにはわかっているのだろうか?」という指摘は全く正しい。素人をキャスティングしたっていい、舞台俳優を使ったっていい、要はそれが映画の完成度に貢献していればいいことなのだ。 しかし、ここで宮崎さんを批判したところで、あの人が心を入れ替えるはずもない。恐らく、アニメ文化を自ら貶めて構わないと思うほどに、あの人の声優不信は大きく深いのだ。「アニメなんてなくなっていい」発言をしょっちゅう繰り返していることを考えれば、確信犯でやっていることは断定していいだろう。……もっとも、かつて山田康雄の手抜き&ヘボ演技につき合わされたことを思えば、それも仕方がないことかと納得してしまうが(山田さんが『ルパン』で手を抜いていたことは本人も宮崎さんたちに告白し謝罪している)。 逆に、私が思うのは、声優たちはどうして宮崎さんに対して直接怒らないのかってことだ。更に言えば、どうして「私を使ってくれ」と売り込もうとしないのか。宮崎さんは堂々と声優差別をしてるんである。その偏見を打破しようという声優がただの一人も出て来ないというのは、自ら「私たち声優はフツーの俳優より格が下でございます」と認めていることになるのだぞ。 『耳をすませば』を見ればわかる。宮崎さんは「好きだ」程度の告白じゃダメで、「結婚しよう!」と言わないと人として認めないのである。多分、宮崎さん自身も、声優を外したけれどもこのキャスティングは失敗した、と思ってる面はあると思う。だからこそ、今、声優はもっと自己主張していいと思うのだ。宮崎駿を一番「神様」に祭り上げてるのは、沈黙している声優たちじゃないのか。
DVD『必殺必中仕事屋稼業』、昨日途中まで見てた2話を見返し、3話まで。 第2話のヒロインはジュディ・オング。時代劇のヒロインにしちゃ、ちと顔がケバすぎる気がするが、菅貫太郎に「よいではないかよいではないか」と帯を解かれる役だからいいか(何がいいのだ)。 キャストクレジットに「坂口徹」ってあったから、てっきり仮面の忍者赤影の坂口祐三郎さんのことかと思ったが(そういう名前で出演してたこともあるんである)、いくら画面を探してみてもそれらしい人は発見できず。同姓異人か? 同姓と言えば、3話登場のお袖役の山口朱美って、テレビ版『じゃりん子チエ』のチエのおかあはんの人? これも偶然の名前の一致かもしれないからなんとも言えないけど。 3話のヒロインは桃井かおりだけれど、当時の桃井さんの役と言ったら九分九厘、アタマの弱い女の子の役だった。あまりにそんな役ばっかりだったので、いい加減食傷して、当時の私は桃井さんの顔が画面に映るたびにチャンネル変えてたものだった。今はそんなことしてません、桃井さんはいい役者ですがね、ハイ。 ……しかし私ゃやっぱりヒロイン中心にドラマ見てるのかね、時代劇でも(^_^;)。
マンガ、佐藤秀峰『ブラックジャックによろしく』1・2巻(講談社/モーニングKC・各560円)。 オビに「脅威的反響! 医療界騒然!!」とあるけど、これ、決して興味を煽る為だけの誇張表現じゃないような気がするよ。 研修医の「一日平均労働時間が16時間、月給三万八千円」って、労働基準法に違反してないのか。というより、そもそも深夜勤務がほとんど研修医に任されてる実態って、問題にならないのか。 確かに、私も夜中に救急車で病院に担ぎこまれた経験とかあるから、夜中の救急病院がむちゃくちゃ手薄だってことは実感としてわかる。大都市であっても、一つの病院に救急患者が三人も来た日には、それだけでもうパンク状態だろう。実際、そこにいたやつ、言っちゃなんだが素人に毛が生えた程度にしか見えないやつらばかりだったし。 マンガは『白い巨塔』よろしく、学閥に左右され翻弄される主人公の姿を描いていくのだが、これもまた多分事実であろう、と感じさせる。「大学病院は診療だけを目的とした病院ではない」ということ、これも私自身、経験として実感していることだ。福岡にはね~、遠藤周作の『海と毒薬』でとっても有名な大学があるんだけどさ~、ここの評価って完全に二分してるのよ。私ゃ一回行っただけでそこの客あしらいにむちゃくちゃ腹たって、二度と行かないって決めたけどね~。ごく庶民に生まれてさあ、「エリート意識持ってるやつ」ってのに会った経験がない人は大学病院に行くといいよ、マンガみたいにカリカチュアされたお方にたくさん出会えるから。 ……このマンガ、それこそ「事実無根」とか「名誉毀損」とかでどこぞの病院から訴えられたりしないかなあ。 一応、シリアスになりすぎないようにギャグ交えたりさ、ドラマとしては「大学病院を見限った患者を、民間の名医が救う」って、なるほど『ブラックジャック』っぽい「感動の物語」に持って行くことで、これはあくまで「マンガ」なんですよ~って感じも出して、攻撃の手を和らげようってしているみたいだけど、果たしてその程度でかわせるものかどうか。 作者の真の目的がそんなとこにはないってことはもうバレバレだしな。『白い巨塔』は、やはり「善意の敗北」で終わっていた。果たしてこのマンガのほうは何巻続く……いや、続けられるんだろう。 心配だよ、マジで。
マンガ、ヒラマツ・ミノル『アグネス仮面』2巻(小学館/ビッグスピリッツコミックス・530円)。 ……冗談ではなく、このマンガ、平成の『タイガーマスク』になる気配を見せ始めてきたぞ。もちろんギャグ交えつつの展開だから、マンガの性質は全然違うんだけれど、「プロレス漫画の王道」になるんじゃないかって「ニオイ」を漂わせ始めたのだ。 これはもう、今巻新登場のアグネス仮面の相棒、「マチルダ仮面・本名町田」(おい)のキャラクターがムチャクチャ立ってるからにほかならない。 もと相撲取りのくせにこいつがもうすげー根性なし。マーベラス虎嶋社長から いきなり「君には生き別れの兄弟がいることが判明した」ってタッグ組まされたはいいものの、何しろ最大の必殺技が「蚊のさすようなツッパリ」。で、当然初戦でいきなりギブアップするんだが、なんのワザでやられたかっていうと、「ヘッドロック」。……小学生のケンカかああああ! でも、なぜそんなギャグキャラが「王道」になれるかっていうと、このあとの展開でホントの「見せ場」を見せてくれるからなんだよね。弱いけれど、マチルダ仮面、実は「黄金の関節」の持ち主だったことが判明。関節を逆にキメられてもすぐにもとにもどせる。そしてツッパリにこそ威力はなかったが、そのキックの威力は絶大。 二人、マットの上で血塗れになりながら、「兄」が「弟」に語るヒトコト、「己の弱さを知った者だけが強くなれる!! 俺のタッグパートナーは、マチルダ仮面、お前だ!!」……うおおおお、カッコイイぞおおお! 燃えるぜ友情おおおおお! ……と思ったら、いきなり現れた虎嶋社長、「なあ~んだ、やっぱり君ら兄弟仲いいじゃないか、マチルダ仮面は『キックの鬼』として再デビューね。じゃあそういうことで」。……あの、そのキャッチフレーズ、プロレスのじゃないんですけど(^_^;)。 小林まことの『1、2の三四郎』は途中で失速しちゃったからなあ。ギャグが混じろうと、ラストはシメてくれそうなこのマンガ、やっぱり「平成一番のプロレスマンガ」になるかもしれないぞ、今のうちにツバつけとこうぜ。
仕事に出かけるしげから、ゴミの片付けを頼まれるが、残りメシでドライカレー作って食ったら、睡魔に襲われてそのまま寝てしまう。カレーって、普通目が冴えるんじゃないのか。 後でしげから悪態つかれることは目に見えているが目を閉じているのでもうどうでもいいのであった。
2001年07月08日(日) 夫婦で暑気あたり?/『昔、火星のあった場所』(北野勇作)ほか
2002年07月07日(日) |
叶わぬ願い/DVD『風のように雲のように』/『映画欠席裁判』(町山智浩&柳下毅一郎)ほか |
ああ、七夕だな。そう言えば。 先日、職場に笹が飾ってあったので(去年もあったが、よくそんなことやってるよな、ウチの職場も)、一応私も短冊を下げた。 去年はたしか「妻が家事をしてくれるようになりますように」。 もちろん願いは叶ってない。牛引き男も機織り女も、一年に一度のラブアフェアに熱中していたらしく、一顧だにしてくれなかった。考えてみりゃよう、神様でも何でもない、たかが天界の下僕に願ったってどうなるもんでもないわな(何をそこまで恨んでいるのだ、私)。 今年の願いは、「妻がナイスバデーのセクシーダイナマイツになりますように」(^o^)。 去年より遥かに望み薄だが、まあいいや、どうせオレ、人生投げてるし。
昼まで寝て、ゆったりとDVD鑑賞。 まずは懐かしのアニメ、『風のように雲のように』。 うひゃは、これも1990年の制作って、12年も前かよ。荒淫……いやいや、光陰矢のごとし(c.筒井康隆)。 第1回ファンタジーノベル大賞を受賞した酒見賢一の『後宮小説』のアニメ化なんだけれど、当時はいろんな意味で話題になったものだ。 多分ね~、主催者の読売とか三井はね~、「ファンタジー」って語感からよ、お子サマ向けのぽわぽわ~っとしたふわふわ~っとした投稿があるだろう、それをアニメ化してよい子の善導をとかなんとかアホなこと考えてたんだよ。 でも審査委員に荒俣宏選んでる段階でもう大間違いっつーか、無知だよ(^o^)。そりゃ、世の中にはさ、ぱよぱよ~って感じのファンタジーもあるけどよ、ほとんどは「幻想小説」なんであって「悪夢」を描いたモノがほとんどだぜ? 企業のトップにいる連中が、基本的に芸術とか文化的教養の皆無なバカってことがハッキリわかるよな。 で、受賞したのが『後宮小説』だ。 読んだ人はわかると思うが、中国(?)皇帝のヨメさがしの話である。ヨメったって、皇帝のことだから何千人単位な。国中の適齢期の女集めまくって、みんなを妃としてふさわしい女に教育する。中には閨房術の指南まであるのだ。 さあ、これをどうやったら「子供向けアニメ」にできるのか。 ……って、できるわけないじゃん(^_^;)。 というわけで、結局とんでもないアニメができちゃったのである。 さすがに原作の露骨な描写は相当カットされた。しかし、ストーリーそのものを全て改変することはできない。後宮の女を目指して、反乱軍が「女~!」と叫んで突進して行くシーンなどはしっかり残ってるし、何より、クライマックスでヒロインの銀河が、今まで「子供だから」と言って彼女を抱こうとしなかった皇帝にすがりついて、「もう子供じゃない……!」と泣き崩れ、そのまま契りを結ぶ描写、さりげなくではあるけれど映像にしているんである。いや、これはどうしたって外せねえやな。 何がマズイって、主催者が予め用意していたキャラクターデザイナーが、『となりのトトロ』『魔女の宅急便』などの近藤勝也。あの丸っこくてか~い~キャラですがな。これじゃどうしたってマジもんのロリコンアニメになっちゃうよねえ(^_^;)。まあ、あれっスね、「サツキやキキとヤリてえ!」ってヘンタイなヒトにはすっごく萌え萌え~! なアニメになったんとちゃいますやろか。 あ、脚本は宮崎駿の兄さんの宮崎晃だ。兄弟そろってロリコンアニメばかり作ってやがるなあ(^o^)。
DVD『必殺必中仕事屋稼業』上巻。 必殺シリーズ第5弾、名作の誉れも高い全26話のうち、14話までを収録。 当然一気に見切れるものでもないので、今日は第1話、第2話を見る。 ああ、1話はいいなあ。よく『必殺』シリーズは時代劇のワクを越えたところに面白味があると言われてるけれど、ちゃんと時代劇の描写してくれてるよ。賭場で政吉役の林隆三が、知らぬ顔の半兵衛の緒形拳に向かって啖呵を切るあたりのセリフがいい。 「上潮の木っ端だい、あっちへふらふらこっちへふらふら」 「冗談ぽっくり日和下駄、滑って転んでぺったんこだい」 「見上げたもんだよ屋根屋の褌」 「上潮の木っ端」ってのは知らなかったな。こういう江戸弁が混じると、いかにも「らしく」なる、というより、こういうのがなくてどうするかってなもんでね。 1話はねえ、ほんとにちょっとした言葉の端々、半兵衛が利助の岡本信人を怒鳴る「奴(やっこ)!」って言い方にまで気が配られてていいんだよねえ。なのに、2話になるといきなり「積極的」なんてセリフが出て来て一気に興醒め。 脚本の出来も、1話が人物描写、構成ともに凝っているのに対し、2話はややおざなり。これ、1話の下飯坂菊馬と2話の村尾昭の素養の差だろうね。 後にはもう何人いるんだかってくらい増え続ける仕事人に対し、この『必中』は、半兵衛と政吉の二人だけ。これはシリーズ第一作、『必殺仕掛人』が梅安と西村左内の二人だけだったことへの原典回帰だろう。第一作と同じ緒形拳をキャスティングすることで、シンプルに、人物描写に深みを与えるための措置だと思われる。 それでも1時間は短い。 特に殺し屋としての技術を磨いていたわけではない半兵衛と政吉が仕事人になっていく過程、葛藤が余りに少ない。いくら「晴らせぬ恨みを晴らしてほしい」というおせいの草笛光子の説得に共感を覚えたとしても、義理も縁もない相手頼みを引き受けるには、なんとしても根拠が弱い。一度断るくらいの描写は必要だったろう。できれば二時間くらいのスペシャルでじっくりと見たかったものだ。 定番になってて今更文句つけたってしかたない感じになってるけど、平尾昌晃の音楽、ちょっと軽過ぎないか。
4時すぎ、夕飯に「肉のさかい」まで出かけるが、5時から開店、ということでまだ閉まっている。もう30分ほど待つことも考えたが、しげが早めに帰って、仕事までの間に少しでも寝ておきたいというので、「浜勝」に回る。 味噌カツ定食にとろろと角煮つき。カツには予めタレがかかっているので、自分でゴマダレを作れなかった。あのゴマを擦るのが楽しいのになあ、ちょっと失敗したなあ。 しげはヒレかつ定食なので、ゴマを擦ろうと思えば擦れるのだが、なぜかいつもタレにゴマを入れることを絶対にしない。辛いもの嫌いなくせに、どうしてゴマを入れて味を和らげることをしないのが不思議なんだが、舌や口蓋にゴマがペトペトつくのが嫌いらしい(だから海苔も嫌い)。食べ方にいちいち妙な順位をつけてるよな。 本屋を回るころからしげが「眠い」を連発し始める。 しかたなく、マルショクで買い物をして帰る。
町山智浩&柳下毅一郎『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判』(洋泉社・1575円)。 批評書の批評をするのも屋上屋を重ねる感じだけれども、漫才形式でふざけてるように見えて、ちゃんと批評になってるからいいよ、これ。しげは「語り口が気に入らない」みたいなこと言って文句つけてるけど、しげは庶民ぶってるけどスノビズムに毒されてるところがあるから、こういう俗に徹した批評には嫌悪感示しちゃうんだろう。 もちろん、この著者の二人だって自分の知識ひけらかしちゃいるから「サロンのバカ」だと言えはするのだが、そのことを自覚した上でボケとツッコミに役割分担して語ってるんだから、これはこれで立派な芸だ。映画語るのにどうしたって背景となる知識に触れないわけはいかないし、そもそもお堅い映画批評からの開放がこの本の目的としてあるんだから、その目的自体に文句つけたってしようがないやな。 要は中身だ。語り口は導入に過ぎない。批評自体が的を射ているかどうかを読まなきゃな。 オビにいきなり「『千と千尋の神隠し』が国民的大ヒットだって? 10歳の少女がソープで働く話だぞ!」には笑ったが、言われてみりゃ、その通り。湯婆婆のキャラ設定に遣手婆が入ってるのは否定のしようもないものな。 映画を見るのは所詮主観の問題だし、大なり小なり誤読は常に生ずる。しかし、例えば『千と千尋』を見た100人の人間が全員、「感動の傑作」と呼んだとしたら、そりゃいくら何でもちゃうやろ、という意見が出てこなければおかしい。ましてや、柳下さんが指摘している通り、宮崎監督自身が「風俗産業の話」と語っているのである。だったら、それに基づいていない批評は全てクズだと言うことにはならんか? あれを見た日本国民の9割が清らかな感動を覚えたとすれば、スタージョンの法則はまさしくここでも合致していると言えるのである。 で、映画の作り手や批評家は残り1割の側にいないと、マシなモノは作れないんだよね~。 ここで語られてる映画批評の全部に触れることはできないので(私が見てない映画も多いし)、ヒトコトだけ。 映画を見て、それで感動して、けれど他人がその映画を貶しているのを聞いて傷つくような脆弱なメンタリティしか持ち得ない御仁はこの本は読まない方がよろしい、っつーか、人前に出て来ずに引きこもってろ。映画は全ての人間に開かれているのであって、アンタのためだけにあるのではないのだよ。
2001年07月07日(土) オタクな××話/『こんな料理に男はまいる。』(大竹まこと)ほか
2002年07月06日(土) |
理想の正論より現実の暴論/映画『スターウォーズ エピソード2 クローンの攻撃』 |
休日だが出張。 もっとも午後からなので、午前中はゆっくり寝られる……って、また病院に行き損なっちまったい。金曜の夜に出歩くと、やっぱり翌日は疲れ切っているのである。けど、医者にはマジでそろそろ行っとかないと、薬だけはもらっているものの、検査は2ヶ月近くサボってるんである。これはちょっとヤバいかも。 最近、左手の指先が痺れてるんで、もしかしたらいよいよ糖尿の合併症が表れてきたのかもしれない。単に横になって寝てたせいで腕が痺れただけかもしれんが、まあ年齢的にもそろそろ可能性はある。 働けなくなったらホントに覚悟するしかないんだけれども、また入院するようになったら、今度は個室を頼もう。もちろん、パソコンを持ちこんで、この日記を継続するためである。その前にノートパソコンを買って、使い方を覚えにゃならんが。
出張と言っても、中味は会議。 しかも私はメインではなくて、職場の若い女の子の付き添いみたいなものである。実際、用向きの内容っつーか、会議で何を話し合うのかもよく知らない。いいのかそれで(^_^;)……って、この出張自体、私はいきなり代理を頼まれただけなので、知らないのも当たり前なんだが。 付き添いとは言っても、あいにく彼女も車の免許は持っていない。さて、どうやって行けばいいだろう? 出張先までの距離を考えると、電車やバスは時間がかかり過ぎて使えない。早めに出かければいいじゃないかと言われそうだが、午前中は彼女も用事があって、昼過ぎにならないと抜けられないのである。タクシー代くらい、職場が出してくれたってよさそうなものだが、ウチの職場はそういうところはとことんケチである。まあ、値段を考えたら、これはケチられても仕方がない額だが。 で、結局、しげに車で送ってもらうように頼む。 「なんでアンタの仕事を私が手伝わんといかんと?」 と、しげは至極マットウな正論を述べるが、ここは暴論に従うしかない。「理想の正論より現実の暴論」。なんかこれも格言っぽくていいな(^o^)。最近格言づいてるのか。もっとも、こういう場合は「立ってるものなら親でも使え」とか、「猫の手も借りたい」とか、「○○とハサミも使いよう」とか、そんなのの方が妥当な気はするが。
初対面の他人を乗せてしかも初めての道を通るのだから、しげ、運転には相当緊張したらしい。おかげでいつもの1.2倍くらいスピードが増している。 いやあ、しげの車に乗ると、カーブがホントに楽しいなあ! 遊園地でゴーカートに乗ってるみたいだ(←皮肉だよ皮肉)。 しかも、ナビしてもナビしてもやたら道を間違えやがるし。 「その三つ先の信号の○○○って角を右に曲がって……」 「○○○だね?」 「うん、○○○」 で、実際にその角まで来ると、「今、○○○ってとこだけど、ここは真っ直ぐだね?」 「うん……って違うよ!『そこを曲がる』って言ったじゃんか!」 「そういうことは早く言ってよ!」 「言ったよ!」 そんな調子で、更に渋滞にも引っかかったが、不思議にも出張先に到着したのが定刻の30分前。結果よければなんとやらだが、後部席に乗ってた彼女はなんと思ってたことやら。 つまんなくて無駄の多い会議が終わったのが夕方の4時。 この後、しげと食事でもするかと連絡を入れるが、「帰って来ぃよ」と一言だけ。 「食事とかはせんでいいんかね?」と聞くが、やっぱり、「いいから帰って来ぃ」としか答えない。何となく腑に落ちない感じだが、文句をつけても仕方がないので、帰りは電車で博多駅まで戻り、そこで女の子と別れる。紀伊國屋で新刊を物色していったんバスで帰宅。 ウチに入ると、しげは横になって、うでっと寝ている。……なんだ、「早く帰って来い」って、要するに疲れてるからすぐに外に出る気にはなれなかったってことかい。 寝るんだったらしゃあないな、今日も映画は諦めるか、と思って、私もゆっくりするつもりで風呂に入ったその途端に、しげがバタバタとけたたましい音を立てて、風呂場まで駆けて来る。 「ね、券どこ!」 「……券って……何の券?」 「映画の! 割引券!」 「……前売券のこと? こないだ買った『スター・ウォーズ』の」 「うん、それ! どこ!?」 「ポケットの中だよ」 「どこの!?」 「背広の! サイフの中! そこに入れたの、オマエも見てたろ?!」 「見てたけど直前に確認しとかんと、不安やん!」 「オマエが自分で自分を不安に追いこんでるだけだろが! ……って、『直前』って何?」 「大急ぎで行けば、『スター・ウォーズ』、間に合うよ!」 「……なら、映画館で待ち合わせしとけばよかったやんか!」
AMCキャナルシティ13にて、映画『スターウォーズ エピソード2 クローンの攻撃(STAR WARS EPISODE 2 ATTACK OF THE CLONS)』。 原題に忠実になってるせいではあるけれど、邦題が長いね。 日本では書誌的・記録的な意味もあって、一度決めた邦題が後で変更されることはなかなかない。だから『スターウォーズ エピソード4 新たなる希望』という映画は存在せず、『スターウォーズ』という映画があるだけなのだが、シリーズ邦題を並べてみるとどうにも座りが悪い。これくらいは過去の作品名を変更したって構わないのではないか。
以前にも日記に書いたような気がしないでもないが、もう忘れているので、改めて邦題のつけ方について書いてみる。 邦題のセンスにも時代による感覚というものがあって、当時は粋に聞こえても、現代ではちょっと、というものもかなりある。 一時期、「邦題は漢字二文字が粋」っていうルールがあったらしく、ジャン・ギャバンの代表作の一つ、“Pepe Le Moko”にも『望郷』というタイトルがついていた。「ペペ・ル・モコ」とは主人公の怪盗の名前なのだけれど、確かにそのまんまだと「『ペペ・ル・モコ』ってなに? 料理の名前?」なんて勘違いされそうだが、だからと言って、この邦題を「なんていいタイトルだ!」と主張するのはどうかな、という気がする。映画を見た人はわかると思うが、ペペの心境を「望郷」の二文字で片付けちゃっていいものか、という疑問が湧いてくるのだ。 ビビアン・リーの『哀愁』だって、原題は“WATERLOO BRIDGE”。「哀愁のなんたら」というタイトルが氾濫してしまった今となっては、オリジナルタイトル通り、『ウォータールー(ワーテルロー)橋』としてもらってたほうが区別がついたのになあ、と思わざるを得ない。 『慕情』になるともっと悲惨で、原題は“LOVE IS A MANY SPLENDORED THING”。「愛とはたくさんのすばらしいこと」じゃ粋じゃないってんなら、どうしてせめて「永遠に輝かしき愛」とかなんとか意訳できなかったものか。この「慕情」って言葉、今や『男はつらいよ 知床慕情』に使われるくらい、そのイメージが落魄してしまった。 一度定着したタイトルをあとで変えることには当然問題が生じる。ただ、その拘りが、「過去の名作の邦題は粋だったから」という主観的なものであってはならないと思う。 上記のものはいずれも、今やとても魅力あるタイトルとは言えなくなっているし、憶測だが、もしもデュビビエ監督が自作の邦題が『望郷』だと知ったら憤慨するのではないか。仮にデュビビエが「邦題を変えろ」と主張したとしても(死んでるけど)、今更あのタイトルを変えることはできないが、内容とかけ離れた邦題がついていることにそもそも問題がある、という認識は持って然るべきではないか。 私は、邦題を今の感覚に合わせてもっとシャレたものにしろ、と言いたいわけではない。物理的な理由で、モノによっては改題を再考してもいいものもあるのではないか、と言いたいのだ。 例えば、マレーネ・ディートリッヒの『情婦』“Witness for the Prosecution”などは、ミステリーであるにもかかわらず、タイトルでトリックの一部がバラされているのである。これなど、リバイバル時からタイトルを『検察側の証人』に変更するよう、ミステリ関係者はどうして映画会社に申し入れなかったのか。今からでも改題を要求してもいいのではないか。これを放置しておく、というのは、ミステリの読み方について「どうでもいいじゃんそんなこと」と蔑んでいるのと変わらないと思うがどうか。 『スターウォーズ』の話に戻って、第四作を『スターウォーズ』のままにしておくと、そのうちこれが第一作で、『エピソード1 ファントム・メナス』(これも『幻影の脅威』じゃどうしてダメだったのか)のことを指すと勘違いする人も出てくると思われるのである。
タイトルの話ばかりでナカミがないな(^_^;)。 さて、前作『ファントム・メナス』で、「ホントは『スターウォーズ』シリーズってつまんないんじゃないの?」とすっかり株を下げてしまった感があるが、今回は随分と失地回復を果たしている。 もっとも、未だにドラマ性よりもイベント性を重視した作りのせいで、監督やスターウォーズフリークはともかくも、一般観客には退屈だろう、と思われるシーンは随所にある。 ドロイド工場の追っかけシーンなどは最たるもので、どうせ助かるってことが解りきってる上に、たいしたサスペンスもそれを切りぬけるアイデアもなく、ただただ音楽がうるさくカットがチカチカ目に痛いだけだ。なんでもあれももとの脚本にはなく、現場での思いつきで挿入したシーンだそうだが、ルーカスが映画学校でドラマツルギーを何も学んでなかったことがよくわかる。 アナキン・スカイウォーカーとパドメ・アミダラの恋も、冗長さが目立つ。 恋の過程にメリハリがないことが原因だが、オトナになりきれていないアナキンは直情径行でも構わないのだが、「抑え役」パドメのナタリー・ポートマンがどうにもいけない。議員としてのストイックな面と、恋に落ちて以後の情熱的な面との演技の落差を表現できるほどの力がまだ備わっていない点がネックになっているのだ。脚本の上でも最初からあんなにラブラブじゃ、見ている観客は白けるだけだぞ。障碍があるから恋は燃えるんじゃないのか。 ジョン・ウィリアムスの音楽もうるさすぎ。しょっちゅうBGM流してないと落ちつかないのは逆に神経症じゃないのか。
何か思いきり貶してるみたいだけれど、しかしそれだけの欠点を備えていてもなお、本作は『スターウォーズ』シリーズ中、一番面白い。 何よりそれはドゥークー伯爵役のクリストファー・リーの名演に負うところが大きい。善玉が悪玉を演じるのは難しいが、悪玉は善玉を演じられるだけの技量を持っているものだ。月形龍之介が吉良上野介と水戸黄門の両方を演じられたように、クリストファー・リーはドラキュラ伯爵とシャーロック・ホームズの両方を演じている。 今回も、共和国に敵対する悪の親玉風に登場していながら、オビワンに「共和国の元老院は暗黒卿に支配されている、正義は我々にあるのだ」と勧誘するあたり、果たして真の悪はどちらか? と迷わせるだけの風格ある演技を見せてくれる。絶対悪はそれだけでカリスマなのだから、絶対善にも見えなければ意味がないのだ。クローン軍の攻撃にも動じないその余裕ある演技は、後のダース・ヴェーダー卿がただのチンピラにしか見えないほどだ。 オビ・ワンもアナキンもドゥークー伯の前では赤子同然、唯一対抗できるのはヨーダのみだが、いやあ、この二人の念力合戦の楽しさときたら(フォースってやっぱり念力だよな)、まるで往年の時代劇、忍者映画を見るよう。 自雷也と大蛇丸か、影丸と阿魔野邪鬼か、はたまたバビル2世とヨミか(マジでルーカス、横山光輝を参考にしたんじゃねーか)、走る電撃、崩れる伽藍! フォースでの対決は勝負にならぬと、続くはライトセーバーでの肉弾戦、宙を駆けドゥークーの死角を狙うヨーダ! 余裕でかわし、ライトセイバーを振り上げるドゥークー! 実力伯仲のこの均衡を破る最後の手段は何か!? ホントにこのままヨーダが大ガマに、ドゥークー伯が巨竜に変身して戦ってくれないかと願ったくらいだよ。 それにしてもヨーダがここまで活躍するとはねえ。数十年後にポックリ逝くのが信じられないくらいだ。それともこのときの戦いのムリがたたって、あんなんなっちゃったのかもね。 さて、敵方にどんどんいいキャラが増えてく『スター・ウォーズ』シリーズだけれども、次作ではクローン戦争のきっかけを作ったジャー・ジャー・ピンクスが自分の罪を恥じて自決してくれることを希望(^o^)。コメディーリリーフはC-3POとR2-D2の二人だけで充分だって。 あ、でも吹替え版の田の中勇さんのジャー・ジャーはちょっと聞いてみたいかも。それに、クリストファー・リーは羽佐間“プリズナーNo.5”道夫さんだぞ! ドラキュラ役なら私なんかは千葉“フォーグラー博士”耕市さんの声が刷り込まれてるんだけど、これもまたヨキかな。
帰りにどこで食事をするかでケンカする。結局、金龍でラーメンに落ちつくが、たかが食事のことでどうしてこう争えるかね。
2001年07月06日(金) ニュースな一日/DVD『遊撃戦』第一話ほか
2002年07月05日(金) |
金曜で~とだ。一応/映画『マジェスティック』/『気になるヨメさん』1巻(星里もちる)/『クロノアイズ』6巻(長谷川裕一) |
時間帯が合わずに、しげと一緒に映画に行ける日も減っていたのだが、今日は先々週に引き続いてしげの仕事が休み。こういう機会はもう逃せない、ということで、仕事が終わるなり、粕屋方面に向かう。 何の映画を見るかは随分迷った。私は『パニック・ルーム』を見てみたかったのだが、しげが怖がってまた私の指だの腕だのをつねったり握りつぶしたりもいだり食ったりしそうなので自ら却下。 ジム・キャリーはできるだけ新作を追いかけているので、時間が長いし題材的にあまり興味は惹かれなかったが、『マジェスティック』を見ることにする。
映画までの時間つぶしに、「かに一」でバイキング。 「昔に比べてすっかり少食になった」とほざくしげ、肉を焼き、メシをくらい、新しいオカズが並ぶたびにおカワリに走る。 つまりしげの「あまり食べられないからバイキングはイヤ」というのは、「2千ナンボ払ってるんだから、五食分くらい食えて当然や! なのに三食分しか食えんやんけ!」という文句なのである。文句かそれは。 私がカニの脚の身を剥いて、ツルリと引き出すと、しげ、目を見張って「オレも剥く!」と取り上げようとする。 「なんだよ、食うのか?」 「食わんけど剥きたい!」 しげのカニ嫌いはひとえに「うまく殻が剥けない」という点にある。食欲が常に勝っているヤツなので、エビだのカニだの、食うスピードが減殺されるような甲殻類はしげの天敵なのだ。あるいはしげの前世はプランクトンでカニに食われてたものか。 周知の如く、カニの剥き方は要領さえわかっていれば至極簡単である。しかもこの店のカニ、殻にもう切れ目が入れてある。関節からもぎって引っこ抜けば、スルリと簡単に身が出るのだ。 「オマエ、剥き方知らんかったんか?」 「うん」 「『ここだけのふたり』で『カニってバカだよね、こんな剥かれやすいカラダして』って書いてあったじゃん」 「だからやると!」 むりやりカニを取り上げて、首を捻りながらカニの足も捻るしげ。 うまく身を引き出せて、ニヤッと笑ってカニの身を返されるが、なんだかねー、エサもらってるみたいで食欲が減殺されるねー。
まだまだ時間は余っているので、道すがらの本屋回り。 別府(「べふ」と読む。あの温泉とは別場所)の明林堂で本を物色していたが、ふと、金属製のパズルみたいなのがズラリと置いてあるコーナーがあるのに気づく。こういう「知恵の輪」は昔から大好きだったので、箱の空いたサンプルを一つやってみる。ひねくり回しているうちになんとか外してもとに戻す。 しげにも「やってみない?」と手渡す。つまんないプライドだけは高くて、ちょっとでも恥をかきそうになことになるとプイと逃げることの多いしげだから、もしかしたら「やらん」と拒絶するんじゃないかなー、と思いきや、意外にもすんなり手に取ってやり始める。 でもやっぱりしげ、どうしても外すことができない。とうとうあきらめて放り出す。なんかな~、やっぱりどこか根気が足りないんだよな~。
突然「わっ!」と声をかけられたので、ビックリして振り返ると、立っていたのは穂稀嬢。 「どしたの? こんなとこで」 「何言ってんすか。ここ、ウチの目の前ですよ」 そいつは知らなかった。っつーか、穂稀嬢をウチまで車で送ったことも何度かあるのだが、住所をはっきりと認識してなかった。そう言えばこのへんだったよなあ。 「しげさ~ん!」 「ハカセ~!」 いきなり抱き合い踊るしげと穂稀嬢。踊るといっても、リズム取りながらお互いのカラダを鏡に映ってるみたいに揺らしてるんだが、アレですよ、志村けんと沢田研次の鏡コントみたいな感じね。……本屋でいったい何やってんだか。 穂稀嬢、お母さんとふたり連れだったが、御母堂はこういう娘御のほよよんとした態度をどう見ておられるか。話によると穂稀嬢の悪行の数々を全くご存知ないようであるが(^_^;)。いやまあ、別にしげと不行跡があったわけじゃないけどね。 台本の話などして、辞去。
粕屋のサティに付いてもまだ時間は余っているので、あちこちの店を冷やかす。 しげがCD屋でなにかを探している間に、隣の本屋に行って買い忘れてた本を何冊か買うが、あとで見てみたら、もう既に買ってたやつだった。新装版だったので勘違いしたのである。最近ボケて来たのかこういう失敗が多い。ヤバいなあ。 ゲーセンでUFOキャッチャー、今日は調子がよくて、クマのプーさんのカップや、ミッキーマウスの飲茶セットなどを立て続けにゲット。 しげがステッカーがほしいというので、取ってやるが、相撲取りの絵に禁止のマークがついていて、「NO SMOKING」の文字。こーゆーしょーもないものをなぜ欲しがるかな。 と言いつつ、私もガシャポンで『あずまんが大王』のカプセルフィギュア(こう呼ぶことを最近知った)を三つも手に入れてたから人のことは言えないのだが(^_^;)。
ワーナーマイカル福岡東(粕屋)で、映画『マジェスティック』。 フランク・ダラボン監督の映画は実は初見である。すみません、『ショーシャンクの空に』も『グリーンマイル』もまだ見てないんです。エアチェックはしてるんですけど。別にスティーブン・キングが嫌いってわけじゃなくてただの偶然です。でもこれじゃ映画ファンと名乗れませんね。
「マジェスティック」というのは、映画中では「威風堂々」と訳されているが、本編では実は映画館の館名のことである。エドワード・エルガー作曲の軍隊行進曲『威風堂々』の原タイトルは“Pomp and Circumstance”なので、この曲を直接イメージしてタイトルを付けたってわけじゃなさそうだけれど、辞書を引くと“Majesty”にもやはり「荘重な、威風堂々とした」という訳が載っている。そう言えば、“Her Majesty”と言えば女王陛下のことで、『モンティ・パイソン』では王室関係のパロディのスケッチでは必ず『威風堂々』がBGMで流れてたから、アチラではこの二語は、関連語として認識されてるのだろう。 もちろん、単に映画館の名前以上の意味を制作者がこのタイトルに含ませたい意図は容易に理解できる。これはもう、アメリカの民主主義をあたかも「絶対王制」の如く、声高に主張した映画であって、深読みすれば「アメリカのやることは全て正しい」と言ってるみたいで、いささか鼻白む点もないではないのだ。
時代は赤狩り真っ最中の1951年。 主人公はしがない脚本家のピーター・アプルトン(ジム・キャリー)。 かつて女のシリに惹かれて(なんじゃそら)、何も考えずに共産党の集会に参加したことのある彼は、非米活動委員会から審問会に召喚される。 ところが“偶然”自動車事故に遭い、記憶喪失となった彼は、ローソンという田舎町で、その町出身の第2次大戦の英雄、ルークと“偶然”顔がそっくりったために、本人と間違えられる。 自分がルークかもしれないと考えた彼は、父親だというハリー(マーティン・ランドー!)の後を継ぎ、さびれた映画館、「マジェスティック」の再建に乗り出す。アデル(ローリー・ホールデン)という恋人もでき、順風満帆に見えたピートだが、委員会の調査の手はすぐそこに迫っていた。 そして、彼の本当の記憶が戻る日も……。
偶然がいくつも重なるご都合主義はこの映画の場合は欠点にはならない。 これはまさしく運命の不思議を通して、生きることの意味を問う物語であるからだ。 しかしこの映画の何が気になるかというと、これがまたヒネクレたものの見方だと指を差されそうだが、欠点らしい欠点が見当たらない点にある。 設定もストーリーも全くと言っていいほど破綻がない。 気取った演出も小難しい理屈もなく、俳優の演技も的確で演出も堅実、制作者の意図がこれだけわかりやすい映画もそうそうない。 でもそれは、映画としての枠組が優れている、というだけのことだ。言い替えれば、外形さえ整っていれば(基本を押さえた映像テクニックさえあれば)、中身がカスでも映画は「名作」っぽくなっちゃうのである。
「赤狩り」がアメリカの汚点であった、それはその通りだろう。マッカーシズムがファシズムであることを認めたというのは、アメリカが自らの罪を「反省」する態度すら持つ「民主的国家」であることを証明していると言いたいのかもしれない。 しかし、その「反省」の態度にこそ、逆に偽善を感じざるを得ないのだ。はっきり言って、「赤狩り」を題材に選んだのは、そけがアメリカ国民の誰もが「反省」していることを納得しやすいものだったからに過ぎない。あれが一番、わかりやすいし、罪を認めるのにたいした勇気は要らないのである。言っちゃ悪いが「桜の木の枝を折りました、すみません」レベルのものだ。広島・長崎の原爆投下やベトナム戦争や対テロ報復は「重過ぎる」し「正しい」と思ってるし、仮にもしかして間違ってるかもしれないとチラッとは思っても、やっぱり「反省したくない」から題材には選ばれないのだ。 そういう態度ってフツー、「卑怯」って言わない? そんな風に見ていくと、「威風堂々」がただの見せかけ、中身のない薄っぺらな「反省ぶりっこ」だよなあ、という気になってくる。反省したフリして実は主張を押しつけてくるというのは、小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』でしょっちゅう使ってた手だ。 ああ、そうだよ、これ、フランク・ダラボン版『ゴーマニズム宣言』なんだわ。映画としてはよくできてるしねー、ジム・キャリーやマーティン・ランドーの演技は必見と言ってもいいくらいなんだけどねー、民主主義に則ろうが結局あんたら好きで戦争やってるんじゃんってなもんで。結局は「臭いモノにフタ」して自己肯定、自分賛美してる映画じゃねー、まあ同情はしても共感はしませんわ。
帰宅して、ガシャポンを開けると、幸いダブりはなし。 ちよちゃんとともとおーさか。榊さんがなかったのは残念だが、おーさかがゲットできたからいーや。おーさかのムネがぺたんとしてて手の甲が前向きで、脚が外またなのが実にリアル。制作者、よく女の子を観察してるよなあ。もともと原作者のあずまさんがアチラ方面のご出身というのが作用してはいるのだろうが。でも体型をいちいち見られてるってのはやっぱり女性はイヤなんですかね。女性が気にするほどに男はそんな外見的なものを気にしちゃいないんだけど、一部のヘンタイの持ってるイメージに踊らされてるからねえ。 パソコンの上に並べるが、もうスペースが目いっぱいになってるので、鬼太郎フィギュアを後ろに回す。それでも水木ファンか! と誰かから怒られるかもしれんがやっぱ並べて楽しいのは妖怪よりもきれーなね~ちゃんでしょう(^o^)。 ……だからたかが人形じゃん、怒るなってばしげ。
マンガ、『気になるヨメさん』1巻(小学館/ビッグスピリッツコミックス・530円)。 オビに「星里もちるの善意と悪意! 同時発売!」とあるのは、『本気のしるし』5巻が一緒に発売されてて、それとはマンガの傾向があまりに違い過ぎるから、注意を喚起するためなのかも(^o^)。 『危険がウォーキング』以来、ほのぼのギャグが星里さんの持ち味、と思い込んでいたファンにしてみれば、『リビングゲーム』で青年誌に進出して以降、シリアスの度合いをどんどん深めていく傾向(と言えば聞こえはいいが、実体は「人間関係ドロドロ化」)にある星里さんの作風に違和感を感じていた分、この『気にヨメ』の加奈子さんの脳天気さには、ホッとさせられるものがあると思う。 いや、フツーに考えたらこの加奈子の設定、男の反発くらってもおかしくないいんじゃないかと思うんである。 後先考えない「飛び入り好き」で、いくら結婚届をまだ出してなかったからって、一応は夫婦生活を営んでるツマがだよ、ミスコンに飛び入りしてグランプリまで掻っ攫っていけしゃあしゃあとしてるなんて、ちょっとひどすぎないかい? しかも、そのミスコンを主宰してる会社が、「偶然にも」主人公の塚本くんの取引会社だったせいで、上司命令で一年間「ミスで通させる」ってのは、いくらマンガだからって現実離れし過ぎている。そこまでしてヒロインを「ミス」として立てなきゃならんか? ってなツッコミの一つも2ちゃんねるあたりではやってそうな気がする(覗いてないけど)。 それでもなお、星里ファンの大半(もちろんオトコ)が可奈ちゃんを「かわいいなあ」と思ってしまうのではなかろうか。それは例えば、ミスコンを主宰したタイヨウ堂の社員が、いきなリ主人公の自宅を訪ねてきたときに、可奈ちゃんがメガネをして髪を上げて、しかも関西弁まで喋って(わざとではなくたまたま関西に行ってたので移っただけってところがいかにも天然)うまく誤魔化したりするそんな健気さにもあるんだけれど、やっぱりファンの「もうあんまりドロドロした人間関係は見たくない」心理も働いてないか。 でもこれが読者としての私の勝手なところなんだけれど、一度『本気のしるし』であれだけどーしよーもない男と女の関係を描いているのを見せつけられてると、今更『気にヨメ』でほのぼのーとしたもの見せられても、どうしても「ウソっぽいなあ」と感じてしまうのである。 坪田さんのような恋のライバルを登場させておいても、ライトなシチュエーションコメディだからってことなのか、誰かが傷つくような展開にはならない。もうアレですよ、主人公たちが夫婦であるってことを隠してて、夫にも妻にも恋のライバルが現れるって図式は、設定としては往年のテレビドラマ『奥さまは18歳』と全く同じね。ハラハラはするけどドロドロには決してならない、多分ラストでは二人が夫婦って事実はバラされるんだろうけれど、やっぱりトラブルは丸く収まってハッピーエンド、というヌルイ展開になることは容易に予想がつく。そんなんでいいのかね、ホントに。 でも、『気になるヨメさん』ってタイトルも気になるなあ。 知ってる人は知ってるが、このタイトルもやはり往年のテレビドラマ、榊原るみ・石立鉄男主演の『気になる嫁さん』から取ってることは確実。あれも死んだ弟の未亡人(と言っても式を上げただけで結婚生活はまだ)が男兄弟の中にいきなり飛びこんできて、という危うい設定だったんだけど、その最終回、結構、切ない終わり方してたんだよなあ。 もしかして、ほのぼの路線に見せかけてるのは、実はラストでどんでん返しで悲劇的に終わらせようと考えてるんじゃ……? あんなに二人ががんばってるのにそりゃいくらなんでも悲し過ぎないか。 ……ってよ、ああ、もう、言ってること支離滅裂。私ゃ結局ハッピーエンドにしてほしいのかほしくないのかどっちなんだよ!
マンガ、長谷川裕一『クロノアイズ』6巻(講談社/マガジンZKC・560円)。 第1部完結。 ううむ、うまいなあ。 前巻で主人公の大樹が、“確実に”“間違いなく”“絶対に”“何一つタイムパラドックスを起こさずに”死んじゃったので、さて、これをどう解決するかと思ってたのだけれど、あれをああしてこう来たか。 ちょっと書いただけでもネタに触れちゃうので、書き方が難しいのだが、SF作家たちが時空間理論について頭を悩ませている課題について、実に明快な、しかもこれまでにない新解釈を考案している。 タイムパトロールたるクロノアイズには、歴史上、何の影響も与えない人間が選ばれるはずなのに、カラミティ・ジェーンはいるわ、宮本武蔵はいるわ、アトランティスの王妃はいるわ、ミトコンドリアイブはいるわ、こりゃどういうこと? って謎にも、ちゃんと筋の通ったリクツが付くようになってる。 そうか、この手があったか! ってなもんで、久しぶりにセンス・オブ・ワンダーを感じさせてくれるSFマンガに出会えたって印象で、頗る気分がいい。
でも実は一番気に入っているのは、シリアスなストーリーの合間に差し挟まれるギャグと適度なエッチだったりする(^_^;)。いや。いいぞ、「ニセクロノアイズ」(^o^)。アレだけ活躍しといて、最後はちゃんとオチ付けてくれるあたり、美味しいよなあ。えっちのほうも第1部完だけあって大盤振る舞いだね~。アナが脱がされるのは当然(^_^;)としても、ペル、パペッティア、ハデスときて、スリーピーまで脱がしてどーする。首から下しかないぞ。いやもー、この、「女の子キャラは脱いでこそ命!」という信念こそ、漫画家の鏡というものでありましょう。 ……この程度でセクハラなんて文句つけるなよ、エセフェミニスト諸氏。
2001年07月05日(木) 疲れてるとかえって饒舌/DVD『アリオン』ほか
2002年07月04日(木) |
丼より皿/『快傑ズバット大全』(ブレインナビ)ほか |
仕事がたて込んで、帰りがちょっと遅れる。 途端に帰り道がやたら渋滞。信号で横入りしてくる車がやたら多くて、ホントに一台も動かない。 しげと、晩飯は「めしや丼」で、と約束していたのだが、その「めしや丼」が目の前10メートルのところに見えているのに、前の車がビクとも動かないので、全然、駐車場に入れない。 「オレはそこに入りたいだけなんだよ~!」 と雄叫びをあげるしげだが、前の車に聞こえるはずもなし。 私だって、仕事帰りは当然腹を減らしているのである。叫びたいのは山々だが、そんなことをしても空腹感が癒えるわけもない。隣に飢えた狼がいて吼えているのを聞いていると、ますますハラがグーと鳴り始めるが、どうにもならない。 糖尿病のせいだろう、喉も異様に乾いてくる。「めしや丼」の前の自販機がすぐそこに見えるので、先に降りて飲み物だけでも飲んでやろうかとふと思うが、またしげに「自分一人だけぇ」とブチブチ文句言われるのも気が滅入るのでひたすら耐える。
信号待ちを何回繰り返したか、ようやく店に入るが、真っ先にお茶に飛びつく。この店はお茶さしがテーブルに置いてあるのがありがたい。 期間限定で「ウナギ定食」「ウナギ丼」が出ていたので、しげが定食、私が丼を頼む。皿より丼の方がウナギは美味い、というのは『美味しんぼ』からの知識だが、腹に入ればどちらも変わらん。ここは定食だとご飯のお代わりが利くので、しげはいつも迷わず「丼より皿」である。 あ、これ、コトワザになるな。みんなも使おう、「丼より皿」。意味は「食欲は全ての欲に勝る」(^o^)。 『美味しんぼ』のウンチクもしげの食欲には叶わないのだな。スーパーで一尾千円もするようなウナギを買うより、ここの780円の定食を食ったほうが、冷奴も味噌汁もついてくるし、ずっと安上がりである。
帰宅するなりドッと疲れが出て、横になる。 新番アニメの『ふぉうちゅんドッグス』、漫然と見るが、『ハム太郎』の路線を犬でやろうって感じの作品であまり好感が持てない。そのまま『アンビリバボー』の心霊モノを見てたら、怖がりのしげが悲鳴をあげて「消して消して!」と騒ぐ。「じゃあ電気を消そうか?」と、部屋を真っ暗にしてテレビだけ点けといてやろうかとも思ったが、さすがにちょっと意地悪かな? と思ってやめる。 眠気激しく、あとはもう意識がない。 9時くらいに寝て、朝まで全く目覚めなかったってことだ。おかげで日記の更新もできなかったけど、こういう日もあるわな。
ブレインナビ編『快傑ズバット大全』(双葉社・2100円)。 しげが読んで「宮内洋って、丹波哲郎のお弟子さんなんだ!」とびっくりしていたが、やはり『キィハンター』からの流れを知らない人には、そういう基礎知識も伝わっちゃいないのだよなあ。 そういう意味でも、こういう、微に入り細に入り、詳細を極めたようなムックが出版されるということは意味のあることだろう。 私にしたところで、『ズバット』はテレビでは一度も見ていない。 もちろん、嫌いだったわけではない。情報だけは『テレビマガジン』などで知ってはいた。 何しろ普通のヒーローとは設定があまりに違いすぎる。 私立探偵でギターを抱えた渡り鳥で(この時点で既に設定に矛盾がありすぎるな。出張販売の探偵って、『パラノイアストリート』かい)、指を立てて「ちっちっち、お前は日本で2番目だぜ」みたいなキザなセリフを吐く小林旭と宍戸錠をこき混ぜたようなキャラを、あの宮内洋が演じているのだ。「ズバッと参上、ズバッと解決!」だなんて、ケレン味ありすぎ。しかも、敵は悪の組織とは言え、怪人とかの類ではなく「用心棒」なんである。『仮面ライダー』とは異質も異質、こんな、デタラメで笑いどころ満載の設定、いったい誰が考えついたんだってなものである。 こういう素っ頓狂なドラマを私が嫌いになるはずがない。 もっとも、嫌いにはならなかったが、引いてはいた(^_^;)。どっちにしろ、実物を見ないことには話にならない。面白いか面白くないか、ともかく見てみたいなあ、とは思っていたのだ。 でも、見ようったって、本放送時、福岡じゃ放送してなかったのである。当時は系列局がなかったんで、東京12チャンネル(現テレビ東京)の番組って、ほとんどこっちには来なかったんだよねえ。考えてみりゃ、テレビQが開局しなかったら、『エヴァンゲリオン』だって見られなかったかも知れないのだ。あーあ、福岡は田舎だ(+_+)。 果たして、再放送がどこかの局であったのかどうか、あったとしても今度は時間帯が合わなかったのだろう、結局、LDで『快傑ズバットメモリアル』を見るまで、ウワサのみ聞くばかりで、全く本編を見る機会がなかったのである。
基本的に、自分が見たことのある番組でない限り、こういうムック本を私は購入しないのだが、そういう事情なので今回は買った。読んでやっぱり思うことは、「本編が見たいぞー!」である。 設定やストーリー展開はやはりデタラメ。『さすらいは爆破のあとで』とか『大神家一族の三姉妹と天一坊』なんてサブタイトル眺めるだけでこの脚本家、脳ミソ膿んでるんじゃないかと思ってしまうが、実際膿んでるやつだった。『弟切草』の長坂秀佳。ドラマ作りのノウハウを知らないし節操はないし、脚本家ワーストテンを作ればまず間違いなくトップ候補の御仁である。だからこの人の脚本をまともに映像化するとホントにただの駄作になってしまうのだが、アホに徹して作ると『キカイダー01』のように見事なバカドラマができあがるのである(01がビジンダー=志穂美悦子のムネのボタンを外そうとする迷シーンは長坂脚本の真骨頂だろう)。この人がどれだけバカかというのは、巻末のインタビューを読んでもすぐにわかる。「日活映画なんて現実離れしていてなんかバカバカしい」なんて、おまえが言うか(~_~;)。 しかし、そのバカ脚本を更に上回る演出で堂々たるバカドラマを作り上げた役者と監督はエラい。宮内洋と田中秀夫に脱帽である。こうなると早いとこDVDボックスを出してほしいと切に思うが、サイフの都合もあるので、できれば来年あたりに(^_^;)。
2001年07月04日(水) 喉が異常に乾くよう/DVD『少年ドラマシリーズ ユタとふしぎな仲間たち』ほか
2002年07月03日(水) |
妻のどこまでも広い背中/『デボラがライバル』1・2巻(多田かおる)/『20世紀少年』9巻(浦沢直樹)ほか |
今日もまた晩飯は「王将」。 もうメニューを右から順番に全部食べて行こうかって気になるな。 ちょうど季節限定メニューで、冷し中華みたいなのを売り出しているが、これが露骨に「リ○○ー○○ト」の「○'s ○○ダ」のパクリ。競争社会だし、パクリ自体、悪いとは言わないが、だったら「リ○○ー」のより美味しくしないと。 不味くはないんだけど、麺が「リ○○ー」のより一段落ちる。
しげ、運転をしながらウツラウツラとしている(おいおい)。 いったいどうしたのかと聞いてみると、昼間ほとんど寝ていなかったらしい。 夜、パートに出ているわけだから、睡眠時間はどうしたって昼間確保するしかないことは自覚してるはずである。 「なんで寝らんやったと?」 「鴉丸っぺんとこに行ってたんだよ。用事があって」 事情を聞いてみると、こちらが向こうに出向いて行くんじゃなくて、向こうがこちらに来るのがスジだと思われる用件である。結局、しげが鴉丸嬢に気を遣って出向いてあげたってことなんだろうけれど、何も睡眠時間削ってまでしてあげるこたあないよな。何か理由があって忙しいのだとしても、それはあちらもこちらも同じだろうに。 でもねえ、どうせ、しげも会って遊びたかったに決まってるんだよ。 となれば、一概に鴉丸嬢を責められるものでもない。ケガしたときもそうだったが、しげは周囲がいくら気遣っても、それを自分のほうから裏切る行為を平気でするのである。足が痛いのにジャンプしてやがったしな。そんなアホなことばかりしてたら、しげのことを心配するだけ無駄って気持ちにみんななるよ。 それどころか、トバッチリはいつも私に来るのだ。 「あ……マジでヤバい。落ちそう……」 「寝るなバカあああああ!」 いやね、なんとか無事、帰宅できはしたけどね。しげのこの後先考えない行動パターン、いったいいつまで続くのか。いつか改まる日が来るのか。私の心臓が破裂するほうがよっぽど早いと思う、とゆ~か、明日にも来そうな気がするんですけど。少しはそのこと考えてくれってばよう(TロT)。
しげ、鴉丸さんから千円預かってくる。 「BOOK OFF」で見つけた『バンパイアハンターD』の代金だけれど、もちろん全額ではない。チビっこいクマの柄つきの封筒にメモ書きされていて、「ビンボーなんで千円だけ払います。あと3600円」、とあるが、この「ビンボー」ってのがシャレじゃないっぽいのが涙をそそる。 「貧乏は罪悪ではない。だが一文無しの貧乏は罪悪である」と、マルメラードフは『罪と罰』の中で酔っ払いながら語ったが、鴉丸嬢、罪悪に片足突っ込みかけてないか。早いとこ稼げるようになれよ。
先日の能古島土産の黒炭石鹸というやつ、しげが試してみたいと言うので、「試せば?」と手渡すが、どうもしげが妙にモジモジしている。 「なんだよ、風呂入るならさっさと入れよ」 「あのね、お願いがあると」 あ~また、「お願い」だよ(-_-;)。 「女のお願い」がどれだけ危険かということは、川崎実とあさりよしとおが『地球防衛少女イコちゃん』であらゆるパターンを描ききって証明している大事実である。 どうせロクなもんじゃあるまい、とは思ったが、聞く前に「やだ」とも言えない。一応、聞いてやりはするが、どうしてもぶっきらぼうな態度になってしまうのは仕方がない。 「なんだよ」 「背中洗って」 「なんでだよ、自分で洗えねーのかよ。ボディーブラシがあるだろ」 「……届かんとよ」 太り過ぎじゃあ、ボケええええ! え? で、実際に洗ってやったかどうか、聞きたいですか? あの、この日記を読んでたら、私としげと、どちらが実質的に立場が上か、わかりませんか?
アニメ『ヒカルの碁』第三十八局「挑戦者たち」。 プロ試験本戦もいよいよ本番。 越智とアキラが接触するあたりだけれど、原作ではアキラの非道ぶりがなかなか際立ってたけど、意外とあっさりした演出で流してるね。 ヒカルの実力を確かめるためだけの当て馬にされちゃった越智、原作じゃ結構かわいそうに見えてたけれど、アニメはキャラデザインで等身が随分伸びていて、アキラに比べてすごくチビって印象がない。これ、別にキャラデザイン段階で越智を大人にしたわけでなく、単に各話作監の個性の違いにすぎないように思うんだが。本橋秀之さん、総作監の仕事をキチンとしてないのか、それともあれでもがんばって修正しているのか。 等身が伸びれば、当然「目線」も変わる。 見下ろすアキラと、見上げる越智の、その位置・角度の違いが、自然とアキラと越智との囲碁の実力の差、心理的立場の差を表現していたのに、それを平行にしちゃぶち壊しだ。こんな演出は初歩の初歩なので、どうしてこんなバカなことをやっちゃったのか、理解に苦しむ。 これまで、そんなにバカな演出は見当たらなかった『ヒカ碁』なだけに、これからのクライマックス、ちゃんと演出できるのかねえ、と心配になる。総監督のかみやじゅんさんの目も各話演出までは届かなくなっているのだろうか。
マンガ、多田かおる『デボラがライバル』1・2巻(完結/集英社文庫・各630円)。 多田さんの死去は本当に突然だった。 そんなに追っかけてたってマンガ家さんでもないのだけれど、『愛してナイト』の文庫版あとがきで、「トシをとっても、ダンナと子供と、一緒に暮らしてられたらいいな」と書かれたわずか一年後の死である。神様はいないねえ、としか言いようがない。 今でこそ、少女マンガのヒーローがバンドマンでロックやってて、なんてのはありふれてるけれど、先鞭をつけたのは『愛してナイト』だったと思う。 少女マンガを中心に読んでたわけじゃなかったから、門外漢の感想でしかないけれど、それまでの「憧れの君」ってのが、スポーツマンで品行方正でってな感じだったのが、亜月裕の『伊賀野カバ丸』あたりで崩れて、そのあとに来たのが『愛してナイト』ってイメージが私にはある。 お世辞にもアニメ版のビーハイブの歌は上手いとは言いがたかったけれど、アニメ発のロックってのはやはりエポックメーキングとして評価しておくべきだろう。作者にそんな意図はなく、自分の好きなものをそのままマンガに描いたただけだとは思うが、そういう「自由の風」が、旧態依然として見えていた少女マンガの世界にも吹き始めていたのだろう。
『デボラ』も、ヒロインの惚れた相手が「おかま」(「ホモ」って表現はまだ避けてるなあ。裏表紙の内容紹介では「ビジュアル系」って書いてるけど、そりゃ違うでしょ)だったという、少女マンガとしてはかなり「冒険」的なストーリー。しかも最初は女嫌いだったのがだんだんヒロインの朝代に惹かれていくのだから、これはもしかしたら日本初のバイセクシャルを扱ったマンガかも?(エロマンガにあるかもしれんが詳しく知らん)これ、題材の斬新さ一つ取ってみても、もっと注目されていい作品なんじゃないかな。 くらもちふさこと聖千秋による対談解説では、デボラのモデルになった人が実際にいたようである。普通の少女マンガ家だったら、たとえどんなに身近に魅力を感じる人がいても、これはちょっとマンガには……と引いてしまうところをあっさり描いてしまうところに、自然と多田さんの人柄が忍ばれる。聖さんが「人間に対するキャパシティーが広い」と言ってるのもそのあたりを指しての発言だろう。 マンガとしては、設定やキャラクターは面白いのだが、連載は単発読切の断続掲載形式だったらしく、エピソードとエピソードの連関性が薄いのが弱い。 朝代とデボラを取り合うライバルになるかと思われたいかにも和風美少女の亜樹とか、隣室のお堅い公務員のメガネさん(でも実は美形)の杉本さんも、自由奔放なデボラを振り回せるグラマー美女の片貝先生とか、いいキャラたくさん出しときながらほとんど一発キャラで再登場しないのだもの。もったいないったらありゃしない。アニメ化して、間のエピソードを埋めるようにして一年間くらい放映してほしいくらいのものだ。
そういえば、この作品、吉川ひなの主演で映画化されている。 これは未見だけれど、ほかの「ぼくたちの映画シリーズ」、『友子の場合』や『That's カンニング』なんかは意外なことに(シツレイ)出来がよかった。機会があれば見たいと思ってたのだが、デボラが『ゴジラ×メガギラス』の谷原章介ってのはちょっと違うんじゃないか(^_^;)。でも篠原ともえ出てるし、やっぱり見てみたいなあ(『大怪獣総攻撃』の篠原がよかったからという、どうしても特撮モノに結び付けて評価してしまうあたりが我ながら何ともはや)。
マンガ、浦沢直樹『20世紀少年』9巻(小学館/ビッグスピリッツコミックス・530円)。 あれ? 「登場少年紹介」にケンヂについて「2000年血の大みそか」で命を落とす、とか書いてあるけど、行方不明じゃなかったの? たしか死のシーンはまだ描かれてなかったと思うんだけどなあ。どこかでケンヂには生きててほしいって気持ち、これ、読者共通の願望だと思うんだけれど、人物紹介でそんなあっさりと打ち消すなよう。 キョンキョンもなんか廃人っぽくなっちゃったし、これ以上誰にも死んでほしくないんだけど。これからはやっぱりカンナたちに劣勢を巻き返す方向にどんどん行ってくれよ、でないともう、ハラハラし通しで……ってそれだけ浦沢さんのドラマ展開がうまいってことなんだよなあ。 孤独な戦いを強いられていたカンナもどうやら中国マフィアの協力を得られそうだし(このあたりの展開、『コータローまかりとおる』と似てるけど、困った時の華僑頼りって、そんなに日本は"裏"で中国に牛耳られてるのか)、ついにオッチョとの再会を果たしたし、どんどん盛りあがって行くのだけれど、未だに「ともだち」がなぜケンヂの予言の書通りの世界を作ろうとしているのか、新たに現れた「しんよげんのしょ」は果たしてケンヂが書いたものなのか、解かれていない謎はまだまだ多い。 その謎が解かれた先にあるものがあまり悲惨なモノにならないように望む。これは「20世紀少年」の夢を描くマンガじゃなかったのか? せっかく「本格科学冒険漫画」と銘打ってるんだから、スカッとした終わり方をしてほしいぞ。 ……あと、邪推かもしれんが、万博を出してきたあたり、浦沢さん、『オトナ帝国の逆襲』見てないかな?
2001年07月03日(火) 頭痛のせいでネカマ風(-_-;)/『黒衣 ―KUROKO―』2巻(高橋葉介)ほか
2002年07月02日(火) |
アニメ見るのは浮気じゃないよん/アニメ『最終兵器彼女』第1話/『エクセル▽サーガ』9巻(六道神士)ほか |
仕事が空いたので、半日休みを取る。 買い物したい品が溜まっていたので、しげとウチの近所のベスト電器で生テープその他を、マルキョウでコメほかの食料を買い込んで、更に博多駅の紀伊國屋書店を回る。 しげは博多駅近辺は車を停めにくいからあまり行きたくないと言うが、そんなことはない。確かに郊外型の本屋はたいてい目の前に駐車場があるが、博多駅の紀伊國屋はバスセンターの6階にあるので、側の駐車場に車を停めても、エスカレーターを昇らなければならない。その程度でもしげは億劫がるのだ。 本屋や映画館に行くたびに、すぐ「疲れた。キツイ。酸欠起こした」と言って泣くのだが、からだ鍛えてない上に無目的にうろつき回るから疲れるのである。息を吸わないから酸欠を起こすのである。人がいるところや閉鎖空間に入ると息を止める癖を直せばいいだけじゃん。自分で自分のコントロールが出来ないってだけなのにグチグチ愚痴られても、わしかて知らんわ。どうせいちゅうんじゃ。 あまり長居はできず、2階のマクドナルドで昼飯をテイクアウトして帰る。
昨日見てた『名探偵登場』を見返してたら、オープニングとエンディングに出てくる各キャラクターのイラスト、チャールズ・アダムスが描いていたことに気づく。 もちろんこれはあの『アダムス・ファミリー』の原作者。 似顔絵としちゃまるで似てないんだけれど(特にピーター・フォークは愛川欽也にしか見えない)、いかにもアダムス風のキャラもいて楽しい。アレック・ギネスの執事は白目剥いてて妖怪っぽいし(鼻にピストル突っ込まれてるけどな)、マギー・スミスやアイリーン・ブレナンはちょっとモーティシアが入ってるし、ジェームズ・ココはゴメスっぽい。 『アダムス・ファミリー』も原作の絵柄のままでアニメ化できたら相当おもしろいものになると思うんだけど、アメリカにはそれだけの技術があるスタジオがないからなあ。輪郭線のハッキリしたキャラじゃなきゃ、ディズニーもハンナ・バーベラもアニメ作れないし。 それこそ、スタジオジブリが『となりの山田くん』の技術を使ってアニメ化したら面白くなると思うが、絶対ヒットはしないな(^o^)。 ……そう言えばチャールズ・アダムスってまだ生きてるのか?
WOWOWアニメ新番組、『G-onらいだーす▽』第1話「飛び出せ! イチゴ」を見る。 なんの予備知識もなく見たのだけれど、まあまあおもしろい。 設定としては宇宙人が日常的に地球に攻撃をしかけてるって話なんだけど、この宇宙人の操るメカが「ファンシー獣」といってやたらかわいいのがフザけてていいね(足音か鳴き声か知らんが、ふにふに~って言うかぽえぽえ~って感じで音出してるのよ。……丸っこいイカが)。 操縦してる宇宙人もネコ耳で「にゃ~にゃ~」喋る女の子。どうやら下請けで地球征服を依頼されてるらしい。
聖星川学園に転校してきたばかりの女の子、倉間ユウキは、偶然ファンシー獣の攻撃に巻き込まれるのだけれど、そのとき現れてユウキを助けたのが、「G-onライダース」と名乗る、学園一の優等生嵐山セーラと、見るからにお嬢様な星川ヤヨイの二人。 このあと、ファンシー獣にイチゴ模様のパンツ(サブタイトルの「イチゴ」って、キャラの名前じゃなくてパンツのことだったのね)を吹き飛ばされたことにも気付かず、ノーパンのまま学園生活を送り始めるユウキ……。『ハレンチ学園』や『クルクルくりん』にもそんなエピソードがあったなあ。でも昔のマンガと21世紀のアニメととどこが違うかというと、ユウキちゃんは自分がノーパンであることに最後まで気づかずにアクションし続けるのである。 事情を知ってなんとかナニがナニするのを(いや、アニメだからホントにナニがナニするわけはないんだけど、ナニしそうな作画は随所にあって、意外とドキドキするのよ、これが。……ってするなよ)防ごうとする同級生の本郷一朗くんが叫ぶ。 「この子、天然だ~!」 つまり、この話、天然ボケ少女のギャグアクションなわけなんだね。 こういうマヌケなギャグアニメは好きなんで、ちょっと追っかけてみるかな。
CSファミリー劇場初のオリジナルアニメ、『最終兵器彼女』第1話「ぼくたちは、恋していく」。 原作の完結巻、どこか本の山に隠れてて読んでないんだよな。 アニメ化されたことでもあるし、読まずに放映が終わるまで待ってみようかな。 月9ドラマみたいなサブタイトルには拒否反応を示すオタクも多いんじゃないかと思う。何しろ月9とアニメの間には深くて長い川があると誰かが言ってたし。実は私だが。 実際、中身も第1話の途中までは、もう、石を投げつけたくなるくらい「青春」しちゃってますからなあ。「恋愛のしかたなんてわかんね」とかゼイタクなコトほざいとりますぜ、主人公のシュウジ。こういう主人公には思いきり不幸になってもらわなければ、お天道様は許しても、独身で三十過ぎても青春の淡い思い出などただの一つもない淋しいオタクには決して許されないでしょう。 そうです。オタクの希望通り、ドジでノロマなカメだけれど可愛い可愛いちせちゃんは、なんと突然起こった戦争に対抗するための最終兵器に改造されてしまったのです。
一歩間違えれば大笑いなこのストーリーを、どこまで「本気」で見せられるか。高橋しんの原作は常にそういう「危険」の上を綱渡りしているところがあって、以前ドラマ化された『いいひと。』は、草彅剛の背中に羽を生やさせるなんてバカ演出で台無しにしてくれていたが、今度は「アニメ」である。実写はただ撮ればいいだけですむ面があるけれど、アニメは画面の隅から隅まで気を配らなければならない。けれど制作があの『青の6号』のGONZOとなれば、これはやはり期待したくなる。 しかも監督は『ボトムズ』の加瀬充子さん。真剣に取り組んでくれることは保証付きだ。そうなると、必ずしも原作の展開に納得しがたい印象を持ってはいても、アニメならではの演出で「魅せて」くれるのではないかと、1話を見てみた。 事実、充分期待に答えられるだけのレベルに達していることは、やはり特筆すべきことだろう。ちせの涙を流したときの表情、その涙を腕で無造作に拭う仕草、アニメーションでありながら一瞬、本物の肉体が与えられたかのような細かい演技。いや、これだけでも充分感動してしまったのだが、意外にも声優がみんなハマっている。 主演の石母田史朗、舞台俳優で声優はこれが初めてだということだが、アニメ的に誇張された声でもなく、かと言って日常的過ぎる声でもなく、適度に「リアル」を感じさせてくれている。ちせの折笠富美子、チョイ役が多くてこれまであまり意識したことはなかったが、いつもシュウジにすがっているようでいて、「シュウジって可愛い」と言ってのけるあたりのセリフに微妙に「お姉さん」なところも感じさせる絶妙な演技。……上手いよ、この人。 1話の出来によっては続けて見るかどうか迷ってたけど、これは新番の中でもイチオシになるかも。
しげに「『最終兵器彼女』、出来いいぞ」、と声をかけたが、「ふーん」とだけ答えて仕事に出かけてしまう。どーせしげのことだから、「私以外の女(←ちせ)に目移りしやがって」とか思ってんだろうな。 そんなに焼き持ち焼くなら、こちらが目移りできないくらいにセクシーダイナマイツになってみせるとか、そこまでいかなくても、も少し恋人っぽいムード作りしてみせたりとか、恥じらいとか切なげな態度とか、なんか男心をそそらせるような演技の一つでもしてみせたらどうだ。要は素材の問題ではないぞ。
そのまま何気なくCSを見てたら、懐かしの大映ドラマ、『スチュワーデス物語』をやっていた。 実は本放送時(これももう20年くらい前か?)それほど熱心に見たことはなかったんで、何気なく見てみたけど、いやもう、何つ~か、言葉にできないくらいスゴイね、これ! もちろん、「出来がいい」という意味では決してないぞ。 人気が爆発したのもわかるくらい弾けてるっつーか、脚本も演技ももう、壊れまくり。出来がいいどころか、評価するしないなんて見方を、すぽーん、と飛び越えちゃってるよ。ある意味、これはエンタテインメントではなくてアート映画だね。いや、マジでそう思う。
とことんモノ覚えが悪い(それでよく試験に受かったな)松本千秋役の堀ちえみ、お客様にお出しするチーズの特徴が覚えられず、村沢教官の風間杜夫に居残りさせられる。 で、風間杜夫が持ちこんで来たのがカセットデッキ。流される音楽がなんと榎本健一の『洒落男』!(「お~れ~は村中~で一番、モボだと言われ~た男♪」ってヤツな) 「おれはこの歌でチーズの種類を覚えられるように替歌を作ってきた! さあ、踊るんだ! 松本!」 で、ホントに堀ちえみ、「私ぃは、イギリスぅで一番、美味しいと言われ~たチーズぅ」とかなんとか歌いながら踊るし。しかも歌も踊りもおまえ本職ホントに歌手かっ? て言いたくなるくらいどヘタクソ。風間杜夫のほうがよっぽどうまいぞ。って、こんな居残りしてるほうがよっぽど異常なんだが(~_~;)。 このあと、堀ちえみに嫉妬した、風間杜夫のフィアンセ役の片平なぎさが、風間に向かって「あなたは私のものよ! どんな手を使ってもあなたたちの仲を引き裂いてやるわ!」と叫んで陰謀を巡らせる。堀の義父役の長門裕之を焚きつけ、「村沢教官が千秋に乱暴した!」とデッチアゲて、風間杜夫をクビにさせようとするのだけれど、あの、それって恨みのベクトルが違っちゃってない? 普通は堀ちえみのほうをやめさせようとするんじゃないの? 更に、長門に直談判に来た堀ちえみ、長門の後ろに誰かがいると察するや、いきなり長門をソファに押し倒し、「言え~! 誰に頼まれたの~!」とクビを締める。……そんなバカな展開あるかって、知らない人は思うでしょう。ウソじゃないのよ、これが! 別に推理ものでも何でもない普通のドラマで、ヒロインに殺人未遂を起こさせたドラマが古今を通じて一本でもあっただろうか? こりゃ例えてみるなら、まるで、『男はつらいよ』で、さくらが「お兄ちゃんのせいで私がお嫁に行けないのよ!」と言って寅次郎のクビを絞めるようなものだ。例えんでもわかるか。 こ、怖いぞ強いぞ、堀ちえみ! 深田祐介の原作はこんなんじゃなかったはずだけどなあ、と思いながら、脚本・監督の名前をテロップで見て驚いた。 増村保造……。マジ? 谷崎潤一郎の『卍』とか江戸川乱歩の『盲獣』とかを映画化したあの? いや、そりゃ確かに大映の監督さんだったけどさあ。作風が、ちょっとと言うか全然結びつかないんですけど。 確かに、この人にも三島由紀夫主演というトンデモ映画『からっ風野郎』とかがありますけどね。
けれど、これまでこんなにすごいドラマだと知らずにいたのはそれはそれで残念なのだけれど、今見られてよかったような気もするな。本放送時に見ていたら、当時は私も若くて頭でっかちだったから、ただ単にくだらんドラマだとしか思わず、二度と見ようとしなかったかもしれない。 でも、今更大映ドラマにはまっちゃったりしたら、『スクールウォーズ』とかも追っかけなきゃならなくなるのか。そこまでの気力は続きそうにないんですけど(^_^;)。
マンガ、六道神士『エクセル▽サーガ』9巻(少年画報社/YKコミックス・520円)。 そろそろクライマックスが近いのかな。ついにというかアニメに追従するような感じにはなったけれど、『エクセル』本編にも『ダイテンジン』が登場したし。このまま勢いで蒲腐ロボも出すのかね。 最近は『ホーリー・ブラウニー』の方が面白くって、『エクセル』はそれほどでもないんだけれど、それはひとえに思わせぶりが長引き過ぎてたせいなんだよね。エルガーラはどうやらイルパラッツォ様から秘密の任務を託されてたみたいだし、キャラクターがこのまま暴走してくれれば、もうひと波瀾もふた波瀾もあるだろう。やっぱさー、ギャグはどこかつん抜けたとこがないとね。 それと、やっぱり御当地ネタで爆笑できるのは地元民の特権。岩田が改名して三越になるってネタ、岩田屋関係者が読んだらどう思うかなあ(福岡老舗の岩田屋デパートは新参の三越に販売競争で負けたのであります)。実際には岩田屋は伊勢丹になったわけだが(名前だけ岩田屋のまま)。
夜、仕事から帰ってきたしげを誘って、五風で晩飯。 今日見た『スチュワーデス物語』の話をすると、しげのほうが大映ドラマをよく見ていた。例のチーズの歌、記憶があるとか。そのころしげは小学生か幼稚園だったろうに、よくそんなの見てたものだ。 しげの話によると、風間杜夫が最近テレビのインタビューで「『スチュワーデス物語』ですか……、シュールなドラマでしたよねえ」と話してたそうな。シュールなんて言われちゃったぞ増村保造。これも映画監督としては勲章になるのかね。
2001年07月02日(月) ばとんたっちorあとはどうなと/『赤い雲』(西岸良平)ほか
2002年07月01日(月) |
戦争は終わった/DVD『名探偵登場』 |
ワールドカップはブラジル優勝で幕を閉じた。 マスコミはもう一連の「事件」を「美談」にすりかえるべく必死である。 テレビじゃ分別臭いコメンテーターが「愛国心がどうのと言われる方もいらっしゃいますが、久しぶりにみんなが一丸となって応援できたのはよかったんじゃないかと」なんて腑抜けたことを言ってまとめようとする。 新聞は新聞で「日韓の溝を埋めることができた」とかなんとか脳天気なガクセイのコメントばかり載せてやがる。 一丸となって乱暴狼藉、相手国を口汚く罵ることが「よかったこと」か? 日韓の溝が、どう具体的な形で埋まったというのか? これが「洗脳」でなくてなんだというのだ? こういうこと言うと「マイナス面ばかりみてちゃイカン」とかアヤつけてくる奴がいるが、これ、プラス思考がどうのこうのって問題じゃなくて、「現実に目を向けろよ」ってことなんだけどな。私も別に、サッカー応援してたやつがみんな国粋主義者のナショナリストの、なんて考えてるわけじゃないのよ。ただ、それは戦前の日本人も同じだったってことなんでね。本土空襲されるまで、戦争とは人が死ぬことだってことをハッキリ自覚してた日本人、多分ほとんどいないんだから。
重ねて言うが、今回のワールドカップは明らかに「代理戦争」としての意味を持っていた。いや、“持たされて”いた。 それが証拠に、サッカーの試合に一国の首相や大統領が出張ってくることの異常さを指摘する人間は誰もいなかったし、三十年前には猫も杓子も金科玉条のように唱えてた「参加することに意義がある」なんて理念を未だに唱えてるやつは、ほとんど皆無になってしまっている。試合に出た以上は勝たなきゃ意味がない。アナタもそう考えてはいませんか? つまりは大半の日本人は、かつての「戦争絶対反対」から、「人さえ死ななければ、戦争は肯定される」ってとこまで(ヤマモトヨーコだね)、そのメンタリティを誰ぞに洗脳されてしまったということだ。これを「国を守るためなら、多少の犠牲はしかたがない」までスライドさせるのはそれほど難しいことではない。 今回、審判のミスジャッジが随分問題になった。あれを「人間のすることだからミスがあってもしゃあない」でも「審判を抱き込むくらいの不正はあるよな」でも「たかがサッカーでインチキがあったからってそれがどうだと言うんだ」でもいいけど、軽く受け流せりゃいいんだけど、これがワダカマリとなって残ってたら、これが次への「火ダネ」になるんだって。 サッカーファンの方は不快だろうが、あえて言う。 あれは「たかがサッカー」だ。 サッカーファンだけが楽しめばいいものであって、国をあげてのイベントにしちゃいけなかったものだ。それを「いろんなとこ」の思惑が絡んで、見事に「戦争」に仕立て上げられてしまった。これで「味をシメた」国は多い。そういう国は、既に「次」を求めているぞ。 その「次」は、誰が、どういう形で提供してくるのか。 それに「乗らずにいられる」理性が、果たしてあの熱狂に無自覚に参加してた連中にあると言えるのか。少なくとも某国には全くないように思えるんですけど、どう? ……私ゃオリンピックも好きじゃないけどよ、今思い返すと高橋尚子個人にスポットが当たってた前のオリンピックはまだマシだったよねえ。
このへんで私も今回のワールドカップについて書くことは終わりにしよう。 結構、「バカが騒いで」と客観的な見方してる人も多いってことがわかったからだ。私は自覚的なバカは好きだが、無自覚なバカは大嫌いである。私の文を読んで「人をバカにするな」と腹を立てる人はいるだろうが、バカにされて腹が立つ前に何がバカかの自覚を持てってんだ。 雨上がりのせいか、いきなり暑い日。 頭痛に血便と、体調も最悪。マジでからだが持たないのに、懸命に仕事。 へろへろになってたのであまり書くことがありません。 っつーか記憶が完全に飛んでるのよ。
DVD『名探偵登場(Muder by Death)』(1976)。 原題が「死による殺人」って、これだけでも意味不明だなあ(^o^)。 さあ、この映画について語りだしたらキリがないぞ。 私のフェイバリットコメディ映画の上位に位置する作品、これを「意味がわからん」とか「デタラメだ」とか「つまらん」とか言うヤツは全員縊り殺してやるから覚悟しとけ。まさしくその通りの映画なんだよ(~_~;)。 『おかしな二人』のニール・サイモンによる探偵映画のパロディ……というタテマエだけれど、実はこの「探偵“映画”」のパロディというところがミソで、特典でもニール・サイモンがインタビューに答えて言ってるが、「探偵“小説”」のパロディではないのである。 まずはそのあたりから語ろうか。
大富豪、ライオネル・トウェイン(演ずるは『冷血』の作家、トルーマン・カポーティ!)は長年探偵小説のファンだった。 しかし、あまりに読者をバカにしたヘボミステリーの多さに辟易し、ついに5人の名探偵を屋敷に呼び寄せて、実際の殺人事件を起こし、その謎が解けなければ笑いものにしてやろうと計画する。 その5人の名探偵が、かつて実際に「映画」で活躍していた名探偵たちなのだ。
まずはディック&ドーラ・チャールストン夫妻。 ダシール・ハメット原作のニック&ノーラ・チャールズ夫妻が活躍する『影なき男』シリーズ(原作は一作だけだが、映画はウィリアム・パウエルとマーナ・ロイによってシリーズ化された)のパロディ。 陽気なアメリカ人夫妻だけれども、モトの映画は随分洗練されてたムードだったから、これにデビッド・ニーブンとマギー・スミスを充てたのは正解。『ハリー・ポッター』ではすっかりおばあちゃんになっちゃったマギー・スミスだけど、この映画の当時はまだまだ若くて、知的な美人。役自体は今一つ知的じゃないんだけど。
シドニー・ワン警部とその息子、これもアール・デア・ビガーズ原作の「チャーリー・チャン(張)」シリーズがモトネタ。と言っても私もこの作家ばかりは原作本を読んだことはない。なにしろ日本での出版点数が少ないし、今入手できる本もほとんどない。そのためにイマイチ無名で、どうしてこんなのが? と疑問に思われる方もいるだろうが、実は戦前のアメリカでは40本以上の「チャーリー・チャン・ムービー」が作られているのである。サイレント期には日本の上山草人(『七人の侍』の琵琶法師ね)なども演じていたそうだが、ワーナー・オーランドやシドニー・トーラーのチャンが有名。1981年にはピーター・ユスチノフもチャンを演じている。 シドニーを演ずるは変装の天才、ピーター・セラーズ。まぶたを一重にして怪しい英語を操り、いかにも胡散臭い中国人を熱演しているが当初はオーソン・ウェルズが演じるはずだったとか。チャンは代表肥満という設定だから、こちらの方がパロディとしては合っていたかも。
ベルギー人探偵ミロ・ペリエと運転手マルセルは、言わずと知れたアガサ・クリスティー原作のエルキュール・ポアロ。 もちろんこの映画が制作された当時は、ピーター・ユスチノフもましてやデビッド・スーシェもポアロを演じてはいない。戦前の映像化ということで、『アクロイド殺し』『ブラック・コーヒー』『エッジウェア卿の死』に主演したオースティン・トレバーがサイモンのイメージにはあったのだろう。あるいは舞台でポアロに扮したチャールズ・ロートンも一時は「これぞポアロ」と言われていたらしく(原作者は演技がフザケすぎてて嫌いだったそうだが)、そちらに対するオマージュの度合いの方が強いかも。なにしろ、そのロートン夫人であるエルザ・ランチェスターが、本作ではもう一人のクリスティーの名探偵のパロディを演じているのだから。 ペリエ役者は『ラ・マンチャの男』でサンチョ・パンサを演じたジェームズ・ココ。「ネスパ?(そうですね)」とフランス語で聞いて、ミス・マーブルスから「ネスパじゃないわ、コーヒーよ」とボケ返されるギャグはベタだけど大好きだ。
四人目のサム・ダイアモンドとその愛人は、またもやハメット原作から『マルタの鷹』のサム・スペード……というより、これはもう、演じるピーター・フォークと、アイリーン・ブレナンは完璧にハンフリー・ボガートと、ローレン・バコールを気取ってますな。もっともこの夫婦の共演はもとネタ映画の『マルタの鷹』ではなくて、レイモンド・チャンドラー原作の『三つ数えろ(大いなる眠り)』の方なんだけど。ボガートが演じるとサム・スペードもフィリップ・マーロウもいっしょくたになっちゃうからなあ。ピーター・フォークは更に『カサブランカ』もちょっくら混ぜてる感じだ。喋り方がいかにもボガートのものマネなんだけれど、地声も似てるんだよね、この人。
最後の五人目、ミス・ジェシカ・マーブルスはクリスティーのミス・ジェーン・マープル。マーガレット・ラザフォード主演で『パディントン発12時50分』以下四本が製作されているが、これも日本未公開。死ぬまでには見てみたいんだけど、どこかDVD化してくれよ。 演じるエルザ・ランチェスターは浦沢直樹の『マスター・キートン』で有名になったが(^o^)、元々『フランケンシュタインの花嫁』などでも有名だった。今回のマーブルスのオファーは、やはりクリスティー映画の『情婦』で、判事ウィルフリッド卿(夫のチャールズ・ロートン!)の看護婦役で出演していたことも関連しているだろう。 マーブルスの看護婦(でも老齢で今は自分が看護されてる)ミス・ウィザース(演・エステル・ウィンウッド)は、森卓也がスチュアート・パーマーのミス・ウィザースがもとネタだとか断定してたが、これは明かな間違い。映画本編でも「5人の名探偵」と明言してるし、名前の一致はただの偶然だろう。いい加減、あのボケ爺さんの知ったかぶりは誰かなんとかしてくれんか。
探偵以外の人々にもちょっと触れておけば(と言ってもあとは3人だけれど)、主人のライオネル・トウェインはいかにも作家か大富豪っぽい名前だけれど、屋敷の住所が「22番地」。「トゥー・トゥー・トウェイン」で、マザー・グースの歌詞「トゥー・トゥー・トレイン」の駄洒落になっている。 盲目の執事と唖の女中の組み合わせってのはとても日本ではできないギャグだけれども、屋敷の執事が不具だったりするのは怪奇モノの定番。サー・アレック・ギネスとナンシー・ウォーカーがこれを楽しそうに演じている。 アレック・ギネスはちょうど『スター・ウォーズ』撮入前だけれども、その脚本を絶賛していることをニール・サイモンに明かしている。重鎮のイメージが強いが、結構サバけていた人のようだ。前にも書いたと思うが、この人のおかま演技が見られるのは多分この映画だけ。オビ・ワン・ケノービのオカマですよ! あ、それで役名がベンスンマムなのか(「名前は?」とマギー・スミスに聞かれて、「ベンスンマム(ベンスンです。奥様)」、と答えるギャグあり。日本語に無理やり置きかえると、「吉田です」「吉田さんね?」「いえ、「吉田出須」です」ってな感じか。……そんな名前の人間はいないぞ)。 ナンシー・ウォーカーは後に『コロンボ』でもピーター・フォークと共演。あちらではやはりコメディエンヌとしての評価が高いらしい。
残念ながら、5人の名探偵のうち、ピーター・フォークを除く全てが故人。 カポーティにギネスも亡くなった。こんな豪華競演は、二度と見られまい。
本作のパロディぶりは確かに日本人にはわかり難い。 実際、初見のころ、これをマトモなミステリとして見ようとして、そのオチのデタラメさに頭を抱えたものだった。実際、何度見返しても、オチの意味、憶測はできても納得はできない。 しかし、これが後の日本の新本格のデタラメさを予告したものだと考えれば(おいおい)、その先見性の素晴らしさに下を巻くことは請け合いである(^o^)。 これは「ミステリ」のパロディではなく、「へぼミステリ」のパロディなのだ。思い付きとご都合主義で、「途中で作者が犯人を変えることもある」リレー小説のような。実際、最後の最後のドンデン返しは現場で付け加えられたものらしい。ニール・サイモン脚本に基づくノベライズに、そのシーンはないからである。で、アレがアノ人のことを指すとしたら、殺人の動機は……? さあ、未見の方はどうぞご覧あれ。そして私と一緒にアタマを抱えましょう。
DVD版は残念なことに吹替え版を収録していない。 テレビ放送時のフィックス声優による豪華競演はちょっとした見モノであった。 記憶だけで書くのでちょっと間違ってるかもしれないが、デビッド・ニーブンに中村正、ピーター・セラーズに羽佐間道夫、ジェームズ・ココに富田耕生、エルザ・ランチェスターに高橋和枝、そしてもちろんピーター・フォークには小池一雄という布陣であった。カポーティは内海賢二だったかな? なんにせよ、羽佐間道夫のアヤシイ中国人の声が聞けるだけでも、吹替え版は相当な怪作でありますよ。
2001年07月01日(日) 食いすぎたのは、あなたのせいよ/『コメットさん』(横山光輝)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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