無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
| 2003年07月31日(木) |
女の子がいっぱい/『恋愛自由市場主義宣言! 確実に「ラブ」と「セックス」を手に入れる鉄則」(岡田斗司夫) |
多分、どなたのお宅にもたくさん届いてはいるのだろうが、うちのパソコンにも宣伝メールのたぐいは毎日どさっと来る。 片っ端から削除しちゃいるが、ここんとこ一気に増えたのが外人名前のメールだ。ふと、どのくらい来るもんだろうかと思って、名前だけ記録しといたのが以下のリスト。6月13日から今日までの49日間の分である。
レイチェル・ハッチ バーニス・ジョージ パッツィ・E・ブラッドレー エスター・マックギニス ジョーキン・レイアード アン・ディッキー リラン・モース エヴァン ジョーダン オーデル・オルセン ステイシー・T・ブラウニング ローウェル・スタウド コーラ・ガーナー リータ・ハミルトン Dr.ロイ・ベイツ ニッキ・ストリックランド ミニー カールトン・ハル バイロン・ブランド セシリア・レヴァイン オーラ・ユサフ アーリーン・ドナルドソン ヴィセント・ルーゴ ロバータ・ホールデン ハーラン・エリオット オータム・カーニー シャーリー・アヴィラ エラ・ハットン ドリーン・オルブライト ゲイル・S・ビンガム DR.トーマス・ケネディ クリスタ・バッツ キャロル・マリオン ウィルバーン・ロペス ペギー トミー・トレイシー Dr.マンフレッド・キームラー ブルック・ヴェガ Dr.ネイサン・ジョンソン シセイ・マッサクォー オーヴィル・ハーディン ホリー・シュラッグス ティミー・メイヤーズ エイミー・クランドール リーン・ビーツ リッキー・マクドナルド ダンテ・モブレー ディーナ・プティ ループ・ビーン マリオン・ウォルシュ ケイトリン・トレス パット ダイアン・プラット グレッチェン・アームストロング ガブリエル・ペイラム ミーガン モーラ・ブラッドレー ラマー・ハーン エレイン・テリー コーイ・フランクリン ジョージィ・ホウェイリー ジャッキー・ローデス
総勢62人。なんかこう並べといて言うのもなんだけど、ヒマなことしてんな、私も。 一日平均1.25人ってとこだけど、彼ら彼女たちはなぜか土日は全くメールを送ってこないから、1.75人ってとこだろう。他の人のとこにもこれくらいの量のが来てるんですかね。 この人たち全員とオトモダチになれたら、私もすっかり国際人になれちゃうのだろうか(^o^)。 圧倒的に女性が多いんだけど、時々混じってる「ドクターなんたら」ってのは何なんだろうね。医者にゃもう、かかっとるよ。 内容は添付メールが圧倒的に多くて、開く気にもなれないから全然分からんのだが、文章のやつはたいてい「あなたの○●○を大きくしませんか?」(^_^;) わしゃそんなことで悩んじゃおらん(←ホントか?)。 それにしてもよくこれだけの名前を作り出せるものだと妙に感心。「ラマー」とか「コーイ」とかナニジンなんだよ。小説や戯曲書く時、外人さんの名前に困ったらこの辺から流用できそうだ。
急に暑くなったせいか、体調を崩して仕事休み。 そろそろ本の山で床が見えなくなってきていたので、少しだけ部屋を片付け。なんとか横になれる空間だけは作る。でも多分「持つ」のはせいぜい二日であろう。ああ、本気でローン組んで、どこかに家を買わなきゃならん日が迫って来たような。……車のローンが終わるまではムリだよ。
岡田斗司夫『恋愛自由市場主義宣言! 確実に「ラブ」と「セックス」を手に入れる鉄則」(ぶんか社・1575円)。 『フロン』『30独身女、どうよ!?』『恋愛の取説』に続く岡田さんの恋愛論第四弾。江川達也、大槻ケンヂ、森永卓郎、倉田真由美との対談も収録。江川さん、ホントに太ったなあ。でもすごくモテてるらしいから、デブは必ずしも恋愛のマイナス要因にはならないのである。希望が出てきたな(何のだ)。 ここまでシリーズが続けば、岡田さんは確実に「本気」で「オンリーユー・フォーエバー症候群」を妥当しようとして書いているんだろうけれど、現実的な「効果」はどの程度上がるものだろうか。 今回、岡田さんは前掲三書になかったキーワードを大きく前面に押し出してきた。「セックスフレンド」である。「結婚」と「恋愛」を厳密に弁別すれば、セフレを許容するようになるのは論理的帰結ではあるが、そこで岡田さんの理論に納得して、一歩前に踏み出せる女性がどれだけ出てくるものだろうか。 基本的に私は岡田さんの主張に賛同を示したい。恋愛論にかこつけてはいるが、岡田さんが説いているのは女性の一人格としての自立だ。結婚せずに性行為の相手としてだけ男性を求めたところで、何が悪いことがあろう。 ただ、岡田さんは女性を「乗せる」ために言質を弄して「恋愛自由市場主義」をいいことづくめのように書いているが(よく読めば結構シビアな責任が伴ってくることに気づかなきゃならないのだが)、案外、既成の「道徳」ってやつはしぶとい。 「恋愛は自由じゃん」と言って何人もの恋人を持っている女性でも、他人が自分と同じことをしていれば、「浮気者、不倫」となじったりするのである。自分の場合は「純愛」で、他人の場合は「ふしだら」だなんて、身勝手も甚だしいが、もちろん、そんなのは全く論理的ではない。岡田さんもそんな勝手を認めろと言っているわけではないのだ。 ここは「恋愛自由市場」なのだから、誰が誰をどう好きになっても構わない。自分もそうだし、他人もそうだ。「私だけが」というのは「恋愛独占主義」なのである。 ただ、現実の市場と同じく、モノには手に入れやすいものと手に入れにくいものがある。好きな相手に既に伴侶がいれば、当然、「難易度」は高くなるだろう。その難しさの正体を岡田さんは「道徳ではない」と言うが、やはり「道徳」ではないかと思うのだ。 「あなたの相方、私、気に入っちゃったから、週に三日だけ頂くわ」と宣言して、相手の夫婦が二人揃って「はい構いませんよ」と納得する例って、そうはあるまい。夫も妻も拒否をした場合、女の方は嫉妬心が大きいとしても、男の場合は明らかに道徳心が主であろう。特に、その相手の女性に惹かれていながら拒否をしたとすれば。 岡田さんが行おうとしているのは、既成概念に縛られている女性の「意識改革」である。だからこそ「敵」としているのはその「道徳心」なわけで、これを打倒するのはちょっとやそっとのことで叶うものではない。しかしその困難さをストレートに語ってしまったら、大半の女性は怖気づき、「一歩」を踏み出せなくなってしまうだろう。だからこそ岡田さんはそのあたりを韜晦しなければならなくなるのだが、そのせいで結果的に、本書は随分「ゆるい」作りになってしまった。 女性読者からの「彼が浮気症で困っています」との質問に、「彼とはセフレとして付き合いましょう」と岡田さんは答えるのだが、そんな簡単に意識改革ができるのなら苦労はいらない。しつこく男に絡めば絡むほど捨てられるとわかっていてもどうにも自分の心が止められなくて絡んでしまうのである。「な−んだ、そっか−」と納得できるのなら、とうの昔にカラダだけの関係で満足しているだろう。 岡田さんは森永卓郎さんとの対談では、「セックスしたいって結論を言う前に、相手にはプレゼンしなきゃ」と「手順」を説明しているのに、読者の女性とのQ&Aではその手順を全く無視して単刀直入にモノを言い過ぎている。これは「戦略」としてはかなりマズいのではないか。 私も似たようなことを若い子から相談されることがあるが、基本的に岡田さんのスタンスには賛成でも、他人の恋愛沙汰にアドバイスしてやるほどの親切心は私にはないから、テキトーなこと言って「気分だけよくしてやって」ほたらかしますがね。恋愛にスタンダードはないんだから、関わるだけ損です。
2002年07月31日(水) しげ、肉離れ?/『けろけろ 緑の誓い』(矢島さら)/『風雲児たち 幕末編』1巻(みなもと太郎)ほか 2001年07月31日(火) 山田風太郎死す/『新・トンデモ超常現象56の真相』(皆神龍太郎・志水一夫・加門正一)ほか
| 2003年07月30日(水) |
マヌケな人々/『二葉亭四迷の明治四十一年』(関川夏央)/映画『山の音』/『住めば都のコスモス荘』1・2巻(阿智太郎・矢上裕) |
まずは小ネタを一つ。阪神タイガースの優勝が目前に迫り、ケンタッキー・フライド・チキンが、カーネル・サンダースおじさんの人形を一時的に避難させようか検討中だとか。前回優勝の昭和60年には、大阪のミナミで、熱狂したファンが人形をバースに見立てて胴上げし、道頓堀川に投げ込んだことがあったから。 けど、サンダースおじさんだけ避難させても、どうせ他の何かを盗んで放り投げたり、自分から飛び込むバカはいると思うけどな。かと言って、投げ込み用人形をフーセンか何かで作ったって、お膳立てされたものにはファンは乗らないだろうし。つか、警察総動員して治安に当たれよ。「熱狂的なファン」と言ってゴマカされてるけど、あいつらただの犯罪者なんだから。 いえ、私は別に巨人ファンではありません(^o^)。
今日、静岡県沼津市で、盗み目的で閉店間際の書店に入った男が、シャッターを閉められて外に出られなくなり、タイホされるというマヌケな事件あり(^o^)。 犯人の24歳の男は、29日の午後11時過ぎに、客のフリをして本屋に入りこみ、店員に気づかれないように、本棚の陰に隠れて、閉店になってシャッターが下ろされたあと、レジの中をあさった。と、ここまではよかったのだが、外に出ようと思った時になって初めて脱出方法がないことに気が付いたんだって。ここまででも充分間抜けなんだが、それからあとがまた情けない。 犯人はそれから悪戦苦闘、店内は真っ暗で窓もない。シャッターは内側から開けられない仕組みになっていて、強引に開けようとしたけれど歯が立たない。ついには素手で天井を40センチほど叩き割ったけれど(本棚の上にでも登ったのかな)、そこからも脱出できないことが分かって、携帯電話を使って友人に助けを求めたとか。 30日の午前3時ごろ、ようやくシャッターは開いたけれど、待っていたのは警察官。あえなく御用となりました。 うーんと、ミステリに腐るほど書かれてきてる密室トリックだけどさあ、扉が開くのを待って入ってきた人に紛れて出て行くっていうのがあるよねえ。実際には成功率は低いと思うけど、友達にSOS送ってタイホされちゃうより、一か八か朝まで待って、客に紛れてさりげなく出てくって手は考えつかなかったのかねえ。閉店時に店員に気づかれないくらい広い本屋だったんなら、それも可能だったろうに。 仮に朝方店員に見つかったとしても、おカネはレジに戻しときゃ、「アパート追い出されて夜寝るところがなかったから」とかホームレスのフリをして同情を買うとかしていくらでも誤魔化しようがあると思うんだが。 ちなみにレジん中のおカネ、とっくに金庫に仕舞われてて小銭しか残ってなかったそうである。とことん下調べしないで泥棒に入ったんだね(~ー~;)。 24歳で既に脳みそとろけだしてるような事件で、まあ、笑うしかないんだけど、もうちょっと世間を唸らせるような知能的な犯罪は起こらんものか。いやね、別に犯罪を奨励してるんじゃなくて、犯罪者が知恵をふりしぼらないと成功しないってことは、つまりそれだけ警察が優秀で、治安がいいってことなんだから。マヌケな犯罪でもそれ以上に警察がマヌケだったら、成功しちゃうんだよ。実際犯罪検挙率、最近は相当低くなってるじゃないの。 逆説を弄するつもりはないけど、事件が起きるなら起きるで、もちっとアタマのいいものが起きてくれないと困るのである。 一昔前に比べたら知能犯って随分減った気がしないかな。12歳の事件も(アレだって犯人がただのバカガキだから逮捕されているのだ)、「こんな事件は昔はなかった」というのは、「こんなマヌケな事件は昔はそんなに多くなかった」という意味でならそうかもね。
しげ、ついに車を買う決心をして、なんかパンフを持って来た。 「ねえねえ、どれがいいと思う?」とか聞かれても、私は何だっていいので返答に困る。頭金だけ出して、と頼まれたので、ナケナシの貯金をはたく。本とDVD買いまくってても、借金だけはしないで来てたのだが、これで我が家もローン生活だ。でもこれで出費をなかなか控えられないのがオタクのツライとこなんである。
関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』(文春文庫・620円)。 『「坊ちゃん」の時代』の読者には必読の一冊。 関川さんの評伝が面白いのは、二葉亭四迷に関わった人だけを描出するのでなく、「関わらなかった人」をも描くことで時代そのものを浮きあがらせる点にある。『「坊ちゃん」の時代』のあの「そのときそれと知らず、明治を代表する人々が一同に会していた」というあの手法である。 四迷と樋口一葉は近所に住んでいながら一度も会わずじまいだった。四迷の評伝の本書で、関川さんは一葉に一章をあてる。近代の拡大とともに増殖した貧民たちの中に彼女はいた。また、四迷が最初の妻とした女はまさしくそういった貧民階級の女であった。二人は会わずとも、そういう形での「時代の接点」はあったのである。 夏目漱石とは、朝日新聞の小説を交互に連載していた間柄でありながら、六回しか会ったことがなかった。漱石は、四迷の死後、「近くて遠い友人」として、四迷を追悼している。 けれど、どうして関川さんは四迷を「二葉亭」と書いて、「四迷」と書かないのだろうか。逍遥、漱石、鴎外、紅葉、露伴、一葉などは全て名前で書いているのに。近代小説の草分けの人でありながら、自嘲し、自作を否定した点に、旧時代を捨てきれぬ四迷の姿を見て、その象徴としての「二葉亭」という「家号」で呼ぶのがふさわしいと考えたのかもしれない。 四迷の若き日の顔は、何となく関川さん自身に似ている。
CS日本映画専門チャンネルで録画しておいた『山の音』を見る。これも随分前に見たやつの再見。 原作は川端康成だが、彼は長編を雑誌を越えて何年にも渡って断続連載し続けるという変わった書き方をするので、映画化の時点ではまだ物語は完結していなかった。従って原作最終章の「秋の魚」は映画に盛り込まれてはいない。 それどころか、原作にずっと漂いつづける「死」の感覚(タイトルの「山の音」自体が死を予感させる幻聴だ)、これを脚本家の水木洋子はできるだけ薄めるようにし、父親の山村聰と嫁の原節子の心の交流に主眼をおくように改変してしまった。それはそれで普通の日本映画にはなってるのだけれど、原作を知っている者には物足りない。 「美しきかつての日本」を描いたことを高く評価されている川端康成だが、この『山の音』を含め、戦後の『古都』や『片腕』といった作品は心理幻想小説としての完成度も高い。幻想文学畑の人はそのあたりを熟知してるんだけど、普通の日本文学の研究家の認識度が低いんだよね。ツマラン垣根は取っ払っちゃった方がモノは楽しく見られるんだが。
マンガ、阿智太郎原作・矢上裕漫画『住めば都のコスモス荘』1・2巻(メディアワークス/電撃コミックス・各578円)。 アニメは福岡じゃ放送してないから、マンガを買った。小説の方も完結してるようだから買おうかどうしようか迷ったけど、矢上さん気に入ったとこだったし、まずはこちらから。 けど、これストーリーの説明はすごく難しいな。とゆ−のが、ナカミはすげえ面白いんだけど、プロットや展開はあまりにもありきたりで紹介しても全然面白そうに思えないだろうなあってのが見当つくから(^_^;)。 簡単にまとめちゃうと、 「宇宙の玩具メーカー・�螢�タンコナス社製造の銀河連邦警察採用候補超特殊汎用パワードスーツ、ドッコイダーのモニターに選ばれた桜咲鈴雄は、次から次へと襲いかかって来る宇宙犯罪人を相手に戦う毎日。けれどその犯罪者たたちは、実はみんな同じ「コスモス荘」の同居人だった!」……気づけよ(-_-;)。 「いきなりヒーロー」とか、「みんなで同居」とか、もう設定はこれまで何度繰り返されたかわかんないくらい陳腐なんだけど、やっぱりマヌケ揃いのキャラクターが生き生きとしてるから面白いのだ。でも私の一番好きなキャラクターがヒヤシンスであることは誰にもナイショだ(^o^)。
2002年07月30日(火) ウチにキンチョールはない。/『ゴーストハンター ラプラスの魔』(安田均・山本弘)ほか 2001年07月30日(月) 八女って全国的にどの程度有名なんだ?/『ロマンアルバム・太陽の王子ホルスの大冒険』ほか
| 2003年07月29日(火) |
ちょっとだけギャグの話/『キャラクター小説の作り方』(大塚英志) |
喜劇俳優ボブ・ホープが、27日、肺炎により死去。享年100。 つまり今年はボブ・ホープ生誕100年&没後0年になったわけだ。こんなキリのいい死に方をするなんて、あまりに出来すぎ。さすがボブ・ホープというべきか。思い出を語り出したら、全て「あのギャグは」「このギャグは」と言うことになってしまうのだが、「観客に向かっていきなり話しかける」ギャグを一番効果的に活用していたのがこの人だったんじゃないか。 日本映画はこの手のギャグが一番苦手で、どうしても「照れくさがって」やれないのだが、おかげで観客の方も、こういう文法破壊のギャグを面白がる素養が鍛えられないままである。 「映画の」ボブ・ホープ最後のギャグは『スパイ・ライク・アス』でダン・エイクロイドとチェヴィ・チェイスのいる砂漠のテントに「何の脈絡もなく」ゴルフボールを追いかけて現れると、“Mind if I through? Doctor,Doctor,Glad I'm not sick.”(失礼するよ。君らが医者? 病気でなくてよかった)と言って去るという、まああんまり面白くはないものだった。 けれども、公開当時、劇場の座席に座ってたとき「何の脈絡もなく」ボブ・ホープが現れたのには本気で仰天し、思わず呻き声を上げちゃったのだが、他の客には何のことかわからなかったらしく、睨まれまでした。違うんだよ、あそこは「驚く」ほうが「正しい」んだよ(T∇T)。 考えてみたら、ボブ・ホープを「リアルタイムで」劇場で見たというのはこの一本だけだ。『珍道中』シリーズも『腰抜け』シリーズも、私の生まれる前なのである。なのに私がボブ・ホープを既に何本も見ていて、すぐにそれと気づいたのに、他の客が(私より年上の客が圧倒的に多かったのに)喜びも驚きもしない(多分ボブ・ホープと気付きもしない)、というのはいったいどういう彼我の差があるというのだろうか。
ようやく梅雨明け宣言が出されて、カラッと晴れたかと思ったら、今度はそこいらじゅう、蝉の声がうるさい。そのへんの岩に染み入ってくれんものか。
大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書・798円)。 内容をヒトコトで纏めちゃうと、「ライトノベル書くんだったら、この程度のレベルのモノは書けよ」ってことである。 近代文学、特に田山花袋の『蒲団』に代表されるような「私小説」はキャラクター小説であった、という指摘、つまり小説の中の「私」は仮構の「私」であるということ、言い換えるなら、キャラクター小説は文学になっても構わない、との主張は、読みの浅い人間には浅薄な文学コンプレックスと映るかもしれないが全然違う。大塚さんは物語の本質を語っているだけだ。 面白い小説とつまらない小説の差がどこから生じるかということは、要はキャラクターや世界を「仮構」できるかという一点にかかってるので、それをTRPGを例に語る大塚さんの筆致には説得力がある。やっぱ実際にTRPGやった経験のある人間から見れば、既成のゲーム機のRPGは全然つまんないんですよ。 本気で小説書きたいって人は、この本必読だよ。私も『木更津キャッツアイ』、見たくなっちゃった。
『月刊ガンダムエース』9月号(角川書店・580円)。 表紙はセイラさんだけど、あんまり色っぽくないのであった。 カラーページで吉祥寺近辺を走ってる小田急の「シャアバス」を紹介。もちろん真っ赤だ。誰かが「赤く塗れ!」と号礼をかけてたような気がするぞ(^o^)。実際には「塗る」んじゃなくてシートを「貼る」んだね。けど、日常の風景の中にこんなのがポンと飛び出したらビックリするんじゃないかと思うが、乗るのもすげえ乗りにくいんとちゃうかな。「モビルスーツの性能の差が、戦力の決定的な差ではないことを教えてくれる!」とか叫ぶバカが出やしないか。出ないな。 『ガンダム THE ORIGIN』ランバ・ラル編、セイラさん大活躍。まあフトモモの美しいこと♪ けどコズンの「ぐちょぐちょにしてやるっ!!」はないよな。こいつら喋ってんだ(^_^;)。まあこういう「安彦良和セリフ」が時々混じっちゃうのも「オリジン」の醍醐味か。ちょっと違う気もする。 今号より、長谷川裕一さんの『クロスボーンガンダム外伝』が連載。時代的には正伝の後日談ですね。けど未読でも独立した短編として読めるようにしているのはさすがは長谷川さん。憶測だけど、今回は脚本にトミノさんは絡んでないのではないか(^o^)。未だに『F91』の「アニメの」続編を待ち続けている身にしてみれば、マンガの外伝ばかりが描かれるのはちょっと悲しいんだけど。
2002年07月29日(月) 肉は血となり肉となる/『砲神エグザクソン』5巻(園田健一)/DVD『マジンカイザー』6巻ほか 2001年07月29日(日) いっじわっるはっ、たっのしっいなっ/『竜が滅ぶ日』(長谷川裕一)ほか
| 2003年07月28日(月) |
ついに出ますよ、アレが/『タク坊の毎日』(中川いさみ)/『最良の日、最悪の日 人生は五十一から�◆戞幣�林信彦) |
ようやくと言うか、なんでこんなに待たせたんだと言うか、『風の谷のナウシカ』がついにDVD化されることになったねえ。 しかし公開からもう20年かい。つーことは今の10代の若い子は、『ナウシカ』だけじゃなくて、『うる星やつら』も『超時空要塞マクロス』もリアルタイムでは知らないのか。CSをもっと家庭に普及させて、全国民がアニマックスやAT−Xを見てくれるようになってもらわないと、話がどんどん通じなくなっちゃうね。
『ナウシカ』公開当時、我々宮崎駿ファンがどれだけ「併映の『名探偵ホームズ』を楽しみにしていたか」、そういう空気も若い人には全然わかんないんだろうな。何だか昔から宮崎駿は神格化されてるように錯覚してる人もいるけれども、実のところ『ナウシカ』は当時のアニメマニアにはあまり誉められてはいないのだ。原作マンガを矮小化している、と言ったところがファンの主な感想だった。 けれども、「宮崎駿の才能を発揮したにしてはやや低調」という印象を持ちながらも、我々は「でもともかく見ろよ」と口コミの宣伝はしまくっていたのである。アニメーション映画がマトモな映画としては一般にも映画業界の人々にも認知されていなかったころ、「これなら充分実写映画に伍する」と主張できる出来だとは思っていたからだ。 実際、あの王蟲のジャバラが動いた瞬間(「王蟲マルチ」とか「ゴムマルチ」と称していた)、劇場の観客が一斉に「おおおおお!」と歓声を挙げた瞬間が忘れられない。CG全盛の現在からは考えられないかもしれないが、あれだけでも当時はすばらしく「リアルに動いている」ように感じられていたのである。発案者はスタッフの一人だった庵野秀明である。 そういう「流れ」を覚えている人間にとっては、その後の宮崎駿の「凋落ぶり」は見るに忍びない。『もののけ姫』と言い、『千と千尋』と言い、ここんとこの映画はアニメーションのダイナミズムを感じさせてくれそうになる直前で身をかわして「ちょっとアンタここに座って私の説教を聞きなさい」映画になってしまっているのが、無念でたまらないのである。 綿密に計算された伏線を散りばめながら、そのくせ自分でそれを破綻させ、暴走する。途中までは辻褄が合っているのに、あえてそれを破壊する。若いころの作品にはそれがかえって効果を挙げていたが(『未来少年コナン』のラストなど、レプカがギガントを飛ばす意味など本当はもうないのである。しかしアレのない「辻褄だけが合った」映画版がどれだけフヌケたものになっていたかは御覧になった方ならご理解頂けよう)、後年になるほどその「ほころび」は増大していった。 『ナウシカ』のほころびもギリギリの線で成り立っていて、ドラマはあっても実はストーリーは破綻しまくっている。 何と言っても物語が全く終わっていない。戦争はこれからも続くのだが、ナウシカは結局あの時点で何をしたというのか。王蟲の進行を止めただけではないか。クシャナが風の谷を引き上げて行くのだって、彼女の命を狙う兄弟たちが暗躍しているのに、なぜ自ら拠点を放棄するような行為に出るのかがわからない(ナウシカの言葉に簡単に左右されるようなヤワな人間ではなかったはずだ)。クロトワに至っては、出てきただけで物語にまだ全然関与していない。 それでも我々が『ナウシカ』に感動できたのは、あの物語がそのほころびゆえに「これから」を示唆していたからだ。原作マンガの連載はまだ続いていたし、あのころのファンの殆どが、『ナウシカ2』が作られるものと信じていた。宮崎駿自身が「作らない」と断言するまでは。あのころから我々は宮崎駿に「裏切られ」始めたのである。 宮崎駿はもう一度『ナウシカ2』を作らねばならないのではないか。かつては自らの作品の欠陥を「勢い」で誤魔化してはいたものの、その勢いが年齢とともに失速するにつれて、欠陥が誤魔化しきれずに浮き上がってきている。その「勢い」を取り戻すためにも「原点」に帰る必要があるのではないか。 そしてそれはまだ「オタク」と呼ばれる前の、「アニメファン」であった我々の原点に帰る行為でもあるだろう。今回のDVD化を機に、当時の我々がどれだけ『2』を期待していたか、我々が宮崎駿に、アニメに求めていたものがなんであったかを思いだしてみてもいいのではないかと思うのである。
今度出る『ナウシカ』は全部で3バージョン。 (1)風の谷のナウシカ DVD コレクターズBOX(予約生産) ・DVDソフトケース(巨神兵バージョン)仕様 ・ナウシカ・フィギュア(陶器製) ・「トルメキア戦没」額装オリジナル・アート ・王蟲(オーム)リアル・モデル ・価格: 24,800 円 (2)風の谷のナウシカ DVD ナウシカ・フィギュアセット(50000セット限定生産) ・DVDソフトケース(青い天使バージョン)仕様 ・ナウシカ・フィギュア(陶器製) ・価格: 7,800 円 (3)風の谷のナウシカ <通常版> ・DVDソフトケース(青い天使バージョン)仕様 ・価格: 4,700 円 また「陶器製」だなんて扱いに困るものを(-_-;)。しかも陶器でどれだけディテールに拘れるか、ということを考えると、それはやっぱり違うんじゃないか。いったいファンの、誰がそういうものを求めていると言うのだろう。でも出たら出たで「そういうもの」もほしくなってしまうのがファンの悲しい性ではある。 でも私は(3)の通常版を買いますけどね。
も一つ、その『風の谷のナウシカ』のDVD化発表会見で、SMAPの香取慎吾が「日本一のジブリファン」に認定されたとか。 要するに宣伝のためのキャンペーンキャラクターに選ばれたということなのだけど、その選定基準が解らない。香取慎吾がアスベルに似ているとでも言うのだろうか? 本人がファンだと言うなら仕方がないが、この妙にモヤモヤッと感じる「違和感」は何なんだろう? もっとも今更、安田成美を引っ張り出されたりしたらもっと困るけれど。
朝方、少し暑くなりそうな気配だったのが、昼から大雨。 これで一気に涼しくなって過ごしやすくなった。それにしても今年の夏は全然暑くならない。いや、それなりに暑くはあるのだが、例年ならつい使いたくなる「茹だるような」という形容詞を使うほどではないなあ、という感じなのだ。 ただ、これも一種の「異常気象」であるのなら、あまり喜んでもいられない。
午後から仕事を引けて、内科と眼科の2軒通院。 バスが遅れたおかげで、午前中の診療時間に間に合わなかった。仕方なく、知り合いの本屋などを回って、時間をつぶし、いくつか本を物色。 検査があるかもしれないと思い、朝から食事抜きでいたのが響いて、歩き回っているうちにフラフラしてくる。こりゃマズいと早めに病院へ。午後の診療開始の30分くらい前に到着するが、もう患者さんが一人来ていた。街中にあるわけでもない個人経営の病院だが、結構繁盛しているのである。診療の時刻になったころには、狭いロビーに7、8人が集まっていた。 てっきり検査があると思っていたのに、前回の検査結果を見せられただけ。いつもは土曜日に通っていたのだが、曜日が違って主治医に会えなかったので、避けられたらしい。そうとわかっていれば先に食事しておくのだった。 血糖値も尿糖も少しだけ下がっているが、それでもやっぱり通常の値より高いことに違いはない。まだまだ自重が必要である。
その足で眼科に回る。今日は点眼はなく、光を当てて覗かれただけ。 裂孔はなんとか広がらずに止まっているようである。特に頭を振らないように気をつけていたわけではなかったのだが(そんなことできるはずもない)、初期治療が効を奏したというところか。 次は3週間後、盆明けに来るように言われる。
マンガ、中川いさみ(撮影・加藤潔)『タク坊の毎日』(小学館/ビッグスピリッツコミックススペシャル・1680円)。 マンガ、とうっかり書いちゃったけど、実は絵はない。連載されてたの知ってる人は知ってると思うけど、これ、マネキン人形にストーリーに合わせたポーズを取らせたのを写真に撮ってフキダシを付けた、「マネキン写真ギャグ漫画」なんである。 ストーリーそのものも面白いんだが、これをマネキンに「演じさせる」だけでこんなに笑えるものになるとはなあ。顔が動かないのに表情があるようにさっかくしちゃうのは、能面と同じ効果かな(^o^)。 これまでにも単発的にこういうことやった人はいたと思うが(写真マンガ自体は結構ある)、単行本一冊まるまるやっちゃったというのは珍しい。思い付いてもセンスがないと面白いものにはならないからねえ。時々人形が変わるのはご愛嬌か。 ドラマで『オー!マイキー』ってやつがマネキン使ってまんま中川さんのマネしてるけど、これ、マンガの方が絶対効果があるのだ(中川さんはマネされたこと怒ってるらしい)。撮影は大変だったらしいけど、できれば2巻、3巻と作ってくれたら嬉しいんだけどなあ。 けど、このマンガ読んで一番悔しがってるの、唐沢なをきさんじゃないかな。こういう実験マンガ、どうして思いつかなかったのかって。
小林信彦『最良の日、最悪の日 人生は五十一から�◆戞癖現嬖幻法�500円)。 『週刊文春』連載エッセイ、1999年分の文庫化。4年前の文章なのに読ませる筆力はさすがだ。この点、ナンシー関さんの文章は数年経つと、当時の雰囲気が分らなくなって読みにくくなる。同じ「時代観察者」でも、小林さんはその時代を切り取りつつも、5年先、10年先も読めることを想定して「必要最小限の」情報を組み入れつつ書いているのだ。ナンシーさんも生きていればきっとこの域に達したはずで、返す返すもその死が残念でならない。 ちょうどこの年は小林さんが『ケイゾク』にハマッていたころである。私は当時、「小林さんが誉めていたので」『ケイゾク』を見るようになった(本放送の1話から見てたので、正確には小林さんの文章を読んだあとではないのだが、見続ける「後押し」になったのは事実である)。 誰かが誉めているから本を読むとか映画を見るということを私はあまりしないのだが(逆はやたらある。「コイツが誉めてるならきっとつまんないだろうな」&「コイツが貶してるならきっと面白いだろう」である)、小林さんは私が信頼する数少ない批評者の一人である。もっともそれは「ミステリ」と「コメディ」の一部に限定されるのだが。 ただ、これには弊害もあって、小林さんが貶してたおかげで、私は未だにトマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』を読んでいないのである(『羊』は原書で読みました)。 『ケイゾク』は回を重ねるたびにつまらなくなっていったけれど、「中谷美紀を『汚した』やり方はうまい」という小林さんの批評は正鵠を射ていたと思う。 前にも書いたことがあると思うが、私が小林さんを「信用」するのは、亡き母と小林さんが同い年だということが大きい。母が語っていた「あのころ」の空気と、小林さんの文章で語られている時代の感覚が、見事に一致するのだ。 小林さんが、山中恒の『間違いだらけの「少年H」』中にある「平日に国民学校児童だけで映画館に入場できるわけがない」という記述に対して、「戦争の後半に、多くの映画をぼくは一人で観ている」と反論している。私の母も、戦時中もずっと映画を見ていた。山中さんも同世代だが、時代の感覚は小林さんや母とは微妙にズレがある。山中さんの場合は戦後、共産主義に一時ではあるが染まったことによって(当時の児童文学者は、ほぼ全員、共産党員か共産主義者だった)、時代の捉え方に少し「歪み」が生じていたのではないかと推測する。 エッセイの内容全てに言及はできないが、『東京行進曲』を歌った佐藤千夜子が、小林さんの祖父に同郷のよしみで(山形県天童)借金に来たことがある、というエピソードが面白かった。ただそれだけのことだが、意外な人が意外なところですれ違ったことがある、というのは私のような運命論者には頗る興味深いのである。
2002年07月28日(日) 台本書いてると仕事してる気になるなあ/『アベノ橋魔法☆商店街』2巻(完結/出口竜正)ほか 2001年07月28日(土) アイ・ラブ・アッシー。……違うって(-_-;)/『スーパーロボットマガジン』第一号ほか
| 2003年07月27日(日) |
揺れて揺れて揺れて/『のだめカンタービレ』1・2巻/『平成よっぱらい研究所 完全版』(二ノ宮知子)ほか |
昨26日、宮城県で、17時間の間に震度6の地震が三度連続した「トリプル大地震」が発生。 テレビ見ててもやたらピンポンピンポンと音が鳴るんで、なんで同じニュースを緊急速報でしょっちゅう鳴らすんだと訝んでたんだけど、全部別の地震だったんだね。 同じ日に震度6以上の地震が3回起きたのは史上初だそうで、90棟以上が全半壊、負傷者は400人を超える大惨事だというのに、案外報道は大人しい。政府の動きも緩慢だけど、阪神大震災の時には対策の遅れを指摘して、厳しく糾弾したマスコミも、今回は別に突っ込み入れる様子が見られない。ボランティアの動きも全然わからんが、あまり活動してないのではないか。 なんだかねー、阪神とか東京、東海村が地震にあったんならともかく、宮城ならいいやってことなのかねー。だとしたら地方差別も甚だしいな。 報道ってのはそれを見た我々が、事件との距離、自分の立場をいかに取るかって判断するための材料になるんだから、逆に言えば「マスコミが視聴者にどういう態度を取ってほしがってるか」ってことも提供することになるんである。「宮城なんてどうでもいい」なんて姿勢取ってると、あとで東京に何かあったとき、どんなに慌てても「東京なんてどうでもいい」って態度取られちゃうよ。そんときゃ大阪が「次の首都は大阪だ!」と喜ぶことになるんだろうね。
『真夜中のカーボーイ』のジョン・シュレシンジャー監督が25日に死去。死因は公表されてない。享年77。 死因がわかんない場合、たいていは隠したい場合が多いけど、まあ『カーボーイ』見てるとどうしてもアレかなと思ってしまいますね(^_^;)。私は監督の作品は『カーボーイ』一本しか見てないし、同時代に見ないとアレは面白くないんじゃないかと思ってるんで、そんなに思い入れはない。 でも、こういう「問題意識」が全面に出ている映画の監督ってのは不遇を託つもので、シュレジンジャー監督のフィルモグラフィー見てても、近年はタイトル見ただけでいかにもサムそうな映画ばっかり撮っていってるのが侘しい。まあ邦題の付け方がマズいだけかもしれないけど。 つまんないことだけど、いい加減で『カーボーイ』ってタイトル、『カウボーイ』に訂正して再公開してあげないかな。これも『カウボーイ』じゃ売れねえとかわけのわからんヘリクツこねて、映画に何の愛情もない広告代理店が勝手に作ったもののような気がしてならん。
水に漬かっても何とか稼動していたしげの車、前には進めるがバックはできなくなってしまった。本格的に修理に出さねばどうにもならならいもののようである。 「保険で賄えないみたいだったら新車買おうかなあ」と軽いことを言ってくれるが、そのカネ、どこから出るんだ(T∇T)。
CSで時代劇専門チャンネルを見ていたら、『江戸を斬る 梓右近隠密帳』を流していた。し、し、しまった、気がつくのが遅すぎた。これやってると気づいてたら1話から全部録画しときたかったのに。主役の竹脇無我はどうでもいいが(^_^;)、由井正雪を演じた成田三樹夫と、丸橋忠弥の加東大介がもう絶品なのである。 今日放送していたのは、14話「忠長卿謀叛」と15話「笹野権三誉れの仇討ち」。キャストもこの2話に限って見ただけでも超豪華。とてもこれがテレビだとは信じられない。当時は民放でもこれだけの力があったんだなあ。
【14話】 梓右近(竹脇無我) 奈美・お妙の方(松坂慶子) 小夜(榊原るみ) 金井半兵衛(川辺久造) 林戸右衛門(伊吹聡太朗) がってん竹(高橋元太郎) のっそり松(浅若芳太郎) 柳生十兵衛(若林 豪) 由井正雪(成田三樹夫) 天海僧正(石山健二郎) 柳生但馬守(志村 喬) 仏の長兵衛(大坂志郎) 駿河大納言忠長(中村敦夫) 【15話】(重複キャストは省略) 葵小僧新助(松山英太郎) 一心太助(松山省二) お艶(鮎川いづみ) 笹尾喜内(牟田悌三) 笹野権三郎(加藤 剛) 八重(金井由美) お仲(津山登志子) 種田五郎左衛門(今井健二) 隈部将監(永井秀明) 佐分利左内(原健策) 堀尾山城守(原聖四郎) 丸橋忠弥(加東大介) 大久保彦左衛門(片岡千惠藏)
再放送も久しく見ていなかったので、ああ、この人も出ていたのかと懐かしくなったのが、林戸右衛門役の伊吹聡太朗さん。この人も古い役者で、ほぼ悪役専門であったが、『隠密剣士』のころから忍者役などで活躍されている。今どうされているかとネット検索して見たら、1998年に亡くなられていた。そんなにお年を召されているようには見えなかったけれど、おいくつだったのだろうか。『江戸を斬る』では、由井正雪の片腕の一人で最も危険な剣士を、その狼のような風貌で演じられていた。 14話のゲスト、中村敦夫の演じた駿河大納言忠長は、菊池寛の『忠直卿行状記』で有名。テレビでは由井正雪と組んで謀反を企み、松坂慶子の奈美に諌められて思い留まるように描かれているが、もちろんこれは史実ではない。実際の忠直卿は行いを改めるどころか、その残忍な乱行が幕府に咎められ、改易されている。何だかいかにもテレビ的な改変の仕方で、ちょっと残念であるが、一回きりのゲスト出演だから、これもやむを得ない。 15話の加藤剛演じる笹野権三郎はいわゆる「鑓の権三」だが、近松の浄瑠璃では女敵討ちに合う権三が、こちらでは敵討ちの助っ人になっている。こちらは講談に取材しているので、郷ひろみが演じた映画『鑓の権三』と見比べると、イメージが正反対なのでそのギャップに苦しむことになる(^o^)。 どちらのエピソードもムリヤリ慶安事件にリンクさせてるので、脚本としては ちょっと苦しいのだが、書いたのが「葉村彰子」なので、いったい誰だかわからない。知ってる人も多いと思うが、この名前の人物は実在しない。松下電器のプロデューサーであった逸見稔(へんみみのる)氏が、番組制作のために結成した企画集団SHPに参加した、松木ひろし・向田邦子・窪田篤人・津田幸於・大西信行・櫻井康裕・田口耕三・柴英三郎の連名ペンネームである。後には加藤泰・山内鉄也・岡田裕介も名を連ねたというから、こうなると誰がどの脚本を書いたのか全くわからない。 ついでだけれど、あの大林宣彦監督の映画版『ねらわれた“私は宇宙だ!!”学園』も脚本は葉村彰子名義。だからいったい誰なんだよう。
マンガ、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』1・2巻(講談社/KCキス・各410円)。 「のだめ」ってのは本作のヒロイン「野田恵(のだめぐみ)」のこと。 昔、『あずきちゃん』ってマンガに出てくる「ジダマ」って女の子の本名が分らず、ムチャクチャ気になってたんだけど、あの子にはどうやら本名はなかったらしい。「のだめ」の場合はそんな心配をする必要はなかったが、普通。こういう仇名をつけられる子に知的な美少女とか可憐なたおやめとかはいない(^o^)。実際、のだめも「一風」変わっている。 桃ヶ丘音楽学園大学のピアノ科一年生、どうやら天才的な音感を持ってはいるらしいのだけれど、生活能力はゼロ以下。住んでるマンションの部屋はゴミタメと化し(「野溜め」だな)、コバエが飛び交う不潔さ。フロには一日置き、シャンプーは五日置きで、腹が減ると人の弁当でも勝手に取って食う。でもってしょっちゅうハナだのヨダレなど垂らして泣く。……端から見てりゃ面白いかもしれないが、実際にこんなヤツがいたらすげえ迷惑な感じだ。でも、まんまソックリなヤツがすぐ側にいるような気がするよ(T∇T)。実際、のだめにもモデルがいるらしいが(福岡人らしい)。 本能のままに生きてるようなこいつになぜか関わることになってしまったのが、やはり天才的な才能の持ち主で、渡欧して指揮者になることを夢見ていながら飛行機恐怖症のために望み叶わず、鬱屈した生活を送っていた千秋真一センパイ。のだめに振り回されながらも、二人の才能は打てば響くがごとく、互いに呼応しあって花開いていく……のかな?(^_^;) 作者のクラシック好きと言うか、ベートーベン好きが高じて書き始められたらしいこのマンガ、もちろんその音はマンガから聞こえては来ないのだけれど、のだめがもうのだめだから(^o^)、彼女の弾く「楽譜見ないからデタラメだけど間違ってなくてすごくうまい」ピアノってのがどんな曲なのか、空想が広がって思わずマンガに引き込まれる。 千秋センパイもこういう珍獣がほっとけなくて、ついつい世話してしまうのだろう。その気持ちなんか分るぞ。 音楽家、ミュージシャンを主人公にしたマンガは数多いが、現代日本を舞台に、ごくフツーの音大生の成長を描いてくってパターンは案外少なかったように思う。軽いコメディのように見せかけてるけど、その成長過程自体はハードなものになってくんじゃないかな。表紙買いだったけど、これはまあ当たりかな。
マンガ、二ノ宮知子『平成よっぱらい研究所 完全版』(祥伝社コミック文庫・600円)。 ニッポンの身分制度というのは今でもシ○ウコウ○ヨウヨッパライとなっているので(←この程度のジョークでもサベツだって言うヤツいるんだよな)、ジンケンなんぞは認められていないのだが、なるほどヨッパライに「ニンゲン」の称号なんて与えちゃいけないとつくづく頷かせてくれるのがこの一冊。 「オレはここまで落ちてない」「私は呑んでも呑まれない」とかホザいてる老若男女のみなさまがた、「自分だけは違う」なんてのは幻想です。醜態晒さないヨッパライなんて日本には存在しません。シラフの私が言うのですから絶対です。 酔ってゲロ吐くくらいは日常茶飯事、どこぞの看板盗んでくるわ、アタマの悪いケンカはするわ、店は破壊するわ、イタ電はかけまくるわ、道端でチンチンだのチチだのほっくりだして踊るわ、ヤクザにゃ絡むわ、ケツにドラゴン花火突っ込んで火をつけるわ、公園のカップルに花火投げつけるわ、都庁にも花火投げつけて警察に追われるわ、宇宙人の話する人連れてくるわ、王様ゲームでマタに顔突っ込ませるわ、フロに入らねえからひたすら臭いわ、ピロリ菌飼って胃カメラ飲むわ、婚期逃すわ、酔っぱらったまま死ぬわ、なんてニンゲンらしい生活でしょうか(^o^)。 全国のヨッパライ研究所のみなさん、これはみんな、アナタの姿なのです。でもここで反省して「もう酒を飲むのやめよう」なんて考えちゃいけません。世の中、一所懸命マジメに生きてる人たちは、あなたがたのように人生なめきって迷惑かけるしか能のないダメニンゲンを見ては「ああ、オレってヨッパライに比べたらまだマシなんだなあ」と元気を出すことができるのです。上見て暮らすな下見て暮らせ、大いに蔑まれサベツされるのがあなたがたが天から与えられた使命なのです。さあ、もっともっとヨッパラッて面白い姿を我々シラフに見せてくださいな(^o^)。(←ホントは羨ましがっているのだな) 二ノ宮さんはもちろん「更生」などせず、けれど結婚だけはなぜかしちゃって現在に至っておられる模様。お相手はもちろん飲み仲間。幸せは、酒臭い息の向こうに漂ってたんだね。めでたしめでたし♪
2002年07月27日(土) イナジュンはいいねえ〜♪/DVD『カタクリ家の幸福』/『雨柳堂夢咄』其ノ九(波津彬子)/『ガンダムエース』9月号ほか 2001年07月27日(金) 『クレしん・オトナ帝国同人誌』完成!掲示板も見てね/『怪』11号ほか
| 2003年07月26日(土) |
オタクな本屋にクラシックは似合わない/『TNくんの伝記』(なだいなだ)/映画『デブラ・ウィンガーを探して』ほか |
ノンフィクション作家の鈴木明さんが、22日に、虚血性心不全のため死去していたことが判明。享年77。 記事にはその代表作として、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作の『「南京大虐殺」のまぼろし』や『リリー・マルレーンを聴いたことがありますか』などが紹介されているが、私が読んでたのは『リリー・マルレーン』の続編とも言うべき『わがマレーネ・ディートリッヒ伝』と『維新前夜』、ともに小学館ライブラリーの一冊である。 ノンフィクションと言いつつ、情感溢れる筆致は小説のそれに近く、「実録」作家としてはこの書き方は評価されにくいんじゃないかなあと、やや心配した覚えがある。 『わがマレーネ』はベルリンの壁崩壊時の本人へのインタビューの失敗と、万博の思い出から書き起こされているが、歴史に翻弄されたドイツ女性の歌声が、歴史を愚弄する万博に招聘されたというのもまた歴史の皮肉であるとと鈴木氏は捉えていたようだ。敗戦を16歳で迎えた筆者にとっても、1070年のあの狂乱はいったいどんな意味を持っているのか、簡単には掴めない出来事だったのだろう。 明らかに「浮いていた」ディートリッヒを私も見てみたかったと今にして思うが、当時小学二年生の私には、鈴木氏が困惑した「狂乱」のほうがむしろ心地よかったのである。
夕方4時、練習帰りのしげ&よしひと嬢と映画に行こうと、天神の福家書店で待ち合わせ。 時間ちょうどに店に着いたが、二人の姿はまだない。携帯に連絡を入れたが、少し遅れるとのこと。仕方がないのでしばらく買う本を物色する。 店内にはなぜかジャズが流れているが、これ、二ノ宮知子の『のだめカンタービレ』に使われてる曲なのだった。なんか聞いたことあるな、と思ったが題名がどうにも思い出せない。どうやらちょっと前にサイン会が開かれていたらしく、「二ノ宮知子」コーナーが店の一角に設置されていて、サインが飾られている。「のだめは福岡出身です。応援してね」とか書いてるけど、リップサービスじゃないのかな(^.^)。一緒に今流れている曲がズラリと書かれたパネルも置いてあったので、それで確認してみた。
・ベートーベン/ピアノソナタ 第8番 ハ短調Op.13「悲愴」 ・モーツァルト/2台のピアノのためのソナタ ニ長調K.448 ・ベートーベン/交響曲 第1番 ハ長調 op.21 ・ベートーベン/交響曲 第1番・第3番「英雄」 ・ベートーベン/ヴァイオリンソナタ 第5番 ヘ長調 作品24 「春」 ・ベートーベン/交響曲 第9番 ニ短調 Op.125 「合唱」 ・マーラー/マーラー交響曲 第8番 変ホ長調「千人の交響曲」 ・ベートーベン/交響曲 第7番 イ長調 ・ベートーベン/交響曲 第3番 Op.55「英雄」 ・ラフマニノフ/ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 Op.18 ・ドヴォルザーク/第5番 ・ガーシュイン/ラプソディ・イン・ブルー ・メフィスト/ワルツ第1番S.514「村の居酒屋での踊り」 ・エルガー/ヴァイオリン・ソナタ ホ短調op.82
ツラツラと眺めていって、ちょうど今流れてるのがジョージ・ガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』であることに気がついた。こんな有名な曲までど忘れしてるんだから、ボケは確実に進行してるんである。 「クラシック音楽コメディ」とオビに書いてあるが、そのわりには随分ベートーベンが多くないか。イカンというわけじゃないが、バッハとかハイドンとかヴィヴァルディが全然出てこない。けど、好きな曲も結構あるので、とりあえず1、2巻だけ買ってみることにする。 そうこうしているうちに、二人が到着。待ちあわせ時間より30分も遅れてきたが、アクロス福岡に次回公演のチラシを置いてきたとのこと。それならそうと連絡を入れておけと言うのだ。全く気が利かないったらありゃしない。 映画までにはまだ時間があるので、よしひと嬢も何か出物はないか、探している。押井守&大野安之の『西武新宿戦線異状なし』の完全版が出ていたので奨めると、「絵が嫌いなんだけどなあ」と言いつつシッカリ買っている。この分なら、押井守ボックスを買うのも時間の問題だろう(^o^)。 「この本が面白いですよ」、と言ってよしひと嬢が奨めてくれたのが『のだめカンタービレ』。 「いや、もう買ったよ」 なんだかヘンな西手新九郎である。
天神コア7階グルメパークの「喜水亭和楽」で食事。照明が大人しく、落ちついた雰囲気の中、手ごろな値段で定食や海鮮丼などが食べられる。しげもよしひと嬢もこの店は気に入ったよう。 そのときの私のいでたちが『少女革命ウテナ』のTシャツだったので、よしひと嬢から「その格好で歩き回るのはやめた方が……」と言われるが、出かけるとき、手ごろな私服が見つからなかったのである。それに時間に遅れなければ映画を見てすぐ帰るつもりだったんだしねえ。
そろそろ映画の開演時間が近づいて来たので、KBCシネマまで歩き。同じ天神と言っても、コアからは三区画ほど離れているので10分ほどは歩くことになる。ここに来るのはよしひと嬢は初めてだ。メジャーどころは殆ど上映しないミニシアターなので、今後も滅多に来ることはないだろうが、本当のことを言うと、ここに掛かるような毛色の変わった映画もいろいろ見てほしくはあるのである。
映画は『デブラ・ウィンガーを探して』。 ロザンナ・アークウェットが「女優と家庭は両立できるの?」と自分の尊敬する女優たちにインタビューし続けるドキュメンタリー(?)映画。 だもんで、キャストだけはやたら豪華。 パトリシア・アークェット、エマニュエル・ベアール、カトリン・カートリッジ、ローラ・ダーン、ジェーン・フォンダ、テリー・ガー、ウーピー・ゴールドバーグ、メラニー・グリフィス、ダリル・ハンナ、サルマ・ハエック、ホリー・ハンター、ダイアン・レイン、ケリー・リンチ、フランシス・マクドーマンド、ジュリアナ・マルグリーズ、キアラ・マストロヤンニ、サマンサ・マシス、キャサリン・オハラ、ジュリア・オーモンド、グウィネス・パルトロウ、マーサ・プリンプトン、シャーロット・ランプリング、ヴァネッサ・レッドグレーブ、テレサ・ラッセル、メグ・ライアン、アリー・シーディ、エイドリアン・シェリー、ヒラリー・シェパード=ターナー、シャロン・ストーン、トレイシー・ウルマン、ジョベス・ウィリアムズ、デブラ・ウィンガー、アルフレ・ウッダード、ロビン・ライト・ペン、総勢34人。 でも、みんな言ってることは同じで、「四十過ぎたら仕事がなくなる」とか愚痴ばかり。タイトルにあるデブラ・ウィンガーにしてから、引退の理由は「演技力が上がってもそれに見合う映画がハリウッドにはなくなったから」だからなあ。選り好みしてただけなんでねーの? 『愛と青春の旅立ち』などはプロデューサーにセクハラされてて、手抜きの演技しかできなかったそうであるが、それもなんだか言い訳っぽい。 多分、女優を使い捨てしているハリウッドの現実に問題があるという彼女たちの主張には、一理も二理もあるんだろう。けれど、そればっかり延々2時間も愚痴られ続けると、見ている客は、いい加減飽きる。そのうちだんだん、「愚痴ばかり言ってねえで仕事しろよ」という気分にもなってくるのだ。これって、逆効果ではないのか。気がつくとしげは隣で寝ているのである。 話が面白かったと言えるのは、ウーピー・ゴールドバーグくらいのもの。 「トシ取るとチチも垂れるケツも垂れる、垂れるなっつっても垂れる、どんどん垂れる。怒鳴って言うんや、『何垂れとんねん!』、そしたら『おまえのケツや!』て怒鳴り返されたわ」(意訳)とかそんな話(^_^;)。「垂れるチチやケツ整形してどないすんねん」っての、多分デミ・ムーアのこと揶揄してんだろうな。 「聞ける」話をしてくれたのは大御所ジェーン・フォンダ。 「入魂の芝居はたった8本だけ。神が降りて来たと感じたのはそれだけだけと、その瞬間があるからどうしても役者を辞められなかった」と。 よしひと嬢も、唯一感動できたのはその部分だけだったとか。しげは「テレビで見りゃ済むじゃん」とすごく不機嫌。私だってハズレだなんて見るまで気がつかないよう(T∇T)。
帰り道、博多駅前で知り合いの女の子二人に偶然出会う。いきなり若い子から呼びとめられたんで、てっきり逆ナンかと思った(嘘)。 「何してるんですか?」と聞かれたので、「映画の帰りだよ」と二言三言会話。ところが、振り返ってしげとよしひと嬢を紹介しようとしたら、二人とも姿が見えない。さっさとバスセンターに向かっていたのだ。そのままはぐれるわけにもいかないので、女の子たちには早々に挨拶をして、しげたちを追いかける。タイミングよくバスが来ていたので飛び乗ることができた。女の子たちに引っかかっていたら、30分は待たねばならないところだったので、置いてきぼりにされたのがかえってラッキーだったということになるのだろうか。 でもなんかちょっと納得いかないよねえ。
今日もよしひと嬢はお泊まりなので、DVD『オーバーマン キングゲイナー』1巻をお見せする。オープニングのモンキーダンスは予想通りウケて頂いたが、本編は「何がなんだか」である。 設定資料を見なきゃ物語はおろか人物も世界観もつかめない作り方ってのは、若いころはともかくトシヨリにはちとキツイ。とは言えこの人に「もっとわかりやすい作り方を」と要求するのはねえ。ヘンな人にマトモなものを作れと要求するっていうのは、八百屋に向かって肉を売れというようなものである。 トミノさんは基本的に変人なんだから、決して巨匠扱いしちゃいけないのだ。巨匠扱いされたら妙に思想的なもの作りかねないからねえ、この人の場合は。
帰宅が遅くなったので、チャットを覗くのが遅れる。 あぐにさんがお久しぶりの書きこみ。けれど、しばらく実家に帰省されるとのご報告であった(^_^;)。ああ、学生さんには夏休みがあるんだなあ。サラリーマンには遥かに懐かしい過去である。 あぐにさんにもお話できたら何か原稿をお願いしようかと悪企みをしていたのだが、見事にかわされてしまった(^o^)。まあ、ヒトの褌ばかり当てこんでないで、自分でちゃっちゃと更新しなきゃってことだわな。
なだいなだ『TNくんの伝記』(福音館文庫・840円)。 昨年8月から創刊されていた児童文学の新レーベル。私ゃ大学の専門がこっちなんだから、本当はこういうのをもっと読まなきゃなんないんだよなあ。でないと同窓会に出ても話が合わないんである。 「創刊」と言っても、絶版になっていた単行本の新装版(「文庫」と銘打ってはいるが、サイズは17×13センチの新書版よりやや横長)が殆ど、ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』シリーズやヨハンナ・シュピーリの『ハイジ』、マイケル・ボンドの『くまのパディントン』シリーズなどが再刊されている。 なだいなだ(どんなだ <c.筒井康隆>)の本作も、初刊は1976年だが、ようやくこうして廉価版が出た。多分、昔は図書館とかにも結構置かれてたと思うんだけど、私は眼にしたことがなかった。こういう名著にはもっと早く、学生のころにでも触れておきたかったと今更だけど残念。
タイトルに「伝記」とある通り、これは幕末から明治にかけて生きたある人物の実録小説である。 彼、TN君は、1847年に生まれ、1901年に死んだ。土佐の足軽の子に生まれ、長じて渡仏し、ジャン・ジャック・ルソーを学び、帰国して新聞活動を通じて自由民権運動を繰り広げた。「東洋のルソー」と称せられ、著書にルソーの訳書『民約訳解』や、『三酔人経綸問答』『一年有半』『続一年有半』などがある。大逆事件の幸徳秋水は彼の弟子である。 こう書けば、「TN君」が誰なのか見当がつく人もいるだろうが、作者のなださんは、「ぼくの知ってもらいたいのは、彼の名前ではなくて、彼がどんなふうに生きたか、ということだからだ。そのためには、名前なんてじゃまになる」「名前と顔を知れば、なんとなく、その人間をよく知っていると思ってしまう」と書く。確かに、歴史の勉強を通り一遍に流しただけの学校の授業などでは、「坂本竜馬は薩長同盟のお膳立てをした」「勝海舟は江戸城を無血開城させた」「西郷隆盛は征韓論に破れたあと西南戦争を起こした」とか、そんな「出来事の知識」しか得られないだろう。名前はまさしく「知ってるだけ」なのである。こういうのこそ「ムダ知識」だと思うが、どうだろうか。 私も、なださんに倣って、ここでは、あえて「TN君」の名前を明かさないが、まだ全然見当がつかない人は、あえて調べるのはやめて、本書を読んだあとで確認してほしい。TNはイニシャルだが、本名のそれである。
TN君の印象は、一言で言ってしまえば「活動家たらんとして動けなかった学者」である。ヒドイ言い方だが、本文中にも「行動力のない、口だけの民権家」と非難されていたことが書かれている。実際に政治家として議員になって最初の国会に参加したこともあるのだが、仲間の裏切りに合い、わずか三ヶ月で辞職している。 西南戦争のさなか、TN君は西郷軍に合流し共に死なんとする若者を目の当たりにしながら止めることをしなかった。若者は、西郷に共感しながらも共に立って政府を妥当しようとしないTN君をなじったが、一切、口を開かなかった。ただ、熊本に向かった若者に付いて行っただけだった。いったい、TN君は何を考えていたのか。熊本まで同行しながら、結局は反政府のために戦わなかったのはなぜか。 けれどなださんは、そんなTN君のことをこう擁護する。 「西郷は死ぬために立ち上がった。自分の死を利用させるために。だからこそ、自分たちは生き残らねばならぬのだ。そして、西郷の死を利用しなければならない。死を利用する。それはいやなことだが、それをやらねばならないのだと。しかし、TN君には、とうとういえなかった」 「TN君は、学者として、ただ正しいと思う意見を口にし、自分の思うことをいい、信じるままに行動しただけなのだ」 知行合一の陽明学的思考で考えるなら、TN君の哲学は机上の空論でしかあるまい。しかし「実行」は本当に「思想」や「理論」よりも上回るものなのだろうか。純粋理性は実践理性に劣るものだろうか。 もしそうなら、戦時中の軍部の暴走は、全て正当化されねばならないだろう。戦争は常に肯定されなければならないだろう。 TN君は常に座して動かなかったわけではない。自らが語る場所、語るための立場を確立するための手段は常に模索し続けていた。藩閥政府が民権運動を敵視し、自由のための言論をありとあらゆる権謀術数を用いて封殺しようとしていたことを熟知していたからだ。 新聞が続々と政府によって発禁処分に合う様子を見て、社主に西園寺公望を担ぎ出して圧力を避けた。それでも西園寺が節を屈して社主を退いたあとは拠点を関西に移して新聞発行を続けた。「言論を守るための戦い」はTN君の一生を通して続いていたのである。 「力」を持たない普通の人間であっても、自分の信じる道に従って、語り続けることができる。なださんはTN君の一生を通じて、「言論人のあり方」を若い人たちに伝えようとしている、そのように思える。
TN君は聖人君子ではない。 活動資金調達のためとはいえ、汚れた事業に手を出した。売春宿を経営しようとしたこともある。なださんはそれを「TN君は呼びかける相手がどこにいるか、見失うべきではなかった」と痛烈に批判する。仲間に裏切られ続けたTN君は、少しずつ政治の、歴史の表舞台から消えていきつつあった。 TN君をもう一度「思想家」として復活させたのは、皮肉にも彼の死ゆえである。ガンに罹り、余命一年半と宣告されたとき、TN君は自らの全てを『一年有半』『続一年有半』の二冊の著作に纏めた。 TN君は、日本人が未だ合理的な理論を持たず、転変する様々な思想に振り回され続ける様子を見ていた。明治末期に至って、TN君の目に最後の敵として映ったのは、今やその姿を徐々に表しかけていた「愛国心」「軍国主義」「帝国主義」という名の幽霊であった。TN君はその敵に向かって、「無神論の哲学がないところでは、理は感情に常にうちのめされてしまう」と、最後の闘いを挑んだのだ。TN君は力尽き、一年有半どころかガン宣告の後9ヶ月で死んだ。 TN君の「無神無霊魂」の思想は多くの人々の心を打った。しかし、歴史はそんな人々の思いをも飲み込んで、幽霊の支配する時代へと突入していった。 現代、未だ様々な亡霊の呪縛に捕われている人々の姿を見るにつけても、TN君の無神論が語っていたことの意味を、再検証してみる必要はあるのではなかろうか。
まあちょっと固っ苦しい書き方をしてしまったけれども、奇人としても知られたTN君のこぼれ話も本書には満載である。 「TN君は若いころ坂本竜馬のパシリだった」とか、「フランスに留学するために一面識もない大久保利通に道端で頼みこんだ」とか「外見で人を判断する連中を嫌って元老院に浮浪者のような汚い格好で通っていた」とか「芸者に向かってキ○○マ袋を広げて酒を飲ませたら、熱燗を注がれてヤケドした」とか、そんなんである。衒いのない生き方を標榜する人間は多いが、実践できる人間は少ない。果たしてTN君はただの奇人にすぎなかったのであろうか。それとも。
2002年07月26日(金) 親しき仲ほど礼儀なし/『風の帰る場所』(宮崎駿)/『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(なかいま強)ほか 2001年07月26日(木) 全ての知識はマンガから/ドラマ『美少女仮面ポワトリン』第一話ほか
| 2003年07月25日(金) |
ムダじゃムダじゃ/『フラッシュ! 奇面組』2巻(新沢基栄)/『ぼくんち 全』(西原理恵子)/『ねらわれた学園』(眉村卓) |
一昨日の『トリビアの泉』、帰宅が遅くて見逃してたので、ネットでネタだけ紹介してるサイトで確認をする。 そこまでして見たいのはやっぱり好きなんじゃないかと突っ込まれそうだけど、そこがまた微妙なところで、「ここんとこをもちっとこうすれば面白くなるのになあ」という物足りなさ、隔靴掻痒感が強いからどうしても文句が口をついて出るのだ。とりあえず司会とゲストのツマラン喋りカットして、せめてあと二つくらいはネタを増やそうよ。 「少年の声変わりの瞬間が録音されたレコードがある」ってのは見逃したのが惜しかった。随分昔に何かの科学番組でこれ流してたの(恐らく『四つの目』あたりではなかろうか)聞いたことはあったんだが、もうしばらくその存在自体忘れてたのだ。 このネタがまた『へぇの本』にまとめられたとしても、CDをフロクに付けるわけにはいかないだろう(それともDVDで出るか?)。映像は写真で紹介できても、こういう「音モノ」は現物に当たるしかない。とは言え、1968年に発売されたという『変声期』というレコード、実際にそれを聞いてみたいと思っても多分もう売ってない。こういうネタこそ、テレビ向きなんである。 「午前十時十分の『十分』の読み方は『じゅっぷん』ではなく『じっぷん』である」ってのは記録を見るとたった「12へぇ」であるが、高得点の「へぇ」(『変声期』は90へぇ)とのバランスを取るためにわざわざこんな誰でも知ってるようなネタ(マトモに学校に通ってた子なら小学校の時に先生から注意されてるはずである)を取り上げてるんだろうか。それとも制作スタッフは小学生並の学力もないのであろうか。もしも視聴者に対して「どうせテレビを見てる視聴者なんてこの程度で『へぇ』というに決まってる」なんて侮りがあるとしたらふざけた話である。 ちなみに「十返舎一九」も読みは「じっぺんしゃいっく」である。高校のときに「じゅっぺんしゃ」とフリガナ打ってペケをもらった記憶のある方は多かろう。もっともこの間違いは圧倒的に多いんで、国語審議会もいい加減「じゅっ」の読みも現代語に関する限りは(古語や人名に関しては別)認めたらどうかと思うんだが。少なくともパソコンはもう「じゅっぷん」でも「じっぷん」でも変換してくれるぞ。
さてこの『トリビアの泉』についてだが、西日本新聞に連載されている宮原哲氏(西南学院大教授)の『コミュニケーション哲学』77回に、次のような解説が載っている。 本文は長いので要約すると、「現代は情報化社会である。溢れ出る情報に晒されて、我々は心の健康を害することもある。そうならないために仕入れた情報を他人に発信して新陳代謝を図らねばならない。しかしその情報を思いこみで解釈したまま発信してしまうと、他人を傷つけかねない。この番組に投稿された情報は、『へぇ』のボタンで評価されるが、その数が少なければそれだけ無駄な知識なのである。みんなで『へぇ』と言いあってコミュニケーションを図り、その平均値をつかむことが一人よがりの情報発信を少なくすることになるのだ」 なんだかこの論法だと、「へぇ」のポイントが高い情報は「ムダ知識ではない」とでも言いたげだが、ポイント高かろうが低かろうが、ムダはムダではないのかね。どっちかと言うと、ポイントが高いほうがムダ度が高いと感じる人の方が多いんじゃなかろうか。 宮原氏が、「もともとムダ知識なんだけど、コミュニケーションの道具として使える点ではムダではない」という意味で語っているとしても、じゃあ例えば「へぇ」度の低い「『十分』の読み」はコミュニケーションに役立たないムダ知識かというとそうではなくて、これ単に正しい読みを知ってるべきな基礎知識だから「へぇ」度が低いだけなんである。「消耗」は本当は「しょうこう」と読むとか「憧憬」は本当は「しょうけい」と読むとか、こんなのは知らない人が多くても、トリビアのネタにはならない。ムダ知識だけど、「使いようによっては」会話が楽しくなるとか、その方法を見せてこそコミュニケーションの道具となりえるのだ。 「クラーク博士って知ってる?」 「知らなーい」 「……『青年よ、大志を抱け』って言った人だけどね」 「ふーん。で?」 「その人、詐欺で訴えられたことあるんだよ」 「ふーん、で?」 「……」 会話相手の知識を随分低く見積もってると思われるかもしれないが、仮にこれが「知ってる」であっても状況はあまり変わらないのである。 逆に「『十分』の読み」でも、「最近の若い子って、『十分』の読みも知らないんだよ」と口火を切れば、コミュニケーションの道具に使えないわけではない。 もちろんそこまで番組が「演出」してやる必要はないし、そもそもコミュニケーションの仕方を覚えましょう、というのが主眼の番組ではない。こういうトンチンカンな批評が出てくるあたり、やっぱり「ムダでない知識の方がエラい」、と思いこんでる御仁の方が世間には多いのである。ムダはムダだからこそ意味があると思ってる人も多いと思うんだがなあ。
『ひょっこりひょうたん島』のキャラクターで、NHKのテレビ放送50年キャラクターであるドン・ガバチョの声を、先月亡くなった名古屋章に代わって栗田貫一が演じることになったというニュース。 作者の井上ひさしの推薦ということだけれども、ルパン三世の時と言い、いらぬプレッシャーばかり与えられて、ちょいと気の毒な気がしないものでもない。役者の立場から考えれば、こういうオファーがあったら、これはとても断れない。叩かれることを承知で引き受けざるを得ないのである。それは名古屋さんが藤村有弘さんの跡を継いだ時も同様だったと思われる。 実際、栗田さんのルパンの声、批判は多いがそれほどひどくはない。山田さんにしたところでよかったのは初期のルパンのときくらいのもので、『カリオストロの城』だって、クラリスとのやりとりなんか臭い部分が目立つ。何度か書いてるが、栗田さんより山田さんの方が上なんてのはただの先入観だ。 問題なのは「似た声を」と発想する製作者側のほうなんで、藤村さんと名古屋さん自体、声質が全く違うので、この際、新しいイメージの役者さんを探してもよかったんじゃなかろうか。だって、このまま行くとトラヒゲの熊倉さんが亡くなったら、それも栗田さんにさせるのか、若山弦蔵、楠トシエ、中山千夏、堀絢子各氏、全員、栗田さんにやらせるつもりか、ということになってしまう。バカボンのパパだってもう三人もいるのだ。製作者も視聴者も擦りこまれたイメージに拘らず、「役者の演技」を見て評価してほしいものなんだが。
しげがまだ『プリンセスチュチュ/雛の章』を見てなかったので、最後までぶっ通しで見る。しげは滅多に作品を誉めないので、ドキドキものだったのだが(つまんないものを見るとヤツアタリされるので困るのだ)、最後まで気に入ったようで助かった。 そうだよなあ、もしもアレがアレになっちゃってたらアレと同じだもんなあ。アレがアレのままだったからアレはよかったのだ。毎度のことですが、ネタバラシにならないように書くと何が何だか分らんのだけど、そこんとこはどうぞ御容赦。
もともと今日はしげの仕事が休みだと聞いていたので、『チュチュ』を見終わったあともDVDマラソンをするつもりだったのである。ところが見終わるやいなや、急に「仕事に行く」と言い出してしげは支度を始めた。 「休みじゃないのか?」と聞いたけれど、「今日は人出が足りないから」とのこと。何だかいたたまれなくなったらしい。 こういうところを見て「奥さん、優しいじゃないか」とか誤解してはいけない。単に「自分だけが楽をしてるんじゃないか」という思いがプレッシャーになって、不安になってるだけなのである。でもこれが決してワーカホリックなわけではないから(家事はしないんだからとてもそうは言えない)、要するに心のバランスが取れてないだけなのである。 家でやることと、仕事でやれること、どちらにも限界はあるんだから、もちっとアタマを使えば自分自身のプレッシャーからも解放されると思うんだが、どうしていつまで経っても学習しないのかね。
夜、チャットで鍋屋さん、あやめさんと。 あやめさんは久しぶりのお出ましだが、めでたく今回ご退職が決まったとのこと。退職したのに「めでたい」というのもおかしな話だが、ご本人が大文字で「めでたいの!!」と仰るから、めでたいのであろう(^_^;)。まあ才能のある人は何らかの形で頭角を表すものだから、退職されてもあまり心配はないんだろうね。ああ、羨ましい(T∇T)。 私ももう職場の人間関係にホトホト疲れているので(つか、相手って一人だけなんですけど)退職できるものなら退職したいのだが(マジで「あの人に会いたくないから辞めたい」なんて感じたのは初めてである)、四十の坂を越えてこんな病気持ちが再就職できるはずもない。 それでもいつかリタイアしなければならない時が来るかもしれない。あの、知り合いのみなさん、お願いなんですが、もしそんな事態になって、私の再就職先から探偵が来て(^o^)「藤原さんってどんな人ですか?」とか聴かれたら、「そうねー、典型的な生活無能力者のオタクだねー」とだけは言わないでくださいね(^_^;)。でもそれしか言えんか。
マンガ、新沢基栄『フラッシュ! 奇面組』2巻(スクウェアエニックス/ガンガンコミックス・410円)。 続編ではなくリメイクされての第2巻。ここからが高校生編で、新作なのに懐かしいギャグが満載である。でも、昔ファンだった人間なら分ると思うけど、今の若い人がこのギャグの「古さ」を楽しんでるのかどうか、本気で気になるねえ。ケータイにルーズソックス(東京ではまだ流行ってるのか?)の女生徒が描かれるようになっても、一応高校にはちゃんと番長がいるのである(^o^)。 まあクラスメートのみんなが再登場するのは分るが、まさか手目小野若蔵まで 出てくるとは意外だった(^_^;)。 あと、ゴルフねたで6回(半年)も引くのはちょっとやりすぎとちゃいまっか。その間、他の名物グループ出演できないし。
マンガ、西原理恵子『ぼくんち 全』(小学館/ビッグスビリッツコミックス・550円)。 カラー版単行本を全1巻に纏めた廉価版。映画化に合わせての発売だけど、4ページだけ描きおろしが付いてるので、そのためにだけ買いました。ファンはツライよ(T∇T)。 描きおろしは特に続編ということではなくて、神子姉ちゃんと二太が裏山に登って沖の船に手を振る、それだけの話。それだけの話だけど、これ、文章だけでも立派な小説になっている。
> おねえちゃんが、船が帰ってくるから手をふりに行こう、とゆうので、ふたりで裏の山に登った。 > 「おねえちゃん、今日の船、誰か知ってる人のってんの?」 > 「むこうの町で、ひと月働いたら、毎日 朝のみそ汁にたまご入れられるて、それっきり。たまごなんて入ってなくてもええのになあ。みんながいっしょにおれたら、それが一番ええのになあ」 > 「あっそれはな、ボクもサンセイやっ。みそ汁なんてな、フジツボでええねん。ええにおいするし。朝ていぼういってな、フジツボと岩のりぴゃっとはがしてくんねん、ボクあれ大好きや」 > 船がきたので、ねえちゃんとボクは手をふった。 > 船からはみかんの花みたいにちいさい手がぴらぴらするのがみえて、みんな自分の一番好きな人とまちがえてるんだろうと思う。
サイバラさんのこういう「感動モノ」を、「ウケ狙い」と嫌う人もいるようだが、私は情感を込めているようでいて実は細かいところに働いているストイシズムや冷たさが好きである。 例えばサイバラさんは「人」を「ひと」とも「ヒト」とも書かずに「人」としか書かない。誰とは言わんが、やたら「ひと」に情感込めてひらがなでしか書かないポエマーとかいるでしょう。そういうのを毛嫌いしてれば、自然、「人」は「人」としか書けないのである(すみません、私もしょっちゅう「ひと」とか書いちゃいます)。 「ゆう」という表記の仕方も同様である。「いう」という正式な書き方がサイバラさんには絶対に納得できないのであろう。「ゆう」が無教養さの象徴であるなら、サイバラさんは絶対に「教養」ある側には行けない人なのである。 描かれる人間関係も、ベタベタな「絆」などではない。かの子も二太も船の人々もみな嘘をついている。嘘をつかなければ人間関係など結べないことを熟知している人ばかりなのだ。「優しさ」も「笑い」も「涙」も、全て虚構であることを喝破するサイバラさんの視線が、どうして暖かかろうか。 人の心を揺さぶるのが愛情だと信じている人にはサイバラさんのこの冷徹さも暖かく見えてしまうのかもしれないが、私はこの『ぼくんち』のラストシーンの二太の笑顔を見たとき、「サイバラさん、鬼だ」と思って戦慄が走るのを覚えたものだ。 あんたね、人生には別れしかないってラストで「あえて笑え」って、そんなふうに躾られてるガキ見て、感動できますか? このマンガ、見方によっては第一級の「ホラー」だとも言えるのだ。 てなわけで実は私、この本では泣いてません。泣いたと思ってた人もいるでしょう。いや、泣ける人はそれはそれで幸せなひとだと思いますよ。たぶん。
眉村卓『ねらわれた学園』(講談社/青い鳥文庫fシリーズ・651円)。 ここしばらく児童書のコーナーを回ってなかったので気が付かなかったのだが、講談社が小学生向けにSF・ミステリーのジュブナイルを積極的に提供しようと新シリーズを続々と創刊し始めている。 「fシリーズ」の「f」は、SFの「f」、未来(future)の「f」、ファンタジー(fantasy)の「f」、ふしぎ(fushigi)の「f」なんだそうな。先月から、楠木誠一郎『お局さまは名探偵!』、小松左京『空中都市008』を皮切りに、毎月、2、3冊を上梓して行く予定で、今月はこの『ねらわれた学園』が目玉となる。 本作はもちろん、これまでにも何度も版を重ねてきたし、映像化も何度となくされてきた(我々の世代には何と言ってもNHK少年ドラマシリーズの『未来からの挑戦』や、薬師丸ひろ子主演の映画&原田知世主演のドラマ化が印象に深い)ジュブナイルの傑作である。
阿倍野第六中学校は、勉学一本槍の校風に反発する生徒が年々増えていく傾向にあった。新しく生徒会長となった美少女、高見沢みちるは、その魅力的な微笑と不思議な力で「校内パトロール」を結成、少しずつ、そういった「反動分子」を「粛清」していく。彼女の正体は、その真の狙いは何なのか? 校内が日に日にただならない雰囲気に包まれて行くのを感じた関耕児と楠本和美の二人は、高見沢みちるの通う「栄光塾」にその秘密が隠されていることを知る……。
私が最初にこの小説を読んだのは、主人公の耕児、和美たちと同じ中学2年のことだと思う。 これにどれくらい影響を受けたかというと、中学校の生徒会で「最近、校内の風紀が乱れているように思います。生徒で校内パトロールを実施したらどうでしょうか」と提案し、見事に却下されたことがあるくらいだ(^o^)。 もちろんこれは、却下されることが目的だったのである。いやね、心情的には当然、耕児たちに共感を覚えてたんだけど、私本人は別に熱血漢でも正義漢でもなかったから、あえて逆の立場を取ってみて、当然みんなもこの本を読んでいるんじゃないかと思って「遊んで」みたのよ。まかり間違って、提案が通ることにでもなったらそのときはかえって困ることになってたんじゃない? という疑問を抱く方もおありだろうが、その心配はいらなかったのだ。 会議の席である女の子が「それ、『ねらわれた学園』でしょう?」と言って、本作の村田和美そのままに、パトロールの不当性を訴えた。私もあっさり自分の提案を取り下げた。 もちろんその子にも私が提案したことの意味はよくわかっていた。校内の風紀の乱れは現実にあって、先生たちも何か厳しい方策を、と考えている雰囲気がそのころにはあった。かと言って過激な「取り締まり」に何か意味があるのか、私はそのことに疑問を抱いていたので、その問い掛けを生徒たちに投げかけるのが目的だった。つまり「そこまで厳しくしなくても、自分たちの意志で何とかできる」という雰囲気を校内に作りたかったのである。 その女の子が『ねらわれた学園』を読んでいるだろうと私は目星を付けていた(別に図書カードとかをチェックしていたわけではないぞ。当時の「本好き」の子なら、たいていは文庫になったばかりのこの本を読んでいたのである)。予測は違わず、私の思惑はちゃんとその子に伝わったのである。そのときの彼女の微笑は忘れられない思い出になった。中学生に腹芸なんてできないだろうと考えるのは大間違いなのである。 私たちの「計略」は効を奏して(会議の内容は生徒に全部公開されている)、我々が生徒会をしていたころの母校は、その前後の年に比べると風紀の乱れは随分と抑えられるようになった。その子は知的で、けれど勉強ができるのを鼻にかけたようなところはなく、相当な美人でもあったので、「あの子が頑張ってるならちっとはマジメにするか」という気分になった男子生徒も多かったようだ。 私は私で、この件をきっかけにその女の子ともちょっとだけ親密になることができた(本の話をするようになっただけである。誤解なきように)。全く中学生のナンパというのは可愛いものである(^_^;)。
話が横に逸れたが(^o^)、今回の新版、新たに作者眉村卓の前書きが付け加えられ、挿絵を『ブギーポップ』シリーズの緒形剛志が担当している。 眉村氏は「主人公と反対側の敵対者とか、直接かかわりがなさそうな人物の身になって、そうした目から見ればどうなるか、という読み方もしてほしい」と書いている。「敵対者」は高見沢みちろや京極少年のことを指しているし、「直接かかわりがなさそうな人物」とは耕児の父親などだろう。中学生のころには気が着かなかったが、読み返してみると耕児以上にみちるや京極、耕児の父を描く眉村さんの筆致に熱いものが感じられる。 「お前たちの戦いは、一時に高まった闘志によって盛りあがった、言わば短期的なものにすぎない」 これは全ての戦いが終わったあとに父が耕児に語った言葉だが、こんなに「重い」とは中学生の時には気がつかなかったな。現代の「オトナの」運動家たちもこのセリフの意味をちょっと考えてみたらいいように思うが。 緒形さんのイラストは、もう高見沢みちると楠本和美の魅力を満喫するに尽きる(京極さんもちゃんと楽しめます。女の子たち向けに念のため)。みちるはもうまんまマンティコアなんだが、一見ごく普通の正義漢に見える和美の「予感よ。私の、ただの予感」というセリフのシーンをちゃんとイラスト化してくれているのがスバラシイ。女はどんなにフツーに見えてもやはり魔物である(^o^)。
それから「阿倍野」という地名で今回初めて気がついたんだが、これ、大阪での事件だったんだね(眉村さんは大阪出身)。共通語で書かれてはいるけど、これは「翻訳」されたものなんだろう(^o^)。ということは、みんなホントは大阪弁で言いあってたわけだ。 和美は実は「予感や。ウチの、ただの予感」とか言ってたワケやね。高見沢みちるだけは大阪にいても共通語使ってそうだけど。今度ドラマ化するなら、原作通り大阪を舞台にして作ってみたらどうだろうか。
講談社のジュブナイルは、更に8月から書き下ろしシリーズの「ミステリーランド」を創刊するようだ。第1回配本として、小野不由美『くらのかみ』、殊能将之『子どもの王様』、島田荘司『透明人間の納屋』が広告されている。 ミステリー、SFの最先端はもしかしたらこうしたジュブナイルから生まれてくるかもしれない。
2002年07月25日(木) 本当にあった怖くない話/『くっすん大黒』(町田康)/DVD『ミニパト』ほか 2001年07月25日(水) 福岡腰痛クラブ/『庵野秀明のフタリシバイ』ほか
| 2003年07月24日(木) |
他に売れてるものがあるからいいじゃないか/『コータローまかりとおる!L』6巻(蛭田達也)/『灰色の乙女たち』1巻(加藤理絵)ほか |
昨23日、マルチメディア総合研究所が、2002年度の東京圏の店頭パソコン販売概況を発表。それによると、秋葉原のパソコン販売台数割合が、前年度比3.2ポイント減の29.9%、初めて30%を割り込んだとのこと。逆に新宿は前年度比0.9ポイント増で21.2%。研究所は「秋葉原地区では大型販売店の閉店など空洞化が進む一方、新宿地区では西口に大規模店が進出した」と分析している。けど「空洞化」って言い方は何なんだかねえ。別に空地が増えたわけじゃあるまいし。 これってつまり、秋葉原にオタクショップが増えたことを言ってるんでしょ? ニュアンスとして、「オタクな野郎が増えたせいでパソコンが売れなくなっちまったじゃねえか」って含みがあるような気がして仕方ないんだが、これって私の勝手な思いこみか妄想だろうか。
ハリウッド版『Dragon Ball Z』の監督を『GODZILLA』のローランド・エメリッヒが引き受けたかも、というウワサ。 『ドラゴンボール』は全巻買ってるわりには思い入れがないので、誰が引き受けても構わんのだけれども、エメリッヒがばかすか予算注ぎ込んで作るとなると、『北斗の拳』とか『ストリートファイター』みたいなちょうど香ばしい程度のヘタレな映画にはならないで、随分大味なバカ映画になっちゃいそうな気がする。キャストがどうなるのかまだ全く伝わって来てないけど、エメリッヒが監督するとなると、これも結構ネームバリューのあるやつ選んだりしかねない。 孫悟空をジェット・リーと言うのはありきたりだから、キアヌ・リーブスとかはどうかな?(^o^) で、ジェット・リーにはクリリンの方を演じてもらうと。そっちの方がハマリすぎかな。マイケル・ジャクソンとジャネット・ジャクソンで悟空とクリリンというのも考えたが、思いついただけであまり面白くはないな。 チチは、マギー・チャンあたりが似合ってるように思うが、ルーシー・リューあたりが来るかも。スパルタママっぽい東洋人のイメージっつったら、アメちゃんにはこんなキャストくらいしか思い浮かぶまい。まあ必ずしも東洋人をキャスティングするとは限らんのだが。 悟飯(息子の方ね)もそうなると必ずしも東洋人に拘る必要ないよなあ(つか、東洋人の子役なんて今誰がおるか殆ど知らん)。もうハーレイ・ジョエル・オスメントくんでもダニエル・ラドクリフくんでもいいけど、『ハリポタ』流れならロン役のルパート・グリントの方が似合ってるか。イライジャ・ウッドはもうデカくなっちゃってるからムリだろうな。 ピッコロやベジータは誰がやってもなあ。ハリウッド俳優で顔が緑っぽいのを捜すと……おるかい(^_^;)。 もちろんこんなのは、誰が何やろうがどうでもいいと思ってるから適当なことを言ってるんで、『DB』ファンの方はあまり目くじら立てないでくださいね。
東宝が、19日から公開されている映画『踊る大捜査線 THE MOVIE2/レインボーブリッジを封鎖せよ!』の公開後3日間の興行収入が、18億円、観客数が126万人になったと発表。これはこれまでの記録、『千と千尋の神隠し』の16億円を抜く勢い。気の早いマスコミは最終的な興行収入でも「『千と千尋』を抜くか!?」と煽ってるが、映画のヒットは今や口コミとリピーターによって支えられているから、『ターミネーター3』や『ハルク』、『パイレーツ・オブ・カリビアン』を向こうに回して、果たしてそこまでの魅力を観客に与えてくれるかどうか、ちょっと心許ない気はするんだが。 もっともそのヘンは制作者側も充分考えているらしく、年末には「ディレクターズカット」版とか、音響を入れ直して更に迫力を増した「ニューバージョン」とかの上映も考えているという。……いやね、映画に各バージョンが生まれるのはもともと製作者と監督との間に異見が生じたせいとか、不可効力の面が大きかったんだけどね、それをわざわざ作るってのは道義的にどうなんだかねえ。そういうのが「戦略」になるって考えるのは分かるけど、せめてDVDになるときにしてくれんか。バージョン違いがやたらあるのって、観客にしてみれば「どれがホントの作品なの?」って悩まされるだけなんだが。 映画は当然ヒットを狙わなきゃなんないものなんだけど、現実には、製作者の予測を越えた「何か」を観客が感じとった場合にのみ、爆発的なヒットにつながるってケースが圧倒的に多い。その「何か」ってのはまさしく「時代の要請」だったりするのだ。製作者が「読み通り」とほくそ笑むのは、そこに「思いあがり」が入ってるのは確実なんで、かえってヒットの分析を妨げてしまう危険があるんだけどね。
昨日に引き続き、シティボーイズDVDボックス2、『レトロスペクティヴ シティボーイズライブ! 1995−1997』。 『愚者の代弁者うっかり東へ』『丈夫な足場』『NOT FOUND あるいは、レイヴ・ウィズ・ザ・キャッチボール・シスターズ』の三本を収録。シティボーイズ三人に、中村有志・いとうせいこうが加わってギャグもシュールさもパワーアップした傑作群。シティボーイズの神髄を知りたい人はこのあたりからご覧になるのがオススメである。 最初の二つはWOWOW放送時と殆ど同じで、前説のインタビューがカットされているくらい。つか、『丈夫な足場』には「この番組は平成8年5月4日に収録されたものです」というWOWOW本放送時そのままのテロップが流れるところまで同じ(^_^;)。これ、当時大竹まことが自動車事故起こして謹慎中だったんで流れたテロップなんだよね。そんなもんまでDVDに再録するかよ(-_-;)。字幕をマスターに焼きこんでたんなら、上から斜をかけるくらいのことはできるだろうに。大竹さん、これ見たら頭かかえるんじゃなかろうか。 最後の『NOT FOUND』は、実際には凱旋公演として日比谷野外音楽堂での『非常識な青空』(と言いつつ、殆ど夜になってたが)を収録している。WOWOW放送時はこれが実に変則的な放送の仕方をしていて、始めこの『非常識な青空』を放送したとき、『外された人達』のスケッチだけはパナソニックグローブ座の公演バージョンのものと差し替えられていた(理由は不明)。更にその後、グローブ座版も完全放送されたのだが、そのときは野音版のときは演じられなかった「拡声器家族」のスケッチが一つ増えていた。 DVD版は野音版の完全収録(ビデオ版と同じ)なので、『外された人達』は野音版が初めて収録それている。 グローブ座版と野音版を見比べると、スケッチの完成度ではグローブ座版のほうが高いのだが、野音版には最後に特別ライブ「無間地獄&恋人たちのゴム脳」が追加されているので、できれば同時収録してほしかった。せめてボーナスディスクを付けるとか、そういうサービスが欲しいところなんだが、こういうライブDVDはたくさんハケるものでもないし、あまり予算をかけられない、というのが正直な事情なんだろう。 チケット即日完売のこれだけ面白いライブショーでも、世間的な認知度はまだまだなんだなあ。見たことない人、いっぺん見てみようよ。今年行われたシティボーイズミックス『NOTA 恙無き限界ワルツ』のWOWOW放映は9月11日深夜12時(9月12日A.M.00:00)から。もっとも今回のライブはシティボーイズライブのレベルとしてはちょっと低調なんだけどね。
マンガ、蛭田達也『コータローまかりとおる!L』巻の六(講談社/少年マガジンコミックス・410円)。 掲載誌が「マガジンスペシャル」に移ってからの分だけれども、話がなかなか先に進まない。アクションを大ゴマで見せてるせいなんだけど、それがイケナイってことじゃなくて、単行本を3巻くらいまとめて読むとちょうどいいペースなんだよね。それにしても今回のシリーズのヒロイン(?)功流美母さんが全く出てこないっての、ちょっとまずくないか。人気あると思うんだけどな。 久方ぶりの登場、天光寺のフィアンセの小夜子ちゃんが“わずか一年で”巨乳になったのにはちょっとねえ(^_^;)。いや、流行ものを取りこむのはこのマンガの昔からの定番だったからこれもありえることではあったんだけど、ロリコンキャラをいきなりイエローキャブにするかよ。これから活躍するならともかく、今までイロモノ以外の役に立ってなかったからなあ。ま、いいんだけど。
マンガ、加藤理絵『センチメンタル漫画文學作品 灰色の乙女たち』1巻(スクウェア・エニックス/ステンシルコミックス・580円)。 タイトルと表紙の絵柄だけで購入。つまんないとまでは言わないけど、まあ普通の少女マンガ。あまりこういうのに「文學」なんて惹句を付けないでほしいんだけどなあ。 母親をなくして、父親と二人で生活してる村山ミサキ。ところが気が弱くて亡妻のことを忘れられない父親は、なんとミサキを放り出して家出してしまう。一人で気丈に生きる決意をするミサキだが、ステキな彼、春原純に出会ったことから、少しずつ頑なな心がほぐれていくのを感じ始める……。 まあ、そういうマンガです。20年くらい昔だったら読みながら滂沱の涙を流したかもしれないけど、ちょっとこのトシになっちゃうとねえ。どうしても「その程度の不幸な子ならいくらでもいるよなあ」と思ってしまうのである。それでも主人公は別に自分の不幸に甘えてはいないから、不快感はないんだけれども、もう少し話のキモになるような工夫が作れないものかな。
2002年07月24日(水) ウソから出たアホウ/『追悼の達人』(嵐山光三郎)ほか 2001年07月24日(火) 目標達成!……って何が/『腐っても「文学」!?』(大月隆寛編)ほか
| 2003年07月23日(水) |
神ならぬ身なれば/映画『不連続殺人事件』/DVD『レトロスペクティヴ シティボーイズライブ! 1992−1994』 |
福岡市の一家4人殺害事件、犯人(?)の似顔絵が発表されたけど、なんかビートたけしに似てないか(^o^)。 つか、なんで肩揺らして首を曲げて斜めを見てんのよ。そういう仕草してるって情報でもあったのかね?
少女監禁事件でちょっと影が薄くなってた(という見方は不謹慎なんだが、実際マスコミの報道の「量」を考えればそれは事実である)長崎の駿ちゃん誘拐殺人事件、駿ちゃんのお父さんが、昨22日、犯人の少年が事件についてコメントしている言葉を聞いて、激昂していることを発表。 少年が被害者への謝罪の気持ちを表したり、「自首するつもりだった」などと話していることに対して、お父さんは「言い訳としか思えない」と反発しているとか。事件直後、既に「極刑に」と怒りを表明していたから、少年の反省の気持ちなど受け入れられないのは分るが、12歳の少年がたいした罪の意識など持ち得ず、「言い訳」にしか聞こえないコメントしか言えないのも事実だろう。 既に少年が最近書いた作文なんかがあちこちで紹介されてるが、まあマトモに読めるシロモノではない。もっとも、イマドキの中学一年生の文章力なんて、大概あの程度のものであろう。それなりに文章が書ける人間は自分を基準にして判断してしまうから、あの12歳がすごく幼稚で精神的に欠陥があるように思えてしまうが、実際はあの程度のバカガキはそこいらにゴロゴロしてるんである。 まあどんなコメントを口にしてるのかは分らないが、「ぼくはとてもわるいことをしてしまいました。こんなことはもうにどとしたくないです。しゅんくんのおとうさんおかあさんごめんなさい」とかそんなものではなかろうか。多分、誰が見ても誠意だの反省の念だの全く感じられないものじゃないかと思う。 少しずつ少年を取巻く環境や、親の教育の仕方にも異常なところがあったような報道がされつつあるが、さて、それがどれだけ真実に近いものだろうか。既に世論は全ての責任を「親」におっかぶせて、事件の持つ本質的な意味から目を逸らそう逸らそうとしている。犯人の少年だって、そのうち自分には責任がない、「親」がボクを虐待してたんだとかなんとか責任を回避するような「知恵」を学習するのではないか。 これは冗談ではなく、昨日読んだ『フロイト先生のウソ』に、残虐な行為に走った子に過去にトラウマがなかったかどうかほ「誘導」すると、一様にありもしなかった「虐待」の事実を思い出す、という例が報告されているのである。それくらい12歳(実はオトナも)の記憶力や認識能力などはアテにならない。 12歳の心の闇を探る、と言っても、現実にはブラウン運動を予測するようなものだ。将来的に彼が心の底から罪を悔いる気にならないとまでは断定しないが、たとえどんなに心の底からの贖罪の言葉を彼が口にする日が来たとしても、駿くんのご両親の気持ちが晴れることなどあるまい。 「更生の可能性があるなら」、年齢に関わらず、加害者にはその機会が与えられなければならない。これはもう法治国家の義務みたいなものだ。で、「更生の可能性がない」などと断定することなど、簡単にできるはずがないことは納得せざるを得ないだろう。その理念のもとに立っていれば、法的判断が加害者の人権を最大限保護する方向に動くことは当然のことなのである。 つまりあの12歳を処断するためには、彼が「全く更生の可能性がない」ことを「事実に反してでも」証明しなければならない。世論は今、「そういう方向に」動こうとしている。それがどれだけ危険なことか、お分りいただけようか。 私はもう、発想を変えて、「加害者に更生する可能性があっても極刑に処す」法理論を確立しなきゃならんのじゃないかと思っている。「この先何十年も更生と反省の日々を送らせるのはつらかろうから、早いとこ死なせてあげようよ」というリクツである。乱暴だというご意見もあろうが、だったら、駿くんのお父さんの「極刑に」発言はもっと乱暴であろう。被害者の親であることが意見の正当性を保証するものではないのである。 それがダメ、というなら、社会は少年の更生に関して「責任」を持つしかない。地域が、彼に関わる人全てが、何らかの形で彼の一生の一部を引き受けなきゃならないことになるのである。その可能性を考えずに、法がどうのと好き放題言ってるやつの意見なんぞ、一片の価値もないのだ。
CS日本映画専門チャンネルで録画しておいたATGアーカイブ『不連続殺人事件』を見る。 坂口安吾の日本推理作家協会賞受賞作に惚れ込んだ曾根中生監督が原作に忠実に映像化。1977年公開。 脚本に大和屋竺・田中陽造・曾根中生・荒井晴彦の4名が名を連ねているが、ストーリー構成もセリフもまさしく原作そのままである。探偵小説として無類の完成度を誇っている作品だから、イジリようがなかったのかもしれないが、正直な話、楽な仕事してんなあ、という印象は否めない。小説をそのまま引き移しても映画になるはずもなく、昔見た時にも思ったんだけれど、演出がなんともヨワイのである。 安吾自身はこの小説のトリックを独創的なものと主張していたが、実は彼が尊敬してやまない海外の某作家のいくつかの長編のトリックを頂いている(タイトルは未読の方のために隠しときます)。それを喝破した横溝正史は、文士の余技にプロの探偵作家が負けてたまるか、それじゃあ、オレが同じトリックを使って「上をいくもの」を一つ書いてみせようと、更に創意工夫を凝らして代表作の一つとなる金田一耕助ものを一作、安吾風のファルスを一作、モノにした。それくらいポピュラーなトリックだから、すぐに見破れそうなものだが、どっこい、原作の方はそう簡単にはいかない。 推理作家協会賞授賞式で、江戸川乱歩は、この小説の最大のトリックは、安吾の意図したソレではなく、安吾の文体そのものにある、と言った。あの「無頼派」の文体によって描写される人物がいずれも俗悪かつ淫靡で、もう誰が犯人でも構わんじゃないかという印象を与える点がスバラシイというのだ。 一見、ホメているようではあるが、この乱歩の指摘は、「アンタの考えたトリックは先例があるから威張れたもんじゃないよ、賞をやるのはアンタが無意識で書いてる文章が物語を錯綜させる効果を偶然あげていて、これも一つのトリックと解釈できるからだよ」と言ってるのに等しいのだが、安吾自身はこの受賞をすごく喜んでいたそうだ。おめでたいことだが、微笑ましくもある。 問題は映画である。 安吾の文体そのものがトリックだとすれば、映画はその文体を映像にいかにして移し変えるか、ということに腐心しなければならないのだが、そこでこの映画は決定的なミスをしてしまった。原作に忠実だからではない。ほんの少しだけ、「原作にない余計なシーン」をつけ足してしまったのだが、これがミステリ慣れしている人間から見れば犯人バレバレのヘボ演出だったのである。探偵小説の機微を知らない演出家に作らせるとこういうことになるのだが、実際、テレビの2時間ドラマの類ではこの手のヘボ演出はやたら多いのだ。 面白い偶然はあるもので、この『不連続殺人事件』の元ネタの一つとなった某作家の小説が、翌年映画化されて日本にも輸入されたのだが、やはり「原作にない余計なシーン」を付け加えていた。その原作を私は当時はまだ読んでいなかったのだが、「全く同じ映像」が展開されるので、そのシーンが出た瞬間にトリックを見破ってしまった。二作を比較すると二つの作品のトリックが同一であることが簡単に分かる。その海外映画はミステリとしての評価が案外高いのだが、そういう理由で私は今に至るも失敗作だと思っている。 それにしても二作の監督が「創造した」はずの演出法が、全く同じであったというのは、映像作家としてもちょっと問題なのではなかろうか。もちっとアタマは働かなかったのかと情けなく感じることである。 本格ミステリが必ずしも映像に向かないとは思わない。ただ、映画監督というのはどうしても「映像」のドラマを優先してしまうので、ミステリとしての要素は簡単に破綻する。それを両立させる方法を案出できないならミステリ映画を撮ろうなどと思ってはいけない。 でも、そんなにつまんないと言うほどではないのだ、この映画。 キャストだけはこの映画、通好みだと言える。ATGのことだから実際は「そのときスケジュールが空いていた」人を寄せ集めただけに過ぎないのだが。以下にそれをちょっと示して見る。 歌川一馬(嵯川哲朗)詩人。8番目の被害者。 歌川あやか(夏 純子)一馬の現在の妻。土居光一の元妻。 歌川珠緒(水原明泉)一馬の妹。放蕩娘。2番目の被害者。 歌川加代子(福原ひとみ)一馬の腹違いの妹。肺病病み。5番目の被害者。 歌川多門(金田龍之介)元政治家。一馬の父。6番目の被害者。 下枝(泉じゅん)歌川家の小間使い。多門の現在の妾。 矢代寸兵(田村高廣)作家。 矢代京子(桜井浩子)八代寸兵の妻。歌川多門の元妾。 土居光一<ピカ一>(内田裕也)画家。 望月王仁(内田良平)流行作家。1番目の被害者。 巨勢博士(小坂一也)探偵小僧。 南雲一松(殿山泰司)疎開中の老人。 南雲由良(初井言栄)一松の妻。多門の妹。 南雲千草(伊佐山ひろ子)一松と由良の末娘。3番目の被害者。 三宅木兵衛(石浜 朗)フランス文学者。 宇津木秋子(楠 侑子)女流作家。三宅木兵衛の妻。歌川一馬の元妻。7番目の被害者。 神山東洋(神田 隆)弁護士。多門の元秘書。 神山木曽乃(絵沢萠子)神山東洋の妻。元新橋の芸者で多門の元妾。 人見小六(江角英明)劇作家。 明石胡蝶(根岸とし江<季衣>)女優。人見小六の妻。 丹後弓彦(木村 元)翻訳家。 内海 明(内海賢二)詩人。傴瘻男。4番目の被害者。 海老塚晃二(松橋 登)歌川家主治医。 諸井琴路(宮下順子)看護婦。 坪田平吉<ツボ平>(粟津 潔)小料理屋の主人。宇田川家の元料理人。 坪田テルヨ(岡本 麗)その内儀。 八重(梓ようこ)歌川家の女中。 奥田利根五郎(谷本 一)復員軍人の製図工。論語読みの狂人。 片倉清次郎(浜村 純)歌川家の元番頭。 南川友一郎巡査(長 弘)駐在。 平野雄高警部<カングリ警部>(桑山正一)捜査部長。 荒広介部長刑事<八丁鼻>(武藤章生) 長畑千冬刑事<読ミスギ>(清川正廣) 喜作(西沢武夫)歌川家の下男。
原作にはあと飯塚文子、別名アタピン女史という女刑事も登場するが、これはカット。しかしそれ以外は殆ど原作をカットしていない。よくぞ140分の枠に収めたものである。 特撮ファンには『ウルトラQ』『ウルトラマン』の桜井浩子の出演が嬉しいところだろう。『Dr.スランプ』則巻千兵衛役などの声優、内海賢二が顔出しで出演しているのも珍しい。江角英明は『ルパン三世』のパイカルや『こち亀』の邨田署長の声優だが、もともと日活のバイプレーヤーとして活躍していた人だ。 内田裕也はこれ以前にチョイ役で『エレキの若大将』などに出演してはいたが、本格的な映画出演は初めて。あくまでロックシンガーであるという意識を持っていたのか、時代設定が戦後なのに、その当時のアフロな髪形のままで出演。これにはムチャクチャ違和感があったが、芝居もドシロウト以下であった。後年、『戦場のメリークリスマス』『コミック雑誌なんかいらない』ほかで狂気的な演技を披露することになろうとは当時は全く予測していなかった。 探偵役の故・小坂一也はアプレゲールの軽妙さが今一つ出ていない。時代を原作通り昭和22年に設定してくれたのはいいのだが、戦後の「雰囲気」まではなかなか再現できなかった。 それにしても故人の多いことよ。しかも好きな役者さんばかりだ(T.T)。考えてみれば映画公開時からもう26年が経っているのだ。内田良平、殿山泰司、初井言栄、神田隆、浜村純、桑山正一各氏、みな今は鬼籍の人。悲しい。
詳細は省いているが、原作第1章に「俗悪千万な人間関係」とある通り、一馬と加代子は兄妹でありながら道ならぬ恋に落ちていたり、珠緒は誰彼なしに男から男へと渡り歩いていたりしている。魑魅魍魎跳梁跋扈と言うか、小説を読んでも映画を見ても、胡散臭い登場人物が多過ぎて、誰が誰やら区別がつかないのである(^_^;)。これでは確かに誰が犯人であるか見当がつかないのも当然だ。私は映画より先に原作小説を読んでいたが、私が想定した犯人も全くのハズレであった。 映画を見るか小説を読むかとはよく言われることだが、まずは安吾が純然たる「ゲーム小説」として書いた原作を賞味して頂くのが順当だろう。 『不連続』に始まる「巨勢博士シリーズ」には、長編『復員殺人事件』(中絶のため続編は『樹のごときもの歩く』と題して高木彬光が執筆)、短編二作『選挙殺人事件』『正午の殺人』がある。これは全て『坂口安吾全集11』(ちくま文庫)で読める。11、12巻には『安吾捕物帖』も収録されており、これは勝海舟を狂言回しにした最上質の短編ミステリ集なので、ぜひご一読を請うものである(昔、NHKで連続ドラマ化されたこともあるのでご承知の方も多かろう)。安吾が若死にしなければ、もっともっと探偵小説を書いていたことだろう。 野田秀樹も「坂口安吾の生まれ変わり」とか嘯いてるなら、巨勢博士シリーズを続けて書いてみろと言うのだ(もちろん彼が生まれ変わりではない証拠はいくらでも出せるが、その一つに、野田秀樹はドストエフスキーの『罪と罰』を探偵小説として評価しているが、安吾は生前にそれを『私の探偵小説』の中で「暴論」と切って捨てている事実がある。好きならエッセイまでちゃんと読んどけよ、野田秀樹)。
『不連続殺人事件』は、後に1990年11月、フジテレビの「男と女のミステリー」枠で「昭和推理傑作選」と題して再映像化されている。脚本は安倍徹郎、演出は若松節朗。2時間の枠に収めるためにかなり人物が整理されている。例えば巨勢博士、八代寸兵、八代京子の三人は巨勢博士(野村宏伸)一人に統合された。 他のキャストは以下の通りである。映画版と比較するのも一興だろう。 歌川一馬(古尾谷雅人) 歌川あやか(佳那晃子) 歌川珠緒(芦川よしみ) 歌川多聞(内田朝雄) 宇津木秋子(松本留美) 明石胡蝶(白都真理) 南雲千草(あめくみちこ) 杉江下枝(万里洋子) 川北加代子(浅野愛子) 八重(石井富子) 絹代(絵沢萌子) 諸井琴路(中尾ミエ) 平野警部(山谷初男) 車掌(ラサール石井) 荒刑事(山田辰夫) 望月王仁(原田大二郎) 丹後弓彦(ベンガル) 人見小六(河原崎健三) 三宅木兵衛(速水亮) 内海明(ビートきよし) 海老塚医師(西岡徳馬) 土居光一(神田正輝)
こちらはなんとなく元アイドル総登場と言った雰囲気だ(^o^)。芦川よしみも最近見ないなあ。万里洋子も浅野愛子も当時は清純アイドルとして売ってたものだったが、お決まりのヌードから引退というパターンを辿った(と思う)。絵沢萌子は映画版にも登場しているが、テレビ版では待合(連れこみ旅館のこと)のおかみ役。個人的には巨勢博士と推理合戦を繰り広げる腹の知れぬ弁護士、神山東洋がカットされたのは残念である。 近親相姦ネタは避けて、巨勢博士と加代子の間にほのかな愛情を感じさせるなどのアレンジは推理ゲームとしては余計であるが、テレビドラマの性格を考えるといたし方のない改変だろう。当然、内海明も傴瘻男ではない。
シティボーイズDVDボックス1、『レトロスペクティヴ シティボーイズライブ! 1992−1994』、立て続けに鑑賞。 舞台のテレビ放映はどうしても魅力が半減してしまうが、シティボーイズは比較的その魅力が減殺しない珍しい例である。すごく単純なことだけど、セリフの間がちゃんと取られているから、耳で聞いてるだけでも面白いのだ。小劇場の連中が、夢の遊眠社についても第三舞台についても、ビデオ映像になると途端につまらなくなるのは勢いだけで間がなっちゃないからなんだよね。ああ、あと、セリフ回しも芝居も一律で、キャラクターも全然演じわけられていない。しょっちゅうトチる(^_^;)シティボーイズのお三方より、つまんない芝居しか作れなかったのはなぜか、小劇場出身者はもちっと考えた方がいいよ。 収録されているのは『鍵のないトイレ』『愚者の代弁者西へ』『ゴム脳市場』の三本。けれどWOWOW放送時より、随分カットされている。 『鍵のないトイレ』は、本編のカットはないが、楽屋裏インタビューと、ラジカル・ガジベリビンバシステムの紹介映像がカット。 『愚者の代弁者西へ』は、『ラジカセマン』のスケッチがまるまるカット。ホームレスを扱ったのが悪かったのか、『コンドルは飛んでいく』をBGMに使ったのが、ビデオ化する際に許諾が取れなかったのか。ピー音が入るのまでは我慢するけど、まるまるカットというのはなあ。おかげで、WOWOW放送時の録画ビデオが消せないのである。『ゴム脳』には見たところ、カットはなかった。 それにしても、毎年見るたびに面白くなって、ついにはこのライブを見るために上京するようになるとは、10年前には思ってもいなかったのである。
2002年07月23日(火) 夫婦ファイト!/『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』(李元馥)/『ロングテイル オブ バロン』(柊あおい)ほか 2001年07月23日(月) 猛暑に耐えるくらいならクーラー病の方がいい/『(週)少年アカツカ』(赤塚不二夫)ほか
| 2003年07月22日(火) |
オタクの末路?/『吼えろペン』8巻(島本和彦)/『フロイト先生のウソ』(R・デーゲン)/DVD『マジンカイザー死闘!暗黒大将軍』 |
昨21日、川崎市でペット卸販売店に侵入してカメ88匹を盗んだ無職の男(46)が逮捕された。 もともと男は大のカメ好き。自宅でも、カメ20〜30匹を飼育している。男はカメを盗んで帰宅すると、水槽には入れずに洗面器やたらいに振り分けてそのまま眠った。朝になって家中がカメだらけになっていることに気づいた家人が、さてはカメを盗んだかと110番通報したと言う。 いやまあ、なんと言うか、女の子を集めるよりは罪がないかなという微笑ましい事件だね。罪になるんだけど。本人はホントに純粋にカメが好きで、売買して儲けようとかそんな気は全くなかったらしい。これこそ純粋犯罪と言えるかね。今私が作った言葉だけど。 でも、ふと考えれば、88匹という数はやっぱり異常は異常なんである。最初は一匹二匹だったのがどんどんエスカレートしてってあのカメこのカメとほしくなったのであろう。日本に生息するカメはクサガメ、ニホンイシガメなど7種類だけだが、全世界では70種類以上いるとか。そういうものもツガイで集めてきちんと飼育しよう、なんて考え始めれば確かにキリはあるまい。多分、一種ごとに育て方も違うと思われるが、そういうものも調べて飼おうとしてたんではなかろうか。そういう粘着質は、食玩を全種類コンプリートしなければ気がすまないオタクの気持ちに共通するものがある。憶測だが、この男がかつて『ガメラ』のファンであった可能性は案外高いのではないか。かつてのガメラブームを知らぬ若い人にはピンと来ないだろうが、『ガメラ』ファンは必然的にホンモノのカメも好きになっていたものなのである。 オタクに対する一般人の偏見は未だに強い。 家人も多分、男から「またカメ飼いたいんだけど」とか言われて「いい加減でこれ以上カメ飼うのやめなさいよ、もう30匹もいるのよ」と怒ったりしてたんではあるまいか。オタクの欲望を頭ごなしに規制することがどんな事態を産むか、家人は気づかなかったに違いない。まあ野放しにして財産食いつぶされても困るが、オタクの心はみな繊細で傷つきやすいのである。優しく真綿でくるむように接して頂けるとありがたいのだが。いや、私の集めてるものは本とかDVDとかあまり危険のないものばかりなんで(^_^;)。
香取慎吾主演で『忍者ハットリくん』が映画化だって。もちろんアニメでなく実写である。ここまで来るとなんでもあり……つか、ずっと先に実写ドラマ化されてたこと知ってる人ももう少なかろうなあ。って私も本放送時にはまだ生まれてない。これも有名だが、デビュー当時の松坂慶子が出てたくらい昔なんである。 ふと思ったのだが、我々がマンガの実写化にどうしても拒否反応を抱いてしまうのは、アニメが普及する以前、マンガが実写化されたモノに稚拙っつーか、ロクでもないものがやたら多かったせいではなかろうか。『鉄腕アトム』も『鉄人28号』もなんかねー、という出来である(もちろん『忍者部隊月光』のような例外もある)。 かつての「恥ずかしい」記憶が無意識に残っていて、どうしても拒絶反応を起こしてしまうのだ。……って、だからそのころ私、まだ生まれてないんだって。
仕事帰りに博多駅の「杵屋」でミニ天丼定食。天丼にウドンがついてるんだけど、これくらいがカロリー的にはちょうどいい。別に食っちゃいけないものがあるんじゃなくて、量を減らしゃいいだけなんだから。
マンガ、島本和彦『吼えろペン』8巻(小学館/サンデーGXコミックス・560円)。 島本和彦はこのマンガのこの巻を描くために生まれてきたと言っても過言ではないのではないか(^o^)。 もちろん、「富士鷹ジュビロ」の登場である。まあこれまでにも島本さんは実在マンガ家をモデルにして描いてきてたけど、これはもうホンモノ以上に熱い(いや、本人知ってるわけじゃないけど)。島本さんはこのエピソードを描くだけで通常の2倍くらいの時間をかけちゃったのではないか(^o^)。 これまで島本和彦の「熱さ」に対抗できるマンガ家などそうはいなかった。熱く見せかけて実は軟弱、でもやっぱり熱血という島本さんの築き上げたギャグだかシリアスだかよくわかんないけど、勢いがあればそれでヨシ! というスタンスは、唯一無二のように思えたのだ。まさかその牙城を脅かすギャ……いやいや、熱血マンガ家が現れようとは誰が予想しただろう。 何たって、富士鷹ジュビロが富士鷹ジュビロの絵柄で咆哮するのだ(本人が描いてんじゃないかってくらいのすげえカキコミ)。まさに「吠えろペン」というタイトルは彼のためにあったと言っても過言ではない。 いやもう、とてもその「熱さ」を伝えられる筆など私は持っておりません。いくつかのジュビロ氏のセリフを引用するだけで御容赦(^_^;)。
「面白くなるように……話に読者が食いつくように……と連載の当初はどんどん目新しいエピソードやキャラクターを投入し……これでもかこれでもか! と風呂敷を広げまくり――気がついたら大変なことになっちゃってるもんなんだよ!!」
「大人がだ! マンガ描いてメシを食わせてもらている、仮にもプロがだよ!! 自分をきつく戒めながら、それでも立ち向かって行くという姿を! 若い読者に見せられんでどうする!」
「おれは、たとえ死にそうに時間のない時でも! 原稿を落とす――いわゆる雑誌に穴をあけたことはないんだよ! もちろん今後もあけるつもりはいっさいないが! それがプロとして最低限の縛りじゃあないのか!?」
「アシのみんなには正しい線を描くようにと指導している……が、魂のこもったキャラクターは実はイビツであるべき! くずれてなきゃいかんのだ!」
「一度雑誌に載せたものを……単行本の時に改竄するのは読者に対する裏切りだ!! だったら最初っからやらなきゃいいんだ! 単行本描き直しという腰の抜けた行為は、おれは大嫌いだ!!!」
「ククク…ついにおれも『吠えろペン』に出るか! ついに! ……だがな…言っておくが、下手な遠慮するなよ! やるからには面白さ最優先だ! わかってるな!? 遠慮してつまらんものを描いてみろっ、絶対に許さんぞっ!!」
手塚治虫を思いっきり批判してるのもあるな(^_^;)。 けれど私もここで声を大にして言おう。
「ジュビロのセリフを聞いて、妙に斜に構えたり、何をアツくなってんだバカ、とか嘯くヤツラは魂が腐っている! 人間のクズだ! 男なら自らの魂に向き合わんでどうする! 燃えて吠えてこそ、それが男の生きざまというものではないのかっ!!」
……うーむ、やはりジュビロ氏ほどの熱さはなかなか再現できんなあ(^_^;)。
ロルフ・デーゲン(赤根洋子訳)『フロイト先生のウソ“Lexikon der Psyco-Irrtumer”』(文春文庫・740円)。 タイトルはフロイトだけをターゲットにしているが、「心理学」全般の胡散臭さを様々なデータをもとに片っ端から批判した本である。 精神分析も含めた心理学が決して万能ではないことは随分前から指摘されてはいる。学問としても新しく、理論として確立されているわけでもない。フロイトのようになんでもかんでもリビドーで説明しようってのはそりゃムチャだろうとシロウトでもわかるし、学会でもフロイトを引用すれば失笑を買うとも聞いている。じゃあ、ユングならいいのか、というものでもないらしい。要するに学問としては未だ「発展途上」の分野なのである。 だから突っ込もうと思えばいくらでも突っ込みどころはあるのだが、往々にしてこういう本は「突っ込みすぎ」て、かえってその実証性を疑われることにもなりかねない。 例えば犯罪者の人格形成に教育やマスメディアが一切関与していないような書き方はやはり「言い過ぎ」ではないか。子供が犯罪を起こせばすぐに「親の教育が悪いからだ」と短絡的に語りたがる人間が多いのには確かに閉口するのだが、「親による虐待などの不幸な家庭に育った子供が、将来破壊的な行動に走るとは限らない」ことは、「犯罪行動の素因として幼児期の虐待が影響している」ことを否定することにはならないのである。 「実証的データを元にした検証」というのが謳い文句ではあっても、そのデータの抽出が恣意的であれば導かれる結果は当然誤る。そのことを戒めている本書が同じ過ちを犯していては、失笑を買っても仕方があるまい。 もう少しその「実証」の内容を細かく見てみる。 「無意識」の項で、筆者は「投影」(=性衝動や願望、罪の意識を他人に無意識的に移し替える防衛機制)などあり得ない、と否定する。分りやすく言えば、誰かが「あいつは陰険なやつだ」と非難したら、実はそれは自分のことを語っている、というものである。 この時点で、「そりゃそういうこともあるだろ」とたいていの人は納得すると思うのだが、筆者は納得しないのである。彼はデヴィッド・ホームズの実験を紹介してそれがいかに間違っているかを説明する。 被験者にまず自分の欠点を挙げてもらった。次に、彼が他人の欠点をどう思っているかも挙げてもらった。また、知人・友人にも被験者に対する評価も挙げてもらったのである。結果、友人から指摘された欠点を被験者が他人に投影している例は全く見られなかった、というのだが、さて、この実験が実験として成立していると言えるだろうか。こんな杜撰な実験で「投影はない」などと結論付けちゃいかんのじゃないか、と誰でも気づきそうなものなのだが。 「あいつはおっちょこちょいだよな」 「そりゃお前のことだろ」 こんな会話を友人間でしたことのない人間はいないだろう。ネット上の論争でも「そのセリフそのままお前に返すぜ」というパターンは実に多い。みんな「目糞鼻糞を笑う」例はいくらでも知っている。 「投影」はコムズカシイ心理学用語のなかでも一番理解しやすいものの一つである。「投影」は現実にあるのだ。なのになぜこの実験では被験者が他人に「投影」をしなかったのか。被験者が想定した「他人」に自分の中にあるような欠点が発見できなかったか、あるいはこんな「あなたの欠点と他人の欠点を挙げて下さい」と言われれば、それが何の目的で行われてるかを被験者が気づいてあえて投影を行わなかった、と考えるのが妥当だろう。こんな実験は何の証明にもなっていないのである。 一つ一つの例を詳しく見ていくとキリがないのだが、「心身症」も「多重人格」も全てウソ、心理療法はプラシーボ(偽薬)効果以上の効果を上げていない、などと断定されると、そりゃなんぼなんでも言い過ぎやがな、と反証を挙げたくなってしまうのである。「臨死体験」や脳に関する「10パーセント神話(=脳の90%は使われていない)」「右脳左脳」などに疑義を提するあたりが納得できるだけに、我田引水的な部分が結構目立つのが残念なのである。
DVD『マジンカイザー 死闘!暗黒大将軍』。 第2シリーズが作られるとばかり思ってたのだけれど、結局1時間のスペシャル完結編でおしまい、ということなのかな。ブロッケン伯爵、ピグマン子爵、ヤヌス侯爵は未登場のまま、私が一番好きな原作エピソード、「ドナウα1」(考証的には正しくても「ラインX1」にしちゃダメなんだよう)も映像化されないままだから、ホントはここで終わってほしくはないんだけど。 地獄大元帥でもう一本、ということも考えられなくはないけれど、ミケーネの七大軍団は使い切っちゃったし、スケールダウンするのは否めないものなあ。テレビシリーズだって闇の帝王との決着はつかないままだったから、まだまだ未消化な印象は否めないのである。 けどマジンガー軍団の敗北、もりもり博士の死、ゴーゴン大公の甲児暗殺作戦など矢継ぎ早にエピソードを畳みかけて暗黒大将軍との一騎打ちに持ちこむまでの勢いはよくぞやってくれた、と感激ものである。やっぱり原作のエッセンスをちゃんと使ってくれるのが一番いいのだ。 『マジンガー』には出演していない永井豪キャラとして、リッキー(ちい子先生)、パイロット(悪馬尻直次郎)、欧州連合軍の隊長(雷沼教授)がゲスト出演。そのへんはサービスなんだろうけれど、暗黒大将軍の声は映画版の小林清志氏でもなければTV版の緒方賢一氏でもなく、飯塚昭三氏。ゴーゴン大公も加藤修氏ではなく長克己氏。どちらも悪くはないけど、オリジナルメンバーでというコンセプトが崩れちゃってるのは残念。
2002年07月22日(月) 角川+大映=…?/『楽勝!ハイパー▽ドール』vol.2(伊藤伸平)/『スレイヤーズすぺしゃる�魁,襪覆討�・へすてばる』(神坂一)ほか 2001年07月22日(日) 愚か者の舟/『ハッピーマニア』1巻(安野モヨコ)ほか
| 2003年07月21日(月) |
うらんでやるわああああっ(^o^)/映画『星空のマリオネット』/『花の高2トリオ 初恋時代』 |
ここんとこ、しげが某女性のWEB日記にハマッて毎日更新を楽しみにしている。 どんな日記か、口にするのはちと言いにくいのだが、自分が男に愛されないことを恨んで、モテる女性に対する怨嗟と呪詛の声をツラツラと書き綴っているという……(^_^;)。 まあもしかしたらネタなのかもしれないけど、それにしてもここまでの筆力は感嘆に値する。 自分の容貌にも性格にも能力にも自信があって、だもんでどうして自分がモテないのか分らない、みんな親が、見る目のない男が、私のジャマをするバカオンナが、私にロクな仕事をくれない会社が悪いんだ、恋愛経験が全くないわけではないけれども、それも不倫だったりして最後はいつも哀れな結末、けれど夢だけはまだ持ってて、いい男捕まえていつかは幸せになるの絶対よ、玉の輿なの玉の輿、オホホホホ……。 って、直接の引用を避けてまとめただけじゃ、とてもその日記のキョーレツさは伝わらない。我田引水疑心暗鬼被害妄想電波障害如法暗夜阿鼻叫喚、カンペキにキテるよなー、こいつ、と、笑うより引いちゃうような日記なんですよ。開設されてまだ一週間だってのに、もう40000HITしてるんですね、これが。一日6000人!? やっぱりデンパなところにゃ人が集まるものですねー(^_^;)。 それにしてもしげはなんでそんなとこ読んでるのかなー、なんかシンクロするところでもあるんかいな、と思っていたら、よしひと嬢まで「わあ、すごい!」とか言いながらパソコン画面を食いいるように見ているのである。「私も日記書きたいんですよねえ、そうか、こう書けばいいんだあ」。 いや、こんなん見本にしていいこたないと思うんですけど。それともそんなにオトコや仕事についての毒吐きたいんですか、よしひとさん(^_^;)。 もしホントによしひと嬢が日記を書き始めたら、ぜひリンクさせていただきたいんですがね。ご本人は「でも荒らされたらいやだし」とか仰ってるが、なあに、メールアドレス公開しなくて、掲示板設置しなけりゃいいんですよ。もっとも2ちゃんねるにウォッチスレ立っちゃうかもしれませんが(^o^)。
頚部リンパ節がんの治療のため休養していたいかりや長介が、19日、映画『踊る大捜査線 THE MOVIE2』の舞台挨拶に出席。復帰自体は嬉しいのだけれど、あまり無理はされないでボチボチ仕事していただきたいものである。 ここんとこ、好きな役者さんの訃報を聞くことが多い。ドリフ復活はもうずっと期待し続けているのだけれど、いかりやさん(チョーさんと呼ぶべきか)の自伝『だめだこりゃ』を読むと、それももうないような気がする。『全員集合』終了でドリフはもう終わっていたのである。 荒井注さんも亡くなられて久しい。なんだか自然と落ちこんでいくのだが、いかりやさんが倒れたとき、加藤茶がやたら「いかりや長介はきっと帰って来ます!」なんて悲痛なコメントを述べていたので、復帰したと言ってもまだ不安が消えないのである。 若い人たちにはもういかりや長介は「ドリフのチョーさん」じゃなくて「『踊る』の和久さん」なんだろうな。決して演技力があるとは言えないいかりやさんをあまり動かさずに、存在感だけを利用して「うまく」使っていることは事実だけれど、もう少し立たせて上げてもいいんじゃないかと思うのだけれども。 でもまずは『踊る』シリーズを復活させて、いかりやさんの居場所を作ってほしいと思う。本広克行監督、そういう「気配り」が本当の映画人なら必要だと思うんだけど、どうかね。
朝のニュース番組で、ピーコさんがこないだの博多の水害について怒っている。博多の行政なっちゃないって。あれからいくつかの番組が今回の水害について「検証」を行っているのだが、視察に来た県職員に、市民の一人が「あんた、4年前には大丈夫だと言ったじゃないか!」と食って掛かっていたのだが、その職員が無言でなにも言い返せないのが印象に残った。「河川工事さえ終わっていれば50年に1度の水害にも耐えられる」とか言ってた職員もいたが、その「河川工事が終わっていたところ」からも水が溢れ出しているのである。キャスターの「終わっていも水害が起こる可能性はあるんじゃないですか?」の質問に「なんとも言えません」と平然と答えるやつもいるしなあ。 それどころか今回の水害の原因、河川工事の遅滞だけでなく、御笠川上流の太宰府で、道路工事が済んでいたのが原因だったことが判明したのである。つまり、4年前は太宰府の地面が水を吸収していたのが、今回はアスファルトで舗装された地面は水を全て御笠川に流しこんでしまった。これが下流に一気に押し寄せる結果を生んでいるのである。 これじゃ、下流の川幅広げて底を攫っても意味がない。自分たちのやってることがどんな結果を生むのか、想像する力がないからこんなことになるのだ。もう1回、太宰府のアスファルト取っ払うか? 河口広げても、満潮になれば水は逆流するのである。もう一本どこかに人口川でも作らないことには抜本的な解決はできんのじゃないか。もちろんそんな土地、どこにあるんだと言われりゃそれまでだけれど。せめて博多区民の税金下げてお詫びするくらいのことはしてみろよ。
水害の煽りを食って、今日の芝居の練習は休みになったそうで、しげはよしひと嬢を見送ってすぐに帰って来る。 腹が減っていると言うので、店が開店する早々、「バーミヤン」で遅目の朝食と言うか、早めの昼食。北京ダックを頼んで二人で分けようと思ったが、しげは一つも取ろうとしない。「おなか空いてるけど食べきらん」。食欲魔人のしげには珍しい、と言いたいところだが、最近ようやくしげは昔みたいなバカ食いができなくなって来ているようなのである。まあ以前は異常だったからな。 けどやっぱり肉だけ食って野菜や果物は毛嫌いしているのである。だからそれじゃ栄養偏るばかりだってば。
帰宅して、しげ、そのまますぐに寝る。夕べもちゃんと寝てたのに爆睡。 そのまま夜の10時まで10時間眠りつづける。絶対こいつ、生体バランスが崩れてやがるな。こないだ精密検査受けてからもう数年経ってるし、そろそろ医者に行かなくていいのか。
昼、CS日本映画専門チャンネルで『星空のマリオネット』。 鴻上尚史が「自分の好きな映画」としてこれを選んで解説しているのだけれど、「しまったなあ」と笑っていたのが面白い。普通こういう場合「永遠の映画」を選ぶものだけれど、鴻上さん、つい「青春の一本」を選んでしまったのだ。つまり「今思い返すと、かつてコッソリ書いていたポエムのように恥ずかしい思い出」なわけなんだね(^o^)。 私も鴻上さんと年は殆ど同じなんだが、当時『星空』に感動するほど幼くはなかった(いや、鴻上さんってやっぱ精神年齢幼いよ)。自分がこれからどうなっていくか分らない、何か目の前に見えない壁があって、それをどうしてもぶちやぶれない、だから若者は暴走する、親を、社会を憎み、性におぼれ、果ては自暴自棄になって自殺する。 そんな暗いストーリーに共感を覚え、かえって明るさを感じて開放されたと鴻上さんは語るが、自分の鬱屈を開放する手段なんて、もっと早い時期に済ましとくものじゃないのかな。バカガキの勝手なリクツに共感できるほど、アタマの悪い観客ばかりではなかったと思うが。まあ亜湖のヌードにボリュームがあったことは認めるけど。
続けて同じくCSで『花の高2トリオ 初恋時代』。 森昌子・桜田淳子・山口百恵唯一の共演映画であるが、青春の恥ずかしさと言えば私にとってはこちらの方かな。見に行きましたよ劇場まで。素敵なおねえさまに憧れる年頃の中学生だから仕方ないじゃん(^_^;)。 実際の主役はフランキー堺と南田洋子だったりするのだが、それでも過密スケジュールを塗って、プロダクションも違うこの三人がよく集結できたものだ。キャラクターの描き分けはしっかりものの森昌子、はねっかえりの桜田淳子、敬虔な山口百恵といかにもではあるのだけれど、まあアイドル映画と言うか少女モノはこんなものである。十字を切って祈る山口百恵の可憐さったらないよ(* ̄∇ ̄*)。 オープニングは当然3人が歌ってるんだが、同じ曲を歌わせるとやはり森昌子、山口百恵は聞けるけれども、桜田淳子はナマッてて耳障り。ヒロインとして立ってるのも山口百恵で、三人を並べるとどうしても桜田淳子だけが見劣りするのがその後の運命を暗示しているような(^_^;)。
夜中に目覚めたしげと、遅目の夕食を「ガスト」で。 ディスプレイで「あなたの脳年齢を計ります」ってのがあったんで、お互いやってみたら、私が56歳で、しげが43歳。私は16歳、しげは14歳、実年齢より上である。なんかやっぱボケ始めてんのかな。
2002年07月21日(日) アニソンしか歌えないわけじゃないけど/DVD『千と千尋の神隠し』/『吼えろペン』5巻(島本和彦)ほか 2001年07月21日(土) やたら長長文になっちゃいました。すみません/『裏モノ見聞録』(唐沢俊一)ほか
| 2003年07月20日(日) |
もう今更ロリコン犯罪にも驚かないし/『バジリスク 甲賀忍法帖』1巻(山田風太郎・せがわまさき)ほか |
「打ち首」大臣の鴻池祥肇さん、18日午後の衆院予算委員会で、東京の4女児監禁事件について「小6、4人も、加害者か被害者か分からない」とか発言してたんだね。昨日はとてもニュース見てる時間がなかったから知らなかった。 いや、被害者は被害者だろう、別にあの子たちが吉里容疑者にナニかしたわけではなかろうから。それともこのおっちゃん、あの女の子たちの方から吉里容疑者をロウラクして、SMプレイでもしていたと言うつもりか? まあ、その可能性がないと断定もできないが、現段階では限りなくゼロに近いと判断するのが妥当だろう。前回の発言でもそうだが、まだ事件の全容が解明されたわけでもないのに、この人、先走ってモノを言いすぎなのである。 ともかくえらく言葉に不自由している方ではある。お生まれは昭和15年だそうで、戦後の荒廃時代にモロに小、中学校時代を過ごされたわけであるな。なるほど、ガクがないのも仕方ないやな(^o^)。 被害者の女の子たちにだって、甘言に乗せられて、見知らぬ男にホイホイくっ付いて行った点に自己責任があるのは事実なんだから、今回こそ「本人たちに危険に対する自覚が足りない」とか言うくらいなら問題はないんだけどねえ。でもネットではこの人、大人気らしいぞ。「よく言ってくれた!」とかで。みんなホントに子供が嫌いなんだねえ。 既に新聞記事では、あの子たちが「フツーの子ではなかった」的な論調が見え始めている。遊び好きだったとか、目立ってたとか。そんな子、そのヘンにいくらでもいるでしょ(^_^;)。これも「危険な場所をうろついて悪いオトナに騙されるようなアホはごく一部の子」にして身近な問題にしたがらない「囲いこみ」の意識の表れなんだね。一部じゃないよ、八割はそうだよ、アンタの子供もおんなじバカなんだよ(^o^)。 私もあの子たちについては「自業自得」とは思うけど、「加害者」にまで「格上げ」して距離を置こうとは思わないね。現代ってのは否が応でもああいうバカガキどもを背負ってかなきゃならない時代なんだよ。大臣がそこから逃げるような発言(本人に自覚はなさそうだが)して、それを大衆が指示する世の中って何なんだ。 そう言えば『壁際の名言』でも唐沢俊一さんが、電車に乗って騒ぐガキに対して怒ってて、「禁子供車」ってのは作れないのか、とか書いてたけど、そんなの言い出しゃキリがないよな。子供がいてメイワクなのはどこでも同じ。デパートだろうがレストランだろうが映画館だろうが、バカなガキに走り回られて迷惑だからって、入場禁止にできるかね。「禁子供の『ポケモン』映画」とか(^o^)。 そうじゃなくって、「騒ぐ子供はオトナがみんなで叱ろう」ってのがスジだったはずなんだけどね。唐沢さん、子供を「聖域」にしちゃいけないと仰るが、「禁子供車」なんて発想してる時点で腰が引けちゃってて、もう子供を「聖域」に囲いこんじゃってるんである。 事態はもう「手遅れ」な所まで来てるんだよ。バカガキどもは大人がもう、本気で叱ることなんてできなくなってることを知っている。彼らはもうナニモノにも束縛されない。彼等に何か自律を求めるのなら、その「見本」が世の中になきゃならないんだけど、さて、そんなシチメンドクサイことを引き受けようってオトナがどれだけいるもんだか。 鴻池さんを支持してる人は、あの人を「オトナの見本」にしたいのかな?(^o^)
18日にはも一つ、政策秘書給与を流用した詐欺容疑で、社民党前衆院議員の辻元清美(43)、土井たか子社民党党首の元政策秘書五島昌子(66)ほか4容疑者も逮捕されている。 逮捕の時期が今になったのは、選挙に出馬するのを妨害する目的なんじゃないかとか社民党は怒ってるみたいだけど、出馬する気でいたのかよ(^_^;)。 まあ、この人のタイホのウラに何かインボーはなかったかと言われると多分あると思う。けどもともとこの人自体がインボーの人であって、そのインボーを隠してキレイゴトを言い続けてきたから嫌われる結果になったのだ。これも自業自得なんだが、それでもこの人を担ぎ上げて出馬を要請してた連中がいるというのがなんとも……。いったいバカはどこまで増殖していくのかね。
休日でも朝8時には目覚める。 『仮面ライダー555』には間に合うけど、『アバレンジャー』は見られない時間帯。って頑張って起きて見るほどの番組ではないんだけどさ。劇場版公開も近いが、この2本立てが定番化するということは、来年以降も『仮面ライダー』は続くのか。いや、続いちゃイカンとは言わんが、ドラマをリアルにしたいなら、役者の演技だけは何とかできませんか。
しげとよしひと嬢、今日も朝から芝居の練習。連日の練習で大変そうだが、考えてみたら公演までもう2ヶ月を切ってしまったのだった。 しげは私がゲーセンのUFOキャッチャーで取った「でじこ」のTシャツを着ているが、その上に例の真っ青ハデハデのハイビスカスアロハを羽織ってているものだから、もう見るからに頭悪そうである。Tシャツ、しっかり「にょ」とか書かれてるし。 しげは「人間としてダメって感じ?」 と喜んでいるが、もちろんダメである。しげがダメでなかったことなんてどれだけあるだろうか。
『鉄腕アトム』第15話「人工知能を守れ!」。 これも原作なしのオリジナルかね。ちょっと『マッド・マシーン』が入ってる気はするけれども。脚本が「パメラ・ヒッケイ&デニー・マッコイ」となってるけど、さてこれは実在人物なのかどうか。なんとなく「イザヤ・ベンダサン」のパターンのようにも思えるけど。 今回のゲストは、人工知能を持つロボットに反対する企業グループ、オーガニックスのリーダー・ケイン。髪形とあごひげから考えるとどうやら元キャラはレッド公らしいのだが、鼻が小さくなってしまっているので、それと気付く人は少なかろう。つーか鼻の小さいレッド公なんて別人だよな。『ブラック・ジャック』ならまだしも、『アトム』でキャラをリアルにする必然性があるのか。それともこれ、ケイン氏がアメリカ人だから、「アメリカ人の鼻はこんなにでかくない!」とか文句つけられて改訂したのかなあ。それともお茶の水博士も天馬博士も鼻がでかいから差別化をはかったのか。 話はまた「心を持ったロボットは善か悪か」という単純な二項対立の、これまでとたいして変わらぬエピソード。『アトム』見てる視聴者は基本的に「心持ってていいじゃん」と思ってるんだから、こうも毎回、同じテーマを見せられるのははっきり言ってくどい。もっとバラエティに富んだ展開を見せてほしいものだけれど、これが「グローバル・スタンダード」ってやつなら世界はすごく狭いと思うぞ。
WOWOWでOO7シリーズの『サンダーボール作戦』と『OO7は二度死ぬ』を。 これも何度見たかわかんないくらいだけど、テレビにかかってるとつい見ちゃうな。昔見たやつだと画面が随分変質してドギツイ色だったんだけど、ニュープリントかデジタルリマスターか、かなり美しくシャープになっている。DVDもこの画質なら買ってもいいなあ。 しかしこのときのキッシー鈴木役の浜美枝、子供にしか見えんな。ショーン・コネリー、ロリコン親父か(^o^)。なんでも浜美枝は他のボンドガールに比べて自分だけ体型が違うので(^_^;)一緒に撮影されるのをひどくイヤがったという話だけど、さもありなん。いや、そこがかわいいんだけどね。
今日も風呂は使えないので、夕方、3人でまた「月の湯」へ。今日の縁日は風船釣りであった。食事はここでしたくない、というので、粕屋のサティまで足を伸ばす。しげ、「車の音がヘン」とか言ってるが、そりゃ水没したやつをムリヤリ動かしてるのだから、ヘンだろう。かえって故障起こすことになりゃしないか。 サティの中の「博多新撰組」で回転寿司。店員の一人が顔見知りだったので驚く。知り合いだけならホントに腐るほどいるんだよなあ。これだから悪いことはできないのである。 そのあとワーナーマイカル福岡東で映画。 ちょうど話題作の間隙に入った感じで、これといって見るものがない。私は何でもかまわないんだが、しげもよしひと嬢も、「見たくないものは見たくない」のである。ホントのこと言うと、たとえ自分の趣味に合わないモノでも、若いうちは「何でも見てやろう」って気持ちでいてほしいんだが。 結局、私はもう見てるけど『チャーリーズエンジェル フルスロットル』を一緒に見る。でも昨日からの疲れが溜まってたのか、後半結構寝ちゃいました(^_^;)。 よしひと嬢はなかなか楽しかったもののようで、「『マトリックス リローデッド』よりずっと面白い」とのこと。 しげが何かしきりに小首を傾げているので、どうしたかと思っていたら、口をモゴモゴさせながら「ねえ、一つ聞いていい?」。 「なんだよ」 「あの、途中で仲間外れたやつがおったやん」 「ドリュー・バリモアか?」 「あれがどっかのバーに入ってったら、女が待ってたやん」 「うん」 「あれ、悪役と同じ人?」 映画を見た人はここで思いきりコケよう(^_^;)。 そのバーの女性というのは、今回の映画に特別出演したジャクリーン・スミスで、テレビシリーズで初代チャリエンの一人、ケリーを演じていた。自分のために仲間が危険な目に合うかもと意気消沈していたデュラン(ドリュー)を元気づけにやって来たのである。 今回の悪役、デミ・ムーアとは似ても似つかない。 「別人だあ! 顔が全然違っとうやんか!」 「ええっ! そっくりだよ! だから、あいつ、『悪役のくせに自分が犯人だって分るヒント与えてヘンだなあ』って」 「ヘンなのはオマエの頭だ!」 ところがそこへ割って入ったよしひと嬢、「あ、でもあれ、同じ人だとは思わなかったけど、幽霊かなとは思いました」。 ……映画を見るのって、そんなに難しい行為ですか……(゚゚)。
そう言えばこれもしげのアホを更に再確認する話。 『ハルク』の予告編でジェニファー・コネリーの出演がクレジットされてるが、しげはまたそれを見て、「前に聞いたかもしれないけどさあ、ジェニファー・コネリーって、ショーン・コネリーの娘?」と聞くのである。 この日記にも前に何回か書いたと思うが、この質問、私はもう何十回聞いたかしれない。なんでここまで同じ質問を繰り返すか。記憶力がないと言っても程度問題だぞ。そのうち私がボケてホントに「ジェニファー・コネリーとショーン・コネリーは親子かも」とか思いこんじゃったらどうしてくれるつもりだ。 しげの海馬は野菜食わないんで飢え死にしているに違いない。
マンガ、山田風太郎原作・せがわまさき漫画『バジリスク 甲賀忍法帖』1巻(講談社/アッパーズKC・560円)。 山田風太郎の映像化は、漫画にしろ映画にしろ本当に難しい。あの奇想は詠む者の神経に直接作用するような魔力を持っているので、そんじょそこらの作家では、とても扱える代物ではない。映画のたいていは安っぽいポルノにしかなっていない。その点、乱歩や夢野久作ともよく似ている。さて、今回の漫画化が、どれだけ妖異夢幻の風太郎世界を映像化しえているか。 タイトルに「バジリスク」と余計なモノを入れたのは『バガボンド』がヒットした知恵に倣ったものだろう。元のタイトルが好きな私はちょっと残念なのだが、忍者たちの走る姿を「地走り」に例えたのは悪くはない。 徳川三代将軍の世継決定を賭けて、甲賀と伊賀の特殊能力を持つ忍び、十人対十人が凄絶かつ妖艶な血闘を繰り広げる。……まさに血闘、せがわさんの線は細いがグロテスクな筆致が、忍者たちの粟立つような凄艶さを見事に描いていく。背景のCG効果も決してうるさくはない。これまでのマンガ化の中でも、石川賢の『魔界転生』に匹敵する成功作になりそうだ。 伊賀の朧の、朱絹の、蛍火の、甲賀の陽炎の美しさを「こんな線で描けたのか」と感嘆しつつ鑑賞。やっぱ女だけにしか目が行かんな(^o^)。
2002年07月20日(土) 漫画映画復活!/映画『猫の恩返し』/『ああ探偵事務所』1巻(関崎俊三)/『美女で野獣』1巻(イダタツヒコ)ほか 2001年07月20日(金) 一人で見る映画/映画『千と千尋の神隠し』
| 2003年07月19日(土) |
水害という名の人災/DVD『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX/笑い男編』 |
なんかまた、トンデモ物件っぽいものがお台場に(^o^)。 『ONE PIECE ワンピース』に登場する海賊船「ゴーイングメリー号」が実物のクルージング船として「フジテレビ開局45周年記念イベント・お台場冒険王」の一環としてお披露目。 お台場ってのもグータロウ君ご一家に案内してもらって、こりゃまた一風変わったヘンなものが生まれたものだなあ、と感嘆したことだった。私が感じた違和感ってのは、これはいったい「街」なんだろうか、ということである。 昭和30年代生まれにはギリギリ戦前の名残的感覚が残っていて、「街」ってのはやっぱり一つの生活感のある共同体として認識されているのである。だから我々は、『オトナ帝国』の夕日町に涙するし、宮崎駿のエコ趣味にもキレイゴトを感じつつ共感を抱く部分がやっぱりあるのである。「街」は日常の具現であり、生活と地続きの場、「ハレ」と「ケ」で言えば当然「ケ」としてそこにあるものだった。 今時の若い人にはちょっとわかんない感覚だろうけどね、休日に家族でデパートに行くなんて些細なことでも、我々にとってはすごいイベントだったのですよ。昔はデパートの屋上にたいていミニ遊園地があった。観覧車が回り、小さなジェットコースターも狭苦しい面積の中、レールを畳みこむように備えつけられていた。どんなに小さくともそれはやっぱり毎日の生活では味わえない「ハレ」の場だったのである。映画を見に行くのだって、子供のころは春休み、夏休み、冬休みだけのイベントだった。 割合で行けば、「ケ」の部分が10で「ハレ」の部分が1、今から30年くらいまでは、日本中の家庭の生活感覚はみんなそんなものだったろう。 今や我々の生活の中にはこの「ハレ」の部分が随分食いこんできている。今日は街に出て買いものだ! とウキウキすることもない(多少はウキウキするんだろうが、かつての比ではない)。逆に、日常生活に「ハレ」の部分が含まれていないと、かえって落ちつかないような、「毎日が日曜日」的感覚を欲しつづけているような、底無しの欲求すら感じられる。普段の生活が退屈だと神経に異常を来たし、堪えられなくなってしまうのだ。言ってみれば「ハレ中毒」、あるいは「ハレ依存症」である。 お台場のレトロ商店街を案内してもらいながら、そこで売っている昔懐かしい物に目を引きつけられながらも、これはやはり『オトナ帝国』に出てくる「夕日町」ではないなあ、と思ったのは、そこにはやっぱり「生活感」がなかったからである。店はあっても、そこに暮らしている人々がいない。遊んでいる子供たちがいない。路地裏もなければ、ゴミ箱のフタの上で寝ている猫もいない。ああそう、やっぱり「匂い」がないのだ。けれど今の若い人たちは、自分が日々を送る部屋の中からも「匂い」を極力排除していってはいないか。 「ゴーイングメリー号」というのもまあ、ヘンテコな船である。あんなのがたとえばそのへんの博多湾あたりに浮いてたら失笑ものなんだが、お台場のような「年中ハレの場」にあるならば、いかにも似合っていよう。似合っているだけに、私には何だかすごく「遠い」ものに感じるんだが、さて、毎日が「ハレ」でなきゃ気がすまない子供たちにはすごく魅力的なんだろう。 こういうところに集まってる女の子たちに、「ねえねえ、『ワンピース』のレアものフィギュアがウチにあるんだけど、見に来ない?」とか言って誘ったらホイホイ付いて来ちゃうんだろうか。 例の監禁されてた女の子たちも、毎日を日曜日にしたがってた感覚の子たちじゃないかって気がしてならないんだけれど。
9時に起床。 しげと殆ど同時に目覚めたのだが、外を見たしげが突然「大変なことになっとるよ!」と私を促す。 マンションのベランダから下を覗くと、なるほど、大変なことになっている。 川は流れるマンションの下〜♪ なんて五木ひろしの替歌なんて歌ってる場合ではないのだ。 下の駐車場の車が、とれもみんな泥水の中に半分ほど漬かっている。うわあ、また御笠川が決壊したな。確かに夕べの雷雨は凄かったが、まさかこんなになってるとは、予想もしなかった。今年の梅雨、やっぱ半端じゃないわ。4年前の「悪夢はふたたび」と言うべきか。 なんて特撮番組のタイトルをモジってる場合ではないのだ。 ウチがこの分じゃ、4年前に死人も出た一番被害のでかかった姉の店がどうなってるか分らない。 果たして電話線が繋がってるかどうかの不安もあったが、ともかく店に電話を入れてみる。電話口に出たのは姉ではなく父。 「そっちはどう? 大丈夫ね?」 「大丈夫じゃない!」 いや、いきなり怒られても。やっぱり4年前同様、床上浸水。泥水が一気に流れこんできたそうだ。 ともかく片付けの手伝いに行くことを伝えたが、水が引かないことには車が出せない。テレビではバスも地下鉄運休とのこと。あとはタクシーでも拾っていくしかないが、もう一度外の様子を見ると、どうやら水自体は引いているような様子である。少し待てば車にも乗っていけそうだ(と言うか、その前に車が動くかどうかを確認しないといけない)。
駐車場に降りて、車のドアを開けた途端に泥水がザバー。シートまで見事にぐっちょり濡れている。これはすぐに掛けつけられないと、しげに頼んで少し遅れる旨、店に電話をさせる。慌ててたので携帯を持たずに出て来てしまっていたのだ。 ともかく水を出さねばと、雑巾で拭きとって行くが、どこかに水溜まりができているのか、拭いても拭いても水が流れてくる。下に置いておいた傘もゴミ箱もファブリーズもみんな水浸しである。 一番悲しかったのは、しげに貸してた長山靖生の『偽史冒険世界──カルト本の百年』をしげがシートの下に落としたまま、コロッと忘れていたことだ。ともかくしげは本を大事にすることをしないが(結婚する前、私がプレゼントした本を質屋に売っぱらってたこともある)、それを見つけてもやっぱり「ごめん」の一言もないのである。 幸いなことにエンジンは何とか動いた。でもブレーキをかけたりすると、どこかから「ぐもっ」なんて音がする。いきなり爆発したりしないだろうな(-_-;)。 車を近くのガソリンスタンドで洗車してもらって、姉の店に急ぐ。 しげ、スタンドで待っている間、しきりに劇団のみんなと連絡を取り合っている。よしひと嬢はJRが動かなくてこちらに向かえずに困っているらしい。ラクーンさんも会社が水浸しとかで来られない旨。他のメンバーも軒並み遅刻とのこと。 「どうせみんな遅れてるんだから、お前も遅れたっていいだろう。店の片付け手伝えよ」 返事がない。聞こえない振りをしているか、どう返事しようか考えているうちに何を質問されたか忘れてしまったのだろう。 「練習終わったら店に来るのか?」と聞いたら、「よしひと姉様を迎えに行かないと」と言う。 どういう理屈だか分らない。今は普段の状態ではないのだ。身内が被害にあってるってのに、どうして芝居の練習(真剣にやってるならともかく、所詮は遊び感覚なんだから腹が立つのである)を優先できるのか。 店の前まで来ると、しげ、いかにも素っ気無い声で「ここで落とせばいいやろ」と言う。どうやら本気で片付けを手伝う気はないようなので、もう無視して降りる。
11時を回っていたので、もう水は引いているが、店の壁に水が来た跡が残っている。床からほぼ30センチ。前回が50センチほどだったから、前よりはマシというところだが、それこそ五十歩百歩である。 水が引いたと言っても、床に近い戸棚の中は依然泥だらけ、店の奥の部屋はまだ泥水が1センチほど残っている。こりゃそう簡単に掃除できるものではないというのが一目でわかる。 着くなり、父から「しげさんは?」と聞かれた。「そのうち来ると思うけど」と誤魔化したが来ねえだろうな、多分(実際来なかった)。 4年前の洪水では、店の椅子が水に漬かって電機系統がダメになり、全て買い換えということになってしまった。そのときは店に姉しかいなかったから仕方がないのだが、今回は父が孤軍奮闘。洪水の危険があると見るや、朝一番に店に駆け付けて、あのバカ重い椅子を一人で持ち上げてブロックの上に乗せて、流れこんでくる水から守ったのである。70歳近いってのに、腰は大丈夫だったのか(^_^;)。 でも結局は、ブロックの高さ以上に水が入りこんできて、椅子が一台、スイッチを押さないのに勝手に高くなったり低くなったりするようになってしまった。椅子を守りきれなかった父の悔しがることったらないけれど、何を言っても仕方がないことではある。文句をつけるなら、こうなることが分っていて洪水対策を遅々として進めていなかった福岡市の行政の責任なのは火を見るよりも明らかなのだけれど、じゃあこれで心を入れ替えて護岸工事を進めるかというと、それはちょっと望み薄なのである。 氾濫した御笠川って、河口付近が結構蛇行してるんだよね。これが流れを堰き止めてる原因にもなっている。で、昭和の遺物の埋立地が更に水の流れを抑えちゃってるんで、その手前のあたり、ちょうど博多駅近辺の土地が低くなってるあたりが一番の被害を受けることになるのだ。 要するに川の流れを真っ直ぐにして、埋立地をとっぱらっちまえば川の氾濫防げるんだけれど、それをしない市の言い分は、「河口を広げるための下流の土地買収がうまくいかない」。 当たり前だ。下流には寺やら老舗の商家や学校やら、先祖代々そこにいるって人も結構いるのである。中流の護岸工事で水はけをかえって悪くしといて、そのツケを下流の人たちに何とかさせようってコスイ魂胆の市政に誰が応じるものか。
姉の話によれば伯父もさっきまで来ていたそうだが、もう帰ったとのこと。水が引いて、あとは道具の掃除などだけになったので、人出は要らんと見たのだろう。でも、店の外はヘドロが道路一面に広がっている。これをなんとかしないことには人が通れない。というより、そんなの無視して通ってる車がヘドロを撥ね散らしてくれるのだ。 側溝が詰まっているので、まずはデッキブラシでゴシゴシこすって水が通るようにする。ホースで水を撒いて、ヘドロを溶かす(そのままでは重くて動かない)。ブラシでヘドロを側溝まで押しやって、穴に押しこむ。これの繰り返し。 店の前だけを流しても仕方がないので、隣やまたその隣の店の前まで掃除しなけりゃならない。結局、店の内外含めてなんとか片付いたのは午後の3時過ぎ。 その間、引っ切り無しに店には電話がかかってくる。ほとんど全部「店は開いとるとな?」というお客さんからの問い合わせなのだが、だんだん姉の機嫌が悪くなってくる。「店、開けられるわけなかろうもん!」。店の心配じゃなくて、自分が散髪できるかの心配だから、姉がイライラするのも分るが、今時の客なんてのはそんなものである。博多の人間も「客だから威張っていいんだ」と思いこんでる糞野郎ばかりになっちゃったんだなあ。
帰り際、片付けのお礼というほどでもないが、水に漬かって売りに出せなくなったシャンプーとリンス、入浴剤をもらう。なんで床屋で入浴剤まであるのかヘンだったが、シャンプー・リンスとセットになってるらしい。 フタはしっかり締まってたので、中に異常はないが、まあ今更お客さんに出せはしないから仕方がないね。
3時を回った頃、「博多座」までタクシーで直行。 もともと今日は朝から博多座に並んで、森光子の『放浪記』の公演チケットを買う予定だったのだが、この水害のせいで、すっかり遅れてしまった。ギリギリ整理券の配布に間に合うが、番号が776番(800番で今日の分は打ち切りである)。実際に券が買えるのは2時間後ということなので、その間に食事や買い物を済ますことにする。 食事は中洲の「一蘭」で、久しぶりのラーメン。辛いだけでとんと美味くない店だが、七月限定で縮れ麺を出していたので食べてみる。辛さは注文できるので抑えめに。縮れ麺はスープが絡むので、辛口だとちとキツイのだ。細麺だと糸食ってるような気にしかなれないものが、これは美味い。限定品にせず定番にしてくれればいいのだが。 それでもこの店の、両隣の仕切りと暖簾で職人さんの顔が見えないのは落ちつかない。しげは相手と顔を合わさないでいられるこの店などの方が安心できるようだが、私は逆である。別にヒトとヒトの触れ合いがどうのってんじゃなくてさ、姿が見えないと、ドンブリに指突っ込まれたりされててもわかんないじゃないの。まあそんなことはしてないだろうけど。 チケットが買えたのはもう七時を回ったころ。いい席は取れなかったが、これも水害のせいだ。でもって対策取ってなかった福岡市のせいだ。えいくそ、税金返せ。
夜、練習が終わったしげ、よしひと嬢を連れて帰って来るが、濡れてしまった車のシートやらなんやらを風呂場にぶち込んでいて、しかも水害のせいか風呂場の電気がつかない。 なんとか車のエンジンは動くようなので、近所のスーパー銭湯、「月の湯」まで3人で行く。 家族向けに縁日が出ていて、金魚掬いなんかやってるけど、銭湯の建物の中でそんなの出されても場所が狭くなるだけである。いつもならこんなシチュエーションならば、よしひと嬢の湯上り姿を鑑賞してハナの下を伸ばしているところだが(おい)、とても今日はそんな余裕はない。食事はしないというしげとよしひと嬢と別れて、一人先に食堂で海鮮定食を食べる。まあスーパー銭湯の食堂だから、味はもうそこそこ以下である。 風呂自体はサウナに入るだけで疲れそうなので、ジャグジーでカラダを解きほぐしたらさっさと上がる。食事に時間がかかったのか、二人はもう風呂から上がってソフトクリームを食べていた。見てみると黒ゴマソフトとかいうヘンなものである。スーパー銭湯もいろいろキッチュなものがいっぱいだ。
帰宅して、DVD『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の「笑い男編」最初の3話『視覚素子は笑う/マネキドリは謡う/模倣者は踊る』をよしひと嬢に見せる。 このDVDシリーズの感想も書き忘れてたけど、キャラクターデザインにやや不服はあるものの(原作通りでいいじゃんかよ。プロダクションIGに作画できないわきゃないんだが)、近年のテレビシリーズの中で出色の出来であることに間違いはない。
6年前に起こった企業テロ「笑い男」事件。特A級のハッカーによって脅迫された企業は数知れないが、警察は未だに事件の片鱗すら掴むことができないでいた。 そんな時に起きた特捜班の山口の死。彼はかつての同期・トグサに死の直前、連絡を取っていた。山口の死の真相を追って調査を開始したトグサは、彼ら特捜班全員に視覚素子「インターセプター」(人間の目自体をカメラ化させてるものらしい)が仕掛けられていたことをつきとめる。警察内部の不正使用。それを告発しようとした直前に彼は消されたのだ。 公安が動いていると知った警察は、トカゲの尻尾切りのように、特捜部部長の更迭が発表する。ところがその記者会見席上で、突然義脳をハッキングされた刑事本部長が、自らを「笑い男」と称して、警視総監暗殺を予告し始めた……。
原作の『攻殻』はともかくウンチクだらけの書きこみを読むだけで疲れてしまう。だもんで2巻は買っただけでまだ読み通せてないんだけど、草薙素子は1巻でネットに沈んじゃったから、このアニメ版は「それ以前」という設定なんだろう。となれば完全なアニメオリジナルなのか。それにしては随分と「濃い」ドラマが展開されている。特に名は明かされてはいないが、押井守も一枚噛んでるんじゃないか。「笑い男」の設定なんて、いかにも押井守好みだし、特にコンピューターウィルスに犯されたわけでもないのに笑い男の模倣者たちが続出するクライマックスは、何か科学そのものを嘲笑するような底意地の悪さが感じられて、これも押井守っぽい。 何より、押井守ファンサイトの『野良犬の塒』で、毎回『攻殻機動隊SAC』の情報が「押井守はこの作品に関与してないはずなのに」提供されているのである。何しろあの人は「丸輪零」さんだからなあ(^o^)。ウラで何やってるか知れたものではないのである。 まだこの三部作では「笑い男」の正体は明かされないのだが、今DVDで買ってる分には「30分間、ネットで『笑い男』の正体を討論し合うだけ」という恐ろしいエピソードも含まれていて、このシリーズがアニメの極北を目指しているのではないか(^o^)という気さえ起こさせるのである。「リクツこねてるだけでアニメとしてどうか」というご意見もあろうが、「アニメはこんなもんだ」という決めつけは初めからアニメの可能性を狭めているだけだ。 こんな「挑戦的」なアニメを見てワクワクしなきゃ、人生損だよ(^o^)。未見の方はぜひ御覧になっていただきたいのである。
2002年07月19日(金) 踊る大脂肪/映画『MIB�供戞拭悒錺ぅ蛭如”�雲児たち』3・4・5巻(みなもと太郎)ほか 2001年07月19日(木) 天ブラサンライズ/『吼えろペン』1巻(島本和彦)/DVD『サウスパーク無修正映画版』ほか
| 2003年07月18日(金) |
「よろしかったでしょうか」の謎/映画『ソラリス』/『ウエスト・ウイング』(エドワード・ゴーリー) |
いやはや、どうせなんかまたセンセーショナルな事件が起きたらアッと言う間に過去のものになっちゃうだろうと思ってた12歳誘拐殺人事件、ホントにそうなっちゃったね。 昨17日、13日から行方不明になっていた小学校6年生の女の子4人組が無事保護された。 「近所の体育館に行く」「スーパーに行ってくる」、親を騙して出かけてった女の子たちの行く先は、実は渋谷の某マンション。「部屋の掃除」のバイトをするつもりが、待ち構えていた男は女の子たちにいきなり手錠を掛けてこう呟いた。 「ここに来た意味が分かっているな」 まあ、それから何がどうなったかはよくわからないのだが(^o^)、昨日の昼、女の子の一人が逃げ出して、階下の花屋に飛び込んで助けを求めたことから事件は発覚。警察官が到着して、件の部屋に踏み込むと、残された3人は手錠姿のまま泣きじゃくっており、別室では、4人を連れ込んだ男・デートクラブ兼ブルセラショップ「プチエンジェル」の経営者・吉里弘太郎(29)が自殺していた。
報道では捜査の輪が狭まったので覚悟の自殺をしたんじゃないかということだったが、逆じゃないかね。これまでにも何度もナニで捕まってるし、ウラで暴力団とのトラブルもあったんじゃないかということだから、自殺する前に最後のイイ思いをしたい、と考えたんじゃないか。三日間、きっと心行くまで楽しんだんだろう。 皮肉めいた書き方をしてるからおわかりだろうが、私は今回の事件に関して、被害者の女の子たちに一片の同情もしてはいない。つか、腹立ってるよ。またぞろ「親の躾が悪い」論を口にしてる「識者」がいるけどよ、「親に嘘ついて出た」ってことは、正直に「渋谷でバイトする」と言ったら止められるとわかってたってことだろ? 「知らない人についてくな」とか、親は躾、ちゃんとしてるんだよ。 犯人が悪いのは当然だけど、親をだまくらかしてさ、こんな見え透いた罠に引っかかる馬鹿女はナニされても文句言えねーよ。自業自得じゃん? 小学六年生相手にそこまで言うのは手厳し過ぎるんじゃないかと非難されそうだけど、こないだの12歳の事件では、「12歳だからって容赦するな」って意見が圧倒的に多くはなかったかねえ。12歳だってオトナ扱いすべきだってんなら、今回の事件でもオトナと同等の分別や判断力をあの女の子たちに求めるべきだろう。イマドキの12歳なんて、カラダは充分オトナだ。心だけがオトナでなくていいなんて言い訳が通用するか。 周囲の口さがない連中はきっと、あの子たちの経験したアレソレについてヒソヒソとウワサするだろうけどさ、そういうものを撥ね返すだけの根性を、これから先、あの子たちは身に付けらけるのかね? 回りのオトナがカワイソカワイソと女の子たちを「囲いこみ」でもしようものなら、かえって誰かに依存することでしか自分を守れないオトナになる危険だってあると思うが。 コドモはいつもいつも守ってやりさえすればいいとは限らんのである。イッパツやられないと自分たちがどれだけ馬鹿だったか分らんこともあるし、オトナとして遇してやることも必要だと思うよ。 これも念のために言っとくけど、犯人擁護する気で女の子たちの悪口言ってるんじゃないんだから、そこんとこワザと曲解しないよーに。
『言語』8月号に、「世相語」としてついに「よろしかったでしょうか」が登場。ついにこの言葉も関東に進出したと見える。 ファーストフードやファミリーレストランのマニュアルにそう言うように書いてある、とのことだが、さてホントなんだろうか。しげもバイト先のマニュアルにそんな言葉遣いは書いてない、と言うし、本当にマニュアルがあるのなら、全国一斉、同時期に使われてもおかしくないはずだ。タイムラグが存在しているのはおかしい。 4年前に「よろしかったでしょうか」を検索にかけたら殆どヒットしなかった。今は4千件以上のヒットがある。そのルーツとして、「北海道の居酒屋チェーン」を挙げていたサイトもあったが、それでは東京をすっ飛ばして先に九州に伝播した理由が解らない。 「大手ハンバーガーチェーンの各店の店長がアルバイトに客の注文をしっかり確認するよう指導し、『ご注文は××でよろしかったでしょうか』という接客敬語を口伝えで教えている」などと説明しているところもあるが、マニュアルもないのになぜそんな言葉遣いを徹底させられたのか、これも納得の行く説明にはならない。。マニュアルがなく、「『よろしかったでしょうか』は使わないように」と指導されているはずのしげの店でも、しげ以外の店員さんはこの「よろしかったでしょうか」を使いまくっているのである。 学校の英語教師の能力不足のせいだとする説もある。英語などでは、過去形や仮定法を使うことでていねいな言い回しになるという表現があるのだが、バカな英語教師は、仮定法過去だろうがていねいな依頼の文だろうが、動詞が過去形になっていればなんでもかんでも額面通りに過去形で訳してしまうのだとか。つまり、“Would you mind opening the window ?”(窓を開けていただけませんか?)という英文を、「窓を開けてもよろしかったでしょうか?」と訳し、それを聞いていた生徒が、日本語でもそうした直訳的な表現をし始めたのではないか、ということなのだが、それだとこの表現がなぜ日常会話では使われず、ファミレスなどを中心に広がっているのかを説明できない。 何かの意識の変革がどこかで行われて、それが人々の心を捉えて伝播していったに違いないのである。その意識の変革とは何か。 客が違和感を感じるのはこの語句の過去形の部分だけである。なぜウェイトレスが過去形を使うかと言えば、それは客の注文を自己確認しているためである。そしてそれをそのまま客に投げ渡してしまっているのである。「今の注文で間違いなかったかな」という自分の心の中での確認と、「以上でよろしいでしょうか」と客の確認を求める行為とが、合体してしまったことで起きている失敗なのだ。ギャグマンがによくある「心の中で思っていることをつい口に出してしまった」と同じなわけだ。自我肥大が起きると、意識のコントロールができなくなり、思っていることをブツブツ口にし始める神経症があるが、それと同じことなのだ。 何気なく聞きのがしてる人も多いかもしれないけれど、お客さん。アナタすごく気持ち悪いことされてるんですよ。
私がこの言葉を耳障りに感じ出したのは3、4年前である。その当時、東京でそんな言葉遣いしてる店員やウェイトレスがいるのかどうか、グータロウ君に聞いてみたが「全然聞かない」とのことであった。ネットで問いかけてみたこともあったが、そのとき寄せられた回答では、「東北の方では使われている」であった(北海道や東北地方の一部では、前提のあるなしにかかわらず「はい、××でした」のように「タ」形を用いることで丁寧さ(あるいは婉曲)を現す方言があるとのこと)。 東北と九州で同時期に発生した言葉が、じわじわと東京のほうに伝わっていったというのだろうか。方言周圏論にも逆行している。さっきは「日常会話では使われない」と書いたが、徐々に普段の会話でもこの表現を使い始めている人間も老若に関わらず生まれ始めているのである。全くいったい何がどうなっているというのだろう。
夕方から土砂降り。 仕事帰りに、たまには贅沢に食事をしようと、「牛肉のサトウ」で食事。どれくらい贅沢かと言うと、二人で食事をするとお札が一枚吹っ飛んじゃうのである。なんたって松坂牛だから。 味は満足だったが、ここのウェイトレスさんもやっぱり注文取ったあと、「よろしかったでしょうか」と聞く。一瞬で興醒めしてしまうが、妙なことにそのあと「サラダバーなどはよろしいでしょうか」と聞く時にはちゃんと現在形になっているのである。過去形と現在形がチャンポンになっているというのは、もしかしたらやはりマニュアルに何か記載でもあるのか。 だんだん、「よろしかったでしょうか?」と聞かれたら「よろしくないです」と返事してやりたいヒネクレた気分になってくるのである。 ともかくコトここに至っては、声を大にして言いたい。 てめえの思いこみを客にぶつけるんじゃねえ。凸(-~~- )
しげはそのまま仕事へ。 私は今日が公開最終日なので、AMCキャナルシティ13まで一人で『ソラリス』を見に行く。
人類が遥かな宇宙にまで進出した未来。 心理学者のクリス・ケルヴィン(ジョージ・クルーニー)は、妻レイア(ナターシャ・マケルホーン)を亡くし、孤独な生活を送っている。 そこに突然、彼に「惑星ソラリスの調査」を依頼する男が現れる。男はソラリスの開発会社からやってきたのだが、既にソラリス調査のための宇宙ステーションに派遣されていたチームのリーダーでクリスの友人、ジバリアン(ウルリッヒ・トゥクール)からの通信ビデオをクリスに見せる。 「助けに来てくれ」。何の事情説明もせず、それだけを求めるジバリアンの姿を見て、クリスは調査を引きうける。 宇宙ステーション「プロメテウス」には、二人の男女がいた。科学者のスノー(ジェレミー・ディヴィス)とゴードン(ヴィオラ・ディヴィス)。ジバリアンは自殺していた。船内にはあちこちに血痕が点々と残っていた。 残された二人は自室に引きこもり、この船で何が起こったのか、容易に語ろうとはしない。 「アンタにもアレが起きたら分るさ」。嘯くスノー。 「アレとはなんだ?」 「“お客さん”(ヴィジター)だよ」 どこかから、子供が走り回る足音が聞こえてくる。宇宙船の中に、なぜ子供が? その夜、クリスは悪夢にうなされる。その悪夢の彼方に映る人影。目を覚ましたクリスの前には、“お客さん”が微笑を浮かべて立っていた……。
スタニスワフ・レムの傑作SF(人によってはこれを世界SF小説のベストワンに挙げる人もいる)『ソラリスの陽のもとに』をアンドレイ・タルコフスキーが映画化(『惑星ソラリス』)したのは1972年。日本公開はもちっと遅れて1977年。私はこれを劇場で見てもうぶちのめされた。 もちろんそれまでにもテレビでは『ミステリーゾーン』や『宇宙大作戦』『謎の円盤UFO』『プリズナー�癸供戮曚�、数多くのSFドラマを見ていたし、ウェルズ、ヴェルヌなどのSF小説の古典からそろそろブラッドベリやブラウンに移行しつつ、星さん小松さん筒井さんと言った日本のSF作家の作品も片っ端から読んでた時期なので、SF的発想に自分では「慣れていた」つもりだったのだが、それが奢り高ぶりというものであった。これで私は完全にSFに「かぶれ」てしまうことになる。原作本も私の「無人島に1冊だけ本を持っていくとしたら」の候補の1冊となった。 私が『スターウォーズ』にハマらなかったのは、『惑星ソラリス』を見たあとでは、あんなのはガジェットをちりばめただけのもので、中身はただのお伽話、まるでSFとは思えなかった、ということもある。実際、本気で「SF」してる作品は、単に小道具だけではなく、その物語もコンセプトも含めてSFしてるものなのである。 だから『アルマゲドン』なんて物語自体はSFでもなんでもないんだから、アレをSF映画として云々したって無意味なんだってば(-_-;)。 そういう事情があるので、今回のスティーヴン・ソダーバーグ監督、ジョージ・クルーニー主演によるリメイクには正直、不安を隠しきれなかった。タルコフスキー版を超えられるとは到底思えなかったからだ。 結論から言えば、私はこれはこれで充分に満足した。 同じ設定、同じストーリー展開でありながら、映像が安易に旧作の追従にも反発にもなっていない。確かに旧作を彷彿とさせるシーンも多々見られるが(例えば冒頭、ジョージ・クルーニーが降る雨を見続けている様子は、『惑星ソラリス』でドナータス・バニオニスが川を見つめているシーンとシチュエーションとしては同質である)、それはソダーバーグ監督自身の原作へのアプローチとして改めて映像化されたもので、不自然さがない。 カットバックが乱雑に繰り返される(普通は現実のシーンと回想のシーンは交互に入れ代わるものだが、時には回想が連続する)ことによって、現実と回想との境界線が曖昧になっていく。観客は何度か混乱に陥るが、それがラストシーンの伏線となって、実に効果を上げている。「映像の文法」が「主題」とこれだけ密接に係わり合い、効果を上げている例はめったにない。それを見抜けなきゃ、「オマエは映画を見る目がない」と言われたって仕方ないよ。 脚本・撮影・編集・監督と一人四役をこなしたソダーバーグ監督、旧作の呪縛に捕われずにきちんと自分の映画を作っている。旧作とどちらが上かを語ること自体ヤボに思えるくらいだ。 ジョージ・クルーニーも、あまり私はこの人の演技を買ってはいなかったのだが、感情の抑制されたいい演技をしている。 これ以上の批評はどうしてもラストに触れるしかないのだが、友人から「絶対書くな」と言われているので、残念ながら省略(^o^)。前作とは違った結末のつけ方をどう評価するかで賛否が分れるところだろうが、私は可である。 タルコフスキーに強い影響を受けた日本の某映画監督の某作品とソックリになっちゃったのは、これも同族進化というやつだろうか(^o^)。
エドワード・ゴーリー『ウエスト・ウイング』(河出書房新社・1050円)。 1963年製作、ゴーリー氏は38歳、これが14作目の絵本になる。この年には代表作の一つ、『ギャシュリークラムのちびっ子たち』ほか、5冊の絵本を出版しており、最も油の乗り切った時期の作品と言えるだろう。 いつもの翻訳者、柴田元幸氏の名前がないがそれはそのはず、これは純然たる「絵本」で、文章はついていない。説明を排除して、物語は読者の想像に任せるという方式なのだけれど、何しろ作者がゴーリー氏なものだから、これがもう怖い怖い。子供が普通の絵本と間違って買っちゃったら、悪夢にうなされそうだ。もっともそれはゴーリーの他の絵本についてもそうなんだけどね。
原タイトルの“The West Wing”は「西棟」の意味。もっともみなさんご承知の通り、ホワイトハウスの別名も「ウェスト・ウィング」であるから(そういうタイトルのドラマもあったね)、そのあたりのニュアンスも含めているのかどうか。この西棟で起こった出来事を象徴的な30枚の絵にしたものが本書。絵本と言うより、「西棟」をテーマにした絵画集と言ったほうが妥当かも。
〔表紙〕 黒雲の漂う空を背景に、切り石で出来た西棟の一部が描かれる。整然と並ぶ窓はいずれも暗く、中は見えないが、左下の窓だけはなぜか石で固められている。 〔見返し〕右下に小さく、しゃれこうべを種のように撒く蝶ネクタイの少年。 〔扉絵〕 「西棟」と表札のかかった入口に入って行く人物。中は暗く、人物の姿も足元しか見えず、あとは影に隠れている。 1、カーペットの敷かれた床。カーペットの模様は一つ一つが人の顔のようにも見える。そしてどこかに伸びている階段。 2、扉を開けて部屋に入って来る女。福は黒く喪服のようでもある。 3、誰もいない部屋、窓の下に靴が三つ、落ちている。 4、扉が開いている。廊下を挟んで、その向こうの部屋の扉も開いている。 5、壁にかかった絵。黒雲に覆われた空の下、森の向こうに丘があり、道が伸びている。丘の上には墓石が小さく一つ。 6、椅子に座り、杖をついて瞑想する禿頭の老人。シルクハットが床に置かれている。 7、壁に建てかけられた梯子。 8、床に置かれた荷物。 9、水差しを盆に載せて運ぶメイド。 10、部屋に置かれた姿見。扉が映り、誰かが裾だけ見せている。 11、水没している廊下。 12、手すりの前で、髭を生やした全裸の男が背中を向けている。 13、宙を舞う2枚の布。 14、部屋に置かれた彫像。 15、床に倒れている男。 16、階段と窓。窓は塗りこめられている。 17、部屋に落ちている一枚の紙片。窓からそれを覗きこんでいる白い影。 18、廊下の陰から覗いている四本の棒。椅子が倒れているのだ。 19、廊下を歩く全身包帯のミイラ。 20、床に置かれた丸太。 21、人の形をした壁の染み。それは宙に浮いているようにも見える。 22、ひび割れた床。 23、天井のフックからぶら下がっている黒い「人形」。内臓のようにも見える。 24、床に置かれた唐草模様の壷。高さはドアほどもある。 25、扉が開いている。廊下を挟んで、その向こうの部屋の扉は閉ざされている。 26、床を四つ足で歩く、小さく奇妙な生き物。蜥蜴のようだが顔は鳥のよう、体にはセビレと縞模様がある。 27、テーブルに置かれた石。なぜか石の表面は一部が切り取られたように白い。ゴーリーが白い絵の具で塗り潰しているのである。 28、床に座って向こうを向いている少女。 29、壁紙が3ヶ所、破られている。 30、宙に浮かぶ蝋燭。 〔裏表紙〕広い空の下、左下に小さく西棟。窓が一つ、塗り固められている。
さっき「怖い怖い」と書いたけれども、17の白い影や、19のミイラのように、直截的で怖いというよりはおかしみを感じてしまう絵もある。26の小動物は『うろんな客』にも通じるゴーリーワールドのマスコットの一匹で、かわいらしいくらいだ。12の裸の男など「ナニしたあとかよお前」と突っ込みたくなる(^_^;)。 こうして見ていくと、折り返しに「とほうもなく怖い作品」と惹句が書かれているのが、「ホントにそうかあ?」と疑いたくもなる。ゴーリー氏、案外ワザとやってるのではないか。 ホラーとコメディは紙一重だが、あえて滑稽の部分に足を半歩踏み入れてコントラストを取り、他の絵の恐怖を弥増す効果を狙っているように思う。 4と25が対照的に描かれているのも上手い。総じて、思わせぶりになりすぎない程度の、絶妙なバランスの絵が多い。中でも私が一番好きなのが18の椅子の絵だ。これなんか額に入れて部屋に飾ったら、たとえどんなにハートウォームな雰囲気の部屋でも、それだけで一気にダークなムードに包まれること請け合いである。まあやるやつぁあまりいないだろうが。 ゴーリー氏がこの世に残した作品は120冊。日本に翻訳されているのはまだその膨大な作品群の一部に過ぎない。これらの本がもっと売れに売れて、次の作品を読めるまでの間隔が縮まってくれると嬉しいのだが。
2002年07月18日(木) 芸能界の宿便/『名探偵コナン』38巻(青山剛昌)ほか 2001年07月18日(水) 夏到来! ……って暑いだけだって/『夢の温度』(南Q太)ほか
| 2003年07月17日(木) |
本能に逆らえないやつっているのな/『なんてっ探偵▽アイドル』13巻(北崎拓) |
しげがまた具合が悪いというので、タクシーで出勤。 ラジオから流れてきたニュースが「痴漢えん罪被害者ネットワーク」の代表・長崎満が、地下鉄車内でOLの下半身をカメラ付きの携帯電話で盗撮したとして、現行犯逮捕されたというもの(関係ないけど、「冤罪」くらい漢字で書こうよ)。 この人、『日本の論点2003』にも「痴漢冤罪はなぜ起きるか」の項で、「こうして私は痴漢の犯人にされた――『疑わしきは罰する』司法の恐怖」というタイトルの文章を発表している。こういう事件が起こったあとでモノを言うのも何なんだが、以前読んだときから「この人ホントに冤罪なんかいな?」と疑いを抱きたくなるような文章を書いていたのだ。 現物が本の山の中に沈んでいるので正確に引用はできないが、まあ「わ〜た〜し〜は〜潔白だ〜、や〜ってな〜い〜♪」に繋がる胡散臭さが感じられるものなんですね。自分はやってないという主張、逮捕されたときの状況や警察の理不尽さは語るけれど、身の潔白を証明しようという姿勢、その論拠を示す記述が殆どないのである。「相手が悪いから自分が正しい」ということにはならんのだが。 文体もどうもネチッこいし、言っちゃ悪いが、掲載されてるお写真を見てもどこか腺病質で目がイッちゃってて、いかにもソレっぽい。そんな決めつけしていいのか(^_^;)。 いや、人間ってどうしても見た目で判断されちゃうものだから、気を付けないといけないってことが言いたいだけです。疑わしきはホントに罰せられがちなんですから(なんか経験があるのか)。 「こーゆー人って疑われる素因があるんだよなあ」とか思ってたのだが、今度は完全な現行犯逮捕である。もう言い逃れができないと言うか、前回の「冤罪」も実は冤罪じゃなかったのでは、という疑問は誰しも感じるであろう(ラジオでもパーソナリティーがそんなこと言っていた。つか、実は証拠が有力で有罪が確定しているのである)。 本人は「酒に酔っていて覚えていない」と話してるそうだけど、その場にいた男性二人に取り押さえられたときに、盗撮に使ったカメラ付き携帯電話を壊し、画像も消去したとか。酔ってようが酔っていまいが、こうも明白に証拠隠滅図ろうとしてちゃ、さすがに彼の言い訳をマトモに聞こうって人間はおるまい。 「痴漢えん罪被害者ネットワーク」に参加している人たちの全員が「疑わしい」人だとは思わない。その殆どは本当に潔白な人たちなのだろう。けれど、「そういう冤罪被害者の人たちに混じれば、自分の痴漢行為をカモフラージュできる」と考えるモノホンの痴漢がいてもおかしくはないのだ。木は森に隠せというヤツか(森に擬せられる方はとんだ迷惑である)。 こういう組織って、「入会審査」とかしないのかね。してなさそうだけれど、裁判までして争ってれば、本当にやってないんだろうってつい信じちゃうのも分らないではない。でも、今回の件がこの会の活動に支障をきたすような事態にならなきゃいいがなあとは思う。だって、「痴漢にあったフリをして男性から小遣いせびり取る」馬鹿女だっているんだから。
それはそれとして、この事件でもう一つ特筆すべきなのは、カメラ付き携帯の多用な使用方についてであろう(^o^)。 これまでにも盗撮してた連中は小型カメラをカバンに仕込むなど、涙ぐましい努力をしていたのだが、カメラ付き携帯というのは、実に盗撮をしやすくしたようだ。不自然な姿勢を取らなくても、別のモノを撮っているフリをしてパッと誰かを撮るとか、それくらいのことは可能になっちゃったのである。 何か便利なものが発明されるたびに、それがもたらす弊害が云々されるが、この発明はその手軽さからほかにもいろんな「誘惑」を誘発しそうな気がする。私も最近、カメラ付き携帯に買い換えたい気分になってるんだよねえ、道端歩いてて、トマソンだのVOW物件やトンデモ物件だの見つけたらつい撮っておきたくなるもの。でも、うっかりヤバイもの撮っちゃってトラブル、とかいう事態にもなりかねない。 いや、女の子盗み撮りとかそんなことはしませんよ。しませんけどね、偶然映りこんじゃって疑われたらどうするんですか(^_^;)。
晩飯は博多駅バスセンター8階の「ぎおん亭」で牛タン定食。 ここのウェイトレスさん、注文を取るとき、例の過去形での「よろしかったでしょうか」という間違いをせずに、普通に「以上でよろしいでしょうか」と言った。最近はレストランに入るたびに苦々しく思っていたのだが、それだけで気分がよくなった。 朗らかな気分で「すみません、お水をお願いします」と言ったら、「おひや?」と聞き返される。一瞬こちらも口篭って、「お水です」ともう一度繰り返したら、また「おひや」と確認される。いや、「おひや」でも悪くないんだが、それは商売用語だから、基本的に店の人間は使えても、客は使えないのである。「お勘定」とは言えても「お愛想」と言えないのと同じだ。再確認されても困るのである。 よくそのウェイトレスさんの様子を観察してみると、どうやら日本人ではないようだった。珍しく日本語がちゃんとしてると思ったのは勘違いだったか。なんだかちょっと浮かれた分、興醒めの度合いも大きくなってしまった。
マンガ、北崎拓『なんてっ探偵▽アイドル』13巻(小学館/ヤングサンデーコミックス・530円)。 今回はアレですねー、「女だらけの水泳大会」とか「TVジョッキー」とか、、70〜80年代テイストのえっちバラエティのノリが楽しかったですねー。梨奈ちゃんやかおりんはべとべとになっちゃうし〜、サービスのシャワーシーンはあるし〜、アキラちゃんの半チチはモロ見せするよりウハウハしちゃうし〜、ミステリーマンガとしての設定なんてどっかに行っちゃってるし〜、なァ〜んにも考えないで読めますね〜、もう、私も脳がトシちゃん状態、あは、あは、あはははは〜(゜∇、°)。 ……ホント、私ゃなんでまだこんなの買ってんだろ(-_-;)。 バーチャルアイドル話のトリックは、「それやっちゃダメだよ〜」ってネタだったけど、まあそれはいつものことかなー。
2002年07月17日(水) それさえも平穏な日々/『脱ゴーマニズム宣言』(上杉聰)/『潜水艦スーパー99』(松本零士)ほか 2001年07月17日(火) 何年ぶりかの酒の味/『水木しげる貸本漫画傑作選 悪魔くん』上下巻
| 2003年07月16日(水) |
トリビアン・トレビアン!/『濃爆おたく大統領』1巻(徳光康之)/『壁際の名言』(唐沢俊一) |
そのうち『世界仰天ニュース』あたりに取り上げられそうなニュース。 今月10日のこと、場所は遠くイスラエル、ガリラヤ湖近郊の村。 自宅で楽しそうに「フン、フン、フ〜ン」とか鼻歌唄いながらお掃除していたA子さん(32)、突然1匹のゴキブリがバタバタバタッ!と飛んできて、口の中に入ってしまった。 ゴキブリは食道あたりウゾウゾウゾと動き回る。A子さん、思わず悲鳴を上げるけど、喉にゴキブリが詰まってるので「グェ〜! グェ〜!!」とヘンな声にしかならない。パニックに陥ったA子さん、頭に血が上って、そばにあったフォークに手を伸ばし、口の中に突っ込んだ。何とかゴキブリを引きずり出そうとしたんだろうけど、ものごと焦るといいこたない。勢いでそのままフォークもゴックン! あわれA子さんはそのまま病院送り。 緊急手術は成功して、フォークは取り出せてA子さんも無事だったのだけれど、はてさて全く、アンビリーバボーな出来事というのはホントに日々生み出されているものである。事件の原因のゴキブリさんは、もう消化されてたんだとか(^o^)。 この事件について、殺虫剤会社の「フマキラー」に取材したところによると(よく思いついた記者がいたな)、日本でも、子どもが誤ってチャバネゴキブリを飲み込んだりする例が数年に1度報告されるそうだ。 「ゴキブリを飲みこんだ場合、病院に行くのがベストですが、生命力の強いゴキブリは、入ってすぐの食道ぐらいなら動き回れるでしょうが、しばらくすれば窒息死します」とか。 案外、そう慌てなくても大丈夫、ということなのかね。なんか胃の中で毒撒き散らしてそうなイメージあるんだけど。 私も昔、自転車に乗ってて、「何かが」口の中に飛び込んできたことがあって、飲みこんじゃったんだけど、アレは何だったのだろう。ここで「アレは実はUFOでした」とか「思いこめれば」、私もトンデモ本が書けるんだがなあ(^o^)。
毎回、隔靴掻痒の『トリビアの泉』、もう録画するのはやめた(してたのか)。 三木さんも唐沢さんも関わってるからなあ、と思ってたけど、やっぱ見ててツライわ。多分お二人とも今の番組の作り方には満足してないんじゃないかなあ。ま、勝手な憶測だけど。 「童謡『ももたろう』の中で、彼は鬼に容赦しない」なんて、何がどう面白いんだか。唄の途中の「おもしろい おもしろい のこらず鬼を せめふせて 分捕物を えんやらや」の部分が残酷だとでも言いたいのだろうか。もともと鬼退治の話なんだから、ももたろうが鬼を容赦しちゃおかしいでしょう。これは話そのものに難癖をつけてるのと同じである。「かぐや姫は実は月の住人だった」なんてのでトリビアになるか(実は「月の向こう」に行くので、月人ではないのだが)。 番組では、最初は可愛いマンガ風だった背景のイラストを、ここでいきなりリアルな責め絵みたいな絵柄に切り返るのだが、これはもう演出ではなく「ヤラセ」だ。……投稿ネタ、こんなのが選考を通過してるってことは、よっぽどどうしようもないネタしか集まってないのかなあ。
ちょうど今、『ズームイン!! SUPER』の「ヤラセ」問題が話題になっている。数日前、番組内で羽鳥慎一アナが「ヤラセがありました、すみません」と謝っていて、何のことやら、と思っていたら、なんと福岡放送の仕業であった(^o^)。 問題となったのは、「ズームアイ」の中で、「赤ひげ先生奮闘記」と題して、ホームレスの健康相談をタダでしてあげてる福岡市のお医者さんを紹介したものである。あるホームレスの男性が、両親への音信不通を詫びた手紙を書いて、それを親戚に渡すシーンを撮る際に、本当は手紙の受け取り拒否されていたのだけれど、スタッフが自分の知り合いに頼んで、親戚のフリをして撮影したとのこと。 ドキュメンタリーとバラエティを比較して「ヤラセ」を語るのも乱暴には違いないのだが、番組の作り手の「いい加減さ」というのは共通してる気がする。よく「番組作りに熱心なあまり、つい暴走してしまった」みたいな言い訳を聞かされることがあるが、「熱心さ」ってのはそんなものじゃないだろう。番組が作れるかどうかっていう「焦り」はあったと思うけれども。 必ずしも視聴率のことを想定してはいなかったとしても、画面を埋めるインパクトのある絵がほしい、と考えていたとは思うのである。 「ももたろうの歌詞は別に何の変哲もないものである」 この時点で、「そのネタをボツにする」選択を選ぶこともできたはずなのに、「なんとかネタとして笑えるものにしよう」「残酷な絵を入れて、ももたろうの残虐さを演出しよう」という方向に向かったのと、 「本当はホームレスの男性は両親に許されていない」 それならば、「現実には人間関係が簡単に修復できるものでもない」という事実を冷静に報道することもできたはずなのに、「なんとか誰も傷つかないみんなが幸せになれる話にしよう」「手紙を親戚の人がちゃんと受け取った絵を入れてハッピーエンドを演出しよう」とヤラセに走っちゃったのは、ディレクターの心理構造としては全く同じである。 前者が特に責められず、後者が強い非難を浴びるのはなぜか。 そりゃ、バラエティとニュースの違いだろう、というのはその通りなのだが、よく考えてみれば、『トリビアの泉』にそんな「ヤラセ」を誰かが求めているのかと言えば、実は誰も求めちゃいないだろう、とも言えるのだ。 実のところ、「トリビア」で紹介されているネタ自体は、もともとそれほどおもしろいものでもない場合が圧倒的に多い。それを面白くするためにある程度の演出が必要なのも理解はできる。けれど視聴者は、「つまらないものをおもしろく見せろ」なんて思っているわけではないのだ。日常、普通に生活している中でなんとなく見逃しているものの中に「へぇ」と感心するような事実が隠されていること、それを発見する面白さをこそ「演出」してほしいのだ。 『トリビアの泉』は、その演出の方向を明らかに間違えているのである。
それにしても「ももたろう」の歌詞が「トリビア」になると考えた投稿者がいたってことが私には不思議だ。もう「ももたろう」の歌詞なんてみんな知らなくなっちゃったってことなのかね? もしかしたら、本当にあれが「残酷だ」とか考えちゃった幼稚園の先生がいたりして、後半を歌わせないようにしてるとかいう事実があるんだろうか? いや、ヘタをすると「ももたろう」の話自体、今の若い人は聞いたことがないのかも。 そのうち、『赤ずきん』を改作して最後に助かるようにしちゃったように、「残酷じゃないバージョン」の日本昔話もいろいろ作られちゃうのかもね。 「鬼を退治しないで説教するだけの『桃太郎』」 「お爺さんにならずにもとの世界にタイムスリップする『浦島太郎』」 「月に帰らずにお爺さんお婆さんと幸せに暮らす『かぐや姫』」 「実は鶴だったことがバレても更に機を織り続ける『鶴の恩返し』」 「撒いた灰の不思議な力で、いったん死んだポチも蘇える『花咲か爺さん』」 「大きいつづらにも実は宝物がいっぱいだった『舌切り雀』」 「小さなままでもボクは立派な人間さ! と大きくならない『一寸法師』」 「猿が柿をちゃんとカニに分けてやる『猿蟹合戦』」 「本当は青鬼も優しいやつだったことがわかって、みんなで仲良く暮らす『泣いた赤おに』」 「傷が浅くて命が助かる『ごんぎつね』」 最後の二作は昔話じゃなくて創作童話だけどまあいいか。 なんか冗談みたいだけど、実際、「お婆さんもお爺さんに食われず、タヌキもおぼれかけたけど助けられて謝る『かちかち山』」ってのはあるから、油断はできないのである。
唐沢俊一『壁際の名言』(海拓舎・1365円)。 オビに「フジTV『トリビアの泉』のスーパーバイザー」と唐沢さんには珍しく自己宣伝。 「もう、並の名言では癒されないあなたに贈る特盛名言!」ともある。裏モノとしての唐沢さんが、古今東西の有名・無名人の、非道徳かつ自由洒脱でココロ晴ればれとする名言珍言を集めたものだ。
偉人の名言・箴言・警句・格言というものは、たいていの場合、それを引用する人間の我田引水的な解釈によって成り立っている(←これもなんか名言っぽいな)。 例えばひと昔前の学校の先生だったら、たいてい引用していた宮澤賢治の「雨ニモマケズ風ニモマケズ」だけれども、「世の中一にも辛抱、二にも辛抱」と言ったニュアンスで語られたこの賢治のメモ(詩作ではないのだ)のラストが、「サウイフモノニ私ハナリタイ」で終わってることを知ったときには私ゃのけぞったものだ。これ、人生に挫折した賢治がメモ帳に書き綴った泣き言なんである。 まあ、他にもこの手の「実はこうだった」って名言のウラばなしはオトナになるにつれていくらでも判明していって、ゲーテの「もっと光を」は「部屋が暗いから明るくしてくれ」って意味だったとか、板垣退助は「板垣死すとも自由は死せず」なんて言ってなくてアレは記者の創作だったとか、枚挙に暇がない。 もしかしたら、「名言を残した偉人はいない」(おお、また名言っぽい)んじゃないかとまで勘繰りたくなるくらいである。 もっとも、この手の名言に頼りたくなる心情は随分多くの人にあるらしくて、油断をしてると、このトシになっても誰かからふいに「継続は力なりだよ」とか声を賭けられたりしてしまうのである。「名言の罠はどこにでも転がっている」。 私もたまに人から「あなたのモットーはなんですか」とか聞かれたりするのだが、そういうときはたいてい、四文字熟語でもあまり学校で教えてはいなさそうなものを選んで答えたりする。「綜芸綜智」とか「濯纓濯足」とか。「一陽来復」ってのもよく言ってたけど、桑田乃梨子さんのマンガ『一陽来福』(「福」に注意ね)で有名になっちゃったのであまり言わなくなった。でもって、意味は教えない(まあ、四文字熟語って見た目は堅苦しそうで名言っぽいんですが中身はたいしてないものも多いんですよ)。なにげなく人から聞いた知識なんて、すぐに忘れるものである。コトバを自分のものにしたいと本気で思うなら、自分で調べて使うしかない。使う気もないのに質問してくるやつに懇切丁寧に教えてやるほど私は親切ではない。 だいたい、この「あなたのモットーはなんですか?」と聞く人の神経がよく分らないのだ。アンタは人生の曲がり角に立つごとに箴言を必要とするほど、しょっちゅう苦悩しているのかと。なんだか不幸ぶりっこしてるように思えて、いけすかないのである。
ことほどさように「名言」などというものは胡散臭く、役に立つのか立たないのかわからぬ鵺のような存在である。「急がば回れ」&「善は急げ」などのように、急ぐのか急がないのかどっちだよ、と我々をかえって混乱に陥れるような格言もある。出自はいかにも立派であるのに、その中身は正体不明ないかがわしさに満ちた、妄言に近いものも多い。 そんなのに比べると『壁際の名言』に集められている「名言」は、出自からしてもともといかがわしい。
巻頭の「私を見なさい。無一文から身を起こして、独力で今の極端な貧乏にまでなった男だ」のセリフを言ったのは、グルーチョ・マルクスである(正確には次のようなセリフ。“Three years ago I came to Florida without a nickel in my pocket. Now I've got a nickel in my pocket.”「三年前、私は無一文でフロリダにやってきた。今、私のポケットには一文ある」映画『ココナッツ』ミスター・ハマーのセリフより。唐沢さんのケアレスミスだが、引用元はちゃんと明記しておいてもらいたいものである)。 実に「応用」の効くセリフで、M君事件があってオタクが世間から極端に嫌われていたころに、「私も昔はしがないオタクだったけどね、努力して素敵なオタクになれたよ」と言って、女の子に引かれまくったものである。人に嫌われるとわかりきってるジョークを飛ばすものではないな(^_^;)。 まあ、今のような使い方はイマイチだが、「貧乏人」「オタク」の部分を一般的にマイナスイメージで捉えられているものに置き換えて使用すると、実に皮肉の効いた警句になるのだ。 試しに「おかま」とか「犯罪者」「泥棒」「性倒錯者」「○チ○○」などを入れて使ってみたらよろしい。仮に自分の何かについてコンプレックスがあったとして、それが一気に雲散霧消することは請合いですよ。「昔はボクもただのフツーのキ○○○でしたけどね。今や正真正銘の立派な○○○イになれました」。……やっぱり引かれちゃうか。ま、こういうのは本人だけ気分がよけりゃいのである。
私はこのセリフにも更に元ネタがあると昔から思っているのだが、それはドストエフスキーの『罪と罰』中で、マルメラードフが語る「貧乏は罪悪ではない。しかし一文無しの貧乏は罪悪だ」というものである。要するに、たとえ一円でも十円でもポケットにあれば、それはその人が人間として生きてきた証しなのである。堂々と威張って構わないのだ。 考えて御覧なさい、あの文無しなのが当り前のグルーチョが、一文でもおカネを持っているということがどれだけ素敵なことであるか。こんなセリフを功なり名を遂げたお偉いさんが口にしたところで、一般的にはただのイヤミとしか受け取られず、「でも銀行にはザクザクおカネがあるんでしょ」と冷ややかな目で見られかねない。世の中には、貧乏人、卑怯者、うそつき、変態、詐欺師、ペテン師、極悪人でないと説得力を持たないセリフというものも存在しているのである。 我々の大半は凡人である。というより、今までの人生を完璧に美しく過ごしてきたなんて人間はそうそういないだろう。大小の差はあるにしても、誰もがスネにキズを持って生きている、それが世間というものである。 俗人たる我々にとって、お偉いさん方の名言は、「はいはい、お説ごもっともで」と頷くしかない。それに比べて、凡人以下の人々の言葉は、我々にどれほど深く優しく響いてくることか。これまでの名言集に登場して来た偉人たちは雲の上人であったが、ここにいる人たちはまさしく我々の同朋なのである。
収得した方法がきれいか汚いかに関わりなく、グルーチョのポケットの中の一文は、百億の財産にも増して光り輝いているに違いない。 私の財布の中にも、たまに30円とか3円しか入ってないことがあるが、不思議なもので、給料日直後で五百万円ほど(嘘)入ってるときよりも随分清々しい気がするものである(少しは貯金しろよ)。
本書のコンセプトは基本的に大好きなのだが、やや文章が雑なのと、ケアレスミスや誤植が多いのがちょっと気になるところだ。「徳川夢声」がやたら「徳川“無”声」と誤植されてるのは困りものだし、あまりきちんと調べてないなあ、と思われる記述も多い。 「カマトト」という言葉について、「カマボコって、オトトかしら?」とPCL(のちの東宝)のある女優が語ったのが語源、とあるが、これは俗説である。『日本国語大辞典』(小学館)には、既に江戸時代末期に、この言葉があることが次のように示されている。 「近世末に上方の遊里で用い始めた語。※人情穴探意の裡外(1864頃)三『年に似合ずかまととばかり云ふ妾さん』」 他にもツッコミどころがやたらあるんだけれど、字数がオーバーしちゃうんでやめとく。まあ、こういう細かいところは誰か親切な人が唐沢さんにご注進するでしょ(^o^)。
こういうヒネクレた名言、ということになると、アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』やバーナード・ショーあたりのセリフが真っ先に浮かぶのだが、そういった有名どころをあえて外して、唐沢さんが実際に見聞した知人や名もなき人々の迷言も収録しているところが本書の幅を広げている成因だと思う。 ただ、リリー・フランキーの『誰も知らない名言集』ほどのインパクトに欠けるのが残念だが。
ついでだから、私も二つ三つ、人生にすごく役だつ名言集を。 �.愁�ラテス「結婚しなさい。良い妻を得れば幸福になれるし、悪妻をめとれば哲学者になれるからね」。 結婚している男性で、この言葉に思わず「ウンウン」と頷く御仁は多かろう。と言うか、頷けぬ夫は、まだ結婚の実態を知らないのである。私の「結婚前からの」座右の銘の一つ。私がどれほどの覚悟をしてしげと結婚したかご理解いただけようか。 ��夏目漱石「目の前に饅頭がありゃどうしても手が出る。手を出すほうも悪いが、手の届くとこに置く方も悪いよ」。 漱石は胃弱だったので、饅頭なんかは厳禁だったのである。私も糖尿でいろいろ控えにゃならんのだが、生前の母も妻も、平気で私にカロリーの高いものを食わせるのである。いくら言っても聞かないので私は諦めました。ちなみに漱石は49歳で死んでます。あと9年か(T∇T)。 ��アリストテレス「(ある男に「どうして私たちは同じ女でも美しい女となら時間を忘れて長く一緒にいられるのでしょうか」と聞かれて)君はあきめくらかね」。 似たようなことをアインシュタインも言ってるが、こちらのほうが強烈。フェミニズムが哲学ではない真実と、哲学が理屈ではない事実を一度に証明してくれるこれぞ名言(^o^)。この言葉の前には、全ての恋愛論はクズとなる。もう今時は柴門ふみを読んでるやつもいないと思うが、あれはちょっと困りものでしたね。 (出典はいずれも『世界史こぼれ話』シリーズ(三浦一郎)より)
何度か書いたことがあるかも知れないが、しげの放ったメイ言で一番インパクトが強かったのは、何の前フリも脈絡もなく、唐突に発せられた次のセリフであった。 「アフリカ人とインド人とどっちが好き?」 その瞬間、私が悟ったのは、「ああ、人間って、無理して他人と会話したりコミュニケーション取ろうなんて悩まなくていいんだ。だって、結局人間は、決して心の底から理解しあえることなんてないんだから」ということであった。 私はすばらしい妻を得たものである。
マンガ、徳光康之『濃爆おたく大統領』1巻(講談社/マガジンZKC・570円)。 しげから散々「ねえ、それ面白い?」と冷ややかな目で見られているが、まあ同病相憐れむでつい読んじゃうんですよ。 でもネタはそう悪くないと思うんだよねえ。ネックなのは絵なんだな、ということが今巻を読んでしみじみと思った。つまり「オタク萌え萌えマンガ」は、それ自体も「オタク萌え萌え」マンガでなければ成立しないのである。これがとことんヘタで萌えねーんだわ、徳光さんの絵。 前の『おたく先生』の場合は主にメカ話が中心だったから欠点が目立たなかったのだが、美少女系の話になってからはもういけない。「1/1管理人さんフィギュア」とか出てくるんだけど、これが全然可愛くないのである。ああ、なんか絵を描き始めの中学生が一所懸命美少女の絵を描こうとしてるような。熱心なのはわかるけど、いくら「トレビアーン!」とか言われても見ててツライだけなんだなあ。 本人もそれ自覚してるのか、『サクラ大戦』ネタでは一部の絵を漫画板を担当している政一九に描かせている(カバーを外した表紙にも注目)。確かに効果はあるけど、ズルだよそれ。自分が絵を練習して、ペン先も変えようよ。 でも2巻も出たら買うと思います(^_^;)。
訂正。グルーチョのセリフの出典は『いんちき商売』であることが唐沢俊一さんの『裏モノ日記』2003年8月22日に書かれてました。ちゃんと調べろよオレ(-_-;)。
>「look at me,I’ve worked myself up from nothing to a state of extreme poverty」
2002年07月16日(火) 乱れる話いろいろ/『ぴたテン』1・2巻(コゲどんぼ)/『桃色サバス』1巻(中津賢也) 2001年07月16日(月) 私のマスコミ嫌いも根が深い/『雪が降る』(藤原伊織)/『新ゴーマニズム宣言』(小林よしのり)ほか
| 2003年07月15日(火) |
それはそれなんだってば/『プラネットガーディアン』1〜3巻(高坂りと)/『サトラレ』4巻(佐藤マコト) |
追い山(山笠最終日)だけど、今年も長雨のせいで、山笠廻りができなかったなあ。結局、見られたのは博多駅前のやつだけ。 『金色のガッシュ』はそれはそれは悲惨な出来でございました。いやもう等身違うし、どの人形も顔が殴り描きでぜんっぜん似てねー。あれは元絵が落描きなみだという皮肉のつもりかね。 写真はこちら↓。 http://www.rakuten.co.jp/meigetsudo/423266/423242/ ガッシュの隣にいるの、誰だよ(-_-;)。 福岡にいると学会員、写真に収めてと学会で発表すりゃいいと思うんだが、クレームが怖いのかな?(^_^;)
俳優、坂口祐三郎さんが、13日、脳幹出血のため死去。享年61。
テレビシリーズで主役を張っていながら、その後、私たちの前からほぼ完全に消えていってしまう役者さんたちがいる。 『隠密剣士』『月光仮面』の大瀬康一さんなどはその典型的な例で、昭和30年代を代表するテレビシリーズ2本に主演していながら、その後は散発的にドラマにゲスト出演したあと、隠退してしまった(現在は杉並区で貸しビルのオーナーをされているそうである)。 こういう場合、たいていは「ヒット作の役のイメージが強過ぎて、仕事が来なくなった」と説明される場合が多い。それを嫌って、それまでとは全く違う役柄、例えば悪役や汚れ役に挑戦したり、舞台にその活動の場を移す方も大勢いらっしゃる。『ウルトラマン』の黒部進さんや『キャプテンウルトラ』の中田博久さんは、ひところは時代劇の悪役ばかりされていた。
坂口祐三郎さんも、『仮面の忍者赤影』のあと、ブラウン管から全くと言っていいほど姿を消してしまっていた。 たまに『水戸黄門』に水戸綱条(黄門の養子)役で顔を見せたり(これも柳生博さんに代変わりした)、『人造人間キカイダー』にゲスト出演してゴールドウルフ(原作のゴールデンバットに当たる)を演じたりしていたが、さて、どれだけの人がそれを坂口さんだと認識していたろう。 坂口さん自身もよくインタビューや著書などで、「赤影のイメージが強く、仕事が来なくなった」旨の談話を語っているのだが、果たして本当にそうだろうか。私はそれを随分長いこと疑っているのである。 というのも、『赤影』の場合、坂口さんは殆どその素顔を仮面に隠して晒していない。第1部「金目教編」で、傀儡甚内に「忍法顔盗み」で素顔を移されたときにチラッと素顔を見せたくらいで、ほとんど一年間、仮面をつけっぱなしであった。これでどうして「イメージが固定する」と言えるだろうか? 大学の頃、片岡孝夫(片岡仁左衛門)のファンだという女の子がいて、「私、片岡さんは『赤影』の頃からファンなんだ」と言い出したことがある。はて、片岡孝夫が『赤影』に出演してたっけか、と私は首を捻ったのだが、その子が更に「何言ってんの! 主役じゃない! 一度だけ素顔を見せた時の美しさったらなかったわ!」と怒鳴ったので、「……『赤影』の主役は片岡さんじゃないよ、坂口祐三郎さんって人だよ」と言ったら、「えええ! うそ! 顔、同じじゃない!」と驚いていた。 そのころ片岡孝夫はテレビの『眠狂四郎無頼控』に出演していて、吊り目にメイクしていたから、まあ坂口さんに似ていると言えなくもなかったが、やはり別人である。まあ、彼女の場合は特殊であるだろうが、坂口さんの顔がそんなに世間に浸透していたとはとても思えないのである。
『赤影』のテレビ放映が1967年4月から68年3月まで。その直後に坂口さんは芸名を「坂口徹」に変更している。1969年7月公開の坂口さん唯一の主演映画、『飛び出す冒険映画 赤影』のクレジットは「坂口徹」だ。「赤影」のイメージを払拭する意図だとしても、翌年とはいささか早い。本当に全く仕事が来なかったというのは事実なのだろう。けれど私はそれは「赤影」出演とは何の関係もないと考えている。 つまりは坂口さんのマスクが美しすぎたのだ。テレビドラマの、それも子供番組の主演がキャリアに全くと言っていいほど影響しない、というよりは映画スターに比べて明らかに差別されていた時代のことである。別のドラマにすぐ主演、と仕事が続くものでもなく、かと言って別の番組にゲスト出演しても、あの美しさでは主役より目立ってしまう。番組製作者たちはあえて坂口さんを使うことを避けたのではないか。もっとキツイ言い方をすれば、あの当時のスタッフたちの中に、坂口さんの美しさに「嫉妬」していた人も結構いたのではなかろうか。
「役者が育たなくなった」と言われて久しい。現在、舞台や小劇場出身の役者が重宝されるようになってきているのは、つまりは映画界やテレビ界に役者を育てるシステムがなくなっているからである。それは実は坂口さんが『赤影』で活躍していた30年以上前から続いていた。 坂口さんは『飛び出す赤影』のあと、更に「坂口徹郎」に改名して、この時代が長い。熱心なファンは、「坂口徹郎」にも愛着があるかもしれないが、恐らく坂口さんにとっては長い逡巡の時代であったことだろう。 そして近年、坂口さんは『赤影』のころの「坂口祐三郎」に戻した。晩年、「日本芸能教育センター」の講師を務め、俳優養成に力を注いでいたのは、自らが干されてきた経験が影響しているように思える。 しげは、某所で芝居の練習中に、二度ほど坂口さんとすれ違っているそうである。一度は坂口さんかなと思ってじっと見つめてしまい、目が合っちゃったとか。ああ、なんてうらやましい。
山本弘さんの「SF秘密基地」には、最近殆ど書きこんでいない。 もともと殆どROM専だったのだが、一時期、荒らしが横行し、それに反応してレスを付け続ける定連さんたちのあまりのアタマの悪さに、私はすっかり閉口してしまった。書きこみの文章を読めば「こりゃ荒らしだな」とすぐ気がつきそうなものなのに、まるで見抜けぬ人が何十人もいたのである。そのあたりのバカっぷりは、いくつかのサイトで始終笑われているのだが、定連さんはどこ吹く風だ。 山本さんが設定した「掲示板のテーマから逸脱した内容を書いてはならない」とか、「ありふれた内容のスレッドは立てない」などのルールも、記憶している人は殆どいないようだ。 知識はあるが常識はない(その知識にしても偏狭なものが多い)人たちのダラダラとした会話を見続けるのも苦痛なだけなので、最近はたまにちょっと覗くだけになってしまっていた。
それが、昨日覗いてみたときに、「トンデモ映画」をダラダラと書き綴っているスレッドで、山本さんの次のような書きこみを見つけたのである。
> 大林監督には他にもトンデモ映画がいろいろありますよ。『ブラックジャック/瞳の中の訪問者』『金田一耕助の冒険』『少年ケニヤ』『漂流教室』……。 > どれもこれも、シリアスなシーンをギャグにしてしまうなど、原作のイメージをぶち壊しまくり、一部には原作を嘲笑しているように見える描写まであって、不快感さえ覚えます。僕が原作者だったら絶対怒るぞ。
> 印象に残ってるのは、『金田一耕助の冒険』の一場面。 > 原作者の横溝正史氏のところに角川春樹社長(当時)がやって来て、「今回の原作料です」といってケースを開けると、中には札束がぎっしり。 > そもそも出版社の社長みずから現ナマを持ってくるなんてありえないんだけど、なんか原作者に対する悪意が感じられてなりません。 > この映画に関しては、評価する人もいるんですけど、僕個人としては、いくらなんでも、他人の創ったキャラクターにこんなことを言わせる監督なんて許せません。 ↓ http://www.fukushi3.org/~yokomizo/bouken.html
『ブラック・ジャック』が手塚治虫の気に入らなかったらしい、ということは伝え聞いているが、『金田一耕助の冒険』については横溝正史は特に不快感を抱いてはいなかったはずだ。映画化に関して基本的に一切注文はつけない、というのが横溝正史のスタンスで、片岡千恵蔵が洋服を着て金田一耕助を演じても、『本陣殺人事件』や『八つ墓村』が現代に時代を移して映像化されても、「あ、そう」ですましてきた経緯がある。「原作に沿ってほしい」気持ちがなかったわけではあるまい。そうエッセイに書いていたこともある。しかし、小説を全てそのまま映像に移すことは不可能であるし、逆に何の映画的アレンジのない映像化はたいてい失敗作になる。横溝正史はそのことを熟知していた作家であった。 更に言えば、当時、まだドラッグに狂ってはいなかった(^o^)角川春樹は晩年の横溝正史を実の父のごとく仰いでいたし、横溝正史も、「やんちゃ」なこの若社長のバイタリティに好ましいものを感じていた。でなければ、社会派推理小説の台頭にくじけて、一端は筆を断っていた老作家が、矢継ぎ早に四長編(『仮面舞踏会』『迷路荘の惨劇』『病院坂の首縊りの家』『悪霊島』)を書き上げ、更には自作の映画化作品に4本も出演までしてしまうことがありえるだろうか(『犬神家の一族』『悪魔が来りて笛を吹く』『金田一耕助の冒険』『病院坂の首縊りの家』)。 実際、山本さんが紹介しているサイトも覗いてみたが、「当時の角川映画の評価をそのまま採り入れた、自己批評」と、好意的かつ的確な批評が書かれていた。そう見るのが妥当であろう。 まあ、あの映画が随分「乱暴な」映画であることは否めない。そこを許容できない人にとっては、「なんじゃこりゃ?」と感じるのも当然なのだが、山本さんは、激昂のあまり、当該のサイトもよく読んでおらず、事実誤認をしているのではないか、と思ったので、本当に久しぶりに書きこみをしてみることにした。 7月14日付で私がつけたレスが以下の内容である。
> 単純なご記憶違いだとは思いますが、このあと、こんな展開があります。 > 横溝正史氏が札束をペラペラとめくると、ホンモノのおカネは一番上の一枚だけで中身は全部白紙。正史氏は「中身は薄いねえ」。頭を抱える角川春樹に向かって、追い討ちをかけるように「私はこんな映画にだけは出たくなかった」(『悪魔が来りて笛を吹く』について横溝正史が「このような恐ろしい物語だけは書きたくなかった」と語ってCMにも使われたセリフのモジリ)。コケる角川春樹。 > つまり、当時散々「カネだけかけて映画の出来はどうしょうもない」と批判されてた角川映画に対する皮肉であるわけで、横溝氏に対する悪意は大林監督の意図にはないと思います。
> (「他人の創ったキャラクターにこんなことを言わせる」ことについて)多分このあたりは大林監督よりもダイアローグライターのつかこうへいの趣味が出てるのだと思います。『熱海殺人事件』のくわえ煙草伝兵衛のセリフに共通するものがありますから。
> けれど、実のところ、「探偵ってのはね、一つの事件に対して、怒りや憤りを持っちゃいけないもんなんですよ。一つの殺人から、どう広がっていくだろう、そしてこの殺人がもう一つの殺人を生むんじゃないかしら、そう考えることが楽しいんですよね。」と似たようなことを原作の金田一も頻繁に語ってはいます。 > 殺人が起きるたびにワクワクし、またワクワクしてしまう自分に対して自己嫌悪を抱いて事件後失踪する、そんな行為を金田一は繰り返しています。そのあたりの「事実」を元にして、一つの「探偵論」「金田一耕助論」として語らせたのがあのセリフですから、好き嫌いは別として一つの「批評」として認めてもよいのではないでしょうか。
これについて、今日、再び山本さんからついたレスが以下のもの。
> 記憶違いではありません。そのシーンも記憶しています。 > たとえ中身が紙だろうと、「金が欲しくてこんな映画を作ることを承諾した」かのように見せるって、ひどいんじゃないでしょうか。
> 『ねらわれた学園』でも、ラスト近くで眉村卓氏が、(いかにも映画の内容を嫌がっているかのように)机をどんどん叩くシーンがありましたっけ。 > 僕はそういうのも含めて嫌なんです。 > 「ほら、原作者もこの映画を嫌がってますよ」 > と観客に示して自虐的な笑いをとってるわけだけど、これって原作者に対してすごく失礼でしょ? 自分は原作者に嫌がられるような映画を作っていると自覚していて、なおかつスクリーンでそれをアピールしてるんだもの。
> そもそも、原作者ってのは映画の内容にはほとんど口出しできないものです。映画化権を売ったが最後、どんな映画になるか、監督を信頼しておまかせするしかない。 > たとえ心の中で「こんな映画は最低だ」と思っていても、おおっぴらにはそんなことは言えないし、作り笑顔を浮かべて映画の宣伝にも協力しなくちゃいけない。 > そんな原作者の弱い立場をさらに踏みにじっていると、僕には思えるのです。
> もちろん、これは主観の問題なんで、どっちが正しいとは言えません。たぶん藤原さんと僕の感じ方の違いは、作家かそうでないかに起因すると思います。 > 自分の作品が映像化された場合のことを考えると、シリアスな話をギャグにされたり、主人公に「殺人が好きなんです」とか「次はあんたを犯人に仕立て上げる」なんて言わされたりしたら、はらわたが煮えくりかえると思います。それを想像すると、とても嫌な気分になるのです。 > どうも大林氏という人、原作というのは原作者からの預かりものだと思ってないんじゃないか、映画化権を手に入れた以上、どんなにめちゃくちゃにしてもかまわないと思ってるんじゃないか――そんな気がするんですよね。 > まあ、大林氏にかぎったことじゃないけど。 > しかも、改変して原作より面白くなるならまだしも、かたっぱしからコケてますからね(^^;)。『時かけ』や『転校生』って、数少ない成功例なんですよね。
正直な話、随分トンチンカンなレスだとは思ったが、何かレスがついても反論する気はなかった。もともと、「記憶違いではないか」の事実確認のための質問であって、「原作を改変することはどこまで許されるか?」ということを山本さんに聞きたいわけではなかったからである。 この手の議論はもう若いころに散々し尽くしてきて、私にとっては今更であるし(そうなんだよなあ、あそこの掲示板って、私が10代、20代のころに散々してたことを未だに繰り替えしてるんだよなあ。若いころよっぽど他人と会話したことない人間が集まってるんだろうねえ)、それはレスの流れの趣旨にも反する。 こういう場合、更に山本さんに絡んで、愚にもつかない言葉を垂れ流してるのがあそこの定連さんたちなんである。それが結果的にあの板を荒らすことになる。私は別にそんなアホなマネをするつもりはないので、またさっさと退散することにした。ルールにも「平行線になった議論は切り上げる」とある。 山本さんが「これは主観の問題なんで、どっちが正しいとは言えません」と語っている時点で、論題は消滅しているのである。話を続ける意味はない。……と言いながら、「主観の違い」ってのには賛同するけれど、ホントは「作家かそうでないか」は原因じゃないんだけどね、と余計なヒトコト(^_^;)。 『アルマゲドン』論争だって、適当なところで切り上げるアタマを定連さんたちが持ってたらよかったんだけどねえ。
マンガ、高坂りと『プラネットガーディアン』1〜3巻(エニックス/ガンガンコミックス・各410円)。 オビの「キュート&毒注意な絵ですが、ブラックなギャグマンガです!!」という惹句に引かれて購入。 でもそんなに毒が強いってほどでもなかった。魔女っ子ものの変形なのだけれど、そのアレンジが今一つ効果を上げていないのがネック。 凶悪な宇宙犯罪者たち「アルゴル」が宇宙監獄を脱走し、地球に向かったのを知った監視者の「メルカバー」のピロスケは、ごく普通の小学生の女の子、如月古雪(きさらぎこゆき)に、地球を守るための「ガーディアン」の力を与える。ところがピロスケのとんだ手違いで、「アルゴル」がやってきたのは5年後だった。受験勉強に忙しい古雪は、魔法少女になる夢など、とっくの昔に捨てている。けれど魔女っ子オタクの兄・樹(いつき)にむりやり引きずりまわされ、アルゴルとの戦いに駆り出される毎日。第2のガーディアン、ヒロインぶりっこの早乙女リリカ(本名・山田良子)や、邪悪な意志に捉えられダーク化した第3のガーディアン、桐島雫(きりしましずく)たちと、ひと騒動を繰り広げながらもなんとかアルゴルたちを撃退していくが……。 異星人の襲来が時期遅れだった、という設定がややおもしろいものの、キャラクター設定も展開もまあ、どこかで見たような、という印象が強い。もっとも、魔女っ子モノなんだから、ヘンに捻った設定されても逆につまんなくなりかねないうとは言える。でも、いい加減こういうのは見飽きちゃいるので、ちょっとくらいは意外性がほしいところである。
マンガ、佐藤マコト『サトラレ』4巻(講談社/イブニングKC・540円)。 今まで指摘し忘れてたような気もするが、この作品は「SF」である。 考えてみたら「サトラレ」=「口に出さずとも、自分の考えが周囲の人に『悟られ』てしまう不思議な能力の持ち主」なんてのは現実には存在しないんだから、「もしもそういう人たちがいたら、この世界はどのような変容を見せるだろうか?」という発想で構築された世界観は、立派なSF設定なんである。 けどそれも4巻まで続くと、随分「ほころび」が生まれてきてしまっている。 サトラレである西山幸夫と結婚した小松洋子、二人の間には光という女の子が生まれるが、その子もまたサトラレであった。お互いの思念波で相手がサトラレだと伝え合ってはならないと、普段は父親を単身赴任させて二人が会える機会を制限し、再会するときにだけ、親には子の、子には親の、普通の人間の身代わりを立てることにする。 ……ムリだよ(^_^;)。親子ってそんなに簡単に騙せるものだろうかって疑問がまずあるけれども、仮に騙せたとして、その子が成長したときに、「二人のお父さん」がいることを納得させられるとは思えない。これから先、5巻、6巻と続けていくなら、作者の佐藤さん、そのあたりの不自然さをどうクリアしていくつもりだろうか。 好きになった女の子とも、自分の汚い心を見られるくらいなら会いたくない、と島暮らしを続ける木村浩くんのパターンの方がリアルだけれども、でもこの場合、浩くんは隠棲したっきりになっちゃうから、新たな展開って生まれそうにないんだよなあ。こちらもこれから先、どうドラマにしていくつもりなんだろう。
2002年07月15日(月) 開高健よりは痩せてると思う/『新ゴーマニズム宣言 テロリアンナイト』11巻(小林よしのり) 2001年07月15日(日) 演劇は愛だ! ……ってホント?/『バトルホーク』(永井豪・石川賢)ほか
| 2003年07月14日(月) |
「心ある」ということ/『GUNSLINGER GIRL』1・2巻(相田裕)ほか |
「WEBアニメスタイル」に、11日付で、「クオリティは誰のため」と題して、小黒裕一郎さんの以下のエッセイが掲載されている。
> 先日、知人の脚本家に「TVアニメの数は増えた増えたと言われるけれど、不思議とクオリティは落ちないな。むしろ上がっているんじゃないか。どうしてだ?」と訊かれた。言われてみれば不思議な話で、確かに10年前、20年前のアニメと比べれば、画が綺麗になってきている気はする。どこの現場も人手が足りないと言っているのにクオリティは上がっているのか。一瞬、僕も納得してしまったけれど、実はそうではない。アニメーションとして全体のクオリティが上がったわけではないのだよね。正確には、キャラクターの画が整うようになったのである。昔は各話毎にキャラクターの画が違うのが当たり前だったけれど、最近はそういったバラツキが減っている。話の中でも担当アニメーターによる、作画の凸凹が無くなってきているはずだ。全体にキャラクターの画が統一されているので、クオリティが上がったように見える。 で、キャラクターの画を整える事に労力が注がれて、他の部分は弱くなっているというわけだ。最近、TVアニメで「おっ」と驚く作画や表現を目にする事が減ったのは、そのためでもあるのだろう。芝居は最低限何をやっているかが分かればいいや、とか、そういう感じになっている現場も多いのではないか。余計な事をやっているヒマはないよ、てな感じなのだろう。いや、勿論、それは全然余計な事ではないのだ(厳密に言うと、キャラクターの画以外の部分が弱くなっている理由はそれだけではない。表現の画一化等の理由もあるのだが、それはまた別の話題)。 各話のキャラクターを統一させる、という事はビデオメーカーが制作現場に望んでいる事でもある。前に制作会社のPDから、ビデオメーカーが各話の画の統一をするように言われて、それができるシフト(総作画監督が全話全カットのレイアウトに手を入れる等)を組んでいるという話を聞いた。それが商品としてのセールスポイントなのだ。ビデオメーカーでもユーザーでも「クオリティ=キャラクターの画の統一」と思っている人が多いのだろう。 この傾向が続くのが厭だと思う、心あるアニメファンは「それだけじゃつまらないぞ」と声を大にして主張するべきだ。
こういう作品批判を含むエッセイの場合、プロである小黒さんの、これからもそれらの作品に関わるスタッフと付き合っていかねばならない立場を考えれば、具体的な作品名を出せない事情もわかりはするのだが、その分、批評性は薄まってしまう。 全てのテレビアニメ作品が「キャラクターの画を整える事に労力が注がれて、他の部分は弱くなっている」のではない以上(例えば『プリンセスチュチュ』で毎回猫先生の身もだえの表現を変えて作画し続けたスタッフの努力とか)、「弱い」作品のいくつかを挙げた方がいいに決まっている。 「心あるアニメファンは」という呼びかけ方はなんだか「オタクエリート主義」を彷彿とさせてちょっと乗りにくいのだが(もうオタクをエキスパートのように語って地位向上を図るのもかえってオタクのためになるまい)、単純に「そんなアニメじゃDVDになっても買わねえぞ」と文句つけるくらいのことは、ファンなら「自由に」語っていいのではないか。
私も最近はあまりテレビアニメをチェックできていないのだが、例として『明日のナージャ』のデザイン、表情のつけ方が「どれみもどき」になっているのが気になった。細田守演出以外の回は「芝居は最低限何をやっているかが分かればいいや、とか、そういう感じになっている」と言われても仕方がないような回も散見する。CG、デジタル処理を施すなら、単に画面奥への動きを表すのにラクだから使ってる、と感じさせるような表現は避けてほしい、とも思う。 『アトム』はキャラクターの表情や演技には毎回感心させられるのだが、シバリがあるせいか脚本に一つ芯が通っていない。なにもアニメ後進国のアメリカに迎合しなくてもいいと思うんだが。『デジキャラット』に至っては論外である。 ああ、『らいむいろ戦記譚』はひどかった。あかほり系など、ゲームと連動したアニメは総じてヒドイし、『ハッピーレッスンアドバンス』などの「男の子一人に美少女いっぱい」パターンのものには「新しいモノ」が殆ど見出せない。ああいうものに萌え萌えなファンはアニメの何を見ているのかとも思うのだが、ナニが見られればそれだけでいいのかもしれない。 ああ、こういう美少女系大量生産に先鞭付けたの、KSSだったよな。元凶は『女神』か。確かにアレはキレイだったけれど、よく見ると「止め絵」の演出で見せるテクニックが上手いんだった。当時はハイ・クォリティアニメとか言ってたけど、実はそう見せかけてただけってことか。
……なんだか一気にテキを増やしちゃったような気もするが、そのテキさんは本当に作品のミカタなのだろうか。 よく、「作ってる人だって頑張ってるんだから、簡単に批判するものじゃない」とか、「腹が立つなら見なきゃいい」とのたまう方がいらっしゃるが、作品は誰にでも「開かれているもの」であることをご存知ないようだ。言論を封殺され、批判を閉ざされた作品に未来はない。クロサワもミヤザキも批判されなかったことはないのである。作品を誉めるのは簡単だが(手塚治虫を「ヒューマニズム」だけで語るとか、ディズニーを「夢と冒険とファンタジー」で語るとか)、貶すのには技術がいる。誉めるのに根拠は要らないが、批判には客観性が不可欠なのである。 ファンが作品に対して、ナントカセミナーみたいな内輪ボメするような態度で接したって、端から見れば気色悪いだけなんだよ。
なんだかなあ、なニュースが一つ。 先日、アメリカのコミック出版社マーベル・エンタープライジズが、月刊誌『X-Statix』に連載予定の『Di Another Day』の中に、超人的な能力を持つミュータントの集団の一員として、イギリスの故ダイアナ元皇太子妃をモデルにしたスーパーヒーローを登場させると発表した。けれど10日になって、結局その計画を取り止めた。 この計画が伝えられた時点で、イギリス王室は「元妃の名声とその悲劇的な死を金もうけに利用しようとするもの」だと強い不快感を示していたとか。でも王室だけじゃなくて、同様のクレームが一般からも相当数寄せられたんじゃないかと思う。世の中には「やっちゃいけないこと」があると思いこんでる人って多いし。 批判なんて来ないだろう、なんて甘いことをマーベルが考えていたとしたら、ひどくお粗末な話だ。「別にからかってるわけじゃなくて、スーパーヒーロー(「ヒロイン」と言わないのはやっぱり人権関係なのかな)だからいいじゃん」、なんて発想だったら、ホントに馬鹿だよ。相手、王室なんだけどねえ。唯我独尊な人たちにとっちゃ、ヒーローだろうがミュータントだろうが、「格下」にしか見えないことなんて解りきってるじゃん。 でも不謹慎なものが好きな私としては、これがもし実現してたら、いったいどんなものになったか、ちと見てみたかったのだが。更に不謹慎なことを言ってしまえば、商業ラインじゃムリとしても、同人誌かなんかで、日本の皇室の方々をキャラクターにしたヒーローものとか、誰か書かんかね。もちろんそのあとどういう運命がその人に見舞うかは知ったこっちゃないが(^o^)。
来年公開予定の庵野秀明監督作品、実写版映画『キューティーハニー』のハニー役、佐藤江梨子のコスチュームが昨13日に初めてのお披露目。 まあ、あのタヌキ顔のどこがハニーだとは確かに思うが、マンガの実写版なんて、どんなにイメージに近い役者を集めたって、絶対どこかがイビツになってしまうものなのである。『キャッツ・アイ』なんて、キャストだけならもうドンピシャで内田有紀、稲森いずみ、藤原紀香なんだけどねえ。もっともあまりの悪評に私ゃまだ見てないんだけど。 今まで永井豪の映像化作品で「これはいい!」と本気で思えた作品なんて数えるほどしかない。飯田馬之助監督の『デビルマン/妖鳥シレーヌ編』『CBキャラ永井豪ワールド』くらいのものか。永井豪作品の破天荒なまでのスケールの大きさは、それをテレビや映画のフレームの中に収めようとすること自体、不可能なことなのかもしれないと思ってしまう。 しかし庵野監督は、ハニー役に誰も予想もしなかった「サトエリ」という超変化球・エビぞりハイジャンプ大回転分身魔球なみを持って来た。これはもう完全に狂っている。島耕作にトシちゃんというのは大馬鹿だが、ハニーにサトエリというのは狂気だ。これはもしかしてもしかするかも。 今度の映画、原作のパンサークローとの戦いという基本コンセプトだけ残して、ほかの設定は殆ど無視してオリジナルでいくもののようだ。ハニーの職業は派遣OL、ということだが、披露された寺田克也デザインのコスチューム、青いワンピースに白いラインが入ってるだけで、印象はコミケの安いコスプレねーちゃんなんだが、それがかえっていいんじゃないか。変身後のキューティーハニーのケバさと好コントラストである。 なんでもコスプレは「30種類以上ある」とかで、「日本映画最多のコスプレ」だとか(^o^)。そりゃ、そんなアホなことやろうって映画人が今までいなかったんだから日本最多に決まっている。庵野監督、これは明らかに初めから「B級・C級テイスト・馬鹿映画」を狙っている。いや、更に意表を突いて、急転直下、あのデザインなのに超マジメな映画を作ってしまうか。ともかくどんな出来になるかこれだけ予想のつかない映画も珍しい。「何やってんだ庵野」と思う人もおられようが、少なくとも無難な映画にはなりそうもない。期待していいんじゃないか。
テレビ『子連れ狼』の第2話「一刀危機一髪!! 獣たちに監禁された男と女!!」を見る。 若山富三郎主演の映画版の第一作『子貸し腕貸しつかまつる』の原作ともなったシリーズ中屈指の傑作『鳥に翼 獣に牙』を元にしているが、原作の暗いムードが随分爽やかな印象に変わってしまっていて、面白くはない。 温泉場に監禁された一刀(北大路欣也)が、「とびっちょ(無宿人)」たちに枕さがしのおりん(大沢逸美)とナニしろと嗾けられるシチュエーションがなくなっている。代わりに「三べん回ってワンと言え」って……。なんかえらく優しい悪人さんたちだこと。昔の萬屋錦之介版テレビでもしっかりナニはしてたのだから、コードに引っかかることはないと思うのだが。テレビはどんどん腑抜けて行くのだなあ。 原作にない、侍の三沢市之進(ひかる一平)とその妻・雪乃(寺田千穂)の設定は黒澤明の『羅生門』、金沢武弘と真砂からの換骨奪胎。これもよくあるアレンジで新味がない。寺田千穂の涼やかな美人ぶりは印象に残ったけれども。
続いて『TVのチカラ』。 行方不明の娘さんを、お母さんが霊能力者、超能力者に探してもらう様子をドキュメント……なんだけど、これがヤラセ番組でないとしたら、テレビスタッフも酷なことをしてるものだ。 ノーリョクシャとか言ってる連中、「男に連れ去られた」とか「湖が見える」とか「もう死んでる」とか、ふざけたことばかり言ってるのである。失踪事件とくれば「自分で消えた」か「誰かに連れ去られた」か、どっちかしかないじゃん。長いこと姿を見せなければ、死んでる可能性が高い。場所はたいてい山の中とか湖だ。連中の言ってることって、「いかにもありそうな」可能性を並べたててるだけだ。つーか、クロワゼットも同じこと言ってたよ。 親にしてみればワラをも掴もうって心情だから、「生きてる」「死んでる」(イタズラっぽい自称「本人」からの電話まであった)って状況に一喜一憂してるんだけど、番組スタッフはあのノーリョクシャたちを本気で信じてるのか? 信じてやってるとすれば、その姿勢はオウムと同質のものだし、信じてなければ親の気持ちにつけこんだ詐欺行為だ。 昔からこの手の番組、忘れたころに作られてるけど、局は「いくらなんでもこれはマズいだろ」って気がつかないのだろうか。ただのバカならまだ救いがあると言えなくもないけど、なんだかそうじゃないような匂いがして、イケスカナイのである。番組タイトルの「チカラ」がカタカナなのも胡散臭いよなあ。
マンガ、相田裕『GUNSLINGER GIRL』1・2巻(メディアワークス/電撃コミックス・578円)。 オビの「アニメ化決定!」の文字に釣られて購入。 ああ、これももっと早くに読んでいたかったなあ! 人に本気で奨められる作品なんて、実のところそう多くはないのだけれど、これはいいぞ! 表紙を見ると、美少女が銃を持っていて、その絵はいわゆるアニメ絵である。となると、もう腐るほどある「美少女が武器持ってドンパチやる」ありふれた作品のように見えてしまうのだけれど、これが全然違うのだ。少なくとも宮崎駿に叱られる可能性は絶対にない(^o^)。
「少女に与えられたのは、大きな銃と小さな幸せ。『義体』と呼ばれる機械の体、薬による洗脳。居場所を求め銃を手にした、少女たちの物語が幕を開ける……。」(オビより)
舞台はイタリア。「公益法人社会福祉公社」という名前の組織に、5人の少女たちが所属していた。 ヘンリエッタ、リコ、トリエラ、クラエス、アンジェリカ。 彼女たちにはみな一様にここに来るまでの記憶がない。そして彼女たちのここでの仕事は、政府のための「汚れた仕事」、つまり「暗殺」であった。 「公社」は、身寄りがなく、居場所を失った障害者の少女たちに「義体」を与える。パートナーとなる「フラテッロ(兄弟)」は彼女たちの指導官としての役目を果たす。彼女たちは薬によって、人間としての感情を無くし、殺すことを躊躇わず、パートナーに愛情を注ぐように「条件づけ」を施されていた。 だから、彼女たちの「感情」も作られたもののはずだった。いや、たとえ作られたものであっても、それが「心」でないことがあるだろうか。 「もしも誰かを好きで好きでしょうがなくなって、それでも永遠に満たされないとわかってしまったら」。 答えの出ない疑問を、少女たちはその身を血の衣装に纏いつつ、自らに問いかけ続ける……。
いきなり『寄生獣』の話にリンクさせてしまうが、あの作品で一番おもしろかったのは、寄生生物の思考に影響されて、新一の心から「感情」が一時期失われていくところであった。 「新一」という「人間」が消えたわけではない。しかし、彼の心から感情が失われ、涙を流せぬ自分になっていることに気づいたとき、彼自身もまた自分が人間でありえるのか、悩むことになった。自らの心が「不完全」なゆえに悩むのである。 しかし、「完全な心」などというものはありえるのだろうか? 我々は実のところ、「不完全な心」を重荷のように抱えて右往左往しているだけの存在ではないのだろうか。 『鉄腕アトム』が、『人造人間キカイダー』が問いかけてきた疑問を、『寄生獣』は途中で放り投げた。けれど、この『GUNSLINGER GIRL』は、その問題に正面から挑んでいるように見える。 「壊れたカラダ」を「修繕」してもらった代償として、「不完全な心」を植えつけられた少女たち。だから彼女たちの感情表現はいつも「イビツ」だ。ある者はストレートにその愛情をパートナーにぶつける。ある者はパートナーの「道具」に徹する。ある者は拗ねる。ある者はパートナーを思うあまり、「最後」の方法を取る。 彼女たちは自分がどうイビツなのか、認識する力がない。だからその思いはとめどなく深化し、彼女たちの心そのものを押しつぶしていく。彼女たちよりは恐らくより「完全に近い」心を持っているパートナーたちは、それゆえに悩む。しかし答えが出るわけではない。結局、洗脳されたわけでもないパートナーたちも「完全な心」などは持っていないことが示される。そして、それは私たち読者も同じことなのである。 彼女たちが、自らの運命をどこに置くことになるのかは、結局誰にもわからない。私たちは彼女たちの運命の流れ着く先を、ただ呆然と見続けることしかできないのである。
2002年07月14日(日) 劇団始動……か?/『電人ザボーガー』1・2巻(一峰大二)/『カムナガラ』4巻(やまむらはじめ)ほか 2001年07月14日(土) シナリオ完成!/『クレヨンしんちゃん』30巻(臼井儀人)ほか
| 2003年07月13日(日) |
虚構に生きる人々/DVD『プリンセスチュチュ 雛の章』/『Go West!』1巻(矢上裕)ほか |
また訃報。 俳優・小松方正さんが11日に、糖尿病による敗血症のため死去。享年76。 同じ糖尿だし、なんだか身につまされてしまうのだが、つい、76まで生きられたら充分かも、なんて不謹慎なことも思ってしまう。でも四十そこそこで足切ったりしてる人も見てるしなあ。最近は私も長いことキーボード打ったりしてると指先が痺れたりするようになったんだけど、どこまで持つかな。 晩年の小松さんの、闘病中であることが明らかなやつれ具合を見ていると(ベッドで管だらけになっている様子が写真週刊誌に載っていたこともあった)、壮年期はあんなにアブラギッシュだった人もこうなってしまうのかと、そぞろ物悲しい気分にさせられたものだった。 往年のテレビ番組、『キイ・ハンター』とか『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』とかのアクションものにゲストで出るときには、たいてい野際陽子や大川栄子に絡んでくるスケベ親父とか、怪しい外国人の役とかを演じてて、私の心の中ではすっかり「スケベな悪役=小松方正」という図式ができあがっていたのだった。も一つ、映画『ハレンチ学園』で荒木又五郎(丸ゴシ先生)を演じてたこともその印象を強めてる原因かもしれない。 もっとも小松さんの代表作を『ハレンチ学園』にしちゃ申し訳ないのだけれども。
長崎の駿ちゃん誘拐殺人事件の関連記事。 福島市立福島第三中学で、社会科の30代の男性教諭が、犯人の少年と称してインターネット上に掲載された顔写真を印刷して、公民の授業中に生徒に回覧していた。 その教師の釈明というのが、「新聞は少年を匿名としているのに、ネット上では人権侵害が日常的に行われていることを知らせようとした」ってなもんである。 これを聞いて多分、誰もがどうにも理解に苦しんだろうと思うのだが、「人権侵害の証拠をそのまま回覧したらそれも人権侵害になるじゃん」ということ。ご当人も、「軽率な行動で自ら人権侵害に当たるようなことをしてしまった」と反省しているとか。 あまりにアホなんで、もしかしたらこの人、本当は「加害者の人権なんか守ってやる必要があるか。みんな犯人がどんなやつなのか知りたがってるんだから、俺が教えてやる」とかなんとか考えて回覧したところ、意外に強く突っ込まれちゃって、慌てて「人権侵害の一例で」と言って誤魔化したんではないか、と穿った見方もしたくなる。
私自身は、犯人の写真や名前を公表しても無意味だ、と考える立場の人間なのだが、「犯人晒せ」と主張する人々の心情を興味本意だとかヒステリーだとか言って排撃するつもりもない。加害者の顔など知りたくもない、と仰る方は、日頃よっぽど人を信用して生きているのであろう。世間の大多数の人々はそこまでノーテンキではない。 「12歳の少年」とだけ聞けば、どうしても一般化された「かわいらしい中学生」のイメージが先行してしまう。実像はどうなのか、自らのイメージとの差異を確認し、修正を試みたいと思う心情は、当然起きてしかるべきなのだ。「生きる」という行為の途上では、自らの拠って立つところを常に確認しておかなければ、次々に襲いかかって来る不安に押しつぶされてしまいかねない。ただ「12歳の少年」というだけなら、我々の日常に掃いて捨てるほど見かける存在ではないか? 隣にいるその子が急に犯罪者に変貌するのなら、日々の生活に恐怖を住まわせてなお恬淡として構える覚悟を強いられているに等しい。それに耐えられる人間ばかりで世の中ができあがっているわけではないのだ。 犯人はどんなやつなのか、本当に12歳なのか、12歳と言ってもよっぽど特殊なところがあったのではないか、肉体的にも精神的にも何かケツラクしたところがあったのではないか、親の育て方が悪かったのではないか、少なくとも私のこの子はあの12歳少年とは別の安全な存在である、などなど、犯人を差別化することでなんとか自己の安定を図ろうとするのも無理からぬところなのである。ちょうどM君事件が起きたときに、大多数のオタクが「Mはオタクではない」と自らとの間に境界線を引いたように。 けれど、それは結局は欺瞞なのである。子供は天使ではない。私が「顔を公表しても無意味」というのはその点にあるので、どんなに当該少年と、「私の子」との差異を比較したところで、その子が加害者になることはない、という証拠にはならないのである。危険を含まぬ子供などいない。 「子供を作ること自体が恐怖」。 それは昔から変わらぬ現実だったと思うのだが。「物語」の中に生きてるのは今のオトナたちのほうだよねえ。
アニメ『金色のガッシュベル!!』第14話「おてんばティオとアイドル恵」。 話はもうアレなんだけど、声優さん誰かなと思って見てみたら、恵の声、前田愛でやんの。急に声優づいてきたなあ。まだまだ「前田愛だ」と言われなければそうと気がつかないくらい目立たないのだけれど、成長期なせいか、ちょっと太ってきているから、顔出しをしばらく避けるというのも手かもしれない。
アニメ『鉄腕アトム』第14話『ミクロの大冒険』。 フーラー博士の登場、ミニアトムの活躍、という点は原作「コウモリ伯爵(原題/ミイラ伯爵)」からの拝借だが、ストーリー自体は全くの別モノ。吸血鬼ペダン博士は登場しないし、フーラー博士は「ミニミニ博士」と名前を変更されている。“Fooler”じゃ、グローバルスタンダードにそぐわなかったんですかね。 ウランの体内に入るという話は、非アトム作品の『吸血魔団』を原作としている。手塚ファンならよく知ってる事実であるが、この原作は旧モノクロシリーズの『鉄腕アトム』で『細菌部隊』としてアレンジされ、アメリカでも放映された。これをパクッて映画にしたのが『ミクロの決死圏』。だから今回のアニメ化は「原作を取り返した」格好になる。 もしもアメリカの半可通なSFファンがこの回を見て「『ミクロの決死圏』のパクリだ!」とか言い出したら、「どっちが」と言い返せて面白いのだが。
そろそろ買ったまま見てないDVDを見ねばなるまいと、『プリンセスチュチュ 雛の章』を最終回まで一気に見る。半日がかりだ。 おおお、あれがああしてこうなったか。 ついに復活する大鴉。 心のカケラを取り戻したと思われていた王子・みゅうとだったが、そのカケラはクレールの手によって、大鴉の血に浸されていた。 大鴉の化身と化していくみゅうと。ドロッセルマイヤーの書いた「物語」のために、決して王子を守ることができない騎士と、決してその恋が報われることのないプリンセスの運命を与えられているふぁきあとあひる。 運命を変える手段を懸命に模索する二人の前に現れた少年、あおとあは意外な秘密をふぁきあに告げ、運命の歯車を変えさせまいと、かつてドロッセルマイヤーの腕を切り落とした「図書の者たち」が暗躍し始める。 そして自らの出自を知らされたるうは、「プリンセス」になることができないおのが運命に絶望する。 第一部『卵の章』にも増してシリアスなストーリー展開なのだけれど、決して印象は暗くない。それはもう、愛の求道者・猫先生の捨て身のギャグ(^o^)によるところも大きいけれど、近頃のアニメには珍しく「運命に立ち向かう」キャラクターたちを本気で描いてるからだろう。 そして全編を彩るクラシック曲の数々。『展覧会の絵』『真夏の夜の夢』『動物の謝肉祭』などなど……。もちろん、最終回、ラストを飾る曲は『白鳥の湖』。「感動」というのはこういう作品に与えてこそふさわしい評価だ。 果たしてあひるは王子を救うことができるのか? 見るのを楽しみにしてる友人がいるので、ラストは書かないけど、最近の宮崎駿アニメよりよっぽど泣ける(つか、宮崎アニメで泣いたことはないんだが)。もう滂沱よ(ToT)。 これはこの話で終わるとしても、ドロッセルマイヤー・シリーズとして続けることは可能だな。何年か後に「またそれは別のお話」として続けてくれると嬉しいんだけど。
マンガ、矢上裕『Go West!』1巻(メディアワークス/電撃コミックス・578円)。 「オタクならこういうのは当然読んでるでしょう」と言われることも多いのだが、すみません、私まだ『エルフを狩るモノたち』、読んだことないんです。アニメはチラッと見たことあるんだけど。だから全てのアニメ、特撮、ドラマ、映画、小説、マンガを読むことなんて不可能だってば。 でも、以前から矢上さんに興味はあったので、「1巻」ということもあって購入。こういう衝動買いに近いものは当たり外れが大きいのだが、その結果はと言うと……いやあ、久々の大ヒット。 ここは西部、と言っても、現実の開拓時代とはちょっと違った、パラレルワールド風の世界。 行方不明の両親を求めて、裸一貫、新大陸へと渡った18歳の元気少女・ナオミ。まずは西へ進むために必要な道具や、「馬」を探し始める。彼女が偶然出会ったのがガメラ(出るんだよ、なぜか)……じゃなくて、西に向かって一直線にしか進まない暴れ馬・レッド・バレット。誰も乗せないはずのレッドはなぜかナオミを気に入ってしまい、むりやり背中に乗せて一路西を目指す。 しかしまだまだナオミには足りないものがある。それは身を守ってくれる用心棒。荒くれだらけの西部では、いかにナオミに度胸があっても一人ではとても生きていけない。一直線に突っ走るレッドが辿り付いた街には、二人の男がいた。怪しいアフロヘヤーのお尋ね者の黒人と、彼を狙う賞金稼ぎの白人ガンマン。ところが二人はナオミを見た途端に涙を流して叫んだ……。 ……と、ここから先はぜひマンガを読んで確かめてもらいたいので隠しておこう。いやあ、この手のムリヤリギャグは私は大好きだ。絵も上手いけど、コマワリが抜群で、ギャグの「間」を作っているのだね。これはもうオススメの一冊なんである。
2002年07月13日(土) 病院への長い道/『エンジェル・ハート』4巻(北条司)ほか 2001年07月13日(金) ふ、ふ、ふ、ふ○こせんせぇぇぇぇぇ!/『悪魔が来りて笛を吹く』(横溝正史・野上龍雄・影丸穣也)ほか
| 2003年07月12日(土) |
AIQ(オタク・アミーゴス・in・九州)始末/DVD『ノストラダムスの大予言』 |
福岡市中央区で、26歳の女性をめぐって、74歳の老人が71歳の老人をナイフでメッタ刺しにしたという事件。 某新聞の記事が、まんま面白いので、ちょっと引用してみる。
> 26歳女性をめぐり、74歳男が同じアパートに住む71歳男性をナイフでメッタ刺しにしたとして殺人未遂容疑で福岡県警に逮捕された。ざっと半世紀年下の女性との色恋ざたで刃傷沙汰を起こしたり、メッタ刺しにされても命に別条はなかったり…事の善しあしなどは別として、70代とは思えない元気さ強さを見せつけた。
「半世紀年下」「メッタ刺しにされても命に別条ナシ」「事の善しあしは別として」「元気さ強さを見せつけた」とか、やたら誉めてませんか(^_^;)。 なんだか「やったぜ70代!」ってエールを送ってるみたいで、最初から「事件を笑おう」という姿勢があらわになってるねえ。 テレビの報道はまだ普通の事件扱いしてたんだけど、さすがサ○○○(^o^)。 > 2人合わせて145歳。色恋をめぐる刃傷沙汰に年齢は関係ない!? 逮捕されたのは福岡市中央区の山口林容疑者(74)。
合わせてどーする(^_^;)。きんさんぎんさんかい。
> 福岡・中央署の調べだと、独り暮らしの山口容疑者は11日午後8時前、同じアパートにやはり独り暮らしの無職、田中実夫さん(71)の部屋に押しかけ、手に握り締めたサバイバルナイフを田中さんめがけて突き出した。田中さんが倒れ込んだ後も刺し続け、傷は胸や腹、首の十数カ所に及ぶ。
ナイフとはサバイバルナイフでしたか。 一昔前はこういうのはデバ包丁と相場が決まってたんだけれど、26歳と付き合うだけあって、こんなところにも気の若さが(ちゃうって)。 けど「手に握り締めた」って描写の仕方にも、「老人力」(意味違うけど)を演出しようとする執筆者の心意気が感じられる。
> その後1時間余りして山口容疑者は「部屋にけが人がいる」と119番通報。この間、田中さんは自室に倒れたままで、救急隊が駆け付けたときには本人も周囲も血まみれ。それでも意識が残っていた田中さんは救急車で運ばれながら「山口に刺された…」とうわ言を発していたという。
えーっと、「1時間」後にって、それまでずっと刺し続けてたってこと? それとも何度か刺したあと休憩したのかな? 二人は何か会話をしたんだろうか。 そのこととも関係するんだろうけど、「119通報」したっていうのがまたよく分らないね。殺すつもりが急に恐ろしくなって助けようとしたんだろうか? それとも刺しても刺してもなかなか死なないので、根負けしたのかな? 案外、ただ単にボケてただけだったりして(^o^)。 > 一方、現場アパートにいた山口容疑者は、同署員が事情を聴いたところ「自分が刺した」とあっさり認めたという。 > 調べなどによると、今回の刃傷沙汰の原因は26歳の女性。山口容疑者はこの女性と交際していたが、2人の関係に田中さんが何らかの形で関与したらしい。このため激高した山口容疑者が凶行に及んだ。同署ではこの女性からも「三角関係」の有無を含めて詳しく事情を聴く方針だ。
何がきっかけで付き合い始めたのかを知りたいな。 こういうのはたいてい『金髪の草原』みたいにホームヘルパーさんとってのが多いんだろうけど、元気のいいお爺ちゃんみたいだから、「出会い系サイト」の可能性もアリだな。 「田中さんが何らかの形で関与」なんて書き方をしてるところを見ると、どう関与したかはもう分かっているのだろう。隠さないでちゃんと教えてほしいものだ。こうなるともう「合コンで知りあった」とか言われても驚かないぞ。
> 田中さんは十数カ所の刺傷に出血性ショックも加わり重傷だが、幸い命に別条はないという。
重症でも「命に別条がない」ってのがやっぱりすごい。 刺されてる間、全く抵抗はしなかったんだろうか?
> 厚労省によると、昨年の日本人平均寿命は女性85.23歳、男性は78.32歳と過去最高を更新。「いかに元気に老後を過ごすか」が長寿時代の課題になっているが、山口容疑者は元気過剰。一方、田中さんは強靭な体力で一命を取り留めた。
いきなり平均寿命を引き合いに出してくるのもヘンだけど、この二人が「いかに老後を過ごすか」の課題として恋のさやあてを仕出かしたような決めつけ方もいい味。上原謙対上原謙(^o^)。
> 捜査関係者は「70代男性が50くらい女性と交際というのは聞いたことあるけど、20代とは…」とア然としていた。
川田順の「老いらくの恋」は60代と40代だったな。 けど、70代と20代の関係ってのも結構あるんじゃないかな、「ア然とする」ほどのことじゃないと思うが。 「老後の性」って、日本文学のテーマの一つだったりもするしね。川端康成の『山の音』とか、谷崎潤一郎の『鍵』『風癲老人日記』。 1972年にガス自殺した川端康成の少女との恋愛は、臼井吉見の『事故のてんまつ』にすっぱ抜かれたけど、まあ若い頃から少女趣味だった人だし、まるで意外性がなかったね。……てことは私、九歳の頃にはもう『伊豆の踊子』読んでたのか。ビックリ。
午前中、眼科で再び目を見てもらう。 治療後の経過、とりあえず裂孔は広がらずに収まっているとのこと。相変わらず紐はぶらさがってるし、光が時折目の下を流れてるんだが。 次の検査はまた2週間後。
夕方7時から、エロの冒険者さんの事務所で、AIQの精算会。 AIQはこれで一旦解散して、次回があるとすればまた再結集ということになるが、さて来年があるかどうかは正直なところ分からない。オタクアミーゴスのお三方も、それぞれの拠って立つところが随分ズレてきているのは最近の活動を見ていれば見当がつく。 唐沢俊一さんもいつぞや日記に書いていたが、「ネタを紹介する形」でのオタクアミーゴスの活動はひと区切りついてしまっているのである。
「地方発信の文化がもっとあっていいのではないか」と唐沢さんは仰っていたが、福岡・博多は、戦後は東京追従型の文化を築くことで復興を果たした経緯がある。だいたい「オタアミを福岡で」というのも東京文化の移入だ。これまで五回、オタアミを開催してきて、お客さんに「ネタの提供を」と呼び掛けてきたが、福岡の観客からは全くと言っていいほど反応がなかった。福岡のオタクは薄いと言われても仕方がない。 みんな、よそからのカリモノだけでも、充分に楽しいのだ。福岡では、今や独自の文化を発信して客を寄せることは殆ど不可能なくらいに伝統が断絶してしまっている。私がしょっちゅう「博多は」「博多は」と口角泡を飛ばして言ってるのは、実のところ『大鏡』が貴族文化の終焉をひたすら懐かしんで「昔はよかったなあ」と愚痴っていたのと同じく、ただの老人の繰り言でしかないのである。 「そんなことはない、博多にだって新しい文化は生まれている」と主張する人たちもいるかもしれないが、私にはとてもそうは感じられない。例えば福岡には、地元劇団が東京に匹敵するほどに数あると思われるが、博多を舞台にし、博多弁で演じられている芝居はほんの一部だ。確かに今の若い人たちは博多弁を使わなくなってきているが、でも共通語に完全に転化してしまっているわけではない。なぜ自分たちの言葉で物語を語ろうとせず、共通語もどきの芝居ばかりを作り続けているのか。それが「新しい文化」と言えるのか。博多座の公演だって、殆どが東京の舞台の巡回である。 「山笠」や「放生会」、「博多にわか」なんかをネタにして「オタアミ」と絡めることが果たして可能だろうか。仮にそれを実行したとして、既に「終わっている」ことがハッキリしているモノをネタにして、果たして面白いものになるかどうか(70代以上の生粋の博多人は、伝統行事のほとんどが商店街のお祭りに成り果てているとしか思っていない)。 博多出身の著名人とオタアミのみなさんとを絡めてトークショーという手も考えられなくもないが、ゲストを招聘しての公演は、シロウトのボランティアで構成されているAIQでは手に余るだろう。小林よしのりとかタモリ、小松政夫さんなんかと絡められたら面白いとは思うんだけれど、それは私がまだ「昔の」博多人だからであって、「今の」博多人には恐らく殆ど魅力のあるキャスティングではあるまい。よっぽどコンセプトを練らないと、失敗は目に見えている。 エロの冒険者さんも、恐らくは「地方発信」というコンセプトは考えてはいまい。これから先、何かイベントを企画するとすれば、オタアミのお三方の志向が福岡にないのに、いったい何をするのかということを問いなおさねばならないのだが、さて、果たして今後そういう機会が得られるものかどうか。仮にその機会があったとしても、相当の覚悟と実行が伴わないと、中途で頓挫しかねない。 事務所に到着するなり、しげが例のアロハルックを集まっていたみなさんに見せびらかす。「チンピラやくざ風にしてみました♪」と笑っているが私は穴があったら入りたい気分だ。しおやさんは「いっそのことペアルックにしたら」と笑っておられたが、私はまだ人生捨ててるわけではない(-_-;)。 「おもしろいじゃん」としおやさんは仰るが、こういうのはペアルックの二人がイチャイチャベタベタしてるのを誰かが脇目で見て「ケッ」と言うシチュエーションがあってこそ面白いんである。しおやさんはその「ケッ」という役を誰に振ろうというのであろうか。全員が「ケッ」と言ったら笑う人間がいないのであるが。
エロさんに長らく借りていた輸入DVD『ノストラダムスの大予言(パッケージタイトル“Last Days of Planet Earth”、劇場公開時は“Catastrophe 1999: The Prophecies of Nostradamus ”)』をお返しする。 これを見た感想も日記に書き忘れていた。エロさんとこのDVDデッキではなぜか作動しなかったということであるが、ウチでは全く問題なく再生できたので随分前に見てはいたのである。 地球滅亡後、ミュータント化した人類を描いたのが問題になって、国内では再上映不可、ソフト化もされていないのだが、一度だけテレビ放映はされている。人権問題に関しては日本以上に敏感な海外ではこうしてDVDが出ているのに、日本ではなぜか禁止というのもおかしな話である。今見返してみても、何をどう問題にしたいのか意図が分からない。 映画そのものはテレビサイズに編集されたものらしく(元はシネスコのはずだが、スタンダードで収録されている)、シーン入れ替えも激しく、音楽も新しく入れ直したもの、以前見たものと相当印象が違っている。由美かおるのヌードもオリジナルにはあったはずだが、カットされている(これだけで魅力は半減であろう)。もともとヘンな映画ではあったが、なんだかますますワケの分らない印象。レナード・マーティンの「ムービー&ビデオガイド」では最低評価で、「製作してんのナショナル・エンクワイラー誌ではないか(アメリカの『東スポ』である)」とまで酷評されているが、さもありなん。でもこういう珍品は人間がいかにアホかという証明としても、きちんと後生に残すべきだと思うがなあ。 丹波哲郎の英語吹き替えの声が『OO7は二度死ぬ』のときと似てるように思うが、もしかしたら同一人物だろうか。丹波さん本人が喋ってるようにも聞こえるくらいで、つまりは演技過剰なのである。
初め、近所のしゃぶしゃぶの店に場所を移して宴会、という予定だったのだが、なんと当該の店が潰れてしまったとのこと。急遽オタアミの打ち入りにも使った「赤鳥」に会場を変更。車2台に分かれて移動する。 車の中でしおやさん、「最近殺伐とした事件が多いですねえ、もっと楽しく笑える事件はないですかねえ」と仰る。笑おうと思えばどんな殺伐とした事件だって笑い飛ばせるのだから、笑い難いのは事件を事件としてしか捉えられない世相の方だろう。12歳の事件だってホントは笑っちゃいたいんだけどねえ。
会場に着いてみると、山笠の長法被を着た武内さんが先に来て待っておられた。ああ、武内さん、山笠を舁(か)いて(=担ぐ)たのか。ウチも親父の代までは舁いてたのだが、だんだん職人をオミットするような雰囲気になってきたので、私は一度も経験がない。そのあたりも博多人としては淋しいことである。
乾杯してあとはいつも通りみんなすぐに酔っぱらう。 「今日を楽しみにして来ました」というぴんでんさん、最初から飛ばしまくり。いきなり「やっぱり次の『ゴジラ』の略称は『ヅラゴジ』ですよ! いや、『ゴヅラ』のほうがいいかな」と、どうにもツッコミの入れようがないことを言い出す。 要するに今度の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』に吉岡美穂が出演していて、彼女がアデランスのCMに出ているから、というのがネーミングの理由なんだが、こんなアホなの、定着されてたまるか。まあほっといても誰も使わないと思うけど、まかり間違ってファンが使い始めたりしたら、世も末である。 ぴんでんさん本人はとても面白いのだが、ギャグセンスは決定的にない。ツクリに走らず、自然体の面白さを見せていただいた方がずっと楽しいのだが、つまらぬプライドがジャマをして、開き直りきれないのが惜しい。 みなさんの反応も鈍かったせいか、ぴんでんさん、どんどん絡み酒になり始める。私に「なんでホームページ更新しないんですか! 寝る時間削っても書けよう!」とか「外食ばっかりして自殺願望あるでしょ!」とか。 果ては、「私とエロの兄貴、ホモダチになると思います?」とか聞いてくるのである。酔っぱらってるなあ。そんなことを言うものだから、しげが隣でクスクス笑い始める。どうやら具体的なイメージを思い浮かべたものらしい。浮かべるなよ。 なんだか様子がオカシイ、まるでこれでは、宴席ではひどい絡み上戸であったという太宰治のようだと思ったので、何かツライことでもあったのかと、ふとそう聞いてみたら、ホントにツライことがあったのであった(~_~;)。いやもう、何と言ってよいやら。
ぴんでんさん関係では書けないネタが多いのだけれど、一応解禁していいと許可を頂いた件を一つ。 ぴんでんさんは実は見合いマニアなのであるが、先日も(と言っても随分前だが)、ある女性とお見合いをなされた。美人でオタクに偏見もなく、二人ともなかなかいい雰囲気になって、デートも数度繰り返したある日のこと、当の女性がぴんでんさんにこう呟いた。 「……今晩……、ぴんでんさんのお部屋にお邪魔して、いいかしら」 こういうセリフを一生に一度は聞いてみたいと思わぬ男はいないであろう。私もまだ両手両足で数えるほどしか聞いたことがない(嘘)。 ぴんでんさんはもちろん、否やもない。普段から部屋の整理整頓には心がけているから、いつ何時、何があっても、準備は万端なのだ(何のだ)。頬を少年のように紅潮させ、ジョージ・チャキリスのように小躍りしながら、件の女性を自室へと招き入れた。 「さあ、ここがボクの部屋だよ!」 しかし、ぴんでんさんは忘れていたのである。部屋の中にたった一つ、あまりにそれが自然にそこにあるために、かえって盲点となっていたモノのことを。 部屋に入るなり、彼女は言った。 「あれ、なあに?」 ぴんでんさんの微笑みが、そのまま固まった。 彼女が指し示した指の先にあったもの、それは『スペクトルマン』のDVD−BOXであった。そう、『スペクトルマン』の頭部をそのまま実寸大で象ったというアレである。 「いや、その、これは、スペ、スペ、スペルマ、いや違う、スペクトルマンと言う……」 うら若き彼女は『スペクトルマン』の存在を知らなかった。「わあ、どんなの? 見た〜い!」。もはやぴんでんさんの取るべき態度は一つしか残されていなかった。『スペクトルマン』がいかにアツいドラマであるか、鷺巣富雄が乗り移ったかのごとく(まだ死んでない)とうとうと語りつつ、二人で夜通し『スペクトルマン』を鑑賞したのである。 後日、彼女は母親にこう聞いた。 「ねえ、ママ、『スペクトルマン』って知ってる?」 彼女の母は答えた。 「ああ、あの、『弱いウルトラマン』ね」 見合いの結果がどうなったかは、誰も知らない。
そのあともオタク話、延々と。 「『ウルトラマンレオ』の最終回に杉田かおるは出ていたか?」とか。ZUBATさんが「冨永みーなが出てたのは覚えてるけど」と腕を組む。みんな昔のことでハッキリ思い出せない。私も出てたような気がするがそう聞かれると、何だか自信がなくなる(あとで確認してみたらしっかりレギュラーで出ていた)。 「『帰ってきたウルトラマン』のウルトラ五つの誓いなんかはみんな言えるけど、シリーズ後半になるとみんな忘れるんですよ」とぴんでんさん。私はその五つの誓いももう忘れてるのである。全然ウルトラっぽくなかったという感覚だけは残ってるが(これもあとで確認したらこんなんである。「ひとつ、腹ぺこのまま学校へ行かぬこと。ひとつ、天気のいい日に布団を干すこと。ひとつ、道を歩くときには車に気をつけること。ひとつ、他人の力を頼りにしないこと。ひとつ、土の上を裸足で走りまわって遊ぶこと」。全部破ってるわ、私)。 しおやさんが「ダイソーで『巨人獣』や『つらいぜ! ボクちゃん』を売ってるんですよ!」という話には殆ど誰もついてこれない。わあ、みんなほんの何歳か年下なだけなのに、こういうのが分らない世代なのか。少女マンガを語ろうと思ったら、高橋亮子は避けて通れないと思うのだが。あの「遅刻しそうになって彼とゴッツンコ」「男の子っぽい女の子」「さわやかな先生への憧れ」「年下の彼の、彼女へのコンプレックス」など、少女マンガの典型・究極形が詰めこまれてるのが『つらいぜ!ボクちゃん』なのである。これ読んで泣けない男の子は、一生、女の子の気持ちは分らないと言っても過言ではなかろう。 アンジェリーナさんが今日も「誰か私のほかに『アステカイザー』のDVD買った人いませんか!?」と手を挙げて叫ぶが、いくら永井豪ファンの私でも、ちょっとアレはなあ。『ハレンチ学園』BOXも『マジンガー・ザ・ムービー』BOXも『ドロロンえん魔くん』も諦めたというのに(だから買いだしたらキリがないのである)。いや、永井豪作品って、マンガになっても実写になってもイマイチなものが多いんだよね。
でも今日、一番印象に残ったのは、エロさんが唐沢俊一さんから聞いたという、「自営業じゃないとオタクはやってられないよねえ」という言葉であった。日記の更新も、仕事帰りにまとまったものを書こうと思ったら、確かに時間が足りな過ぎる。本を読んだり、映画を見たりしたらもう12時である。それから日記なんて書けるか。更新が遅れるのも仕方がないのだ。
食事のことを書き忘れるところであった。 前回食べそこなっていた鶏のトサカ、今日は食べることが出来たが、コリコリとプニプニのコンビネーションがなんとも美味しい。 プニプニの部分はゼラチンで、良質のコラーゲンがたんと含まれているらしい。ここんとこがもちっと多いとより美味しく感じただろうな。
また際限なく話が続きそうなところで、お開き。 エロさんが心の底から楽しげに「みなさんに出会えて幸せです。また何かやるときにはよろしくお願いします」と挨拶。 私の場合、実質、目が効かなくなっているし、もしも声をかけて頂いたとしてもお役に立てるかどうか分からぬのであるが、しげもコミでよければ参加したいところなのである。 そのころまでにもっともっとオタクの輪が広がっているといいのだが。
2002年07月12日(金) ある事件の記憶/DVD『アベノ橋魔法☆商店街』vol.1/『奇妙な論理�機Ν供戞複諭Ε�ードナー)ほか 2001年07月12日(木) 怨念がおんねん(古)/『平成十三年度版 九州怨念地図』ほか
| 2003年07月11日(金) |
だからそれはラクな意見なんだってば/映画『バトル・ロワイアル�供…炭臆痢淵譽�イエム)』 |
鴻池祥肇(こうのいけ・よしただ)防災担当相が、今日午前の記者会見で、長崎市の駿ちゃん誘拐殺人事件について「嘆き悲しむ(被害者の)家族だけでなく、犯罪者の親も(テレビなどで)映すべきだ。親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい」と発言。 政治家の問題発言も多々あれど、これ、戦後一、二を争う「迷言」ではなかろうかね。 加害者が12歳だったってことで、刑事責任を問われない、だったら誰がこの事件の責任を取るのか、ってことで、怒り心頭に発したのだろう、と好意的に解釈してあげられなくもないが、それにしても「市中引き回しの上、打ち首」という、アナクロと言うか自我肥大な表現が笑いを誘わずにはいられない。飲み屋でクダ巻いてるオッサンとレベルが変わらんがな。 「打ち首」云々を一つの比喩として受け取ってあげたとしても、「加害者の親を公共の場に引きずり出せ」という主張はマトモな論理ではない。親を出して謝罪させて、そのあとはどうするの? 実際に犯罪者を育てた罰として収監でもさせるの? 名前も住所も晒されたら、もう今住んでるとこにはいられなくなるよねえ(既にそうなっている可能性もある。2ちゃんで晒されてるらしいし)。それどころかリンチに遭って殺される危険だってある。リンチを推奨する気か、このオッサン。 不用意というより、自分が何を喋ってるのか、その客観的な意味を認識する能力自体、著しく欠けているのだ。昨日の日記にも書いたことだけど、こういうヒトは、自分の身内から犯罪者が出る可能性ってのを全く考えてないんだろうねえ。自分のコドモ(がいたとしたら)が犯罪起こしたら、自分で自分を引きまわすんかな、この人は。 このオッサンの意見に拍手喝采してる子持ちの人、自分の子供が事件起こしても、ちゃんと自分が「打ち首」になる覚悟をした上でモノを言おうね。
けど、こういうアホウが「青少年育成推進本部」の副本部長を務めているとなるとあまり笑ってもいられなくなる。短絡的な思考の人間は、たいてい短絡的な「取締り」に走るものだ。「少年法改正」程度で収まりゃいいけど、「親子関係の監察」とか言って、家庭の躾にまで行政が関与してくるようなことになったらどうするのよ。 つーか、「そういうこと」を主張してる連中、既に現実にいるんだからね。いわゆる「隣組」の復活を目論んでるやつらだよ。 有事三法案の成立に関連して、自民党の部会で、「小学校単位の新しい『隣組』制度をつくるべきだ」って意見が出てるんだよね。なんかねー、「とんとんとんからりっと隣組♪」なんて歌もあるから、コトバだけを聞いたらこの「隣組」ってすごく牧歌的な印象あるけど、実際はこれ、戦時中に住民相互監視のために大政翼賛会の下部組織として作られたものなんだよねー。非国民や不穏分子は隣組さんがちゃんと特高に密告してくれるのだよ、ありがたい話だ。 親子の絆や、隣近所の人間的な結び付きが薄くなってるのを憂えるのはわかる。今回の事件も、もしかしたらそういうところに原因があるのかもしれない(ともかく、事件の概要すらわからぬ時点で「親出てこい」とか言ってること自体、大バカなのは明らかなのだが)。 けど、人と人とが付き合ってく中で自然発生的に生まれた相互協力組織ならばともかく、それを「政治」で何とかしてもらおう、とか親たちが考えたとしたら、それこそただの「責任放棄」ではないの。 子供がだよ、自分の親やご近所の人たちや学校の教師が、自分のことを「国に命じられたから仕方なく見てるだけ」なんだって思っちゃったら、感謝とか尊敬の念を抱くようになると思うかね。 「親がダメだから行政で何とか」という発想は、状況を客観視できないばかりか、逆に悪化させるタネすらそこに埋めこんでるのだ。
どんなにキヨラカな環境に育っても、どんなに親が教育熱心だったとしても、子供が変態に生まれついたらそれで終わりだよねえ。そんなのもともと、誰かに責任を問える問題ではないよ。政治や教育で生得の変態が更生できるの? それは医者の仕事なんじゃないの? 事件自体は悲しむべきことなんだけれど、所詮これは社会が肥大すれば変態の一人や二人は生まれるっていう「確率」の問題でしかない。事前に察知して犯罪の芽を摘むなんて不可能に近いし(子供全員に定期的に変態度チェックでもするか? 確実な査定方法なんて存在しないよ)、「コイツは将来必ず犯罪を犯す」なんて理由で収監できるはずもなかろう。日本をまた警察国家にしたいのかい。 今できることなんてねえ、まあ少年法改正の論議をしたきゃしてもいいけど、結局は事件起こした変態を収容できる病院の数を増やせ、くらいのことしか言えないわな。病院の数が少ないから、いったん収容した変態をまた野放しにしなきゃならなくなるんじゃん。そのための資金を加害者の親から出させろっていうんならまだ納得はできるんだけどね。
で、件の鴻池氏、小泉首相にも「不適切な表現だ」と指摘されて、「(打ち首などの表現は)これから使わないようにする」と釈明したそうだけど、じゃあ次からは「遠島だ」とでも言い換えるのかねえ(^o^)。 だってこのヒト、まだ「勧善懲悪の思想が戦後日本に欠けている。日本中の親が自覚するために、担任教師や親も全部出てくるべきだ」とか言ってんだわ。「あの少年は“善悪の区別がつかない”から犯罪を起こした」とか思ってんだよ。あのね、たいていの「悪い人」ってのはね、それが社会的には悪いことだとわかっててもやっちゃうものなの。厳しいルールが犯罪の抑止力に全くならないとは言わないけれど、いくら厳しくしても、悪いことする人間が生まれるのが世の中ってものなの。気休めとコトナカレの法律で国民を縛っても、結局取り締まられ、「悪い人」に仕立てられて迷惑する人の大半はごくフツーの人なんだよ。 いったいアンタは世の中の何を見てこれまで生きてきたの? 政治家の汚職も「善悪の区別がついてない」から起きるんだろうねえ、この人の脳内では。
瀬戸内寂聴もなんか「昔はこんな少年の凶悪犯罪はなかった」とか嘘八百並べてるなあ。世間知らずが堂々とモノ言える世の中にしちゃってることのほうがよっぽど青少年育成の弊害になってるんじゃないかね。
『ビックリマン』シリーズのヤマト王子&ヤマト神帝、『北斗の拳』のリン、『忍たま乱太郎』の喜三太などを演じられていた青二プロ所属の声優、鈴木富子さんが、7月7日、急性心不全のため死去。享年47。 年齢を隠すことの多い声優さんは、亡くなって初めて「そんな年だったのか」と思うことが多いが、鈴木さんの場合は「そんなに若かったのか」。 フィルモグラフィーを見てると、結構見てたアニメも多いんだけれど、これと言って特筆すべき作品は見当たらない。前記の代表作も、「鈴木さんでなければ」というものでもない。けれど、ケレン味がなくても、堅実な演技でワキを固める役者さんもまた作品には必要なわけで、そういった中堅の役者さんの層が薄いことが最近の映画やアニメをつまらなくしている原因の一つであることも事実である。きっと「これから」の人だったんだろうに。 『劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション 七夜の願い星 ジラーチ』のジラーチ役が遺作となる。
今日もまた篠突く雨の中、夕方からワーナーマイカル福岡東まで、映画を見に行く。 途中、初めて「博多屋台村」に立ち寄って食事。 まあ随分と狭い空間の中に、ラーメン屋だのカレー屋だの居酒屋だの、出店を詰め込んだものだ。通り道が人がすれ違う程度の幅しかない。ちょっとお客が立てこんだだけで、これはすごく混雑するのではないか。夏場なんかはムシムシしそうである。 しげに「どこの店がいい?」と聞くが、「どこでもいい」と反応が鈍い。さっきまではどんなところが興味津々だったのに、いざ来てみると予想と違っていて幻滅したらしい。 「イヤなら、ほかで食事するか?」と言うと、「いいよ、ここで」と投げやりな返事。いかにもイヤそうな顔はするくせに、自分の意見をちゃんと明示はしないのが相変わらず卑怯。心底イヤなら「ほかで食べよう」とハッキリ言えばいいのに。あるいはちょっとくらい不満があってもせっかく来たんだから、「じゃあこの店に入ろう」と言うくらいの心遣いはあってもいいと思うのだが。 と言うことも何度も言ってるのにこいつはホントに記憶力がない。私に迷惑かけるだけならばともかく、誰に対してもこの調子だから困るのである。食に関してワガママなおかげで、ずいぶん周囲にも気を遣ってもらってるのだが、いくらそうしてもらっても、本人がまるで気がついていないから、遣うほうも遣いがいがないこと夥しいのである。 とりあえず、一軒の店を選んで食事。卵焼きに焼きそばを頼んで、二人で分ける。こういう屋台の常として、やや割高感があるが(昔の「安い」が売りものの屋台と違って、今の博多の屋台は妙に名物化したせいか、ちょっとしたレストラン並に高い)、味はまあ、悪くはない。 店を出たあと、何が気に入らなかったのかを聞いてみる。 「だって、外から丸見えやん。通りがかりの人が『へへ、こいつあんなもの食ってやがるぜ』とか思ってたらイヤやん」 思うか馬鹿。そういうのを被害妄想と言うのだ。 つーか、自分自身がレストランとかで食事してる人をそんなふうに見てるってことじゃないか。なんて陰険なやつ。 それに、そんなに人に見られるのがイヤなら、ちゃんと食材買って家で料理作ればいいじゃないか。やっぱり生き方間違えてるのである。
何の映画を見るかははっきり決めてはいなかったのだが、ワーナーに着いてみると、一番早い時間の映画が『バトル・ロワイアル�供…炭臆痢淵譽�イエム)』だったのでこれを見る。 深作欣二の遺作と言っても、彼自身はリハーサルだけで燃え尽きてしまい、実際にメガホンを取って撮影したのは前田愛が父親の描いた絵を見る部屋のシーンだけである。実質的にはあとを継いだ深作健太監督の第1回監督作、と言ったほうが妥当だろう。
前作のラストで生き残った七原秋也(藤原竜也)は、今や首都崩壊テロを起こした反BR組織・ワイルド7のリーダーとなっていた。 彼を屠るためにBR法は改正され、問題児ばかりが集められた鹿之砦中学校3年B組の生徒たちが、七原秋也の立て籠もる戦艦島に攻め込むように強制される。かつて七原秋也に付けられていたものと同じ時限爆破装置付きの首輪を嵌められて。 銃が配られ、生徒たちは上陸作戦を開始する。しかしワイルド7の銃弾は次々と彼らを倒して行く。それは、まさしく「戦争」だった。
「ワイルド7」ってネーミングはちゃんと望月三起也に許可取ったんかとか、老いたレジスタンスの三村真樹雄(千葉真一)と七原秋也の別れのシーン。こ、これ、まんま『さよなら銀河鉄道999』の冒頭シーンではないの、とか、そんなところが真っ先に気になってしまうが、まあ文句のつけどころは腐るほどある映画である。 だいたいタイトルに偽りありで、既に話は「バトルロイヤル」ではない。ただの「戦争映画」である。 前作同様、今回も「あと○○人」のテロップが表示されるが、あれは「殺し合い」だったからこそ「次は誰がなぜ死なねばならないのか」、という死の不条理を象徴する効果があったのである。それぞれに持たされていた武器だって、前作では千差万別だったのに今回はみな一律に銃を持たされている。これではキャラクターの描き分けもなされぬままで、生徒がどんどこ殺されてっても悲壮感一つ生まれない。 前作とちょっと設定を変えて、出席番号一番同士の男女がペアになってて、片方が死ぬともう片方の首輪も連鎖して爆発して死ぬのだけれど、これも映画をとっとこ進行させるための「人減らし」にしか見えないのだ。前作では早めに死ぬキャラだってよく描かれてて結構目立ってたのだが、今回は殆どの生徒がただ死ぬだけで記憶に残らない。健太監督、キャラクターを描くことを放棄しちゃったんではないか。 今回の主役、青井拓馬(忍成修吾)が感情移入のしにくいキャラクターであるのも弱い。感情的ですぐにキレるために母親(三田佳子)にも見捨てられてるという設定だが、ホントにすぐ切れて絶叫ばかりしてるので、最初コイツが主役とは気づかず、すぐ死ぬんじゃないかと思ってたくらいだ。キレやすいやつだけど、実は雨の日に濡れそぼっている捨て猫を拾って助けてるとか(^o^)、優しいとこ見せる描写でも入れとかなきゃ、客は乗れないてば。浅倉なお(酒井彩名)がどうしてこんなのが好きなのかもよくわからない、つまり主役級のキャラについてすら、描写不足が目立つのである。 監督の眼はどちらかというともう一人の主役、キタノシオリ(前田愛)の方に注がれ過ぎていたのではないか。彼女がバトル・ロワイアルに参加したのは、父親を殺した七原秋也への復讐のためではない。父親の残した絵の中に女神のように描かれていた少女が、自分ではなく中川典子(前田亜季)であったこと。生前の父親を「オジサン」と呼んで嫌っていながら、実は自分も父親に拒絶されていたことを知ったとき、父親の心を捉えた中川典子とはどんな少女だったのか、彼女はそれを知らないではいられなくなった。 キタノは確かに実の娘を拒絶した。しかし、キタノが最期に「人を本気で憎むことがどういうことなのか考えろ」とメッセージを送ったのも娘であった。その二律背反ゆえに、シオリはただの嫉妬でも復讐でもなく、七原に接触せざるを得なくなるのである。 この描写は実に面白いのだが、でもどっこい、演じる前田愛の演技力が今一つなのがねえ(-_-;)。それと前田愛、ちょっと顔が丸くなり過ぎてるんじゃないか。こっちも前田亜季に演じさせたかったような。 桜井サキ(加藤夏希)の弟とのエピソードも、教師RIKI(竹内力)が妹を秋也のテロで失っている設定も、ムダに話を混乱させているばかりである。筋がストレートで一気に話を展開させているようでいて、実は途中途中で退屈な描写が多いのである。
じゃあ、つまんなかったかというと、見てる間は実に面白かったんだよねえ、この映画。なぜって、これ、徹底的な「反米映画」になってたのよ。そんなん、ここ10年くらいエンタテインメント映画の中では殆どなかったんとちゃうか(『ちんちろまい』の中で武田鉄矢が「アメリカとも一度戦争して勝つ!」と酔っ払って言ってたけど)。 教師RIKIが黒板に「これまでアメリカに空爆された国」を列挙するシーン、七原秋也が電波ジャックして世界中のテロリストたちに檄を送るシーン、この二つのシーンがシンクロして、アメリカが「正義」という自国のアイデンティティを維持するためだけに戦争をし続けていることを重層的に描き、実は大人も子供も、戦うべき真の相手が米帝国主義であることを明示する。そして七原は例のアメリカを敵とする国でレジスタンスを続けるのだ。 単純過ぎるほどに単純な論理だし、その主張に異議を唱えたくなる人もいるだろう。「テロリズムを肯定する気か」とかなんとか。でもそれがこの映画のまさしく主張なんだから、恋愛映画を見て「なんで恋愛をテーマにするんだ、オレは恋愛が嫌いだ」と文句つけるのと同じことで、それは全くの筋違いというものである。 だいたい、アメリカべったりの主張だって単純なことに違いはないのだ。ここまで堂々と「アメリカにテロしかけて何が悪い」と言い切られては、むしろその単純さゆえに「映画としては」これを評価しないわけにはいかない。映画を映画として楽しむやり方を知らない人間はまた激怒したりするんだろうけどね。
2002年07月11日(木) 灰色の巨人/『サトラレ』3巻(佐藤マコト)ほか 2001年07月11日(水) 変と変を集めてもっと変にしましょ/『コミックマスターJ』7巻(田畑由秋・余湖裕輝)
| 2003年07月10日(木) |
たいして過激なことは書いてない/『トリビアの泉 へぇの本』第�機Ν挟�/『ああっ女神さまっ』26巻(藤島康介) |
またもや日記の更新が遅れ気味なので、例の長崎市の児童誘拐殺人事件について、掲示板の方に感想を書く。あとになって感想が変化したときのためなんだが、実のところあとで書いてもたいした変化はない。 というのも私は、事件そのものには殆ど関心がなくて、「世間がその事件をどう受けとめたか」という「時代の感覚」のほうに視線が動いてしまうからだ。事件は「現場」なんかで起こってるんじゃない、「時代」と「世間」がデッチアゲてんだ(^○^)。 だもんで、書いた内容、事件の悲惨さがどうの、ということには一切触れてない。おかげで掲示板に書き殴った内容だけだと、説明不足な点もあるので、事件自体の概容をもう一度長崎県警の報告からおさらいする。
昨7月9日に補導された少年は、7月1日午後7時20分頃、長崎市の家電店で種元駿ちゃん(4歳)を誘拐。路面電車などを乗り継いで、約4キロ南の駐車場ビルに移動した。そして9時15分頃、同ビル屋上で駿ちゃんを全裸にして突き落とし、殺害。 取調べに対して少年は素直に応じ、「たまたま店にいた子どもに声を掛けたらついてきた。顔見知りではなく、全く知らない子どもだった。いたずら目的で駿ちゃんを連れ出し、騒がれるなどしたため困って投げ落とした」などと答えている。 少年が13歳以下のため、県警は児童福祉法に基づいて長崎中央児童相談所に通告、相談所はまた「審判に委ねるのが適当」と判断、本日の午後、事件を長崎家裁に送致した。 家裁は2週間の「観護措置」を決定し、少年は、裁判官から非行事実などの確認を受けて長崎少年鑑別所に収容された。
報道メディアは既に「第2の“酒鬼薔薇事件”」という呼称も使っているし、既にネットでは少年の本名と顔写真と称するもの(複数確認したから間違いも当然ある)も出回っている。
で、以下が掲示板に私が書いた内容。
> 天皇崩御なみの特大記事で報道されてる例の12歳の事件だけど、正直な話、騒ぎ過ぎなんじゃないのか。今日になってようやく動機がイタズラ目的だった由、判明しつつあるけれども、昨日一昨日なんか、状況も殆ど分らないうちから、新聞もテレビも「12歳の犯行!」って大見出しでさ、やたら煽情的だったよねえ。ホントになぜなの? > だいたい「12歳」って年齢だけでショックを受けるのって、あまりにも世間知らずだと思うがな。そのへんのガキンチョ見てみなよ。12歳ならもう充分、オトナ相手にしたって人殺す意志くらい持ってるよ(体格は関係なし)。マスコミ、本当に「まさか12歳だったとは」とか思ってる? 昔、14歳の犯行が起こった時には結構「いずれ小学生の犯罪も」って警鐘鳴らしてた人いくらでもいたぞ。犯罪に年齢制限はないってこと、とっくの昔に理解してたはずじゃないのか。 > なんだかねえ、今更ながら驚いて見せるのは、これまで何を報道すべきかってことをわざと見過ごしてきたマスコミの責任回避にしか私には見えないんだけどねえ。
> もちろんそれは、庶民だって同じこと。テレビのインタビューに答えてさ、「まさか12歳だったとは」なんて驚いてみせてるおばちゃんたちがいるけど、本気なんですかねえ、あれ。身近にいる子供たちが犯罪者になる可能性から目を逸らしてるから「ショックを受けたふり」ができるんじゃない? で、これから先、似たような事件が起こったってさ、どうせまた同じように「ショックを受けたふり」をし続けるんだよな、きっと。 > 自分たちのやってることの意味、分かってる? > それって結局、「子供のことなんて私は考えたくもありません」って言ってることなんだよ。多分、自分の子供のことも含めてね。
> ともかく、情報が不充分な段階から騒いでるのは、事実を解明しようという意図よりも、この事件をどんな物語に仕立てあげようかという意志の方が勝っているからだ。それもどうせキャスターたちが訳知り顔に語るのは、いい加減百万回くらい聞き飽きてる三文小説なみの陳腐なドラマなんだよね。 > 「なぜこのような事件が起きたのでしょうか」「加害者の少年にはどんな過去があったのでしょうか」「周囲の大人たちはどうして少年の心のキズに気付かなかったのでしょうか」かとかなんとか。これでもし、少年がイタズラに走った原因がマンガとかの影響、なんて話が出てきたら、また責任転嫁したがる連中が騒ぎ出すのも目に見えてるよな。 > まあ、マスコミが勝手に騒ぐのは構わないけれど、それに乗せられてまたぞろ少年法の改正がどうのこうのと言い出す連中(賛成派反対派とも)が跋扈しはじめるのが見ていてうだんしい(←博多弁。鬱陶しい、うざったい、いやらしい、めんどくさいの意)のである。被害者の親まで「改正を」とか言い出してるしな。いやはや、マスコミのマインドコントロールもすっかり世間に浸透しちゃってるよ。
> 「なぜこんな犯罪が起こったか」なんてこと、議論する必要ないんだよ。「そこに犯罪者がいたからだ」。それだけ。動機だって、わざわざ原因を過去に辿る必要なんてない。「あるとき変態性に目覚めた」それだけじゃん。そういう資質が本人にあったってだけで、親や環境の影響が全くなかったとは言わないが、少なくとも全責任を負わせることじゃないって。 > 「ただの変態が子供にイタズラしてそのあと殺した」それだけの事件じゃん。何をみんなよってたかって喜んではしゃぎまくってるんだ。 > 私ゃこの状況のほうがよっぽど気色悪いよ。
これ読んでエライこと書くなあ、と思う人もいるかもしれないが、まだ表現を抑えてはいるのである。 あえてねー、もちっとアブナいことを書いちゃうとさー、こーゆー10代の変態やら犯罪者やらが出るのを怖がってさー、少年法とか改正して取り締まろうとか思ったらさー、キリがなくなるよー、「BR法」を本気で考えなきゃならないくらいにねー。 ああいう「10代」を取り締まろうと思ったらさー、結局「収容施設の強化」ってことにしかならないんだよねー。でもそんなもん、現実に「設置」できると思うー? 「人権派」でなくってもさー、「犯罪に走りかねない10代」が「別に特殊な存在でもなんでもなく」って、「自分のムスコやムスメもそうなるかもしれない」ってことに気づいたらさあ、みんなやっぱ「少年法は守ろう」って180度逆なこと言いだしちゃうと思うけどねー。 でもそんなことに「気づかない」あるいは「気づきたくもない」人間ばかりだということを証明しちゃってるんだよな、ここ数日の報道は。 つまり、自分が「犯罪者の親になる」可能性をまるで考えないバカ(こんなとこにも「ウチの子に限って」の論理が働いてるんである)か、あえて現実から目を逸らしてる卑怯者か、そのどっちかしかいない世の中になっちまった、ということだ。 自分はそのどちらでもない、と言えるならこう自問自答してごらんな。「自分の子供がもし犯罪に走ったら、その子供を殺して自分も死ねるか」ってな(勘違いしないでほしいが、「そうしろ」と言ってるのではない。これは「覚悟」の問題である)。 じゃあ、お前はどうなんだって、アホなツッコミ入れてくるバカもいるかもしれんが、ウチは子供作ってません(^o^)。アンタ、自分の子供のために自分の人生棒に降りたかねーや。既に「何の覚悟もない」女房を持ってる時点で半死人状態に陥ってるってのに、何でそんな自殺行為をせにゃならんかね。 もっとも、世間に「想像力」がなくなってるからこそ、ポコポコ際限なくガキ作る親もゴマンといるわけで、それでなんとか日本の人口も保たれているとも言えるかな(^o^)。
晩飯は博多駅バスセンターの上、お好み焼きの「ふきや」でブタ玉焼き。 ここはマヨネーズかけ放題なのだが、隣席でOLっぽい女性三人が、マヨネーズをかけ過ぎたらしく、「余っちゃった、どうしよう」とか言っている。 それだけなら聞き流すところだったが、次のセリフでつい耳を欹ててしまった。 「アメンボの足に付けるかあ?」 いやあ、マンガみたいだがホントにお好み焼きが喉につかえたね。 これ、昨日の『トリビアの泉』の「アメンボも溺れる」ってネタなんである。 アメンボの足の先には、毛がたくさん生えていて、その足先から油を出してそれを塗りつけている。それが、洗剤等で取れてしまうと溺れてしまうというもの(生活廃水のせいで実際に溺れ死ぬアメンボも多いらしい)。 アメンボが水面を泳いで(と言うのか?)いる水槽の中に石鹸水を入れると、なるほど溺れる(ひでえな)。で、救出したアメンボの足にマヨネーズを塗るとまた泳げるようになるのである。 こんなところで『トリビア』ファンに出会うとは……と思っていたら。 「でもその実験、小学校でやったよー」 「結構知ってること多いしねー」 「『へぇ』っての少ないよねー」 「どうでもいい知識が面白いって言えばそうかもしれないけど、なんかねー」 OLさんにはあまりウケてないらしいな、あの番組。実際つまんないのは事実なんだが。 老荘思想に基づけば、「知」なんてものは全てトリビアなんで、その点においては「相対性理論」と「トグロウンコの作り方」とは等価値であると言える。つーか、そういう視点がないと、「トリビア」を面白く見せることなんてできないと思うんだが、あの番組に欠けてるのはスタッフがみんな本気で「トリビア」を面白がっちゃいないってことなんだよな。 アシモフの言葉を巻頭言風に引用したり、学者や関係者への取材が電波少年風だったり、スタッフが「面白がってる」んじゃなくて「ふざけてる」のが見えるのがともかくイタイのだ。
と言いつつ、その『へぇ』の本を2冊買っちゃったんだけど(^_^;)。 フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉 へぇの本』第�機Ν挟�(講談社・各1000円)。 深夜放送分を2冊にまとめたもの。カラー写真もふんだんだし、番組見ながら「たったこれだけ?」って感じてた印象がが随分緩和されている。ただ価格が高いね。 まあ、もうちょっとその辺は突っ込めよ、という甘さはどのトリビアにもあるんだけれど。 「『ルパン三世』の銭形警部の名前は幸一である」ってトリビアも知ってる人にはすぐ突っ込まれちゃうよな。 あれはもともと原作者のモンキー・パンチが「銭形平次の子孫だから」ということで「平一」と書いてたのを誤植されて「幸一」になったもの。その後、原作で改めて「平太郎」と名付け直されたけれど、最初のアニメ版及び劇場版第一作では無視されて「平次」になってしまった。「幸一」の設定が復活したのはテレビ版第2シリーズで。 ついでに「ルパン三世のファーストネームは?」ってのもよく言われてるけれど、「三世」と言ってる以上は「アルセーヌ」ってことになるんだろうけれど、モーリス・ルブランの原作ではアルセーヌの父ちゃんも泥棒なんだよな。 となるとルパン三世は本当は四世じゃないとオカシイはずなんだが、一世の父ちゃんは「テオフラスト(テオファリスト)」って名前なんで、一応断絶してると考えるべきか。でも原作に登場するルパン二世はジャンって名前で(ママはクラリス・デチーグ!)、泥棒ではないのだよなあ。まあ。原作との整合性考えたってしょうがないんだが(『ルパン三世』の原作には、そのあたりをファンに指摘されたのか、「実はルパンはアルセーヌ・ルパンの孫じゃないかも」なんてエピソードまである)。
マンガ、藤島康介『ああっ女神さまっ』26巻(講談社/アフタヌーンKC・490円)。 オビによると、「単行本累計1700万部突破!」だそうな。 ちなみに『ワンピース』は24巻までで、6600万部、『バガボンド』は16巻までて3170万部。他のデータ挙げてもいいけど、まあ超ヒットとまでは行かないのである。いや、あえて貶めるつもりしないけれど、オビに書くほどのもんかって気はしちゃってね。 話はもう何がどうなってるのかよくわかんないです。えーっと、「天使食い」が暴走して、ヒルドとマーラーが逃げて、女神たちが協力して天使食いを封印してってことでいいのかな? なんか盛りあがんないんだよなあ。 作者がもうマンガとしてのコマワリができなくなってて、イラストの羅列になってるから読みにくいったらありゃしない。よかったら「これまでのあらすじ」を付けてくれませんかね、マジで。 あと『包丁人味平』のパロはつまんないです。
2002年07月10日(水) 憑かれた女/『新宿少年探偵団』(太田忠司・こやま基夫)ほか 2001年07月10日(火) 踊れば痩せるか/『ちょびっツ』2巻(CLAMP)ほか
| 2003年07月09日(水) |
そんなに息継ぎナシで喋らないでください/『ある日のツヴァイ』(竹本泉) |
どの新聞の見出しにもデカデカと「12歳少年」の文字が踊ってるけど、まあ、その感想は明日の日記で。
できるだけ仕事はしないぞ、とコブシを握りしめてしまうのは、やっぱりまた会議があったからなんですね。もう、あのキテる人とは会話したくないのだが。 「あなたは話が通じるから」って、私ゃ別にアンタの話はマトモに聞いてないよ。いつも「そんなこと私に言われても困ります」って言ってるじゃん。「あなたから主任に伝えて」って、なんで自分で言わんの。自分が言っても「またこいつがおかしなこと言ってる」としか思われないからでしょう。それは話自体がおかしいからなんで、私が言ったって却下されるのは当たり前なの。 で、会議前に散々私に愚痴言ってたものだから、「会議でちゃんと言ってください」と言ったらだよ、今日の会議じゃ俯いたまま、「その件につきましては、最前からかのように申し上げておりましたけれども、どなたもお聞きにならなかったのでもうそれでよろしいのでしょうと判断しておりましたけれども、改めてお聞きになりたいということでしたら申し上げるのに吝かではありませんが、また申し上げましたところで聞いていただけないのでしたら申し上げてもあまり意味のないことではないかと思いますがブツブツ」と囁いている。 こんなの相手にする人、普通、いますか(-_-;)。
晩飯は博多駅の「杵屋」でウドン。 しげと一緒だとなかなかうどん屋には入れないので、ちょっとストレスが溜まっている。腰のあるうどんを猛然と食う歓びよ。って大袈裟な感じがするが、博多人ならやっぱりうどんを食わないとねえ。
『トリビアの泉』第2回(深夜からだと21回)。 うう、やっぱりつまんない。三木聡さんも唐沢俊一さんも、演出にまでは口出ししてないんだろうけれど、もうちょっとなんとかならんものか。こういう「一行知識」に初めて接する人や、バラエティのヌルイ演出に対して何の批判精神も持ってない連中にはそれなりに面白いのかもしれないけれど、そのうち飽きられるぞ。テレビ曲もどうせワンクールも持てばいいと思ってるんだろうな。 やっぱなあ、ネタがイマイチなのもあるけど、演出がダメなんだよなあ。たいしたことないネタをムリに「引いたり」すると、「へえ」って感じがなくなり、逆に「それがどうした」ってイメージの方が強くなって白けてしまうのである。いやね、ネタを途中まで読んでタメる演出が悪いってんじゃなくて、タメ過ぎてタイミングを完全にはずしてしまってるのがよくないのだな。 タモリがまたつまんない番組につき合わされてる不満をまんまオモテに出してるものだから、番組自体も盛り下がること。この手の番組で、ネタを相対化させるようなキャスティングしちゃダメだって。 ネタの選択についてはあまり言いたくないのだが、「『豚に真珠』はキリストの言葉である」なんてネタ、辞書引きゃ載ってることだ。「豚に真珠」なんて言葉、いちいち辞書引いたりしないって意見もあろうが、その言葉自体、知らん人間の方が世の中にゃゴマンといるのである(ウソだと思うなら、会社の同僚の何人かに聞いてみな)。「誰でも知ってることに実はこんなウラがある」ってネタ、もっと他にあると思うんだけどなあ。 逆に「プリンセステンコーは昔アイドル歌手だった」ってのは番組ターゲットの世代を考えれば充分「へえ」だろう。朝風まりの時代の頃の方が好きだった世代にしてみれば複雑な気持ちはするけれど(~_~;)。
しげに昨日録画した『高橋留美子劇場』を見せるが、全くの無反応。原作のまんまだとやっぱり新たな関心はないかな。
深夜はあやめさんとチャット。男しか集まらずROMさんは恐らく殆どが2ちゃんねら〜であろう(^o^)このサイトにおいては、あやめさんの存在は貴重過ぎるくらいに貴重である。つーか、知り合いの男女比で言ったら、私の場合圧倒的に女性の方が多いのだが、ほとんど寄り付かないものな。私の性格に何か問題があるのか(^_^;)。
マンガ、竹本泉『ある日のツヴァイ』(徳間書店・690円)。 竹本泉さんの猫飼い日記マンガ。だもんで、竹本さんの似顔絵は、いつもの怪獣タイプじゃなくて人間のスタイル。奥さんも出てくるけど、なぜか二人とも額にお面を付けている。これが猫の面っぽいのだが、なんだかよくわからない。そこがこのマンガの一番面白い点か(^o^)。 いやね、竹本さんのマンガは殆ど全部好きなんだけど、これだけは読み辛かったわ。私は別に猫好きってわけじゃないから。でも別に猫が嫌いなのでも、犬のほうが好きなのでもない。 正直な話、もともと飼い猫マンガ(あくまで日記ものとして。猫がキャラとして出るマンガは好きなのが多い)というものをそれほど面白いとは思わないのだ。結局は猫を通した作者の「自分語り」になっていて、「物語を作っている」という自覚がない分、一人よがりぶりがストレートに突出してしまっているのだ。 だから、「飼い主本人の内面がおもしろい」ってとこがないと、特に猫好きでもない身にとってはただひたすらつまんないのである。飼い猫マンガで面白かったのは大島弓子さんのサバシリーズくらいのものだったな。なぜかって、そりゃもちろんサバが擬人化されてたからである。 まあけど、猫飼い日記がこれだけ溢れてるってことは、面白がる人もいるんだろうから、これはもう趣味の違いということで。 でも竹本さんがツヴァイの死を具体的に漫画に描かなかったのにはジンと来たなあ。マンガで死を描くことは自分で描いてみりゃ分るが、どうしたって「死」を軽んじることになる。「死」をパロディとして描くのならそれでも構わないが、本気で「死」の悲しみを描こうと思ったら、そこには相当な「演出力」が必要になるのである。竹本さんはその「演出」も恐らくはヨシとしなかったのだろう。
2002年07月09日(火) 何がこの悪いガイで上がっていますか/『たま先生に訊け!』(倉田真由美)/『ワンピース』24巻(尾田栄一郎)ほか 2001年07月09日(月) アンケート募集/『押井守 in ポーランド』ほか
| 2003年07月08日(火) |
身内だからバカって言うんだよ/『赤ちゃんがいっぱい』(青井夏海)/『20世紀少年』13巻(浦沢直樹)ほか |
アホな話2題。どちらもしげから聞いた話である。 一つ目は歩く無知無教養、穂稀嬢の話題。 「BIGBOY」という『オースティン・パワーズ』で有名になった(^o^)ハンバーグレストランがあるのだが、そこのハンバーグは「手ごねハンバーグ」と言って、要するに「手作り」を売りにしている。 穂稀嬢、これをなんと「手ごめハンバーグ」と聞き違えていた。 もちろんみんなから笑われたのだが、話はここで終わらない。穂稀嬢の次のセリフで、みんなは今度は凍りついた。 「『手ごめ』って何ですか?」 意味も知らないで使っとったんかこいつはあ! ひと昔前ならば、こういうのは「カマトト」と呼ばれたものだったが、今やもう「知っているのに知らんぷり」なんて人間はいない。ただ「無知」なだけだ。しかしなあ、散々○○○○○○○○○○○○○○な穂稀嬢が「手ごめ」って言葉を知らんとはなあ。カタカナのほうが流布してるからなんだろうなあ。
もう一つは愛上嬢のこと。 と言ってもこれは具体的に書いちゃうと相当プライバシーに関わってしまうことなのでち詳しくは書けないのだが、結論だけ書くと、彼女、ある事情で仕事を辞めてしまったのである。 そこはしげも働いてる店で、しげの紹介で勤めることになったのだから、急に辞めるということになれば、シフトにも支障を来たしちゃうわけだし、しげだって肩身の狭い思いをすることになるのである。常識的な感覚の持ち主ならば、しげに迷惑掛けちゃったことを申し訳ない、とか考えてもおかしくないはずだ。ところがなんつーか、辞めるにあたって彼女、しげにはお詫びのヒトコトもなかったのだね。 他人に頭を下げることをしないしげだから、自分が謝られないのも仕方がないと言えば仕方がないのだが、だからと言って、愛上嬢が謝罪しない言い訳にはならない。 愛上嬢も、これまでこんなふうに人付き合いをテキトーにしてきたことで縁切れちゃった友達とかも結構いるだろう。いい加減で少しは自分のやってきたこと自覚したらどうか。 つーかチャットにも書いたが再度ここで声を大にして言うぞ。 ふざけんな馬鹿野郎。
青井夏海『赤ちゃんがいっぱい』(創元推理文庫・672円)。 『赤ちゃんをさがせ』に続く「助産婦探偵シリーズ」第2弾で初の長編。短編型の作家は長編が苦手、という傾向もなくはないが、殺人も起こらないし、犯人の仕掛けた鬼面人を驚かすような大トリックもないのに長編一つ持たせる作劇技術はさすがである。なんといっても文章が上手いんだよねえ。半人前の助産婦、亀山陽奈の一人称で書かれた文体、実に歯切れがいい。
世間の不況の嵐は助産婦の世界にも吹き荒れる。陽奈はバイト先の助産院をクビになる。慌てて潜りこんだ次の勤め先はアヤシイ「胎内育児」を標榜する「ハローベイビー研究所」。クリーニングの引換券やくずかごなど、ヘンなものばかりが盗まれる事件。そして起きる赤ちゃん置き去り事件。けれど、所長たちにはその事件を闇に葬りたい秘密があるらしい。困ったときの先輩頼み、陽奈は明楽先生のもとに駆けつけるが……。
謎の赤ちゃんの正体は見当がついた。けど「秘密」の真相についてはちょっとびっくり。若干リアリティに欠けるなあと思ったけれど、実は「現実」にもそういう事件はあったのよ。事実は小説よりも奇なりってのをもう一回小説にもちこんだ形か。これ以上はトリックをバラすことになるので言えません(^_^;)。 前作では頼りなかった陽奈ちゃんも、「経験」を積んで、聡子先輩に説教するまでに成長する。けれど更に続編が書かれたら、またおっちょこちょいで先走りなドジッ子ぶりを見せてくれることだろう。続編が楽しみなミステリって、久しぶりである。 テレビ版は結局1度も見られなかったけど、出来はどんなんだったのかな。
マンガ、浦沢直樹『本格科学冒険漫画 20世紀少年』13巻(小学館/スピリッツコミックス・530円)。 「トモダチ」はやっぱり前巻で死んだ「彼」だったってことですか。もっとも「彼」は必ずしも物語の牽引者ではなくて、物語は更に「継承者」の手に委ねられたので、あと数巻は続きそうだけど。でも角書きにある「本格冒険科学漫画」って味わいは薄れて、すっかり『モンスター』っぽくなっちゃったのは残念。もっと明朗快活な方向に行ってくれると思ってたんだけど。浦沢さん自身もそうするつもりが、描いてるうちに「地」が出ちゃったんじゃないか。こうなったら、やっぱり「ケンヂ」に復活してもらうしか手はないと思うがどうかなあ。 今巻の見所は、なんといってもキョンキョンの風呂上がりシーンであろう(^o^)。実写化してほしいなあ、キョンキョン(ドラマそのものじゃないんかい)。
マンガ、細野不二彦『ギャラリーフェイク』28巻(小学館/スピリッツコミックス・530円)。 オビによると累計900万部突破だって。めでたいめでたい。 『オリエント急行オークション』が前後編でボリュームがあるが、まあそんなに面白くはない(^_^;)。オリエント急行には、作中にも描いてあるが車輌が四散していた時期に、京都のホテルに買い取られてたときに泊まったことがあるんで懐かしくはあったが。言っちゃなんだが所詮は寝台車なんで、ベッドは狭いし寝心地はそれほどよくないぞ。壁飾りはキレイだったけど。 サラが飛行機事故に巻き込まれて行方不明になってしまう『生きているオフィーリア』は、定番なドラマだけに作者の作劇技術が問われる。こういうマンガこそ前後編でじっくり描かないといけないんじゃないか。コマわりもセリフも陳腐だし、わざわざフジタの「娘」エリザベータまで再登場させたのに、何の役回りも振っていない。細野さんは実はマンガ自体はあまり上手くなくて、「ネタ勝負」なところがあるので、一作と一作の間をもう少し開けて、ネタを熟成させてから描いてもいいと思うのだが。
マンガ、細野不二彦『ダブル・フェイス』2巻(小学館/ビッグコミックス・530円)。 普段は消費者金融(つまりはサラ金ですな)「月影ファイナンス」のダメ会社員(でも手品好きってとこ、多羅尾伴内だなあ)、けれど手酷い借金に泣かされてる庶民を見ると、その加害者に「人生の債権」を取りたてる「ウラの仕事人」と化す男・春居筆美。 これも面白いと言えば面白いんだけれど、やはりドラマ展開が2巻で早くも定番化してるところが気になる。前に描いてた『ジャッジ』の焼き直しじゃん、と言われればそれまでだし。あっちはオカルトだったけど、こっちは結局「カネのチカラ」で悪人倒すってのがなんともね。ギャグなら笑えるけど、どうも主役がいけすかんだけになってる気がするよ。 春居の正体を訝む女の子が出てくるあたりもな〜、もうちょっと工夫できんかな〜という感じでした。
2002年07月08日(月) えすぽわ〜る、とれびや〜ん/『ブラックジャックによろしく』1・2巻(佐藤秀峰)/『アグネス仮面』2巻(ヒラマツ・ミノル)ほか 2001年07月08日(日) 夫婦で暑気あたり?/『昔、火星のあった場所』(北野勇作)ほか
| 2003年07月07日(月) |
今年も涙の雨が降る/アニメ『高橋留美子劇場・Pの悲劇』/『探偵学園Q』11巻(天樹征丸・さとうふみや) |
七夕だけど曇天。でもってまた午後から雨である。 今年も灑涙雨(さいるいう)なんだねえ。 以前も書いたが、七夕に雨が降ると、牽牛と織女の二人は天の川が氾濫して会えなくなってしまう。だもんで、悲しみのあまり、涙を流す。で、七夕に降る雨のことをこう呼ぶのである。 ちょっと恥晒しな話であるが、昔、私はこの「灑涙雨」って字をうっかり「催涙雨」と書いてて、その間違いに全く気がつかなかった。これは「洒涙雨」とも書くのだけれど、「灑」も「洒」も「そそぐ」と読むのである。『奥の細道』にも「前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ」って文があったね。意味は「涙を流す」ということ。これが「催涙雨」だと、「涙をもよおす」になってしまうんだよねえ(^_^;)。オシッコじゃないってば。ああ、恥ずかしい。
牽牛と織女が天の川を渡るときには、「鵲(かささぎ)」という鳥が、群れを成して二人のために橋を作るのだそうな。 この「鵲」(別名カチガラス)という鳥はカラス科なんですね。腹の部分だけ白くて、全体は尾の先まで黒い。白い天の川に黒い橋が架かることになるわけで、ホントにかかったら白と黒のコントラストがさぞ美しいことでしょうねえ……って、夜だから見えないんじゃないか(^o^)。古代中国人は多分、天の川のところどころにあるオビのような「隙間」を「鵲の橋」に見立てたんでしょう。 昨日見た『猫の恩返し』のカラスの群れのシーン、ここらあたりにアイデアのルーツがあったりして(『長靴をはいた猫』はハトだったしねえ)。
この鵲の架ける橋は、和歌にも詠まれている。 一番有名なのは、百人一首にも採られている中納言大伴家持の歌だろう。
かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける (宮中の御階は、天の川に鵲が渡した橋みたいに黒いのやけど、そこに霜が白う降りてごっつキレイやってん、つい見とれてるうちに夜が更けてしもうたがな)
この「かささぎの渡せる橋におく霜」を「天上に白く輝く天の川の星々そのもの」、と解釈する説があるけれど、さっきも書いたとおり鵲はほぼ黒い鳥だから、そこに星が輝いてるって情景がどうもピンと来ないんだなあ。それとも腹の白い部分を「星」に見立てたのか。
家持の歌自体は非常に美しいのだけれど、私が好きな「鵲」の歌は、実はこの歌をパロッた、壬生忠岑による本歌取りの方。こっちはあまり有名じゃないんだけどね。 出典は『大和物語』125段。 忠岑は泉大将・藤原定国に随身として仕えていた。ある夜定国は、酒宴の帰りに酔っぱらった勢いで、左大臣藤原時平の屋敷を真夜中だというのにいきなり訪ねる。「オラオラオラ、開けんかい! 泉の大将のお出ましや! ……ひっく、うぃ〜」「な、な、なんや一体!?」 当然、時平はビックラこいて、「どこの宴会のついでに寄ったんや、ワレ」と大激怒。そこへ壬生忠岑がヒョイと出てきて、「まあまあまあ」となだめる。 「わしの歌でも聞いて、機嫌なおしてくれまへんかなあ」
かささぎの渡せる橋の霜の上を夜半に踏み分けことさらにこそ (天の川に架かる鵲の橋かて、一年に一度わざわざ架けますのんやで、こないな寒い夜に、霜踏みながら来たのに、ついでっちゅうことがありますかいな)
時平はプッと吹き出して、すっかり機嫌を直し、夜明けまで酒宴を張ったとか。この歌、定国が牽牛だとしたら、時平はなんと織女にたとえられたわけで、こりゃ笑うのもわかるよねえ。昔のことだからホントにそんな関係だったりして(^o^)。しかも詠んだ忠岑自身は自分を「仲人」役の鵲になぞらえてるんだから、結局は自画自讃。チャッカリしてます。
それにしてもここ数年、七月七日がハレだった時ってあまり記憶にないんだが、もしかして牽牛と織女さん、もう何年もセックスレスなんだろうか(^o^)。 牽牛くん、ほんのちょっとでも晴れ間を見つけたら急いで天の川渡ってコトに及ばないと、「もっとラテンな結婚がしたかった」って、織女に愛想つかされちゃうぞ♪
職場には毎年なぜか笹が飾られる。 子供っぽいけど、こういう趣向でもって、職場の雰囲気を和ませようって考えてるのかもね。誰がだ。 私も毎年願い事の札を掛けてるんだが、ナカミはいつも同じ。 「妻が家事をしてくれるようになりますよう」 願い事がかなったためしなんて全くないから、神様っていないなあって思いますね、つくづく。
新番組アニメを2本続けて見る。 1本目は、『HAPPY☆LESSON ADVANCE』第1話「ピカピカ☆制服まつり」。 ……サブタイトル書くだけで脱力しちゃうなあ。面白いのか、これ? 美少女シミュレーションゲームが元になってるらしいが、もう企画自体が頭打ちになってないかな。「自分の好みの女の子をゲットする」ってとこまでは理解できなくはないが(それにしたところで、あまりにも「志が低い」ので私は美少女系のゲームは殆どやらなくなってしまったのである。『センチメンタルグラフィティ』と『TO HEART』で止まっちゃいました)、相手がみんな「女教師」って、病んでないか。そのくせ、キャラが全然女教師っぽくないのもよくわからない。 でも長々と感想を書く気にもなれないので、このへんでやめときます。ケイエイエスのアニメって全部こんなんばっか。
2本目、『高橋留美子劇場』は『Pの悲劇』。 CMコピーでは「全部が傑作!」とか言ってるけど、「誉め殺し」はよくないですね。高橋留美子も小池一夫の悪影響で、キャラを作りこみすぎる傾向があるんだけど。いや、「一見動物嫌い」の筧さんのことではないです。 仕方ないとは言えるが、高橋さんは男がうまく描けない。『Pの悲劇』も、主人公の裕子の夫がいきなり「商取引相手からペンギンを預かってくる」ヤツだってのにムリがあるんだよね。つーかこんな設定自体、古色蒼然としてると思うけど。もちろんそういう設定がないとこのドラマが成り立たないのは分るけど、おかげでこのダンナさん、相当オチャラケでいい加減な人間に見えてしまうぞ。なんでこんなのと結婚したんだ裕子。 作画レベル、演出はまあまあ。裕子が宇宙を感じるシーンはちと長過ぎたけどね。筧さんの林原めぐみは上手いけど、こういう冷たいおばさんの役がまわってくるということは、ベテランになったということでもあるけれど、ヒロインを後進に譲り渡しつつあるってことでもあるんで、ちょっと寂しい。林原さんが演じてきた「元気少女」が80年代の産物だとすれば、もうその時代は消えちゃったってことなのかな。
マンガ、天樹征丸原作・さとうふみや漫画『探偵学園Q』11巻(講談社/少年マガジンコミックス・440円)。 もうトリックがどうの、なんて文句は言いません。 「前代未聞の密室トリック」とかハッタリかましてるけど、フタを開けてみたら「抱腹絶倒」「笑止千万」「羊頭狗肉」「軽薄短小」なトリックに決まってるから。 だもんで、これから先はキャラとか設定についての話だけに限定します。 今巻からの新キャラは福井県警の嶺刑事。安手のミステリにありがちな「主人公の探偵に敵対するヘボ刑事(だけど一応2枚目)って役回り。ミステリの歴史って百年以上も続いてるんだから、もういい加減でレストレード警部の呪縛から離れてもいいと思うんだが、相変わらずこんな薄っぺらなキャラ作るんだよねえ。人間的に深みのあるキャラクターを作ろうってアタマが天樹さんにはないのだろうか。いや、ないってことはもうわかりきっちゃいるんだけど。 まあ、本物の刑事にも高慢なだけのバカはいるのかもしれないけれど、フィクションの刑事は本物以上にリアルじゃないと、その存在感が簡単に崩れてしまうのである。いくらDDSに反感を抱いてるからって、死体の第一発見者で、これから尋問しようって相手に対して、いきなり「目障りだ」なんて反感買うようなこと刑事が言うかい。特に子供相手なんだから、ヘタすりゃ大問題になるぞ。 こういうティテールのいい加減さもバカミスにはやたら多い。しかしこのマンガのファンって、何が面白くて読んでるんだろう。わからん。
2002年07月07日(日) 叶わぬ願い/DVD『風のように雲のように』/『映画欠席裁判』(町山智浩&柳下毅一郎)ほか 2001年07月07日(土) オタクな××話/『こんな料理に男はまいる。』(大竹まこと)ほか
| 2003年07月06日(日) |
日曜の昼は出たくないね/DVD『悪魔くん』vol.1/『ワイド版 風雲児たち』14巻(みなもと太郎)ほか |
とりあえず一通り朝の特撮、アニメは見てますけど、感想は『アトム』だけにしときます(^_^;)。 『鉄腕アトム』第13話「ウラン誕生」。 ウランの衣装デザイン、スカートの下がタイツみたいになってるのは、もしかしたらパンチラがアメリカじゃアウトってことなんだろうか。 妹の誕生に大喜びするアトム。けれどウランはとんでもないお転婆。「動物の気持ちがわかる」という能力をお兄ちゃんに信じてもらえなかった彼女は、自分の見た滑空する巨大な翼竜型ロボットの実在を確かめるため、一人で秘密基地に忍び込むが、そこは反ロボット主義者のアジトだった。 カタリの再登場エピソードでもあるのだけれど、さて、これも話としては原作にはないオリジナル編なのかな。あまりにも単純過ぎる話で、物語としては今一つ面白味に欠ける。 原作でのウラン誕生のエピソードは、全くこんな話ではない。『少年』掲載時には、『透明巨人』のラストでお茶の水博士が『ミドロが沼』で死んだコバルトを再生させて、一緒にウランも作ってアトムにプレゼントしているのである。 単行本ではコバルトは『ミドロが沼』で死ななくなった形に改稿されたので、そのアオリをくらって、ウラン誕生のエピソードもカットされてしまった。だから現在、公式には『ウラン誕生』という原作はない(^o^)。 一応、今そういうタイトルで流布している作品があるにはあるのだが、それは、雑誌掲載時には『1/2人間』というタイトルが付いていた、ウラン誕生「後」のエピソードなんである。 こうして見ると、手塚さん、ウランが嫌いだったのかねえ。
昨日はずっと眼帯で過ごしてたので、今日は一日ぐたっとしてるつもりだったけど、思い立って夕方から博多駅の紀伊國屋書店まで。 しげが『マイガール』のDVDがほしいと言ってたので(もちろんダン・エイクロイドが出演しているからである)、1と2を買いに行ったのである。 ついでに、ついに決意して『ルパン三世劇場版ボックス』を予約注文。解説ブックレットが充実してりゃいいな。店員さん、私が名前を告げなかったのに、サラサラと伝票を切る。しかも誤字なし(私の本名は珍しいのでよく書き間違えられるのである)。感動していいのかどうか(^_^;)。
3号まで出てたインフォレストの『トラマガ』、どうやら実質的な休刊になってしまったらしい。発行予定は「未定」だって。 『ガンバ』のマンガ版、『ジャイアント・ロボ』の誕生編と、期待のマンガを連載し始めたばかりだったのに、やっぱり売れなかったのかなあ。まあ、あと読めるマンガって『楽勝! ハイパードール』くらいしかなかったから仕方なかったのかもしれないけれど、もう少し「売り」を作っといてほしかったよなあ。いくらなんでも3号は短か過ぎるよ。どっか、連載を引きとってくれる奇特なマンガ雑誌はないか。『ウルトラジャンプ』とか(ムリだって)。
DVD『悪魔くん』vol.1。 後のアニメ版ではなく、実写モノクロの前半13話を収録。私にとっての『悪魔くん』はなんと言ってもこのシリーズである。潮健児さんも地獄大使じゃなくてメフィストなんだよね。これはもう生まれた時代がそうなんだから仕方がない。 とりあえず、第1話『妖怪ガンマー』と第2話『化烏』、間をすっ飛ばして、兄弟メフィスト共演の第10話『シバの大魔神』を見る。 モノクロ作品で再放送も滅多になかったから、見るのはホントに30年ぶりくらいじゃないか。ずっと「妖怪ガンマー」は「ガンマー」が本名なのか「百目」が本名なのか(原作には「百目」としか出てこない)気になってたのだが、「昔の人が「百目」と呼んでいた妖怪の正体が、実は「ガンマー」だったってことなんだな。ガンマーが女の子を襲うシーンなんか、明らかにボリス・カーロフの『フランケンシュタイン』をモチーフにしているし、やっぱり原典にはきちんと当たるべきだなあと実感。 兄メフィストの本名がメールセデス・ニチ・メフィスト、弟の本名がシラーサルタン・モメット・メフィストと違ってるのも今回確認したが、兄が弟の名前を忘れているのがオカシイ(^o^)。この回の脚本は伊上勝さんだから、ネーミングも恐らく伊上さんだろう。 しかし、40年近く前の作品だから仕方ないんだけれど、出演者の殆どが故人というのはさびしい。金子光伸(悪魔くん)、メフィスト兄(吉田義夫)、メフィスト弟(潮健児)、ファウスト博士(浜村純)、みなさん鬼籍に入られてしまった。その当時の思い出を語れる人も少なくなってしまった。 せめて10年前に、ムック本とか作ってほしかったなあ。
DVD『猫の恩返し&ギブリーズ episode2』。 見返してみたけど、やっぱよくできてるわ。結局、評論家連がみんなこれについてトンチンカンなことしか言えなかったのは、「少女マンガ」がどんなものか全くわかんなかったからなんだろうな。「底が浅い」とかなんとか、少女マンガに底なんてもともとないわい。でもやっぱり池脇千鶴のやたら裏返るようなセリフ回しはちょっと気になった。
マンガ、みなもと太郎『ワイド版 風雲児たち』14巻(リイド社・680円)。 シーボルト事件から大塩平八郎の乱まで。年代で言えば1826年くらいから1838年くらいまでだけど、ワイド版になっても1巻で12年しか経ってない。そりゃ幕末まではよう行かんわな(^_^;)。「幕末」ってのは一応、黒船来航の1853年からってことになってるから、なんだあと15年じゃん、って感じだけど、この間にまたいろいろと事件が起きまくるんだよね。高野長英と渡辺崋山だけで何巻費やすことか(^o^)。まあ、それについては次巻のお楽しみ。 史実の大塩平八郎という人は、史料を読む限りではマジメが行き過ぎちゃったような人で、あまり私とはソリが合わんような気がするのだが、戦前までは理想主義者・革命思想者の典型として憧憬の的だったようだ。 映像化の歴史を見ても、目玉の松っちゃんこと尾上松之助が『侠骨男児 大塩平八郎』(明治43年)と『大塩平八郎』(大正3年)と二度に渡って主演しているし、片岡千恵蔵も『風雲天馬草紙 第一・第二篇』(昭和5年)で大塩に扮している。 これが戦後になると、歴史もののエピソードでチラッと出演することはあっても、大塩一本立ちの映像化となると、嵐寛寿郎主演の『風雲天満動乱』『続風雲天満動乱』(昭和32年)くらいしか見当たらない。 まあ『風雲児たち』も別に大塩一人にそんなにページを割いているとは言えないのだが、歴史の教科書にちょろっと出てきた「知行合一」思想をきちんと紹介してくれているのはエライなあと思うのである。 現代日本人の思想体系はもういろんなものがゴタマゼになっててワヤクチャになっているのだが、それでも未だに消えずに残っていてその根幹を成していると言ってもよいのが安藤昌益の「自然生」と大塩の(とホントは限定はできないんだけどね。陽明学の基本思想だから)「知行合一」だと思うのである。まあやたらと「労働の純粋性」を訴えるやつとか、「不言実行」を理想的に語るやつっているでしょ。ウチのオヤジだ(^_^;)。 好き嫌いは別として、「こんな人が我々日本人の思想体系を作っていったんだなあ」ということ、これが今一番簡単に読めるのが『風雲児たち』シリーズだと思う。こういうマンガがもっと増えりゃいいのにねえ。
マンガ、倉田真由美『だめんず・うぉ〜か〜』5巻(扶桑社/SPA!COMICS・900円)。 ちょっと気になったんだが、45ページに「自分の女に『特殊な好み』を押しつける男」ってのが出て来てるけど、ここで描かれてるヘアスタイル&メイクって、もしかして『謎の円盤UFO』とか『怪獣大戦争』の宇宙人女のイメージじゃなかろうか。いやまあ、ゲイ・エリスや波川女史が美しいことは認めるが、ああいうスタイルの人が側にいたらフツーはちょっとコワイと思うんすけど。 自分の彼女にコスプレさせたがるという感覚が私にはイマイチ湧かないのだが、しげになんかさせるとしても「キグルミ」しか思い付かんのである。セーラー服とかナース姿とか、まずもって似合わんし、ましてやプラグスーツなんぞ着られた日にゃあ、性欲よりも殺意を覚えるのは間違いない。じゃあ、ネコとかピカチュウになったしげには欲情するかというとまあそれも絶対にないのである。……コスプレさせる意味、ないよな。 ほかに特に感想はありません(^o^)。
2002年07月06日(土) 理想の正論より現実の暴論/映画『スターウォーズ エピソード2 クローンの攻撃』 2001年07月06日(金) ニュースな一日/DVD『遊撃戦』第一話ほか
| 2003年07月05日(土) |
同情でもいいから少しはくれ(T∇T)/DVD『山村浩二作品集』/『沈夫人の料理人』1巻(深巳琳子)ほか |
朝っぱらと言うか、真夜中にいきなりしげ、鴉丸穣を連れて帰宅。 私は当然寝こいていたのだが、折悪しく素っ裸であった。 いや、風呂あがりでそのまま寝ちゃったんでそういう状態だったのである。慌てて居間から寝室に逃げ込んだのでナニを見られはせなんだが。 鴉丸嬢、「イイ男なら『きゃあ、セクハラ♪』ですむけど、中年オヤジじゃただの痴漢だよねー」と身もフタもないことを言う。別にナニも見せとらんだろうが(-_-;)。 「男だって、若い女の裸と、中年デブ女の裸とだったら、若い方がいいでしょ?」 そりゃそうかもしれんが、だから私ゃワザと見せてるわけじゃないだろうが。セクハラも痴漢もしとらんぞ。
しげがなんでまたいきなり予告もなく鴉丸嬢を連れてきたかっていうと、部屋の掃除のためなのであった。実際、部屋の中にゴミ袋が十数個溜まっていたのである。 日頃から自分で片付けておけばいいものを、何かと言い訳ばかりしてサボっているからこんなふうに人に頼ることになるのである。一体何人の犠牲者を巻き込めば気がすむのか。たいがいでやめろと言い聞かせていたのにまた性懲りもなく同じ失敗を繰り返しているのである。 以前、結局片付けを手伝わされたときに、「もう今後は一切、掃除は手伝わないぞ」と言明してあるので、ひと片付けできるまでは隣室で待機する。つーか、裸なんで出ていけないのだが(-_-;)。 しげに「着替え持ってこいよ!」と言っても無視される。明らかなイヤガラセで、むかっ腹が立つ。鴉丸嬢が浴衣を見つけてきて寝室に投げこんでくれたので、ようやく着替えられて居間に出られるが、睡眠中にいきなり起こされたので、体調も芳しくない。どっちにしろ片付けを手伝える状況ではなく、しげと鴉丸嬢がゴミ袋をえっちらおっちら運んでいくのを横目で見ながらウツラウツラ。
ようやく片付けが終わったあと、さて、鴉丸嬢を車で送って行こうか、という段になって、今度はしげが落ちる。あまり寝てないのかもしれないが、おかげで鴉丸嬢、帰るに帰れない。仕方がないので、しげが起きるまで、鴉丸嬢とホームページの原稿の話などして時間稼ぎ。 鴉丸嬢がクトゥルーのファンだったとはつい先日まで知らなかった。もっとも彼女も『退魔針』でその存在を知った、ということだから、ラブクラフトのこともあまり知らないのである。 だもんで、ついまた悪いクセで要らぬウンチクなどを披露したりする。 「小説は読みにくいものもあるから、映像から入った方がいいかもしれないけど、クトゥルーの映画化って、ロクなのがなくってねえ、『ダンウィッチの怪』なんて怪物の造詣がダサイし、『ネクロノミコン』もねえ……。『インスマウスの影』なんて、主演が佐野史郎だし」 こんな調子である。なんか、思い返すだに恥ずかしいな。 いろいろ説明するより原典にあたってもらった方がいいよな、どこかに国書刊行会の『真・ク・リトル・リトル神話体系』が転がってたはずだがと探してみるが見つからず、『幻想文学』のバックナンバーも書庫の奥に埋まっていて取り出せない。ようやく見つけたのが創元推理文庫の『ラブクラフト全集』の5・6巻と、矢野健太郎の『邪神伝説シリーズ』(^_^;)であった。これだけでも少しは面白いかと思ってお貸しする(文庫は寄贈した)。いや、ほかにも某K女史の『魔○○○伝』というのもあったんだが、クトゥルーのファンになってもらうのにこれほど不適当なものもあるまい(^o^)。 とりあえず5巻には『死体蘇生者ハーバート・ウェスト』や『ダニッチの怪』などが収録されてるから、つまんないということはないと思う。ホントは『インスマウス』や『クトゥルフの呼び声』も読んでほしかったんだが。
駄弁っているうちに、なぜか鴉丸嬢と「政治」の話になる。 といっても、鴉丸嬢の疑問は「世の中のオトナって、どうして悪いことばかりするの?」という子供っぽいものである。 ハタチを過ぎた女性がこういうことを言い出すこと自体、どうかという批判は簡単なんだが、人にはそれぞれ事情というものがある。 単純な二項対立の中に自分を置いて自らを「善人」に規定する意識は、私の一番忌み嫌うところであるが、それなくしては自らの行動を規定しえない人もいることも事実ではあるのだ。彼女のプライバシーをここで明かすことはしないが、彼女がともすれば極めてステロタイプな「正義」にすがる傾向があるのは仕方のない面はある、ということなのである。 「政治家がおカネ儲けばかり考えてるのっておかしいじゃない。政治家って、みんなのためにいるんだから、おカネなんて要らないって人がなるべきじゃないの?」 「そんなやついねーよ」 笑って否定してしまったが、鴉丸嬢のような理想主義者には、世の中というものはいつの時代でも生きにくいものだ。いや、彼女自身もそれには気づいていて、わざと悪人になろうとしている面もないではないのだが、どうしてもそうなりきれないのは、「悪を許す」心情が、彼女の場合、ヘタをすれば自我崩壊に繋がりかねない事情があるからだ。 彼女のような子にはホントに幸せになってほしいんだけどなあ、難しいよなあ、其ノ他君がもうちょっとしっかりしてるといいんだけどなあ。
2時間ほどしてしげが目覚めるが、起きるなり「腹が減った」。 自分の腹具合のことより、鴉丸嬢を待たせたことの方を悪いと思わんかな、こいつは。 鴉丸嬢を送って行くときに、「アンタも食事する?」と聞く。 ああ、しげは忘れているのだ。今日は私の通院の日だということを。当然、尿検査、血液検査があるのだが、そのためには朝メシ抜きで行かなきゃならないのだ。夫の体調よりも自分の食欲の方が優先するやつだとはわかっちゃいたけど、どうにもやりきれない。 文句を言ってやろうかとも思ったが、もしかしてギリギリで気がつくかもしれない、と一縷の期待をかけて、一緒に付いていく。 もちろん、しげにそんな期待をするほうがバカなので、鴉丸嬢を送り届けたあと、ロイヤルホストに入っても、しげは脳天気に「何食べる?」と聞くのであった。 「食べれるわけないじゃん。今日検査だし。先週から言っといたろ?」 「……じゃあ、店出る?」 またなんでそんな言い方をするのか。ここで一言「ごめん」と言えれば、コトはすむのだ。会話するのもイヤになって、あとは無言。
日が昇った頃に、内科と眼科をハシゴ。イヤなハシゴである。 病院への行きがけはしげに送ってもらったのだが、そのまましげは練習に直行するので、帰りは一人で帰るしかない。となると、両目とも点眼してしまっては前が見えなくなってしまう。だもんで、今日の検査は右目だけにしてもらうつもり。 本当は左目の状況も確認してもらおうかと思っていたのだが、しげはやっぱり自分のことだけで頭がいっぱい、私の状況なんて何も考えちゃいない。 こちらもいちいちしげに期待するのはムダだとわかっちゃいるので、今日は右目でこの次は左目と交代で見てもらうしかない。 しげにそのことを告げたら、またヒステリーを起こして、「練習休んで付き添えばいいやろ!」とか言い出す。こういうのが一番迷惑なんである。血の巡りが悪くて人のコトを気遣えないのは仕方がないとしても、そのことを指摘されて逆ギレするのは最大級のバカである。こうなると「お前には何も期待しないよ」としか言えないし、顔も見たくなくなる。 病院の近くの信号で停車した時に、無言で勝手に降りる。案の定、しげはそのまま練習に行く。だったら、最初から付き添ってやろう、なんてことを口にするものではない。腹が立つよりも、もうすっかり気が抜けてしまっている。
内科での検査結果は相変わらず悪い。 体重が落ちてきているおかげか、血糖値自体は少し下がっているのだが、目の状況を考えると、一気に落とし過ぎてもよくないのだそうだ。薬の効果も今一つないようならば、次回から量を増やそうかと言われる。イヤとは言えんがホントにクスリづけの生活になりそうなんだなあ。 眼科の方も、毎週通院して瞳孔開かされて光を当てられまくるのは結構苦痛なのだが、明日、目がどうなるかわからんのだからこれも仕方がない。 相変わらず右眼に紐はぶら下がってるままだし、何だか視界の下の方に影みたいなものが見えるときもある。主治医の話によればこの影がだんだんとせり上がってくる感じになるそうだが、さて、その進行をどれだけ食いとめられるものなのか。 「とりあえず進行は止まっているようですね」 と医者は言うのだが、その舌先で「でももう少しレーザー治療をしておきましょう」と言う。進行が止まってるならどうして再治療の必要があるのか。 で、また何発打たれるのかなあ、と漫然と数えてたら336発である。先週より百発多いんだけど、どうしてですか。いや、実際に聞いたりできないけど。 しげのこともあるので、終始沈んだ調子で治療を受けていたのだが、医者はどうもそれを勘違いしたようだ。なにしろ、少しは痛みを感じてたはずなのに、私はずっと無言だったのである。特に聞きもしなかったのに、「先週の続きですから、改めてレーザーの治療費は取りません」と言う。 いや、オカネの心配をして沈んでたんじゃないんですけど(-_-;)。 ただ、もし請求されても唯々諾々と払ってた可能性はあるので、そう言ってもらえて安心はした。 実際は治療後右眼の奥がズキズキ痛むので、眼帯を受付でもらう。これも無料サービスなんだけど、これくらいのことでもありがたいなあ、と感じてしまうのは、それだけしげの愛情のウスさに、心が疲れてしまっているからであろう。
そのまま帰宅しようかとも思ったが、先週天神に行き損なっていたので、眼帯を着けたまま、ベスト電機LIMBや福家書店、ジュンク堂を回る。たまに「この人なに?」という感じで眼を逸らす人がいるが、眼帯くらいで不審人物扱いされるのはいやなものである。もっとも、素でもそんな眼で見られることがあるのはもっと業腹なんだが(~_~;)。 福家書店のブックカバー、ずっと手塚治虫シリーズなのだが、『ブラック・ジャック』『鉄腕アトム』『リボンの騎士』に続いて、新しいのは『ぼくの孫悟空』である。黄色い地にアニメキャラの孫悟空の顔が線画でどでかく載っている。映画公開に合わせてるためだろうが、これは原作の絵柄でやってほしかったな。裏表紙が映画のポスターそのまんまなのもちょっとジャマだけど、全体的なセンスは悪くない。もうマンガの方は持ってるんだけど、このカバーをつけて全集版で揃えたいって気にはなる。映画自体は上映繰上げとかで、宣伝もロクにされてないようだけど、ヒットしますかね。 食事もついでにしようかと、天神コアの食堂街に行ってみたら、こないだしげと食事したランチバイキングの店が潰れて普通のレストランに代わっている。って、開店してそんなに時間経ってなかったと思うけど。これだから、「いつかこの店に行こう」じゃなくて、思い立ったときに行っといた方がいいのである。
夕方、父から電話。 なにごとかと思ったら、「お前、網膜剥離はどげんや?(=どうなんだ)」 実は父には眼のことは全く話していなかった。話したところで何がどうなるものでもないし、心配をかけるだけだからである。一瞬、医者が父に伝えたのかなあ、と思って(父も同じくそこに通院しているのである)聞いた。 「なんで知っとうん?」 「しげさんから聞いたったい」 また、しげか(-_-;)。 そう言えば、こないだ、しげから「父ちゃんには目のこと言わんと?」と聞かれた時に、「言わんよ」とだけ答えていたのだが、その時ハッキリと「親父には眼のことは話すなよ」と口止めしておくべきだったか。 私が悪いのかもしれないが、普通、こんなことは言わなくてもわかってくれそうなものである。……という常識が通用しないのがしげなんだよなあ。いったいあれがどこまで馬鹿なのか、もうとても私の想像力の追い付くところではない。 しげが私のことを心配して、父に眼のことを話したんだろう、などと好意的に考えるのは間違いである。アレにそんな気遣いをする能力はない。全くない。状況を面白がって言ったのに決まっているのだ。 父はともかく「何で言わんやったとや」と責めたてるので、弁明にこれ努める。 「別に隠しとらんて。治療が一応すんでから言おうと思っとったんよ。治れば別に何ちゃないやん。レーザーで剥離抑えてもらったけん、もう治っとう」 「ああ、レーザーか、そりゃよかったたい」 なんだかレーザーが万能であるように父は思っているようである。それで納得してくれるなら、特に問題はない。
帰宅したしげに、「なんでオヤジに眼のこと話したとや?」と聞いたら、「だって話題がないし」と答えやがった。 なんかもう言葉もない。 しげを嫌ってるわけではないから、何か聞かれりゃ答えはするけど、私の方から積極的に会話する気が失せていくのはどうしようもないことである。
次回の『ゴジラ』のヒロインが吉岡美穂になったとか。 グラビアで見かける程度で、動いてる彼女は『逮捕しちゃうぞ』くらいしか見てない。だもんでどの程度演技ができる人なのかよくは分らないけど、『ゴジラ』シリーズはもう私の中では「全く期待しないで見にいったら少しは楽しめる」レベルにまで下落はてるから、誰がヒロインやろうとどうでもいいや。
DVD『山村浩二作品集』。 予約してたのに、LIMB、取り置きを忘れてやんの。現物が店頭にまだあったからいいけど。これが多いから、だんだん紀伊國屋の方ばかり利用するようになるのだ、しっかりしろよ。 ようやくアヌシーグランプリの『頭山』(英題はどんなかなあ、と思っていたがまんま「Mt.HEAD」であった)を見ることができたわけだが、「落語の映像化」という点ではこりゃどうかな、という面もないわけではない。 もともと「映像化できない語り」のナンセンス性にこそあの落語の魅力はあるのである。最初あの落語を聞いた時には私は笑うより先に呆気に取られた。「頭の上の花見」ってどうやって? オチなんて、どんな絵か浮かばねーよ、普通。仮に私が笑ったとしても、それは脳を揺さぶられた結果の狂気的な笑いになっていたことだろう。 しかも語りは三味線の国本武春。落語の語りとは似て非なるもの。「落語」を期待すれば多分肩透かしを食らう人も出てくるだろう。 立川談志あたりは「なんだあんなもん」と言うんじゃないかな。『幕末太陽傅』も「落語じゃねえ」と言い切った人だし。そう言えば立川志らくは『キネ旬』で微妙な誉め方してたなあ。「すばらしいけど、ほかにも映像化したい落語はいっぱいある」とかなんとか。 けれど「アニメーション作品」として見た場合、これはやはり第一級の作品である。花見客がミニサイズになっちゃう絵は原作を知ってると陳腐だが、初めてこの話を見る観客にはそれだけで充分ショッキングだろうし、オチの映像化はまさしく「映画」になっている。ああ、アレを流用したか、と映画ファンならすぐに見当がつくけど、その流用の仕方が卓抜なのである。 所詮は原作の「解釈」にすぎない、という批判も可能だが、その解釈がまた別の想像力を観客に喚起する効果は確かににあるから、これはこれで成功作と言っていいのではないか。
DVD『サイボーグ009 第2章 地上より永遠に6』。 今巻から『地下帝国ヨミ編』。 封入パンフを見てたら、設定の中に「赤面するバン・ボグート」があったんで笑う。そんなシーン、どこかにあったっけ。そう言えばこないだ『快傑ハリマオ』を読み返してたら、しっかりボグートが出て来てやっぱり悪役を演じていた。まあ全ての石森作品を読んでるわけではないのでなんとも言えないが、少なくともギルモア(ドンゴロスの松)とボグートは少なくとも二度、戦っているわけである。 本放映時から完成度は高かったので、リテイク部分はあまりなさそうな印象。ああ、このクォリティで全話が制作されてたらなあ……。
マンガ、深巳琳子『沈夫人の料理人』1巻(小学館/ビッグコミックス・530円)。 中身についてはオビの惹句をそのまま引用(手抜き)。 「中華料理の一皿に立ちのぼる妖艶なる主従関係! 美食のエロス! この世の何よりも食べることの好きな奥様・沈夫人と、この家に買われてきた天才料理人・李三。時は明代中国。奥様は退屈していた。『私に何を食べさせてくれるの?』」 つまり『妖異金瓶梅』料理版って感じですね。沈鳳仙夫人が藩金蓮で、李三が応伯爵の役回り。才能があるのに苛められる李三が健気ながら哀れを誘う。もちろんその哀れっぷりがおかしいんだけど。 この高飛車なお嬢様・お姫様なんかに翻弄されるって物語のパターンも随分昔からあると思うけれど、これを精錬した傑作が谷崎潤一郎の『痴人の愛』だったり沼正三の『家畜人ヤプー』だったりする。もちろんこのマンガがそこまでどぎつくなることはないのだけれど、そういう「匂い」がこのマンガをして他の凡百の料理マンガと一線を画する結果になっていると思う。 まあ、苛められないと伸びない才能ってのもあるわな(^o^)。
2002年07月05日(金) 金曜で〜とだ。一応/映画『マジェスティック』/『気になるヨメさん』1巻(星里もちる)/『クロノアイズ』6巻(長谷川裕一) 2001年07月05日(木) 疲れてるとかえって饒舌/DVD『アリオン』ほか
| 2003年07月04日(金) |
私は多分ちょっと本気で怒っている/『放送禁止歌』(森達也) |
ニカウさんが亡くなったそうです……って、覚えてる人もなかなかいいトシになっちゃいましたねえ。 1980年の映画『ミラクル・ワールド ブッシュマン』は、輸入会社も予想しなかった大ヒットを飛ばしたけれども、「神様の落し物であるコカ・コーラの瓶を拾ったブッシュマンが、神様のところに返しにいく」だけの単純なストーリーがなぜか当時の人たちの心を打ったのですね。私も見に行きましたが確かに普に「面白かった」記憶はあります。 科学的、人工的な現代文明にどっぷり使った生活してるとね、ふと「これでいいのかな、何か我々は『自然』に忘れものをしてきてないかな」なんて気になっちゃう時があるんですねえ。でもって、何年か置きに起こるそんな「自然回帰ブーム」にちょうどマッチした感じでその手の映画がヒットするんですよ。その典型的な例。 でも今、同じものが作られてもさてヒットするかどうか。だって今や日本じゃその手の映画を恒常的に提供し続ける「スタジオジブリ」って映画会社がありますから(^o^)。 宮崎駿がその名声の第一歩を示すことになる『風の谷のナウシカ』の漫画原作を描き始めたのが、その2年後の1982年。実際、ジブリ作品を除けば、この手の映画がヒットしたのって、『ブッシュマン』が最後じゃなかったか。 あとで「あの映画は実はヤラセだ」とか批判が出たけど、ドキュメンタリーじゃなくて劇映画なんだから、こんな的外れな批判はない。それくらい日本人の「自然」願望は歪んでたとも言えるのである。
ニカウさんは、1日にまきを拾いに出たまま戻らず、捜しに出た家族が草原で死んでいるのを見つけたという。推定59歳。
さくら出版のマンガ原稿流出事件について、テレビレポーターが元社長に取材していたのを見る。と言っても本人、姿は現してない。 「その件は弁護士を通じて」とコメントしてあとは沈黙ってのはまあ、分からないでもないが、そのあと更に弁護士に取材したら、「それは犯罪の話になるので言えない」って……。言ってるじゃん(^_^;)。 つまりはアレが全部「不正流出」だということを認めちゃってるってことではないのよ。となりゃあ、そのへんの事情を「まんだらけ」が一切知らなかったって言い訳はちょっと成り立たなくなってくるね。 インタビューに答えてた弘兼憲史さんも「あれは盗品」と明言されていたけれども、これから先、裁判で係争していってちゃんと原稿がマンガ家さんの元に戻ってくることになるのかどうか。結論が出るのに時間がかかった場合、その間に二重流出が起こりはしないだろうか。 ゴタゴタする前に、「まんだらけ」社長が原稿を返す度量を見せてくれたらいいんだけれど、なんかテレビで見たこのおっさん、洗脳されてた頃の蓮○薫さんみたいな顔してて(例えがよくなくて申し訳ないが、なんか目がイッちゃってんだもの)、アテになりそうにないのである。高飛車なモノイイをするわけでも倣岸な態度を取るわけでもないのだけれど、「原稿をほしいのであれば買い取っていただくということで」と淡々と喋ってるあたり、一筋縄ではいかないような雰囲気なのである。「管理が悪いのはマンガ家と出版社の責任」って、出版社はともかく、マンガ家は違うでしょう。出版社に「原稿返して」と要求しても返却に応じてくれなかったんだから。それが分らないはずはないのにいけしゃあしゃあと言ってのけるあたりが、「わかってやってる」度が高いと思うのである。 ああ、ほんなこつ、誰か大金持ちが原稿全部買い戻して、マンガ家さんたちに無償で返してくれないものだろうか。 ……って、それじゃ問題の根本的解決にならんことは重々承知してるのだけれども。
「WEB現代」の『あなたとわたしのGAINAX』が面白い。 第2回「ゼネラルプロダクツ」で、ガイナックスの統括本部長の武田康廣氏へのインタビュー、それなりの長さ(12分)をかけているので、「あの頃」の歴史を思い出して懐かしさに浸れる。 と言っても、私は学生で貧乏で、とてもSF大会に参加できる余裕はなく、アニメ誌の記事を見ては、「ああ、自分たちよりちょっと年上の人たちがアマチュアなのにこんなスゴイことやってるんだ」と、「DAICON3&4」のOPアニメーションの趣味っぷりに感激していたものである。 既にこのフィルム自体もSF大会などごく限られたイベントでしか上映されなくなっているので、「幻」と言ってもいいと思うが、オタクという言葉が発生する以前の、「アニメファン」の原石の輝きのようなものがアレにはあった。「美少女とメカ」はもちろん性のメタファーではあったが、何かまあ、そこに我々はアマチュアならではの「純」なものを見出していたのだ……と思う。 と、言葉を濁さねばならないのは、その象徴として「吾妻ひでお」という、その「純」なもののウラにしっかりナニな部分を内包したキャラクターを使用していたということがあるのであるが。 実際、イマドキの若い人に「あのころの吾妻ひでおは『最強究極絶対不滅純情可憐聖俗合わせ持つ美少女』を描いていたのだ」と言っても信じてもらえないかもしれない。
ま、それはさておき、武田さんの「権利」に関する話はためになるし(『王立』も『ナディア』もガイナックスが権利を持ってないってのには驚いた)、ゼネプロからガイナックスへ至る険しくも楽しい道程は、これまでいろいろ書かれてきたものを思いだしながら読むとある意味感動的ですらある。 けど、私が一番ツボにハマったのは次のくだり。
> もちろんキャラクターは売りたい。しかし、いかんせん、そのう、なかなか難しいんですよ。たとえば今“萌え”の路線が流行っているからといって、そういう作品がガイナックスでつくれるのか。何回挑戦してもそれは無理だろうと。妹が何人も出てきて「お兄ちゃーん」とかいっている作品を、ウチがつくれるかというとそれは無理だと思います。 (中略) > 山賀なんかは「王立宇宙軍」に出てきたリイクニが美少女だと思っていたくらいで、感覚はずいぶんあやしい。「おまえそれはないだろう」(笑)。確かに乳は揺らしてましたけどね。「トップをねらえ!」でも、最初はずいぶんと乳を揺らしている女の子が出てきましたけど、結局山賀がつくった作品の世界に監督の庵野がのめりこんで、とてもハードなSF作品になった。あの作品の場合、そのバランスで絶妙に面白くなった。作品をつくるということはそういうことだと思うんですよ。会社としてこの路線で行く、と考えても結局つくりたいものしかつくれない。
「アヤナミは萌えキャラちゃうんか」、というツッコミは妥当ではあるまい。一見かわいらしいキャラデザインの美少女になら誰にでも萌えるファンにとっては『エヴァ』のキャラも『シスタープリンセス』や『らいむいろ戦記譚』の妹キャラも全部いっしょくたなのかもしれないが(でも本当に「妹ブーム」なんてあるのか)、やっぱり「背負っている物語」が違うのである(設定の多寡ではない)。 陳腐な言い方になって申し訳がないのだが、「ドラマ」ってのはそこに「人間」がいなきゃどうしようもないのだ。「人間が描けなければドラマにならない」というのは否定のしようがない事実なんで、そうでないアニメや映画に魅力は生じない。ドラマのない作品にも魅力があると思っている人たちは実は作品以外のものを見ているので、それは全然作品を誉めてることにはならないのである。
も一つ笑ったのが、注釈に付いてた「萌え」の解説。
> 『萌え』
> '90年代中盤から後半にかけておたく文化の中で生まれた用語。誕生当時は漫画やアニメ作品、ゲームなどにおける少し変わった、「なにか心にひっかかる」キャラクターやストーリー、世界設定などに対して用いられていたが、やがてキャラクターの魅力をあらわす用語として定着した。一応はアニメ、漫画作品の年少の美少女キャラクターに対して発生する恋情、もしくはキャラクター設定に関する特定のバイアスに対して使用される用語ではあるが、その概念は完全に固定されていない。たとえば『ドラえもん』におけるヒロイン、しずかちゃんを「萌えキャラ」と表現して良いか否かなどの命題は、人それぞれに解釈が存在する。
「なにか心に引っかかる」とは随分微妙な言いまわしだけれど、対象についてじゃなくて、萌えてる本人の一つタガがふっとんんじゃってる状態を表してる部分もあるんじゃないですかね、これには。いや、若いアニメファンも結構見てるけど、「萌え」なんて用語使ってる人間って、イタイ中でも最大級にイタイ人たちだけですよ、ホント。やっぱねえ、マトモな神経持ってる人間なら、たとえ仲間うちであっても他人に理解できる言葉を使いますから。 あと、「しずかちゃん」の件ですが、原作後期の絵柄のしずちゃんとか、渡辺歩作画監督のしずちゃんならまあ萌えるってのも分からなくはないんですよ。けど、ほかのはどうなんですかね。たとえば冨永さん作画のしずちゃんじゃないと萌えない! なんてんだったら、それは確かにちょっとねえ、どういう人ですかアンタは、と言いたくなりますが。
今日も終日雨。 残業で帰宅はまたまた10時過ぎ。帰りが暗くなると、バスの中でも本が読めなくて本当に退屈してしまうのである。今現在、私の主要な読書時間帯は、食事中とトイレ中と入浴中とこの通勤時間帯なのだから、日の明るいうちに帰りたいものなんだが。いや、残業も1時間くらいなら文句ないんだけど、恒常的に2〜4時間ってのはあんまりだがね。 ボーナスも今度から下げられるしなあ(額面は上がるのだが、税金が余計にかかるので実質目減りなのである。なんでこんなインケツなことしてくれるのか)。労働意欲を欠けさせることばかりどうしてするのかな。
森達也『放送禁止歌』(光文社/知恵の森文庫・680円)。 著者はテレビドキュメンタリーの監督である。オウム真理教事件のドキュメンタリーである『A』の監督さん、と言えば、ああ、と思いだされる方もおられようか。 本作は、タイトルにもある通り、いったん発売されながら、放送には「不適切」とされて今や耳にする機会の失われてしまった歌謡曲について、その「放送禁止」に至った顛末をテレビ番組にした時のメイキング本である。 岡林信康『手紙』『ヘライデ』『チューリップのアップリケ』『くそくらえ節』『がいこつの歌』、三上寛『夢は夜ひらく』、頭脳警察『世界革命戦争宣言』、丸山明宏『ヨイトマケの歌』、北島三郎『ブンガチャ節』、なぎらけんいち『悲惨な戦い』、高田渡『スキンシップ・ブルース』『自衛隊に入ろう』『生活の柄』、山平和彦『放送禁止歌』『大島節』『月経』、ザ・フォーク・クルセイダース『イムジン河』、高倉健『網走番外地(1965年版)』、泉谷しげる『戦争小唄』『黒いカバン』、赤い鳥『竹田の子守唄』……。 さて、これらの曲を実際に聞いたことのある世代は40代以上だろう。 私とて、遠い記憶の彼方のものが殆どで、岡林信康のものにいたっては、一曲も聞いたことがない。ただ、これらの曲が「放送禁止歌」であるという「知識」は持っていたつもりだった。その「禁止」された理由も、性的な表現や差別的な表現が引っかかったんだろう、と漫然と考えていたのである。 問題はその「引っかかった」というのが「何に」ということである。 多分、たいていの人が「放送コード」というものがテレビ局の内規か何かにあるものだと信じていると思う。ところが著者は、取材の過程で「そんなものはない」という事実を発見してしまうのだ。 一応、「規制」の主体となるものとして、民放連が1959年に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」というものはある。しかしこれはただのガイドラインに過ぎず、強制力はないばかりか、1983年に廃止されてもいるのである。更に言えば、実際に「放送禁止」されている『網走番外地』『手紙』『チューリップのアップリケ』『イムジン河』『自衛隊に入ろう』『竹田の子守唄』などはこの一覧表に全く記載されていない。また、「どこか」から「糾弾」があったという事実もない。 要するに「放送禁止」の実態は、放送局側の「疑心暗鬼」に他ならないのだ。 「この曲は、もしかしたら放送しちゃヤバいんじゃないか」。 その「思いこみ」が勝手に「放送禁止歌」を作りあげていったのである。
「傷つく人の気持ちを考えて」とは差別を問題とする人権派の人たちがよく口にすることではある。しかし実のところ、放送業界での「禁止用語」というのは単なる言葉狩りにしかなっていない。『手紙』などは歌詞を読めばどう解釈したところでこれは「差別に対する怒り・告発」としか読めまい。それが「放送禁止歌」になってしまう点に、現実として差別を温存する土壌が存在しているのである。 「糾弾」を行っているとされる某団体は、よく「文脈を捉えて批判するのならともかく、安易な言葉狩りはしていない」と主張している。本書でも、著者の森さんがその団体の役員の人に「放送で○○・○○という言葉(最大級の差別語とされているもの)を使っていいですか?」と質問したところ、「使い方には留意してください」と了承している(実際の放送には使用されず)。 けれど、その団体が放送局の「勝手な自主規制」について積極的に改正を求めたなんて話は殆ど聞こえてこない。某団体は、『手紙』が放送禁止の憂き目にあっていることに対して、果たして抗議の姿勢を示したことがあったのだろうか? 更に言えば、いつぞやの某作家の断筆に関する討論番組で、当時のその団体のトップの人が「○○・○○という言葉は聞くだけでイヤだ」と発言したのを私はしっかり覚えているし、録画もしている。文脈どころか、それは「発言」自体を封印させかねない「圧力」であり、「言論統制」以外の何物でもなかった。 こんな態度で、どうして「表現の自由を脅かすつもりはない」などと言えようか。結局あの団体も一枚岩ではなく、人によって時によって言ってることがコロコロ変わるのである。放送局側が難癖つけられることを恐れてコトナカレに走るのもそこに原因がある。 放送局側の弱腰について、糾弾はされてしかるべきだろうが、一番の問題は「被害者ヅラした加害者」である某団体であろう。過度の糾弾がかえって差別を助長し、わけのわからない後続の糾弾組織(「かわいいコックさん」まで黒人差別だなんて言ってるバカ親子とかな)を乱立させた原因になっていることを彼らは少しは自覚しているのだろうか。 文句があるなら、「放送禁止歌などを想定している放送局を糾弾する」声明でも発表してからものを言え。
最後に、岡林信康の『手紙』の歌詞をここに引用する。私の意見が間違いと思うのなら、まず、この歌詞に対する批評から始めてもらいたい。
> 私の好きな みつるさんが おじいさんから お店をもらい 二人いっしょに 暮らすんだと うれしそうに 話してたけど 私といっしょに なるのだったら お店をゆずらないと 言われたの お店をゆずらないと 言われたの
> 私は彼の 幸せのため 身を引こうと 思ってます 二人はいっしょに なれないのなら 死のうとまで 彼は言った だからすべて 彼にあげたこと くやんではいない 別れても くやんではいない 別れても
> だけどお父さん お母さん 私は二度と 恋はしない 部落に生まれた そのことの どこが悪い どこがちがう 暗い手紙に なりました だけど私は 書きたかった だけど私は 書きたかった
2002年07月04日(木) 丼より皿/『快傑ズバット大全』(ブレインナビ)ほか 2001年07月04日(水) 喉が異常に乾くよう/DVD『少年ドラマシリーズ ユタとふしぎな仲間たち』ほか
| 2003年07月03日(木) |
遊ぶ女/『BURAIKEN』(唐沢なをき)/『超役立ち法律大事典』(行列のできる法律事務所)ほか |
ここんとこずっと雨が降り続いていたが、珍しくも今日は朝から晴。 ……と思ったらやっぱり昼ごろから天気が崩れ出して、雨になるのであった。梅雨と言えば梅雨らしいんだけど、沖縄の方で「梅雨明け宣言」したの一週間くらい前じゃなかったか。梅雨前線、えらく留まってるなあ。
仕事が溜まってきてたので、少し早めに家を出て片付けようかと計画、昨日のうちに、しげにもそう伝えておいた。 「明日は早いから、仕事が終わったら早く帰って来いよ」。 これはもちろん、早く帰ってきて少しでも寝ておけ、という意味である。しげの仕事自体は2時には終わるのだから、すぐ帰ってきて寝れば5時間は寝られるのである。それを「次に入る人が困るから」と残業して(ここまでは仕方がないかなとも思う)、それからあとカラオケに行ったりデニーズやジョイフルで駄弁ったりしているから寝る時間がなくなるのだ。でもって、帰ってくるなり「眠いから送れない」と言って、夕方まで10時間くらい寝てしまう。当然、家事なんて何一つしない。 ちゃんと言っといてもどうせ遊んで帰ってくるんだろうな、と思ってたら、やっぱり朝帰り。今日こそは早めに帰ってくるだろうとつい期待して、私も3時ごろまで待ってたものだから、肩透かしされてあまり寝ていない。結局、カラダがよく動かずに早出もできず。節々の痛むカラダをむりやりタクシーに乗っけて職場へ。全く、迷惑ばかりかけやがるんだからな。
これだけ遊んでおきながら、その上しげは「どこか旅行にでも出かけん?」とか私に甘えてくるのである。 今、私が旅行に出かけられない状態だということもすっかり忘れているのだ。 こういうことばかりされていると、ホントに「しげはいないもの」という前提で生活を考えなくてはいけなくなる。 それでいいとはしげも思っちゃいまい、と思いたいのだが、結果としてそうせざるを得なくなるのは事実。それ、ちゃんとわかってんのか? もしかしてしげは、内心、私がホントに今の仕事をやめてくれればとか思ってんだろうか。 十何年も一緒にのたくってんのに、気持ちはいつまで経っても伝わらないんだなあ。
帰宅して、テレビのチャンネルを回したら、偶然「クイズ常識の時間」でアニメ特集をやっている。 西村知美が身重なのにゲストで呼ばれてるが、何だか呼ぶ方も呼ぶ方だし出る方も出る方という気がする。まあいいけどね。 クイズ自体はアニメファンには常識みたいなものなので、西村知美だけがどんどん答えていくのが笑える。それにしても、アニメの実写版を紹介して笑いを取ろうっての、昔からよくやってたけど、笑うより先に私ゃイタイんだけどねえ。で、毎回『ルパン三世念力珍作戦』が引き合いに出されるのはどうかなあって思うんだが。そんなに次元大介の田中邦衛ってヘンかね。原作じゃそんなにダンディってわけでもないぞ、次元(特に初期)。
ホームページの更新もできれば毎日やっていたいのだが、そんな時間も体力もない。 「マンガの笑セリフ」を今日までで一気に3回、更新したことはしたが、意外とこれ、体力使うんである。何たって、書庫の中から本探してこなきゃなんないから(^o^)。あまり新しいマンガだとみんな読んで知ってるし、そろそろみんなの記憶の彼方に去りかけてるのを選んでおきたいんだけれども。 ああ、でもほかの工事中のコンテンツもなあ(~_~;)。
マンガ、唐沢なをき『BURAIKEN』(エンターブレイン/ビームコミックス・756円)。 描きおろし14ページなんてのを入れてくれるから、また買わなきゃならなくなっちゃったじゃん。やっぱ結構アコギだと思うぞ唐沢さん。 実は私は唐沢なをきの代表作は『カスミ伝』シリーズとこの『BURAIKEN』だと思っているのである。理由はどっちも時代劇のパロになってるからなのだな(←この言質は『赤富士』とかについて描くときには簡単に入れ代わるので信用しないように)。 こんなのたいしたパロじゃなかろう、と仰る方にヒトコト。主人公血煙今日四郎の元ネタは当然、眠狂四郎なんだけど、彼の円月殺法は、刀を回して相手を催眠術にかけ、その隙に斬るという、時代劇小説中最も華麗だけれど同時に最も卑怯なワザでもあるのである。 それをパロるんだから、当然その剣は「もっと卑怯」でなければならない。そこで「ウンチク垂れて相手が混乱したところを血祭りに上げる」、という技が完成したわけだ。こういうアイデア勝負の作品が昔は多かったよなあ、唐沢さん(遠い目)。 描きおろし新作は確定申告&七人の侍パロだけど、以前の連載と「全く同じ」展開なのが嬉しい。この「変わらない」ってこと、なかなかやれるものではないのよ。つい奇を衒って「平成版」とかにしちゃうマンガ家さん、多いでしょ。 それにしても、リアルなエロマンガにはイマイチ萌えないのに、こういうマンガキャラがナニされまくってるのの方がナニだってのは何でなんでしょうね。
マンガ、魔夜峰央『パタリロ西遊記』6巻(白泉社/花とゆめコミックス・410円)。 もう6巻まで来ちゃいましたね。『パタリロ!』も今まで何度か長編シリーズがあったけれども、まさかこれが最大長編になるとは思ってなかった。人気あるんだろうか。 原作に結構依拠してた前巻までとうってかわって、今巻はミステリ仕立てのものが多い。とは言っても、もう「あの作家のあの作品からそのまんま持ってきました」ってのばっかりなのはどうかと思うけど。しかも『パタリロ!』本編で使ったことあるトリックばっかだし。 魔夜さん、もしかして自分がかつて同じ作品描いたことあるの、忘れちゃってんじゃなかろうか。そういう可能性高そうだよなあ。
行列のできる法律事務所・編『超役立ち法律大事典』(日本テレビ・1050円)。 こんなのまでつい買ってます(^_^;)。中身はテレビで放映されてたのそのまんま。あれ見てると、裁判なんて弁護士の匙加減一つだなあ、という気がしてきて、ちょっとしたことでも裁判沙汰にはならん方がいいよなあ、という気にさせられることが多い。でもそれって、詐欺師に一番つけこまれやすい心理状態なんだよね。あまり弁護士間の諍いを見せないでほしいようにも思うんだが。 まあ、買ってどうこういう類のものでもないんだけど、中のマンガ描いてるのが若林健次さんだったもんで、ついね。今イチ売れないでこんな仕事もしてたか。そのうち学習マンガに行っちゃわないかちょっと心配である。
2002年07月03日(水) 妻のどこまでも広い背中/『デボラがライバル』1・2巻(多田かおる)/『20世紀少年』9巻(浦沢直樹)ほか 2001年07月03日(火) 頭痛のせいでネカマ風(-_-;)/『黒衣 ―KUROKO―』2巻(高橋葉介)ほか
| 2003年07月02日(水) |
ストレスは溜まるようになっている/映画『復活の日』 |
眼科医から「2ヶ月くらいは安静にしてなさい」といわれていたので、この先2ヶ月ほどに予定していた出張、旅行の類を一切キャンセル。 とりあえず明日、明後日のものはなかったから、いきなり誰かに迷惑をかける、という事態にはならなかったものの、やはり何人かの同僚からは仕事が自分に回ってきたことでイヤな顔をされる。 いやね、ホントに仕事したがらない人っているのよ。そのくせ、家に帰らないで残業だけはしょっちゅうしてるんだから、何を考えてるのかよくわからん。 私の場合、誰かが急な病気で休んだときには全く平気な顔で仕事を引き受けてるのに、ちょっと不公平かな、と思う。
例のちょっと、というか、最近はかなりアブナイ同僚が、ツイ、と私のそばに近づいてきたかと思うと、無言でいきなりクスリの袋のようなものを二つ、手渡してきた。 一瞬、覚醒剤か何かかと思ってビクッとする。けれど袋をよく見ると、表面にハングル文字が書いてある。 「……なんですか? これ」 「しょうが湯」 それだけ言うと、さっさと向こうに行ってしまった。 ……え〜っと、つまりこれは私へのプレゼントだろうか。でも普通、何の説明もなしにいきなりこんなもん渡しゃしないよなあ。「韓国に行ったお土産です」とか(と言ってもこの人が韓国に行ったのかどうかは知らない)、「これでも飲んであったまってくださいね」とか、なにか挨拶のヒトコトくらいありそうなものだ。いきなりただ渡されてもなあ、どんなリアクション取ればいいのやら。 しかもこの「ふた袋」という中途半端さは何なんだろう。箱買いして同僚たちに少しずつ配ってるっていうのならそれも分かるのだが、なにしろこの人、みんなから嫌われてるので、こなさんに配ってる形跡はないのである。 えーっと、私はこのしょうが湯、飲んでいいものなんでしょうか。
研修の名目で、某病院のカウンセラーの方の講釈を聞く。 要するに「仕事のストレスから開放されていかにリラックスするか」ということなのだが、なんか大々的に全社員を集めてやんなきゃなんないことなんだろうかね。仕事上のストレスは解消できないからストレスになってるんだから、たかが講義の一つや二つで楽になるんだったら、とっくの昔に自分で何とかできてるだろう。こういう時間を設けられて強制参加させられる方がよっぽど仕事の時間が削られて迷惑なんだけどねえ。 場所はかなり広めの会議室で行われたんだけれど、カウンセラーの方がまず、「自由に移動して、自分が一番リラックスできる場所を探してください」なんて言うのである。会議室のどこにそんな場所があるか(-_-;)。でも私は暑がりであるので、さっさと窓際に移動する。外は小雨だが、ちょっと顔が冷たくなるくらいが気持ちいい。 そこでカウンセラーさんが「楽な姿勢で」とか「足を伸ばして」とか言うんだが、まあその通りに実行する人はあまりいない。私を含めて数えるほどだ。そりゃ当たり前の話で、上司がズラリと並んでる前で、いきなりリラックスできる度胸のある人間がそうそういるわきゃない。私が平気でそれをできるのは職場への帰属意識が低いからで、一般的には誉められたことではないのである。 カウンセラーさんがしきりに「これができないのはストレスが溜まってる証拠ですよ」と仰るが果たしてそれはどうかね。日本人の場合、組織に所属し、一律の行動を取ることで安心感を得る場合の方が大きいんじゃないか。神経の細い人なんか、ちょっと人と違う行動しただけでビクビクしちゃうことってあると思うけど。なんかこのカウンセラーさん、アテにならんなあ。 次に絵ハガキを何十枚もたくさん見せて、「この中で気になるものを取り上げてください」というもの。その絵がどうして気になるのか、じっと見つめて考えてみましょう、ということだけれど、ゲームの心理テストみたいな感じで、これもリラックスに関係があるのかどうか今一つピンとこない。 私が選んだのは、薄汚れたマンションを仰角で見上げた写真で、背景には青い空と白い雲が広がっている。マンションはその一部しか映っていないので、写真に占める面積は空の方が大きい。 自己分析のクセがついてない人には、なぜ自分がそれを選んだのか、なかなか見当がつかないものなのだろうが、画像分析に慣れていればそれは特に難しいことではない。例えば私の選んだそれは、私の自殺願望を表しているのであって、薄汚れたマンションは私の自我の投影だし、空は「開放」の象徴である。また、自己と他者はその位置を容易に転換しえるから、これは他者の自殺願望を否定したい自己の意志の表れでもある。 その程度の自己分析ができていれば、自らの心のコントロールはまあまあ可能なので、ストレスの解消の仕方も自分で分かるし、実際に私が自殺するような事態に陥ることはまずなかろう。でも、大事なのはその程度のことはやろうと思えば誰にだってできることなので、ヘタに自分のプライドを肥大させて自らを特別視しちゃいかんよってことなんである。自己分析ができない人間がストレス溜まりまくりになるかっていうと、そういうものでもないからだ。 「自分がなぜこれを選んだのかよく分らない」と首を捻っていた同僚もたくさんいたが、わかんなくてもいいんじゃないの。今が幸せなら、わざわざ波風立てるこたないのである。 てことは今日のカウンセリング、ホントに何の役にも立たないってことになるんだけど、この研修って、「日本のカウンセリング状況は、未だいかがわしいレベルにある」って教えてくれるためのものだったんですか。
疲れて帰宅。 新番組「トリビアの泉」を見る。新番と言っても以前は深夜ワクでやってた豆知識番組で、今回の第20回から堂々のゴールデンタイムへの進出。でもこんなの視聴率取れるんかいな。 唐沢俊一さんがスーパーバイザーやってることを知ってたので見てみたが、豆知識の量がともかく少ない。こういうのはヘタにゲストを呼んでスタジオ形式にするんじゃなくて、取材フィルムは使っていいから、もう少し量を増やして中身が濃い印象を与えた方がいいのである。中村玉緒のコメントなんて聞いてどうするんだ。 でも金賞取った「電話の時報案内の声は中村啓子さんという人である」っての、なんか面白いんかね。ゲストもみんな本気で面白がってたようには見えなかったんだが。 子門真人の『スターウォーズ』も久しぶりに聞いたけど、こういうのも何かツッコミが入らないと、別に面白くも何ともないのである。で、タモリを初めとして、司会者の高橋克実、八嶋智人もこのツッコミが超絶的にヘタ。でも今やこういうバラエティ番組の司会者は決してうまくちゃいけないのである。だって今の視聴者ってみんな根拠もなくプライドだけが高いから、自分よりバカなヤツでないと見ようとしないからね。 番組スタッフの中にシティボーイズライブの演出を担当していた三木聡さんの名前も見つける。この人も豆知識好きだからなあ。スタッフは充実してるのにどうも印象がつまらないのはディレクターがアホだからなんだろうな。
CS日本映画専門チャンネル『復活の日』。 これも昔見たときには、「作ってるヤツだけが感動してる」一人よがり映画だなあ、と、2時間半がタルくてタルくて仕方なかったんだけど、原因はやっぱり役者たちの思わせぶりたっぷりな時代劇演技がつまんなかったからだろうねえ。特に日本人の方の。 SFはさあ、その空想の基盤を支えるためには繊細で緻密な描写が必要なんだけど、深作監督にそれを要求するのはムリだ。うねりのあるドラマを作るのにはもっとも不適な人を選んじゃってるんだよなあ。 役者陣の中で「いいな」と思えたのって、ジョージ・ケネディくらいのものだったし、その印象は今も変わらない。昔見て今見て印象に変化がないというのはそれだけ中身が薄っぺらだったということである。 一応、当時大ヒットを飛ばしたこの映画、けれど製作費がそれ以上にかかっちゃってたので、角川映画の大作路線はここで一つの終焉を遂げる。その後の角川映画はアイドル路線、アニメ路線、何だかよく分らない映画路線(^o^)と変遷を遂げて、今の「で、何を作ってるんだよ」路線に至るのである。 しかし、一般的には演技派として見られている渡瀬恒彦を私が「大根じゃねえの?」と思ってしまうのは、南極で錯乱して雪の中に飛び出してっちゃうトホホな芝居を見せられてるからなんだよなあ。この映画の一番の欠点は、個々人の絶望が「点景」としてしか描かれてない点なんで、悲惨さが観客に伝わってこないのである。渡瀬恒彦にしろ、多岐川由美にしろ、ちゃんと死ぬとこ見せなきゃ意味ないやな。あと、キリストと草刈正雄が字幕で会話するシーンは『バトル・ロワイヤル』と見比べてみるとなかなか笑えます(^o^)。 当初から海外戦略の狙われていた作品だったが、レナード・マーティンの星評価では★★1/2でまあ、普通。「南極大陸の景色はキレイだけど、お話は長すぎてしかも紆余曲折」と、あまり誉められてない。確か海外版は編集が日本のと変えられてて、ラストは人類滅亡で終わってたってのなんかで聞いたことあったけど、ほんまやろか。だったら物語は随分単純化されてるはずで、それてもこの評価ってのがちょっと頷けないのだが。
2002年07月02日(火) アニメ見るのは浮気じゃないよん/アニメ『最終兵器彼女』第1話/『エクセル▽サーガ』9巻(六道神士)ほか 2001年07月02日(月) ばとんたっちorあとはどうなと/『赤い雲』(西岸良平)ほか
| 2003年07月01日(火) |
踊らぬ娘に踊る人々/『寄生獣 完全版』8巻(岩明均)/『エンジェル・ハート』7巻(北条司) |
ミュージックステーションをドタキャンしたロシアの女子高生デュオ、タトゥーであるが、その記者会見の様子を初めてテレビで見る。 まあなんかロシア語で「私たちだけのショーにしたかった」とか言ってるが、じゃあ、1時間ずっと自分たちで歌いっぱなししたかったってことなんだろうか。つーか、契約時にそういった打ち合わせができてなかったとは到底思いにくい。 確か以前、「週刊文春」か「新潮」だったかで、タトゥーのことを「現代女子高生のカリスマ(いい加減でこの誤用もなんとかしたらどうだ)」なんて紹介がされてたけど、ロシア人だろうが日本人だろうが、たかだか17、8の小娘に、人を心から魅了できるだけの天分がそうそうあるわきゃないのである。どうもこの二人の「人気」とやら、多分に「作りもの」である公算が大きい。 ファッションセンスがどうの、レズであることがどうの(これもどうも宣伝臭い)、そういったプロパガンダに乗せられるのは乗せられる者の自由だけれど、今回のトラブルも案外故意にやってんじゃないか。 それが証拠に、あっちこっちの日記で、今回のタトゥーの件を話題にしているが、この事件以前にその存在を知ってたらしい人がほとんど見当たらない。私だって「文春」を読んでなきゃ「タトゥーって誰?」ってなもんだったろう。 まあ、「このクソナマイキなロ○ケが」とお怒りになる向きが多いのもわからんではないが、腹立てる分だけあのコたちの宣伝工作にひと役買ってることになるのである。ファンになるならともかく、右から左に聞き流しときゃいいんではないの。 あのコたちも、ホントに「タレント」として自分たちをアピールしたいんだったら、生放送中にいきなり脱ぐくらいのことすりゃいいのだな。どうせ話題になる「だけ」のことなら、ドタキャンなんかよりそっちのほうがよっぽど「伝説」になる。マネージャーも新人の子はそれくらいの度胸で売り出そうよ。
訃報が続く。 28日、劇作家兼演出家の岸田理生さんが大腸がんのため死去。享年57。 この方についても書きだしたらキリがない。寺山修司や実相寺昭雄との関わりで語られることが多いが、まず、幻想文学の映像化に関して第一人者であったことを抑えておかないと、その耽美的な表現方法について理解することは困難であろう。 岸田さんの描く異界は、幻想の産物でありながら現実以上にねちっこい情念の世界であった。つーか、人間の抱く幻想って現実以上に生々しいものなんだよ。なんたって人間が心の奥底に封印している深層意識の世界なんだから。そこんとこがよく分ってる作家さんだったのだ。 代表作はやっぱり舞台『身毒丸』あたりになるのだろうか。『1999年の夏休み』も、金子修介が監督でさえなかったらもっとドロッとした心に迫るものになってたと思う。映画『さらば箱舟』とかも面白かったけれど、泉鏡花原作のテレビの『青い沼の女』が一番印象深い。ヒロインの山本陽子がちょっとトウが立ってたのが難だったが。それにしても若過ぎる死である。
続く29日、米女優、キャサリン・ヘプバーンさんが老衰のため死去。享年96だから、これは大往生。 4度のアカデミー賞主演女優賞に輝く大女優。今でもアメリカでは「ヘプバーン」と言えばオードリーよりもキャサリンなのかな。アメリカの「理知」を代表する女優ということだが、私のような若造がリアルタイムで見たのは1981年の『黄昏』だけである。でも、18歳の若造には彼女の渋みはピンと来なかった。 若いころの写真を見ても、決して美人とは言えない。額と鋭角的な輪郭にケンがある。ただ、いかにもインテリぶった映画マニアが誉めそやしそうな「知的」に見える雰囲気はあった。それがイヤだったから、彼女の出演作をあえて選んで見ることもしなかった。それもまたつまらない拘りではあったが。 偶然見ている出演映画に『若草物語』『フィラデルフィア物語』『アフリカの女王』『招かれざる客』などがあるが、彼女の印象がほとんど残っていないのはどういうわけだろう。女優好きの私にしては珍しいことである。 この人の訃報については、それこそ故・淀川長治さんに感想を聞きたかったものだが、淀川さんも相当長生きしたのにそれ以上だったんだから恐ろしい。
ネット上のウワサであるが、近々『名探偵コナン』のアニメが終わるらしい。 まあ終わってくれたほうがいいようなアニメであるが、視聴率的にはまだまだどころか全然ヒット中のアニメを簡単に終わらせられるものなんだろうか。 原作もすっかり出来が悪いものばかりになっちゃったし、いい加減、スタッフも嫌気がさしてんじゃないかって気もするが、仮にいったん終わったとしても『ルパン三世』や『シティ−ハンター』みたいにスペシャルでどんどん続く、なんてことになりゃしないだろうか。 でも終わるんだったら、ホームページのコンテンツで貶すこともないかな。
今日もまた雨。 しばらく天神のLIMBに出かけてないので、今日あたり寄ってみようかと思ってたのだが、雨ん中を歩く気分ではないので中止。 博多駅前にはもう飾り山笠が飾られているが、見送りを覗く余裕はなし。知ってる人は知ってると思うが、山笠の裏側(これを「見送り」という)、子供の客を当てこんで毎年アニメキャラが飾られることが多いんである。 今年は、「探偵学園Q」「犬夜叉」「金色のガッシュベル」「ターミネーター3」「ドラえもん」など。まあどれだけ珍妙なものが飾られるか笑って見てやろうってことなんだが、毎年毎年、こんなトンデモなものを博多はミセモノにして恥を晒してきてるのである。今更、事件の一つや二つ増えたところで、博多っ子の神経はビクともせんわ(^o^)。 また今度の休日あたり、あちこち回って映像を撮ってこようかと思う。 もし、他地方の方で、一年で一番人出の多いこの時期に博多に来ようなんて奇特な方がいらっしゅったら、こんなものやってますんで、お笑いの種にどうぞ。
番 流 種 別 標題 人形師 一 中洲流 舁き山 鐘馗求玄宗之誉 中村信喬 表 激戦太刀洗武勲 三宅隆 見送り 老公博多世直旅 中村信喬 二 西 流 舁き山表 寶劍在手裏 井上和彦 同見送り 金鳳舞碧天 井上和彦 三 千代流 舁き山 吉法師不羈之勇 川崎修一 表 項羽劉邦誉 川崎修一 見送り 決闘巌流島 川崎修一 四 恵比須流 舁き山 和気兆豊年 亀田 均
五 土居流 舁き山 毘沙門天法燈照 中村信喬 六 大黒流 舁き山 八風吹不動 置鮎琢磨 七 東 流 舁き山 聖一国師大願祈 室井聖太郎 表 櫛田社前菊池勢 室井聖太郎 見送り 西遊記 中野親一 八 上川端流 表 茨城童子綱館段 田中 弘 見送り 奇襲桶狭間之戦 田中 勇 九 新天町 表 破浪一箭射紅扇 亀田 均 見送り 探偵学園Q 亀田 均 十 博多リバレイン 表 満開博多七福神 置鮎琢磨 見送り 助六由縁江戸桜 置鮎琢磨 十一 渡辺通一丁目 表 源平盛衰記 中野親一 見送り 犬夜叉 中野 浩 十二 福岡ドーム 表 壇ノ浦源平合戦 三宅 隆 見送り 勝鷹V奪還 置鮎琢磨
十三 博多駅商店連合会 表 決闘巌流島 置鮎正弘 見送り 金色のガッシュベル 置鮎正弘 十四 キャナルシティ博多 表 国性爺合戦 置鮎琢磨 見送り ターミネーター3 置鮎琢磨 十五 川端中央街 表 決闘巌流島 中野親一 見送り ドラえもん 中野 浩 十六 ソラリア 表 城郭悠然黒田藩 置鮎正弘 見送り 清涼山誉連獅子 小嶋慎二 番外 櫛田神社 表 決闘巌流島 中野親一 見送り 神話因幡之白兎 中野親一
マンガ、岩明均『寄生獣 完全版』8巻(完結/講談社/アフタヌーンKCDX・900円)。 全巻を改めて読み返してみると、この話が本当に面白かったのは、新一がミギーと混じりあって、だんだんと人間の心を失っていくあたりまでだったなと思う。人間が人間であることの意味はなんなのか、寄生生物が混じることで「心」が失われていくとすれば、そもそも「心」とはいったい何なのか、そのあたりをもっと突っ込んで描ければ、SFとして相当面白いものになったと思うんだけれど、結局、「意味もなく」新一は人間の心を取り戻してしまった。「寄生生物ってなんだったの?」ってもどかしさは、前に読んだ時も感じたことだ。 これを岩明さんの代表作とするのは、ちょっと持ち上げすぎって気がするな。
マンガ、北条司『エンジェル・ハート』7巻(新潮社/バンチコミックス・530円)。 今巻から新展開、今までが「C・H香瑩誕生篇」という序章で、これからが新生C・Hの活躍が始まる「激動篇」だそうな。 つーか、香瑩使って、女の子のシティーハンターやりたかっただけじゃんねえ。 いやね、お話自体は必ずしも悪くないんだけど、なんか「どこかで聞いたような」って話ばかりで新鮮味ないんだよ。 実の双子の弟を殺してくれという依頼がリョウに持ち込まれる。暴力団の組長になった弟の罪を、何とかして食いとめたいというのが彼の願いだった。そしてそのあと、自分をも殺してほしいと。しかし悪の道に走ったと思えた弟は、兄への愛情を失ってはいなかった。 これって、なんか元ネタあったよなあ、と思うんだが思い出せない。まあパクリとまでは言いきれなくても、今どき、こういう「人情ばなし」ばかり語られてもねえ、と思うのである。
2002年07月01日(月) 戦争は終わった/DVD『名探偵登場』 2001年07月01日(日) 食いすぎたのは、あなたのせいよ/『コメットさん』(横山光輝)ほか
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
☆劇団メンバー日記リンク☆
藤原敬之(ふじわら・けいし)
|