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2025年11月01日(土)
『私を探さないで』

M&OPlaysプロデュース『私を探さないで』@本多劇場

『シブヤから遠く離れて』から21年、遂に?勝地涼が岩松了作品で主演を…🎉 いいたかった言葉、いえなかった言葉を悉く成仏させる岩松術。緊張の続く会話で2時間がピンと保つ。感嘆のため息。『私を探さないで』

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— kai (@flower-lens.bsky.social) Nov 1, 2025 at 22:19

このあと調べてみたら、勝地さんは2021年に『いのち知らず』で岩松作品の主演を務めておりました。これ見逃してるんだけど仲野大賀主演だと思ってた。勝地さんの事務所のHP見たらわざわざ「主演」て書いてあった。ご、ごめ……失礼しました!

結婚の報告のため、故郷の離島へ一時帰省した主人公。「17歳の男の子」だった彼は、再会した高校時代の同級生、担任教師との会話を通じ、失踪した女子生徒のことを思い出す。かつて彼女と主人公はのっぴきならない関係にあり、同様に主人公と担任教師との関係も微妙なものだった。教師は作家へと転身し、島で、学校で起こった出来事をモチーフにした小説はベストセラーとなる。そのことが地元を華やがせているようだが、かつての生徒たちは自分たちのことが小説に書かれていることを手放しで喜んではいない。

今回はインスパイア元としてスティーヴン・ミルハウザーの短編小説「イレーン・コールマンの失踪」が挙げられている(未読。読んでみたい!)。とはいうものの、不穏な台詞のやりとりは岩松節としかいいようがないくらいの精錬ぶり。なんでこんなにイライラするのに引き込まれてしまうのだろう。このひとの書く会話に魅せられている。取り憑かれている、といった方が合っているかもしれない。あ゛ーームカつくーーー! と思っていると「ポケットのなかにいるのは私でしょう?」なんて宝石のような言葉をブッ込んでくる。憎しみすら覚える(笑顔で)。

具象が少ない舞台(美術:愛甲悦子)、というのは岩松作品には珍しい。階段はなく、堤防がある。しかしそれは具象ではなく、見えない「向こう側」を観客に意識させる。向こう側にある海、向こう側にいる人物、向こう側にある生活。岩松作品の象徴でもある水はその最大値である海になり、それも姿を現さない。失踪した女子生徒は鮮やかなブルーの小物を身につけている(衣裳:伊賀大介)。服装が変わっても、必ず青がそこにある。ミステリアスでもあり、清潔でもあり、海のような昏さもある青。女子生徒を演じる河合優実によく似合う。

岩松さんが演じる、双子とはいわないがそっくりな兄弟の違いを衣裳ひとつで見せていたのも見事だった。見た目だけでなく、そのひととなりも感じとれてしまうのだ。小綺麗で統一感のある服を着た兄、トレーニングウェアの上はadidas、下はPUMAという、いかにも頓着がない弟。そのひととなりが透けて見えるようだった。小泉今日子演じる教師の、ドレープの効いたスーツも素敵。

被害者でいたい人物、加害者の方がマシだと思う人物、被害者と加害者を生んでしまったかもしれない人物。失踪した女子生徒への追憶を辿っても答えは出ない。正解もない。しかし目が、耳が舞台に釘付けになり続ける2時間。ずっとモヤモヤしている裏で、心はずっと高揚している。胸踊るような舞台だった。

岩松さんと蜷川幸雄の初タッグである『シブヤから遠く離れて』は、舞台というものの刹那と永遠を見せてくれた。ふたりはその後何作もタッグを組んだ。本人たちにとっても大きな出会いだったのだろう、蜷川さんの没後も岩松さんはゴールド/ネクストシアターの面倒を見てくれた。その結晶ともいえる『薄い桃色のかたまり』『雨花のけもの』は、忘れ難い美しい作品となった。舞台なので、その痕跡は関わった/目撃した者の心のなかにしかない。

『シブヤ〜』初演時、蜷川さんに徹底的にシゴかれたのが勝地さん(と蒼井優)。かなりペシャンコにされたそうだが、どちらにも手応えがあったのだろう、ここから勝地さんは何作も蜷川演出作品に参加する。しかし岩松作品に勝地さんが出る機会はなかなか訪れなかった。調べてみると、再会は2019年(『空ばかり見ていた』)のようだ。随分時間がかかった。果たして勝地さんは、岩松さんの書く美しい言葉を消化+昇華する力をつけていた。自身のものとして血肉化しないと、あの台詞群をああは語れないものだ。それは理解とは別物だ。他者に振り回される男が発する、迷い、惑い、抵抗と諦観の言葉の数々。

個人的には蜷川さんの追憶とともに今作を観てしまったようなところもある。というか、岩松さんの作品を観る度、いや、どの劇作家の作品でも、「蜷川さんならどう演出するかな」と思ってしまう。これはもう病に近い。少しの罪悪感と、それでもいいという開き直り。『シブヤ〜』のマリーも、『私を探さないで』の晶も、追憶のなかに生きる岩松作品の女性たちは、それでもいいといってくれるだろうか。

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・岩松了が“具体的な美術ではなく抽象に挑戦した”「私を探さないで」幕開け┃ステージナタリー
この舞台に関われて幸福ですが、観客として観たい!と願うも、それは叶わぬ夢。
みなさま、どうか私の目となり耳となりこのお芝居を存分に楽しんでください。
小泉さんのコメントが素敵。舞台を観ることが出来るのは観客だけなのだ

・もう一度観たいあの舞台 Vol.3 杉原邦生・北尾亘が10年を振り返る┃ステージナタリー
そこに〈演出家の不在〉を感じなかったことへの衝撃が大きい。〈演出〉という仕事は具体的に目撃したものや体感したものの印象が残りやすいけれど、実は、作品を満たし、上演中に流れているもの、あえて言葉にするならば〈空気〉のようなものにこそ、演出家の作家性が現れるのではないかと思っている。だからこそ、演出家の鼓動と息吹が消え、遺された作品やその上演から僕たちは、否が応でも演出家の〈不在〉を感じ取ってしまうのだと思う。では、なぜ蜷川さん亡き後に上演されたあの「海辺のカフカ」では〈不在〉を感じなかったのか。
とても好きな作品だけれど、「もう観られなくて良い。観られないから良い。」と思っている自分もいる。それが舞台の良いところだから。
おまけ。この連載、とてもいい企画だなー。杉原さんは『海辺のカフカ』を挙げている。
私も「もう観られない」ことが舞台の素晴らしさだと思っている/思いたいけれど、蜷川さんの作品に関してはまだその境地には至れない。今でもずっと、蜷川さんの舞台を観たいと思っているし、観られなくなったことに打ちのめされている